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女子高生恍惚の殺人

作者: 藁志田美樹彦

 波が頭上でもんどりうち崩落した、かと思ったくらいおびただしい数のムクドリの襲来だった。生い茂ったケヤキの葉叢のなかは散弾銃を撃ちこまれた修羅場の大騒ぎだった。マラソン人たちが沈黙を背負ってムクドリの乱痴気騒ぎの下を次々と走っていった。彼らは世界が突然壊滅して瓦礫の山と化しても障害物を飛び越し世界を股にかけて走りつづけるに違いない。足を止めるなんて<走ることを選んだ>プライドが許さなかった。<規定のコース>を変更したり<予定の時刻>を遅らせたりすることはとうてい容認できない、他者が彼の<区間・時間>に侵入して傷をつけ歪曲することはいっさい論外だったから、たとえそれが愛する家族によるものだとしてもあってはならないことであり、あったとしても彼らはまったく認知するものではなかった。走っている限り哲学者のいう<超感性界>に引き上げられた陶酔感から逸脱することはなかった。足を止めた瞬間、苛責まみれの現実が襲来する。

 マラソン人の対岸にある人物が気ぜわしい彼らに眉をひそめながらベンチで読書をつづけていた。読書人はすべての物が次第にぼやけていく黄昏れ時に自身までもが闇にまぎれていった。読書人は一箇所の文字に目を留めたままある瞬間がくるまで息を殺した。心地いい刹那でもあった。ポッと公園灯が彼の横顔を闇に照らすと、優しくてささやかな喜びがこみあげた。満足げににやけて文字を追う。そのつかの間の喜びも周回したマラソン人の足音に厚顔無恥にも台無しにされる。何が面白いって、ただ走ってるだけなのに、独りよがりの煩わしいことったらありゃしない、毎度のこととはいえ、読書人は耳かきほどにも寛容な心を持てなかった。マラソン人の場合は自己陶酔がエネルギーとなっていたが、読書人が読書中にプライドという形で忘我することはありえなかった。読書から目をあげる時は、常に侮蔑的視線で周辺を睥睨する癖がついていた。ちょうど読んでいた本の著者が高名であればあるほど、読書人の気構えも自動的に高揚して著者にふさわしい人物と変貌して栄誉に紅潮した。彼の視野ではマラソン人たちは蚊とか蟻とかあるいは飛蚊症の黒点でしかなかった。しかし、周期性を伴ったマラソン人の足音は確実に読書人の静的なシンメトリーを凌辱し破壊した。

 夕まぐれ、このひとときは特別に好きだった、世界そのものが朦朧と漂うものへと変貌してひたすら地に沈んでいく、この優美な限られた時間帯のためにすべてが没落する、それは明日にはみずみずしく復活するとわかっている。マラソン人もだんだん人が減って周回間隔が遠のき糖蜜の黄金が輝く時間帯が増える。彼はようやく平穏な気持ちに身を委ね現実界から異世界への扉を開いた。ところが、まばたきを2回もしないうちに、ヘッド・ホーンをつけた女子高生が足音軽やかに鼻先を駆け抜けていった。青臭い匂いが鼻先に残った。黄昏が包んだ読書人の崇高なベンチは、乳の匂いにあっけなく汚された。

 女子高生は、痙攣する読書人の目を覗きながら、男が何を叫んでいるのか聞き取れなかった。ヘッド・ホーンは周囲の音を遮断するだけではなく現実感覚までも遮断するものだから、男の存在は紙の人形が影絵のなかでギクシャクしているとしか思えなかった。両足をベンチから伸ばしたままバタバタさせて、まるでだだをこねる姉の息子と違わない、これじゃガキじゃないのぉおっさん。男は萎びた大根が叫んでるみたいだった。男がいきなり咳こんだ、蛸がくしゃみしてすい菅から水を噴いた。キッタネーおっさん、しね、と叫ぶ寸前口を閉じた。何もいわないこと、いつものように何もいわずに我慢する。答えるな、顔に表すな。表情を血の気を顔から消してしまうこと。メ、ハナ、クチを内側へへこませる、これらは顔に開いたイソギンチャク。おとぼけの無表情、この技術は学校生活でも家庭の親たちにも、冷酷残忍な恐怖を感じさせているらしい。あいつらはあたしの逆上を恐れてあたしから距離おいた。何にも問いかけず、あたしが見えないふりして、あいつらの方が冷淡だ。ヘッド・ホーンを大音量にしてまわりの面倒臭いやつらを切りはなつ、あとはしっちゃことないあたしは透明だもん。正体を隠せ、本当の気持ちを隠せ、うざったいんだよ、お前らは。足のリズムだけは止めなかった、止められなかった、止めてしまうと、おっさんに負けたことになったから。読書人はうなだれたまま女学生の足元だけを見ていたから、彼女の若くてそれだけあくどい意地悪なリズムに目を回してしまった。ベンチごと浮遊する感覚に悩む。少女の足のリズムが、しきりに、「死ね」と叫んでいるように聞こえた。高慢ちきめ、しょんべん小僧め、なんとか言ってみたかったが、めまいが吐き気まで誘引する。そんな事情に一切関係なく、白シューズと白いソックスは臆せず自我まるだしで一、二、一、二、乱れなく地面を叩く。いい気になって繰り返す。礼節というものを知らないのか、目上には敬意を払いいたわりの気持ちが大切なんだぞ。そう怒鳴りたかったが、叫ぼうとすると反吐してしまいかねなかったので、慌てて飲みこんでしまう。悔し涙が溢れてくる。こいつらは私的時間は自分たちだけにあって他人様にはないものだときめつけてるに違いない。私は読書をしてるんだぞ、類人猿なるが故の最高のたしなみをしているんだぞ、それなのに、そのぶっとくて食べ応えのありそうな太ももを見せびらかせて、誘うとしているのか、この私の倫理感の強い精神をたぶらかそうとしてそのあとは小遣い稼ぎに揺すってくるつもりなのだろう、私の性的欲望をそそのかすにはまだまだ成熟度が足りない、その手は食わない、はずだ。私は読書をしてるんだぞ、このバカ娘が、その丸々した太ももを自慢したって、どうなるもんじゃない。ぼくはこの町では一番の読書家なんだぞ、若さを粗暴そのままに迫ったからといって欲情が煽られるとは限らない。そういう風にそそのかしておいていざとなれば何でもかんでもおじさんの責任にする。未成年者だからといってお前自身が悪の種をまいちゃってるんだぞ。少女の汗かそれとも読書人の汗か、本の上に汗が落ちた。本に論理的に組み立てられた活字の跡が女子高生の足踏みの振動でばらけて崩れた。読書人が思わず声を立てると、崩れて流れ落ちそうになった文字が新たに原生動物の合体のように融合して、その瞬間、強烈に光を放った。目が眩んで真っ暗な視野に「殺せ」と二文字がゲル状に煌めき雄々しく固まった。するとぎっしり詰まっていたほかの文字がいっせいにゴキブリの競走状態で「殺せ」に結集しはじめた。読書人の本の紙面は「殺せ」の二文字だけとなった。

 「殺せ」が読書人の眼球に映ると幻影ではなく本物の炎の勢いを増して水晶体に燃え盛った。白目に火の色をしたいくつもの筋が細かい網となって走った。黒目が目一杯に膨張して破けそうになりながら圧力に耐えていたが、その黒目に捉えられた彼方には女子高生の白い歯が噛みつきそうにむき出しになって迫っていた。ああ、もう殺すしかない、騒乱罪だ。「死ね」「殺せ」「死ね」「殺せ」「死ね」「殺せ」。ふとちょっとした不安を覚えた。いまのいま口から飛んでいった「殺せ」は女子高生を「殺せ」といったのかそれとも女子高生が「死ね」というので「殺せ」と承諾したのか、いいあっているうちにどちらに転んだのかわからなくなってしまった。それで、少女のヘッド・ホーンを突発的に奪い取り、そしていった「殺せ」と。確かめるためだったが、焦ったかもしれない。なんとなく漠然とであったが、私が女子高生にいい放った「殺せ」は最初の意味合いと立ち位置の違った物言いとなったような、一抹の不安が残ったのだ。「殺してやる」の「殺せ」の気合が入れ替わって、「殺してくれ」の依頼になってしまったのではないか。この「殺せ」は闘争心だったのか懇願だったのか。女子高生の眉根がつりあがった。それに合わせて耳までもがつりあがった。獰猛な狐の顔だ。この女狐は飢えてるか。狐は頬を紅潮させヘッド・ホーンのコードを男の首に巻きつけ、目をむき、口を三角に開き、よだれを垂らし、両手にありったけの力をこめて引っ張った。なんということか、腹の臓腑からメラメラと爽快な気分が燃えたった。めくるめく快楽の炎が血潮を焚きつけた。初めての経験、昨夜のオナニーよりもはるかに純度の高いエクスタシーが全身を走り巡った。イチ、ニ、イチ、ニ、イチ「死ね」、ニ「殺せ」、イチ「死ね」、ニ「殺せ」……本が手から滑り落ちたがまだ意識はあった。濃厚な草いきれのなかへ倒れていったが、水に溶けいくような曖昧模糊たる景色のなか、巨大な口が迫り巨大な犬歯が首にかかっていた、それきりだ……私の人生は最後のページをめくったような、そんな淡い感覚を覚えている。

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