はじまりの鐘
真っ青なカオをした皇太子が、呆然とクロウくんを見つめている。
どうやら衝撃的過ぎて、言葉が出てこないらしい。
そんな彼に寄り添ったお客様は、心配そうに瞳を揺らした。
場の空気に似合わない声を発したクロウくんが、けろっと。
「・・・ああ、そっか。
兄上にはちょっと刺激が強すぎたかな」
皇太子は青ざめたまま、彼の顔を凝視して。
でも本人は、向けられた視線を刎ねつけるようにして言葉を紡いだ。
口の端に、笑みすら浮かべて。
「まあ、何を信じるかは兄上次第ですけど・・・。
とりあえず俺はジュジュと一緒に、モモさんの後見をします。
・・・構いませんよね?
今のところ名乗りをあげてる者はいないそうですから」
これはきっと、皇太子も断れないだろう。
オルネ王女やラジュアから聞いた話だと、後見がなかったら結婚出来ないっぽいし。
複雑な顔で皇太子に寄り添ってるお客様は、若干ほっとしてるようにも見える。
・・・そりゃ、結婚出来る方に向かうなら胸を撫で下ろすか。
「あの人へのささやかな意趣返し、っていうのもあるけど。
各方面に貸しを作っておいた方が、これからの役に立ちそうですしねぇ」
「・・・わらわは、その各方面の一部か」
ため息混じりの王女の言葉に、クロウくんが頷く。
「ま、そういうことだね」
青いカオの皇太子が、そっと口を開いた。
自分の母親が義理の弟に呪いをかけた・・・なんて、真面目が服着た皇太子には、なかなか受け入れ難いことだろうな。
「これから、というのは・・・?」
その言葉に微笑んだクロウくんは、あたしと繋いだ手を、ひょい、っと上げる。
「ふぇっ?」
完全に傍観者気取りだったから、びっくりして変な声が出た。
そんなあたしの手に小さく笑って唇を寄せた彼が、小首を傾げる。
・・・てゆうか、今!いま・・・っ!
もう抱えてる紙袋が、へにゃへにゃだ。
恥ずかしくて抱き潰してしまいそうになる。
「なるほどな。
アイリのために今から下地作りか。結構なことだ」
下地?!
何の?!
まさか移住?!
移住なのか?!
だから貸し作りまくって将来の後見予約、ってこと?!
そういうことなのか?!
言いたいことはいっぱい湧き上がるのに、口が言うことをきかない。
ぱくぱくと酸素を求める池の鯉みたいになったあたしを見て、クロウくんが噴き出す。
「ま、先は長そうだけどねー」
「そなたには、刹那の時しか存在しないのではないのか?」
厭味ったらしい王女のコメントに、彼は口を尖らせた。
どうやらショックで立ち直れない皇太子と、心配そうにしてるお客様のことは放置しておくことにしたらしい。
・・・もしかしてほんとに打算で後見を申し出たのか。ブラックわんこめ。あんた達、一応兄弟なんじゃないのか。
・・・まあ、それは置いとこう。
垣間見てしまった複雑な家庭事情の一端には、とりあえず蓋をしておこう。あたしの脳みそが処理可能な情報量を、軽く超えてる。
そう結論付けたあたしは、王女とクロウくんの会話に耳を傾けた。
「それ、どういう意味?」
「そのままだ。
そなたは、長続きしないのではなかったか?」
口を尖らせるクロウくんを、王女が鼻で笑う。
・・・長続きって、何がだろう。
内心小首を傾げると、クロウくんがあたしを一瞥した。
「今までは、の話だろ。
アイリちゃんとは、きっと末永いお付きあ・・・」
そこまで聞いて、はっ、と我に返る。
そういえば彼が“婦女子の敵”らしい、ってこと忘れてた。
「あたし!」
慌てて口を開いて、あたしは彼の手から自分の手を剥ぎ取る。
「あたし、クロウくんのことは好き。だけど。
知らない女の人に足引っかけられたり、階段で背後から押されたり、
テーブルについた途端に水ぶっかけられたり。
・・・そういう展開になるのは、絶対やだ」
わんこな彼を撫で回したいし、くっついてみたい。甘えん坊なわんこが、これからどんなオジサマになるのか見てみたい。けど、過去のあたしの男運のなさを考えると、これからの展開が怖い。
あたしが探してるのは、まともなお付き合いが成り立つ人なんだ。
クロウくんが、目をまんまるにして驚いてる。
かと思いきや、こくんこくん、と彼の首が上下した。
「そのへんは絶対だいじょぶ・・・!」
なんだなんだ。耳が赤いぞ。
様子のおかしくなったクロウくんを見て、あたしは眉根を寄せた。
すると、オルネ王女が沈痛な面持ちで額を押さえる。
「あのクローネルがこれか・・・」
王女の言葉に、クロウくんが何か言いたそうに口を開いて。
その瞬間、大きな鐘の音が響いた。
「あ・・・!」
お客様が声を上げる。
4の鐘・・・帰国の合図。
クロウくんがクエに乗せてくれたから、思ったよりも余裕があったみたいだ。
「あれ・・・?」
あたしは訝しげに呟いた。
首を捻って、通信用のバングルを見つめる。
「どうしたの?」
ドサクサに紛れた“好き”が嬉しかったのか、擦り寄ってきてたクロウくんが囁いた。
耳元で響く甘えた声に、背中がむずむずする。
・・・って、今はそういうのはいいんだってば。
至近距離の彼を少し押しやって、あたしは口を開いた。
「転送するのに、先輩から連絡が入るはずなんだけど・・・おっかしいな」
意味はないと分かってるけど、叩いたり振ったりしてみる。
まあ、先輩だって機械じゃない。多少ズレることだって、想定内だ。
そうだとしても、事前に連絡があっていいはずなんだけど・・・。
「こっちから連絡してみるかな・・・?」
ため息混じりにクロウくんを見上げたら、小首を傾げられた。
判断するのは、あたしの仕事なんだけどさ。
あたしは広間の端に行こうと一歩踏み出して、足を止めた。
ドアがゆっくりと押し開けられるのを、見てしまったからだ。
まさか、第一妃が戻って来たのか・・・なんて。
そんな想像も働かせつつ、あたしは固唾を飲む。
同じようにドアを凝視したクロウくんが、顔を強張らせて。
そして、まさかの声が響いた。
「やはり、城からの眺めは良いですね。
瑞々しい、青い海を毎日眺められるなんて、羨ましい」
「海しかない国だからねぇ・・・でも、そう言って貰えると嬉しいものだ」
オジサマ2人が、ドアの向こうから現れる。
1人は、あたしも会ったことのある国王陛下。
そして、もう1人は・・・。
「・・・ああ、いたいた」
もう1人が、あたしを見て駆け寄ってくる。
ずいぶんと機嫌が良さそうだけど・・・そういえば、桑原先輩が「スキップしてた」って言ってたなぁ・・・。
なんとはなしに嫌な予感がして、あたしは頬を引き攣らせた。
それをしっかり見ていたらしいクロウくんが、そっと身を屈める。
「知ってる人?」
耳元で囁かれた言葉に、あたしは頷くしかなかった。
「うん・・・あれ、うちの社長」
・・・てゆうか、なんで社長がここにいるんですか・・・。
当然の疑問を抱いたあたしを見透かしたのか、社長が腰に手を当てて笑った。
・・・その仁王立ちも、久しぶりに拝見します。社長。
いろいろあって、そろそろ精神的な疲れを感じているんですが。
「お疲れさまです。社長・・・」
「ああ、君も。
いやいや、林君に預けた手紙の返事が、どうにも待ちきれなくてね!
・・・ちょうど予定も空いていたし、桑原君も乗り気だったものだから」
「そ、そうですか・・・」
どうりで、4の鐘が鳴っても連絡がないわけだ・・・。
腑に堕ちたあたしだけど、だからといって詰ったりも出来ない。
冬のボーナスなんて話にならない、根幹的な部分でお世話になってる人だ。
仕事は出来てイケメンなオジサマなのに突拍子なくて、柔軟過ぎて思い切ったことばっかりして、従業員を振り回してる感が否めない社長だけど。
・・・それでも憎めない人柄というか。お茶目だ。
そんな社長が、あたしの目の前で仁王立ちをして、しかも、顔をしかめてる。
「そういえば君ね、」
駆け寄ってきた時の雰囲気から一変、なんだか怒られそうな雰囲気に、思わず首を竦めた。
「国の端送りにされた、って聞いたよ。
何をされたのか、ちゃんと報告しなさい。でないと、こちらも対応出来ない。
・・・君が我慢出来たとしても、それじゃ次の担当者が困るでしょう?」
「う・・・」
社長の目を見ていられなくなったあたしは、思わず俯く。
そして、絞り出すように頭を下げた。
「すみませんでした・・・。
・・・なんか、夢中で・・・」
社長がため息をつく気配がする。
「まあ、ここでお説教しても仕方ないか。
・・・あとで桑原君と笹川君に、こってり絞られなさい。
そういえば彼、来月からお客様係に異動させることにしたよ」
「えええ?
笹川先輩が・・・?!」
意味深な台詞に顔を上げたら、社長が得意気な笑みを浮かべた。
いやいや、いくら普段からあたし達のフロアで従業員に紛れて仕事してるからって、いろいろ把握し過ぎじゃないのか。
確かにうちは、テレビでCM流せるほど大きな会社じゃないし、従業員だって少な・・・。
そこまで考えて、あたしは我に返った。
・・・“次の担当者”・・・“笹川先輩が異動”・・・?
なんだろう、この違和感。
あたしは、鼻の穴をふくらませて佇む社長を見つめて、考えを巡らせる。
すると、社長は手をぱちんと叩いて言った。
「そう。
というわけで、君は異動」
「・・・えぇっ?!」
あたしと笹川先輩のトレード?!
驚いて思わず声を上げたら、社長が楽しそうに声を弾ませる。
「来月から、君は支店勤務だよ」
その言葉に、あたしは言葉を失った。
仕事でこの国に来たら、クロウくんに会えるかも、なんて淡い期待はぶち壊されたわけだ。
もちろん仕事中なんだから、そっちをほったらかして遊んじゃダメだけど。
「それって・・・年度末に異動願い、出してもいいんですか・・・?」
諦めきれなくて、尋ねてみる。
お客様のことは放置になってるけど、この際だ。きっとお客様だって、皇太子と1分1秒でも長く一緒にいたいに決まってる。
ちょっと乱暴だけど、そんな考えが頭をよぎった。
しょぼくれた声しか出なかったあたしに、社長はにっこり微笑んだ。
微笑みが綺麗すぎて、嫌な予感しか運んでこない。
・・・ダメに決まってるか。
社長直々に伝えられた異動だもんな。
あたしの何かがマズかったから、異動になるんだろうしな。
そんな短期間で変更してくれるわけ、ないよね。
そんなことを考えて落ち込んでいたら、ふいに、クロウくんがあたしの手を握った。
呼ばれた気がして視線を上げる。
するとその時、社長が笑みの混じった声で言葉を紡ぐ。
「異動願い、出してもいいけど・・・。
来月から君が勤務するのは何を隠そう、ファルア支店だよ」
時間が止まった気がした。
頭の中が、一瞬真っ白になる。
言われたことが、耳をすり抜けてどこかに消えていく。
さらっと流れた言葉を手繰り寄せて、ゆっくり噛み砕いて理解した時、あたしの口から悲鳴混じりの声が零れた。
「え、えぇぇっ?!」
「良かったね、アイリちゃん」
にっこり笑ったクロウくんが、すかさず、あたしの顔を覗き込んでくる。
勢いよく左右に振れる尻尾が見えた気がした。
「い、いやいやいや、だってそんな、異世界に支店なんて」
抱きかかえた紙袋が、ぐしゃっと音を立てる。
力んだあたしが一気に言葉を並べようとしたら、社長が嬉しそうに口を開いた。
「驚いただろうね。うんうん、私も驚いているんだよ。
規制緩和だそうだ。
契約している国の環境や未来を破壊しないようなカタチでのみ、ね」
「・・・嘘・・・じゃ・・・ないん、ですよね・・・」
「嘘じゃないから、私がここにいるんだけどね」
「あ・・・」
決定打になった言葉に、思わず声を漏らす。
そこでやっと、いろんなことが繋がった気がした。
「そっか、あの封筒・・・そういうことだったんですか・・・」
国王に直接渡すように、って預かった封筒に、支店に関するお願いか何かが書いてあったんだろう。
社内でスキップしてたのも、規制緩和が嬉しくて仕方なかったんだろうな。
・・・そのお茶目さが従業員を慄かせてることにはもちろん、気づいてないに決まってる。
こっちに来て支店設置が決定したから、帰ったら無茶振り祭が繰り広げられて・・・。
いろいろ想像を働かせて、ため息をつく。
すると、繋いだ手を軽く振って、クロウくんが言った。
「あのね、黙ってたんだけど」
嬉しさの溢れる声だ。
逆にそれが、なんかあやしい・・・。
あたしがジト目で見つめると彼は、にへら、と気の抜けた笑みを浮かべた。
「・・・支店が出来るかも、って話、聞いてたんだ~」
「はい・・・?!」
なにその爆弾発言。
だからずっと静かだったのか。
何回目になるのか分からない驚きが、1周して頭の芯を冷やしていく。
あたしは、笑みを浮かべてるクロウくんの頬を抓った。もちろん繋いでた手は、振り解いてだ。
それでもニコニコして「ごめーん」なんて謝ってる彼が、なんだか心配でもあるけど・・・。
「クローネルに話をしたのは、私なんだよ」
ふいにかけられた言葉に、あたしは慌てて振り返る。
そこには、それまで静かにあたし達のやり取りを見ていた国王が。
・・・てゆうか、国王の前でクロウくんのほっぺ抓っちゃダメだったか・・・。
ちょっとだけ反省して手を離したあたしは、赤くなった頬を軽く擦ってやる。
・・・あの、ちゃんと労わってるんですよ。これでも。どっちかといえば、あたしの方が彼にお世話になってるんですけど・・・。
心の中で呟きつつ、一応のフォローを終えたあたしは国王の様子を窺う。
彼はふわりと笑むと、あたしに言った。
「やっぱり、仮病を使ってみて正解だったよ。
様子を見に来た時の状態には正直驚いたけれど・・・その時に話をした」
小首を傾げた姿はなんとも、お茶目というか・・・。
ああ、だから社長とはお茶目同士、気が合ってる、ってことなのか。
そんなことが変に腑に堕ちたあたしは、国王の言葉が引っかかって首を捻った。
“状態”に驚いた・・・って、クロウくんは呪いがかかった状態のままで、国王の寝室に出入りしてた、ってことか。
よく見つからなかったなぁ・・・あ、そっか。国王の側には秘密を知ってるミルベリーさんが控えてるんだもんね。簡単に入れちゃうか・・・。
そこまで考えて、はた、と思い出す。
夜、あたしが借りてた客室にやって来たクロウくんに、花の匂いが染みついてたことがあったんだ。
国王の寝室に忍び込んだ、ってことは、もしかしてジュジュ王女の部屋にも・・・。
彼女の部屋は、いろんな植物が置いてあって、すごくいい香りが漂ってたもんな。
そこに忍び込めば、あんな匂いもするかも。
それにジュジュ王女と一緒に、お客様の後見をするみたいだし・・・。
・・・なんだ、いろいろ根回ししてたんだ・・・。
他の女性の所に行ってたのかも、なんてちょっとでも疑って悪いことしたかも・・・。
「・・・元に戻っているということは、もう城に戻ってくるんだね?」
穏やかな口調で言った国王に、クロウくんはため息混じりに頷く。
「戻りますよ。
とりあえず、支店をどこに作るのかを決めないと」
「おや、お前が取り仕切ってくれるのかい?」
国王の嬉しそうなカオに、わざとらしく顔をしかめて、彼は肩を竦めた。
「他の人には、この役は預けられませんから。
アイリちゃんが働く場所は、俺がしっかり熟考しないと。
・・・ねぇ、シャチョーさん」
視線を受け取った社長が、うんうん、と何回も首を縦に振る。
そしてあたしの肩を、ぽむ、と叩いた。
「実はね、君がこちらで働くことが、支店開業の条件だったんだよ」
「ひぇぇぇ・・・」
あたしは人身供養か何かですか。
お供え物になった気分で悲鳴を上げたら、横にいたクロウくんが小首を傾げた。
「俺が考えたの。
王サマには、“モモさんの後見を条件に、支店を開業させる”こと。
旅行会社には、“支店開業にあたって、アイリちゃんを勤務させる”こと。
後見したら、皇太子と国王に貸しが出来て。
アイリちゃんが支店で働いたら、毎日会えるでしょ?
これなら移住したくなっても、後見候補はよりどりみどりだよ。
オルネもきっと、力になってくれるだろうしね」
オレンジわんこ、知らない間にちゃっかり暗躍してた。
「ひぇぇぇ・・・!」
あたしが慄いて悲鳴を上げたら、彼は得意気に胸を張った。鼻唄混じりだ。
・・・あれ?
最終的に、一番得してるのはクロウくんなんじゃ・・・。
なんかすごく褒めて欲しそうにしてるけど、これって褒めてもいいのかな。
思うところを口にするかどうか迷っていると、ふいに、社長があたしの肩を叩いた。
「・・・林君。
そろそろ、お客様を連れて戻ろう」
「あ・・・」
放り込まれた別れのタイミングに、一瞬言葉に詰まってしまう。
そのために長いことやってきたのに、いざその瞬間がやってくると心が揺らぐ。
不意打ちじゃないはずなのに、不意打ちを食らったみたいに反応に困ったのは、どうやらクロウくんも同じだったみたいで。
彼は眉を八の字にして、あたしを見つめていた。
あたしはそんな彼の目から視線をそっと外して、皇太子に寄り添っていたお客様に声をかける。
「転送係に、連絡しますね」
緊張と悲しみと、心細さみたいなものが混ざったカオをしたお客様が、小さく頷いた。
肩を抱く皇太子の手が、きゅっ、と力を込めるのが、あたしでも分かる。
背後では、社長と国王が何かをやり取りしてるのが聞こえてて。
ひしひしと、わんこの視線を感じた。
あたしは、バングルのボタンを押す。社長からの指示があっても大丈夫なように、スピーカーに設定した。
繋がったら振動が起きるから、それまで待つことになるんだけど・・・。
クロウくんとも、一旦お別れだ。
また戻ってくるとはいえ声をかけようと思って、あたしが振り返った、その時。
「アイリちゃん」
呼ばれたのと同時に、すっ、と腕から紙袋が抜かれて、体が回転した。
結構な力でくるりと視界が回転して、ぎゅむむ、とクロウくんの腕に収まる。
「戻って、くるよね?」
寂しそうな声に、思わずあたしは彼の背中を叩いた。
周りの視線だとか、そんないろいろが恥ずかしいことには、今は蓋をするんだ。
「戻ってこれるように、クロウくんがお膳立てしたんでしょっ」
自分で環境を整えたクセに、何を心配してるんだか。
思わず頬を緩めたあたしは、小さく笑ってから囁く。
「約束したの、覚えてる?」
「ん、3日後の夜に、アイリちゃんが泊ってたホテルの前」
鼓動の音が心地よくて、目を閉じて頷く。
あたしは、そっと口を開いた。
「そう。
・・・でもクロウくん、王城から出て来れるの?」
「へーき。俺、家出癖のある放蕩王子だもん」
「そっか」
静かなやり取りが、心地よい。
「アイリちゃんは、俺が王子殿下でも、いい・・・?」
きゅっ、と腕に力が込められて、あたしは小さく息を吐く。
すると彼は、言葉を続けた。
「あのね、出来る限りはしたんだよ。
アイリちゃんと一緒にいられるように、考えつくこと全部。
だから、俺が面倒な家に生まれたのには、目を瞑って・・・」
・・・ああ、それであの根回しなんだね。
あたしは笑みが零れるのを、なんとか押しとどめて頷いた。
「もうね、クロウくんが何者でもいいんだ。
黒い稲妻模様のクロウくんでも、オレンジ色のクロウくんでも。
あたしはどっちも、」
言いかけた瞬間、手首に付けてるバングルが震えだした。
息を飲んで、慌ててクロウくんから離れる。
「え、」
ぽかん、と口を開けた彼に、口パクで“ごめん”と伝えて、通話ボタンを押した。
『じゃ、3人が触れてる状態を保っておいて下さいね!
通信を切って10秒数えたタイミングでいきますよ~!』
そんな台詞を残して、ぷつ、と通信が終わる。
先輩はあたしのバングルを引き上げるつもりだから、社長とお客様があたしの両肩にそれぞれ手を置いて待機する。
お客様は、しくしく泣いてるけど・・・もうこればっかりは、あたしもかける言葉がない。
せめて皇太子と見つめ合って、別れを惜しんでもらおう。
オルネ王女とラジュアは、それぞれ手を振ってくれた。
ぐっしゃぐしゃの紙袋も、苦笑いしながら受け取ってくれたけど・・・続きは、クロウくんに事情説明をお願いしてある。
国王に至っては、皇太子と一緒になってお客様との別れを惜しんでいる。
よっぽど、未来のお嫁さんのことを気に入っているんだろうな。
「10、9、8・・・」
社長が数えるのを、あたしは黙って聞いていて。
そうしたら、突然、それまで微動だにしなかったクロウくんが動いた。
「ちょっ・・・?!」
なんか変だと思ったんだ!
ぽかん、と口を開けたまま固まって、動かなくなってたし。
ものすごい真剣な目をしたクロウくんは、勢いよく両手であたしの頬を挟む。
むにゅ、という感触が頬から伝わってきた。
「7、」
「待ってるからね」
カウントダウンは止まらない。
動けないから社長の顔を見る余裕もないけど、なんか、声に焦りを感じる。
びっくりして凝視しても、クロウくんは動かなかった。
国王や王女達が、息を飲んだ気配がする。
「6、5、」
全身に鳥肌が立つ。
この世界の人が誤って転送されたなんて、そんな話は聞いたことがない。
万が一そうなったとして、どうなるのかなんて、誰にも分からない。
でもこれだけは確実だ。
異世界の人間を転送するのは、禁忌。
・・・どうしよう?!
頭の中が真っ白になった瞬間だ。
突然、息が出来なくなった。ふにゅ、という感触と一緒に。
「4、3、」
社長の声が頭に響く。
焦りと緊迫感とがないまぜになって、五感がやけに鋭くなって。
柔らかい温もりが、唇から離れていった。
離れる刹那、小さな音を立てて。
「2、」
ぷはぁっ、と息を吹き返したあたしは、思わず口を開いた。
「1、」
息を吸い込むのと同時に、カウントは終わりを告げる。
「・・・ゼロ」
「ク、」
最後の瞬間に目に映ったのは、楽しそうに手を振るクロウくんの姿。
そして、あたしは会社の転送室で絶叫したのだった。
「・・・ロウくんの、ばかーっ!」
そんなわけで、お客様を探して連れ戻す仕事は、ひと段落したんだけど・・・。
「わんこ君によろしくね。あと私の旦那候補たちにも!」
「はいはい・・・」
桑原先輩が転送作業を進めるために装置に向かって、あたしは何となく手持ち無沙汰で、持たされた大判の封筒を眺める。
詰まってるのはファルア支店開業に向けての資料。クロウくんに届けて、検討してもらうんだって。
あたしも彼に会ったら、いろいろ言いたいことはあるんだけど。
「・・・やっぱり、まずはこないだのお返し、だよね」
そっと、唇に指先を滑らせた。
そうだ。
お返しをしたら、この先の話をしなくちゃ。




