それは人違い
想像してたよりも強い熱を唇で感じたあたしは、石のように固まってるクロウくんを前に、半ば呆然とした気持ちで立ち尽くす。
まさか自分が、別れ際とはいえ咄嗟におでこにチューするなんて、思いもしなかった・・・!
クロウくん相手だと、無意識のあたしが勝手にいろいろ仕出かすみたいだ。
こんな浮かれた気持ち初めてで、どうしていいか分からない。
抱きかかえた紙袋が手のひらに掻いた汗のせいで、ふにゃふにゃしてる。
「じゃああのっ、あたし王城に戻るね・・・っ」
口調がちょっとだけ乱暴なのは、照れがあるから。
クロウくんは、まだ伏せた顔を両手で押さえたまま、何度も頷いた。
ホテルの従業員の挨拶を背中で受け止め、通りに出る。
何回も歩いてる道で今さら迷うわけもなく、あたしは小走りで王城を目指した。
足を動かすたびに、抱きかかえた紙袋が音を立てる。
その音に急かされるようにして、だんだんと鼓動が速くなる。
こういう時くらい無我夢中で走ればいいのに、あたしの頭の中は、クロウくんとのやり取りで埋め尽くされてた。
・・・あんなにチューしたがってたのに、実際されたら照れちゃうとか、どんだけわんこ・・・って、そんなこと今はいいんだってば・・・!
思い出せば出すだけ、嬉しいやら恥ずかしいやら。大声で叫びたい気持ちが、大きな波になってあたしを飲みこもうとする。
「・・・はっ・・・はぁっ・・・」
息の切れる音が、耳に響く。
持久走とか、そういう類の運動はあんまり得意じゃない。苦しい。
まだ鐘はならないけど、クロウくんと話し込んだから時間は迫ってるはずだ。
ここで立ち止まってる場合じゃないのは分かるんだけど・・・。
王城がいくらか近づいた所で、あたしの足が止まる。肺が痛い。
「ミカン、が、いれば・・・っ、すぐ、なのに・・・っ」
・・・いやまあ、あたし1人じゃ乗れないんだけどさ・・・。
心臓が過労を訴えてるのが分かる。
思い返せばこのところ、あたしの鼓動は緊張や恥ずかしさで速くなることが多かったな。
もうちょっと労わらないと、そのうちバタンと倒れるかも知れない。
そんなことを考えながら深呼吸したあたしは、ふと、やって来た方角が騒がしくなってることに気がついた。
「ん・・・?」
なんだろう、と振り返ってみても、事故や事件が起きた気配はない。人が逃げて来ないからだ。
悲鳴らしい声は聴こえてくるんだけど、それもなんだか違うような。どちらかといえば、芸能人とかにキャーキャーするような、そんな光景を連想させる声だ。
見れば、あたしの周りにいる人達も歩みを止めて、訝しげに騒がしい方へと視線を投げていた。
「まあ、いっか・・・」
首を捻ってから、また前を向く。
あたしには、直接関係なさそうだし。
「・・・急がなきゃ」
呼吸を整えて、足を踏み出す。
そしてまた、小走りに駆けだした。
紙袋の中身が、音を立てる。
ところが、少し進んだところで、また黄色い悲鳴が上がった。
今度は割と近い所で、だ。
思わず足を止めて、辺りを見回してみる。
周囲を歩いていたらしい人達も、あたしと同じように悲鳴の出所を探しているみたいだ。
こうも悲鳴が続くと、さすがに気になっちゃうな・・・。
あたしは眉根を寄せて、視線を巡らせた。
すると少し離れた場所で動く、オレンジ色のものが目に入る。
オレンジ色といえば、思い出すのはミカン・・・てことは、あの動いてる大きいのはクエか・・・。
でもあたしが気になったのは、その上の人物だ。
クエを走らせてるんだろう、だんだん近づいてくるのが分かる。
・・・もしかしてみんな、乗ってる人を見て騒いでるの・・・?
街中でクエに乗ってる、ってことは旅をしてるのか。それとも、騎士団の人なのか・・・どっちにしても、あたしには関わりのなさそうな人だ。
そう結論付けて、また前を向く。
あんな派手な見た目の人、あたしの知り合いにはいないもん。
「・・・ったく、人騒がせな・・・」
呟いて、だいぶ重くなった足を動かそうとした、その時だ。
目の前で、馬の嘶くようなクエの鳴き声と、ばさばさと翼を振るう音。
それから、すぐ近くで、誰かが声を上げたのが聴こえた。
「・・・ちょっと」
オレンジ色の髪をした男が、あたしに向かって声をかける。
彼の声は、若干怒気を孕んでる気がした。
・・・なんでだ。全然身に覚えがないんだけど。
しかも周りの人の視線が集まってる。痛い。
「はぁ・・・」
自業自得とはいえ、苦手な持久走をしてきたあたしは、今あんまりハリのある声が出せない。
ぶつけられた言葉と同じだけの元気がないから、つい、面倒くさそうな雰囲気が出てしまう。
どうしようもなく萎んだ返事をしたら、オレンジ色はクエの手綱を握ったまま、あたしを見下ろして言った。
「勝手にいなくならないでよ」
・・・どうしよう、ものすごく関わりたくない。
どうやら彼は、あたしを知り合いの誰かと勘違いしているみたいだ。
それこそ、逃げ出した恋人か何かと間違えてるんじゃなかろうか。
見渡す余裕はないけど、周りから小さな悲鳴やひそひそ囁く声が聞こえてくる。
そういう、遠巻きに見てる人達がいるってことを肌で感じたら、余計に居た堪れなくなった。
「いやあの・・・」
人違いですよ、と言おうとしたあたしを、彼は遮った。
「いくら一緒に行けないからって、あんな所に置いていくなんて酷い!」
あんな所って、一体どんな所だ。
まるで捨てられた子犬みたいな台詞を吐いたオレンジ色に、あたしは言った。
「誰かと間違えてません・・・?」
「間違え・・・それ、本気で言ってるの?」
目を見開いた彼が、驚愕の表情を浮かべる。
そうかと思えば、次の瞬間には、静かな怒りを放ち始めた。
・・・あ、なんかやばそう。
思わず一歩退いたら、オレンジ色が目を細める。
・・・なんか、こういう追い詰められる感、最近もあったような・・・。
一瞬気が逸れそうになったけど、あたしは慌てて口を開いた。
・・・絶対あたしじゃないと思う!
「本気も何も!
あたし、オレンジ色の髪の知り合いなんていませんから!」
すると彼は、またしても目を見開いて、ぽかん、と口を開ける。
言葉を失ったらしいその隙に、あたしはオレンジ色の横を通り過ぎようと、そろそろと歩き出した。
まだ王城までは距離があるんだから、ここで長いこと立ち止まってるわけにはいかないんだ。
かさりと音を立てた紙袋を、抱え直す。
あたしは、ふぅ、と息をついて、小走りに駆けだした。
その時だ。
ひと際大きな黄色い悲鳴が、すぐ後ろで響く。
きっとさっきのオレンジ色を見て、女性達が騒いでるんだろう。
あたしはそれを振り返ろうとして、あろうことか、宙に浮いた。
「え、」
自分の口から、声が零れる。
ぼてぼてぼてっ。ぱさぱさぱさーっ。
紙袋から、お菓子達が零れ落ちていった。
「えぇぇぇ?!」
・・・そんなぁぁ!
バランスが崩れた紙袋を抱え直したけど、ずいぶん軽くなってるのが分かる。
半分くらい落っこちたんじゃないのこれ?!
あまりに突然の出来事で、その瞬間には言葉が出なかったけど、あたしは、わなわなと唇を震わせた。
買い集めるのに、どんだけ歩き回ったと思ってんだ!
「・・・ちょっと!」
沸騰した感情そのままに、あたしを抱えてるらしい人物に向かって怒鳴る。
背後では、まだ黄色い声が飛び交ってる。
・・・もしかしてこの人、割と有名人だったりするのか。
のたのた走ってたクエが、急にスピードを上げた。
顔に当たってくる風の強さに、ぞっとする。
・・・ちょっとこの人、どこに向かおうとしてんの。
拉致、の2文字が浮かんで、あたしは咄嗟に叫んだ。
「下ろして!
言ったでしょ、人違いだってば!」
ぶつけるように言ったけど、オレンジ色はあたしを一瞥して、静かに言った。
「舌、噛んじゃうよ」
その声は聞いたことあるような、ないような・・・。
斜め下から見上げる横顔も、見たことあるような、ないような・・・。
でも、そんなことを掘り下げて考えられるほど、あたしは冷静じゃなかった。
このままどっかに拉致られたりしたら、仕事も恋愛も、いろいろ困ったことになるかも知れない。てゆうか、絶対なる。
「下ろせーっ!」
「王城に行くんでしょ?」
足をばたつかせるあたしを引き上げた彼は、自分の前にあたしを座らせた。
そのままお腹に手を回して、固定する。
・・・この体勢も懐かしさすら感じるけど・・・。
でもそんなことよりも、気になる台詞が。
あたしは軽くなった紙袋を、それでも手放さずに振り返った。
「って、あたしが王城に行くって、どうして・・・?!」
オレンジ色は、またあたしを一瞥して、ほんのりと笑みを浮かべる。
なんか、ものすごく楽しそうだ。あたしは全然、楽しくないけど。
前を向いたまま目を細めた彼は、それきりあたしを見ようともしなかった。
結局、クエの上にがっちり捕まったあたしが、その腕から逃げ出せるわけもなく・・・。
さすがクエ。あっという間に王城前だ。
「・・・ほんとに着いちゃった」
オレンジ色は呆然と呟いたあたしの手を取って、クエから下ろす。
何度となく、こうやってクエに乗ったり下りたりを繰り返してきたあたしは、こなれた身のこなしで着地した。
・・・なんだろ、この感じ。
自分の足で立ったあたしは、内心で首を捻る。
拉致めいた出来事だった割に、いざクエに揺られてみたら、不快感も恐怖もなかった。それが不思議でならない。
それに、クエに乗ってる間から下ろされた今もずっと、何かが引っかかってる。
喉に小骨が刺さってるみたいで、なんか気持ち悪い。
突き詰めたら分かりそうな気もするんだけど・・・。
もやっとする頭を軽く振って、あたしは口を開いた。
今はとにかく、お客様の所に行かなくちゃだ。
「えっと、あの・・・」
苦情とお礼のどっちを言うべきか考えて、言葉を探す。
すると、あたしが言い淀んだのが面白かったのか、オレンジ色が、ふっ、と鼻を鳴らした。
「あ、来た来た」
彼の視線の先に、数人の騎士がいる。
彼らは、あたし達を見て一瞬驚いたように固まったけど、すぐに駆けてきた。
「ご苦労さま。
・・・あとよろしく」
駆けつけた騎士達が何か言うよりも早く、オレンジ色が言う。
「・・・は、はぁ・・・」
差し出されたクエの手綱を戸惑いながら受け取った騎士は、あたしに視線を走らせた。
「殿下、この者は?」
・・・は?!
別の騎士の言葉に、あたしは息を飲んだ。
ぎょっとして、隣に立ってるオレンジ色を凝視する。
彼は涼しいカオで、あたしの視線を受け流した。
殿下、って言ったよね。それ、やんごとない人達に付ける敬称ですよね。
あたしの会ったことない殿下って、家出癖のある自由奔放な王子と、何かの研究に没頭してる王子の2人なんだけど・・・どっち・・・?
目で訴えても、彼が何か言う気配はない。
・・・てゆうか・・・激昂して殴ったりしなくて良かった・・・!
オレンジ色がほんとに“殿下”だとして、自分が徹底的に抵抗した場合を想像して、背中に寒いものを感じる。
ご機嫌を損ねたら、痛い目に遭ってたかも知れないもんな。
もしそうなったら、クロウくんにも二度と会えないようなことになってたかも・・・あ、あぶな・・・っ。
ゆるゆると息を吐き出したあたしは、オレンジ色の視線に気づいて、はっとした。
「ほら、行くよ」
「は、はぁ・・・」
慌てて言葉を返すけど、どうにも顔が引き攣って仕方ない。
彼はあたしの強張ったカオを見て、背を向けて歩きだした。
スタスタと遠ざかっていくオレンジ色を眺めていると、ふいに脳裏をよぎるものが。
・・・いやいやいや、まさか。
そうして少しの間現実に追いつく努力をしてたあたしは、ふいにオレンジ色に呼ばれて、弾かれたように走りだす。
手の汗で、ずいぶんとくたくたになった紙袋を抱え直せば、少なくなったお菓子が音を立てた。
胸の中でため息をついて覗き込んだあたしは、そこで初めて気がついた。
「りょ、領収書も飛んでった・・・!」
悲鳴混じりの言葉に驚いたのか、オレンジ色が振り返る。
そして、ぷっ、と噴き出した。
「ほんとに好きだねぇ、領収書」
呆れたように紡がれた言葉に、あたしの目が丸くなる。
・・・いやいやいや、まさか。そんなファンタジーなこと、あるわけない。
喉に刺さった小骨が取れそうな予感と、取りたくない気持ちがせめぎ合う。
あたしは思わず口にしそうになった言葉を、慌てて飲み込んだ。
そんなあたしを見て、オレンジ色は眉毛をぴくりと動かした・・・。




