呪いの香炉
あたしは、呪いから解放されたクロウくんに、ようやく会うことが出来た。
・・・どうして呪いが解けたのかは分からないし、詳しく聞く余裕もないけど。
そのクロウくんは、あたしが彼に気づいてたと知って、嬉しさが溢れに溢れた末、興奮してタガが外れたらしい。
鼻息荒く、あたしにキスしようと迫ってきてて。
・・・あれだ。仕事から帰った飼い主を全身全霊で出迎えた、わんこみたいだった。
もしかしたらクロウくんかも・・・と思ってた人がクロウくんで、ほんとに嬉しかったんだけど。やっぱり相手が王子様だった、っていう衝撃に、怖気づいちゃう自分もいて。
でもそういう気持ちを表現する間もなく、文字通りべったべたのスキンシップを求められちゃったものだから、それどころじゃなくなった。
なんだろう。勢いって大事なんだな。
そんなふうに驚いたり喜んだりと忙しくしてたあたしは、ふと、あたし達が王城の廊下で妙な攻防を繰り広げてるのを、遠巻きに観察してる人達がいることに気がついた。
そして、顔が緩みっぱなしのクロウくんの背中を押して、謁見の間に急いだわけだ。
長い廊下を歩いて、途中にはやっぱり騎士や侍女がうろうろしてて。
道中も手を繋ぎたがったりと、やたら構いたがるクロウくんを急かしたら、余計に彼らから奇異の目で見られたりして。
なんかもういろいろ、本意じゃない感じだ。
照れと不満と、いろんなものを道連れに歩いていると、やがて数人の騎士や侍女が廊下の一角に固まっているのが見えてきた。
当然のようにクロウくんに頭を垂れて道を開ける彼らの横を、あたし達は小走りに駆け抜ける。
・・・なんで、ここだけ人がたくさん・・・?
思いつつ、口にするのは憚られた。
クロウくんが、突然足を止めたからだ。
「・・・こ、ここ?」
残念ながら、あたしにはどこがゴールなのかが分からない。
前に一度だけ謁見の間に入ったことがあったけど、気が小さいあたしは緊張しっぱなしで、あんまり覚えてないんだ。
謁見した感想も、怖い人、っていう印象しか残ってなかったくらいだ。
だから早く何か言って欲しいんだけど・・・。
ばふばふ、と彼の背中を軽く叩いても応答はない。
それどころか、触れた手から深く呼吸する気配が伝わってくる。
あたしは不安になって、もう一度声をかけようと口を開いた。
その時だ。
音もなく、クロウくんの手がドアノブに伸ばされた。
・・・もしかしてクロウくん、緊張してるの・・・?
ドアノブを掴んだまま、顔を強張らせてる彼を見て、そんなことを思う。
「クロウくん・・・?」
さっきまで、あんなに元気が溢れてたっていうのに・・・。もしかして、呪いが解けた反動で、体調が悪くなったとか・・・。
ふと浮かんだ考えに怖くなって、思わず彼の顔を覗き込んだ。
その瞬間。
ドアが、ゆっくりと開けられた。
ぎ、ぎ・・・
何かの軋む音が、天井の高い広間に響く。
その音と人の気配に、中にいる数人がこっちに視線を寄越した。
中にいる人達で、あたしが会ったことのない人はいない。
だから内心首を捻った。驚愕の表情を浮かべて固まった人がいたから。
でも、ただ1人だけ広間に足を踏み入れたあたし達に視線をくれようともしなかった女性が、やっぱりこっちを見ようともせずに口を開いた。
「・・・陛下、やはりわたくしは反対です」
声で、あたしはそれが第一妃だと分かった。
どうやら彼女、国王が入って来たんだと思い込んでいるらしい。
表情までは見えないけど、心から不快だと言わんばかりの口調に、第一妃と相対してるお客様が気の毒で仕方ない。
一体どれくらいの間、そうやって対峙してたんだろう。
とりあえず、4の鐘が鳴る前にお客様の所に戻って来られたことに安心して、あたしは小さく息を吐き出す。
すると、その音を聞き取ったのか、第一妃が振り返った。
そして、その表情が強張る。
「・・・何故、お前がここに」
あ、あたしのことでしょうか。
怒られるような入り方をしちゃったのかと、あたしが肩を震わせるのと、クロウくんが口を開くのは同時で。
「それは、もうご存じでは?」
その言葉に、第一妃の唇が不愉快そうに歪んだ。
・・・怖い。衛兵、蛇がいるぞ。ここに。
彼は、第一妃の反応なんてお構いなしに肩を竦めた。
仰ぎ見たクロウくんのカオも、ちょっと怖い。
特にその、目を細めて口をゆっくり開く感じが怖い。
「・・・そうですか。もしや、と思っていましたが・・・」
ここに来る前に深呼吸して、なんだか緊張した空気を纏ってたのは、こういうことだったのか。
あたしだって、彼女と相対するのは心臓が縮みそうなくらい緊張するもんな・・・。
ちらりと視線を走らせると、お客様の傍に寄り添う皇太子が目に入る。
そして2人の顔を見た途端に、説得失敗、の4文字が思い浮かんだ。
・・・こればっかりは、諦めないで根気よく続けるか、いっそのこと諦めるか・・・。
あたし達の世界では、成人したら法律的に問題なければ、誰とでも結婚出来る。
でも、こっちでは事情が違うんだろうから・・・。
こう言う時、郷に入りては郷に従え、を実践するのって、とっても大変だと思う。
・・・結婚するとなったら、誰とそうなっても大変なことだらけだと思うけどさ。
そして第一妃を挟んでもうひと組、人影が・・・こちらはオルネ王女と、キラキラな親衛隊長だ。
それ以上は、見渡しても誰も見つけられない。
前に廊下で第一妃に出くわした時は、それこそ大名行列みたいな人数がぞろぞろくっついてたけど、今日は一緒じゃないみたいだ。
もしかしたら、さっき廊下で固まってた騎士や侍女は第一妃を待ってるんだろうか。
考えを巡らせたあたしは、ふと気になることを見つけた。
・・・あれ、国王は一体どこに行っちゃったんだろう。
ロイヤルファミリーの長男と、その彼がべた惚れな恋人。長男との見合いのために招かれた隣国のプリンセス。2人をくっつけたくない長男の母親。
なんだか修羅場を予感させる場面だけど、これは元々、お客様を見送るための場だったはずだ。
彼らを見てる限り、第一妃はお客様を一緒に見送るために来たわけじゃなさそうだし。国王がこの場にいないのも、すごく違和感がある。
「ああ、気分が悪い。
・・・わたくしは部屋に戻ります」
内心で首を捻っていたあたしは、はた、と我に返った。
そんなに近くにいるわけじゃないのに、ここからでも第一妃の顔がえらく歪んでるのが分かる。
綺麗な人ほど、怒った時の歪み方って酷いんだな。
・・・あたし、普通の顔に生まれて良かった。
自分に矛先が向かなさそうなのをいいことに、そんなことを思う。
「母上、」
皇太子が、慌てた様子で母親を呼び止めた。
まだ説得を試みるつもりなんだろうか。
・・・見た感じ、今は話なんか頭に入らないと思うけど。
完全に傍観者気取りで、あたしは2人のやり取りを眺める。
「・・・ライネル。
わたくしは、貴方のためを思って反対しているのですよ。
冷静になって、母の言葉にも耳を傾けなさい」
表情を歪めてた第一妃が、一瞬母親の顔をした。
獲物に向かって這い寄る蛇みたいな雰囲気は、今はない。
皇太子はそんな彼女の言葉が突き刺さるのか、黙り込んでしまって。
あたしには直接関係ないけど、子離れ親離れ、なんて言葉が頭の隅に浮かぶのは、気のせいじゃないと思う。
ちらりと隣を窺えば、クロウくんが沈痛な面持ちをしていた。
・・・そういえば、国王の寝室で4番目の王子殿下が「皇太子は母親を説得して、彼女を安心させてやるべき」って言ってた、って・・・。
なるほど、皇太子は母親の意志の逆を選べない、ってことでしたか。
あたしがそんなことを考えて、生暖かい目を彼らに向けている間にも、第一妃は広間のどこかに顔を向けて、誰かを呼んでいた。
すると、あたし達が入ってきたのとは別のドアが開いて、騎士や侍女が広間にやって来る。
彼女はその人達に何かを告げたかと思えば、最後にクロウくんやお客様をひと睨みしてから、ダンスのターンのように綺麗に踵を返す。
上等な、見るだけで滑らかな手触りが想像出来るような生地が、ふわりと翻った。
第一妃が謁見の間からいなくなった途端に、クロウくんが鉛のような重たい息を吐き出す。
「まあ、こんなもんか・・・」
言葉も重くて、彼が疲れてるのがよく分かった。
蚊帳の外で精神的に楽だった、なんて言えないあたしは、そっと声をかける。
「お疲れさま」
窺うように囁いたら、あたしを見たクロウくんが、ふにゃりと笑んだ。
「うん、ひとまずね。
あの人をここから出せたら、それで十分」
第一妃と対峙してた時とは全然違う、いつもの彼にあたしも思わず頬が緩む。
やっぱりクロウくんは、わんこみたいに可愛い方がいい。
・・・その台詞の意味はさっぱり分かんないけど。
そうやって彼と顔を見合わせて和んでいたら、それまで黙っていた皇太子が小さく咳払いをした。
「・・・アイリちゃん、こっち」
クロウくんが、あたしの手を引く。
そして、咳払いをした皇太子の前に立って、ひと言。
「兄上、ただいま戻りました」
「ああ、よく戻った」
至って普通の、どこの親戚でも交わすような挨拶だ。
家出してた弟が戻ってきたのに、特に何のリアクションもない。
それどころか、若干の壁を感じる態度だ。
これってもしかして、今までクロウくんが家出しまくってたせいで、あんまり心配されてないんじゃ・・・。
いやいやもしかしたら、母親が違う者同士、あんまり接点がなかっただけなのかも知れないし・・・。
いろんなことを考えつつ2人を眺めていたら、ふいに、クロウくんの視線が皇太子の隣に向かった。
「この方が、モモさんですか」
「・・・初めまして、モモです」
お客様が緊張の面持ちで名乗るのを、皇太子が横から見守ってて。
クロウくんは、ひとつ頷いて笑みを浮かべた。
「どうも、クローネルです。
家出が趣味で有名な、ぐうたら王子です」
どんな距離感でお付き合いしたらいいのか分からなくなるような、どうしようもない自己紹介に、お客様が小さく噴き出す。
そんな彼女を横で見ている皇太子にも、ほんのりとした笑みが浮かんで。
思わずあたしまで、頬が緩んでしまいそうになる。
・・・クロウくん、こういうの上手なんだよな。桑原先輩と通信した時だって、あたし抜きで普通に会話してたし。
その時だ。
今度は、オルネ王女が咳払いをした。
ちらりと視線を返したクロウくんに、王女は口を開く。
その雰囲気に圧倒されて、くたくたになってしまった紙袋を渡すに渡せず、あたしは2人の顔を交互に見遣った。
気づけば、同じようにラジュアが様子を窺っている。
「・・・クローネル」
王女に呼ばれて、クロウくんは無表情に言葉を返した。
「なに?」
素っ気ない返事だ。
怒ってるのかと思うくらい。
でも、怒ってるんだとしたら、一体何に・・・?
内心首を捻っていると、今度は王女が突然、頭を下げた。
「ひひひひ姫様・・・?!」
驚いて声を震わせたのは、ラジュア。
びっくりして目を見開いたあたしの視界に、ゆるゆると顔を上げる王女の姿が映る。
彼女は視線を彷徨わせた後、申し訳なさそうに言葉を紡いだ。
「すまなかった」
短いひと言が、潔く響く。
でも、そう言った彼女のカオはすごく苦しそうだった。
そういえば、オルネ王女は言ってたんだ。国王の寝室で。
4番目の王子と、“この滞在の間に話をしたいと思っていた”って・・・。
ふと思い出して胸の中がモヤモヤし始めたあたしは、どういうことなのかと、クロウくんの顔を覗き込む。
すると彼は、小さく息を吐き出した。
「やっぱりか・・・」
沈んだ声に、あたしはとうとう我慢出来なくなって、彼の手を、くいっ、と引く。
「何の話?」
クロウくんは、遠くを見つめたまま視線すらくれない。
あたしの質問に答えたのはオルネ王女だった。
「呪いをかけたのは、わらわなのだ」
一瞬、頭の中が白くなる。
これが、オルネ王女の話したかったことなのか・・・。
呪いをかけたのは、オルネ王女・・・。
あんなふうに嫌な注目の仕方をして、どこを歩いてても露骨に避けられてたのは、オルネ王女のせいだったの?
少し遅れて意味を理解したあたしは、息を吹き返すようにしてクロウくんを仰ぎ見た。
視線を感じたらしい彼は、手で顔を覆う。
もう呪いは解けたのに、苦しそうに。
そして、ゆるゆると首を振ると、くぐもった声で言った。
「引き金はオルネだ・・・けど、そうさせたのは第一妃だろ・・・」
「・・・気づいていたか」
クロウくんの言葉に、王女は顔を強張らせる。
また第一妃か。
2人でしか共有できないような空気になる。
・・・王女に近いラジュアですら口を挟まない。なら、あたしなんかもっとダメだ。
分かってるんだけど、もう少しだけ。クロウくんに踏み込ませて欲しい。
あたしは、思い切って口を開いた。
この際だ。あたしだってクロウくんの呪いの件には首を突っ込んでたんだし。
口を閉じたままのクロウくんを横目に、あたしはオルネ王女に尋ねる。
「引き金って、どういう意味ですか・・・?」
彼女は、あたしを真っ直ぐに見据えた。
「そのままだ。
わらわのしたことが、呪いの引き金になった」
「・・・第一妃が絡んでる、っていうのは・・・?」
恐る恐る先を促すと、彼女はため息混じりに頷いた。
「不要な物を整理していたら出てきたと、古めかしい香炉を下さったのだ。
その香炉を使ったら、真っ黒な煙が立ち昇って・・・」
真っ黒な煙、と聞いたあたしは、はっ、とした。
クロウくんの顔や体に走っていた黒い線。あれは、その黒い煙だったのか。
思い至って息を飲んでいたら、クロウくんが口を開いた。
「もういいよ。
オルネのことは、別に怒っても恨んでもない」
静かな口調に、怒りの感情が潜んでる気配はない。
あたしは彼の顔を見つめて、そのことに少しほっとする。
すると王女は、小さく息を吐き出してから、そっと言葉を紡いだ。
「・・・ありがとう。
呪いが解けて、本当に良かった」
囁きが広間に響いて、空気が柔らかくなった気がする。
でも次の瞬間、和らいだはずの空気は砕け散った。
「オルネのことは、怒っても恨んでもないんだけどさ・・・」
何やら雲行きの怪しい前置きに、あたしも王女も、その向こうのラジュアですら固まる。
すると彼が悪戯っぽく微笑んで、オルネ王女が頬を引き攣らせた。
「な、何か・・・?」
若干体が後ろに引いてるのは、きっと目の錯覚じゃないと思う。
身構えた王女を見て、彼は意地の悪い笑みを浮かべた。
「きっと第一妃を問い詰めても、しらばっくれるだけだから。
しれっと仕返しでもしようかな、って」
「仕返し・・・」
思わず繰り返したあたしのことは無視で、彼は言葉を失ってる王女に言った。
「そろそろ、ぎゃふんと言わせようかな、って。
・・・協力、してくれるよね?」
・・・なんでかな。クロウくんが真っ黒に見えるよ。オレンジ色のはずなのに。
王女は戸惑いを隠せないのか、視線を泳がせている。
すると彼は、さらに言いつのった。
「街道で熱出してるの、無視しないで助けてあげたのになぁ」
・・・嫌々だったけどね。
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、あたしは肩を竦める。
王女はクロウくんの言葉に、苦々しく唸るように頷いた。
「・・・分かった」
そのひと言を捕まえるように口を開いた彼は、小首を傾げて言う。
「うんうん、助かる。
ジュジュの作ってる、化粧品とか香水を買って貰いたいんだ。
いつもは寄付に回してる売り上げを、後見の費用に充てようと思って」
「・・・なるほど、そういうことか」
半ば脅迫めいたお願いに苦いカオをしてた王女が、納得したように頷いた。
渋々、ではあるけど。
「確かに、皇太子とモモ殿の結婚を後押しすれば、おばさまは嫌がるな」
王女の言葉に、クロウくんが満足気に微笑む。
「見合いの話もなくなるし、オルネの得にもなるよね」
・・・やっぱりそのオレンジ色は、髪洗ったら落ちるんじゃないですかね。
それでも、呪いに悩んでた時より元気ならいいか、なんて思っちゃうあたしも、どうかと思うんだけど・・・。
その時、とりあえず彼の目論見を温かく見守ることにしたあたしの耳に入ってきたのは、心配そうなお客様の声だった。
「ライネル・・・?」
囁きが、あたしを振り向かせる。
頭の中がクロウくんのことでいっぱいだったけど、そういえば皇太子にも、クロウくんの呪いは無関係じゃなかったんだ。
・・・オルネ王女に呪いの香炉を渡したのは、第一妃だったんだから。




