ゲームや漫画が子どもの人格形成に悪影響を与えるというのは本当だと思う
すみません、脳内の漠然としたイメージを論理性あまり考えないで書き殴ったせいで、内容がブレブレです。
エンタメ好きの一人が覚えている危機感のようなものとして、問題提起程度に受け取っていただければと思います。
感想欄でのやり取りなどをもとに、注釈形式でちまちまと補足説明を加えたりしています。
ゲームや漫画が子どもの人格形成に悪影響を与えるというのは本当だと思う。
何故か。
暴力行為の模倣とか、そんなのはぶっちゃけどうでもいい。
それよりもここで訴えたいのは、いわゆるゲームや漫画(※1)といったエンタテイメント作品が、本質的に「接待」と同種のものであるからだ、ということである。
「接待」とは、相手の気分を良くさせるために、あれやこれやの手を尽くすことを言うが。
エンタテイメント作品は、その読者や視聴者、プレイヤーの気分を良くさせるために、あれやこれやの手を尽くした作品のことを言う。
例えばゲームで言えば、ゲームの難易度の差というのは、本質的な差ではない。
難易度による差というのは、「頑張れば気持ちよくなれる」か「あまり頑張らなくても気持ちよくなれるか」の差でしかない。
どちらを好むかはプレイヤーによって差があるが、最終的に気持ちよくなれないとエンタテイメントとしては不合格だという点において、両者は同種のモノである、
ちなみに、頑張っても気持ちよくなれないゲームは「クソゲー」と呼ばれる。
以前、なろうテンプレを指して「性風俗のようだ」と言っていた人がいて、これは言い得て妙だと思った。
これらの作品は、読者を気持ち良くするために存在している。
だけど、これを読んで「そうだ、その通り!」と思った、もっと小難しい作品が好きなあなた。
はっきり言おう。
本質はどっちも変わらん。
例えば、純文学の作品なんていうのは、ある程度の思想水準にある人が、それよりもちょっと高い程度の思想を持った人の書いた、そこかしこに程度の高い思想の散りばめられた物語を見て、何となく満足感を得て気持ちよくなるための作品である。
このときの満足感は、テンプレ的な軽い娯楽性の作品を読んだときのそれよりも深いものかもしれないが、読んで気持ちよくなるために存在しているという点で、本質的にはテンプレ作品と変わらない。
なろうテンプレ作品も、一般ライトノベルも、大衆娯楽作品も、純文学作品も、読者を気持ちよくさせるために存在しているという点において、等価値である(※2)。
この点を勘違いして、純文学を高尚なものだとか考えてしまうと、まあとても残念なことになってしまうかと思うのだが。
話を戻そう。
エンタテイメント作品が、子どもの人格形成に対して悪影響があるという話だ。
何故、悪影響があるか。
それは子どもが、子どもの頃から「接待漬け」になってしまうからだ。
良質のエンタテイメント作品に浸かって育つと、彼の価値観は接待されることが当たり前のそれになってしまう。
と、どうなるか。
よく、「人生はクソゲーだ」という。
これも的を射た言葉だと思う。
人生は、頑張っても気持ちよくなれるとは限らないという点において、クソゲーと酷似している。
子どもたちが大人になり、社会に出ようというときに、接待慣れした、少なくとも「頑張れば報われる(報われなければならない)」という価値観を刷り込まれて育った子どもたち(※3)は、現実の非情さに耐えられない。
頑張っても報われないことがある(頑張らないともっと確実に報われない率上がるけどね)という、エンタテイメント作品としては不合格な、人生という名のクソゲーに耐えられないのである。
もちろんこれは、漫画やゲームに限らないあらゆるエンタテイメント作品に言えることであるし、逆に、ゲームであっても、これに該当しないものもある。
例えば、ボードゲームやカードゲームなどといった対人型のゲームは、頑張っても気持ちよくなれないことがある。
何故かと言えば、対戦相手がもっと頑張っているかもしれないから、頑張っても望むものが得られないかもしれないからだ。
(もちろん、運の要素などもあるだろうが)
人生という名のクソゲーは、どちらかと言えば、この対人型のゲームに近い。
頑張っている人、頑張っていない人、ゲーム開始段階で有利な条件を持っている人いない人、ゲームの本質的なルールを把握している人いない人、トランプの大富豪のように一度勝ち組になってしまえばそもそもの手札が有利になっていて貧民を何度も蹴落とせる仕組みになっていたりするところ。
というよりまあ、人生というゲームはチュートリアルが貧弱すぎて、世の中のほとんどの人がゲームの遊び方、勝ち方、楽しみ方をよく分かっていないところが一番の問題かとは思うのだけど。
ともあれ、そんなゲーム条件の中で、何十億人という人が他人より良い思いをしようと競い合っているのだから、結果として報われない人というのは、必然的に発生する。
ちなみに、現代に日本人として生まれた時点で、多少不幸な境遇に生まれても、どちらかと言えば相当いい手札を配られている方だと思うのだが、それでもより良い手札を配られた人を見て自分の境遇を嘆くのだから、救われねぇなぁと思うのだが。
などと、つれづれに思うところを語ってみたエッセイなのでした。
-------------------------------------
※1:漫画……漫画などの物語作品に関しては、読者が「努力をする主人公に感情移入する」ことにより、その主人公の努力が報われたときに、読者が満足感を得ることができる──という仕組みを想定している。
では逆に、接待的でない物語作品はどのようなものであるかというと、「主人公が努力をしたけれど報われない(報われるとは限らない)」ような物語を言う。
通常、このような物語作品は、主人公に感情移入をした読者からは不愉快に感じられるため、良い作品とは見做されないことが多い。
したがって、物語が良作であればあるほど、その作品は接待的になる傾向にある。
(ただし、『進撃の巨人』のような作品や、一部のスポーツ漫画、群像劇タイプの作品などの中には、高度な作劇技術を使って、その条件を満たさずに読者の満足を得るような作品も例外的に存在しており、それらの作品に対しては本エッセイの内容は妥当しない)
なお、主人公が努力をせずに成果(勝利や、女の子に好かれてウハウハしたりなど)を得る作品など、努力を要件とせずに、作品の受け手に満足感を与えるような作品も存在する。
こちらも受け手には一定の需要がある作品として受け入れられる傾向にあるが、これも当然、接待的な作品に該当する。
※2:なろうテンプレでも純文学でも本質的に等価値……本エッセイの論旨を鑑みれば、実はこの主張は不適切。
※1で述べた類の、接待的な作品に該当しないからだ。
本文書いてる時に適当ぶっこき過ぎました。ごめんなさい。
※3:価値観を刷りこまれる……本当に価値観を刷りこまれるのだとしたら、努力しなくても報われるような作品にどっぷり浸かった読者は、努力しなくても自分は報われる(報われなければならない)と考えるようになる、ということになる。
現実問題としてそんな価値観の刷り込みなるものが発生するのかどうかは、漠然とした「あるんじゃね?」というレベルでしか語れないが、「メディア効果論」という研究の中の「培養分析」という考え方は、これとよく似ているようだ。