手のひらは寸前に
肩にかかった重みが、息を吐き出した。
「はふぅ・・・疲れた・・・」
たいして疲れてなさそうな声でそんなことを言ったクロウくんが、あたしのお腹に回した腕を、きゅっと引き寄せる。
お腹も背中も、じんわりと温もりを蓄えて暖かい。
無意識のうちに、あたしの口も綻んで、息が漏れた。
「うん、お疲れさま」
カーテンを閉めると、王城を照らす街灯の光が閉ざされて部屋の中がさらに暗くなる。わずかな光の筋が、蜘蛛の糸みたいに隙間から漏れ入るくらいだ。
真っ暗になった視界に目が慣れるまで、瞬きをしていたあたしの前を、クロウくんが横切ったのが気配で分かった。
・・・ん?
外から部屋の中を覗けなくなったから動いたんだろうけど、彼が横切った瞬間に、いい香りが鼻先をくすぐって・・・。
この匂い、知ってるような気がするんだけど・・・あれ・・・?
小首を傾げて考えてるところに、声がかかった。
後ろ、すぐそばで気配がするのが分かるんだけど・・・。
「・・・アイリちゃん?」
「んー・・・?」
心ここにあらずで返事をしたあたしの手を、クロウくんが引く。
「どしたの」
「いやなんか、クロウくんから花の匂いが・・・。
この匂い嗅いだことある気がするんだけど」
あたしは引っかかったものを素直に呟いて、そっと後ろの彼を振り返った。
「もしかしてどっか、忍び込んだ?」
「えっ・・・と、気のせいじゃないかなぁ・・・」
ベッドに腰掛けた彼の顔はぼんやりとしか見えないけど、頬が引き攣ったのが分かる。
そのカオを見て、ピンとひらめいた。
・・・こういう時のオンナの勘ってやつは、ほんと、すごい。
「女の人のとこですか」
「・・・ソンナコトスルワケナイデショ」
その言葉はガクガク揺れてて、あたしに触れてる手が若干汗ばんでる。
なんて分かりやすい奴だ。ヒトに3つもキスマーク付けといて・・・。
・・・とか思うのは、ヤキモチ妬いてるってこと、だったりするんだろうか。
あたしはそんな自分を見て見ぬ振りで、口を開いた。
「ふーん・・・そっかー・・・」
この暗がりでも、器用に片方の眉を上げたあたしが見えてたのか、彼は慌てて手を振った。
「いやあのアイリちゃんっ。
俺は医者として、患者の様子を見に行っただけで・・・!」
「行ったのか。行ったんだな」
「・・・それで、」
ベッドの上で小さくなって言い訳を連発していたクロウくんを追及するのを一旦止めたあたしは、ため息混じりに尋ねた。
「呪いを解く方法、見つかったの?」
両手を腰に当てて、ちょっぴり声が冷やかになっちゃうのは、仕方ないと思う。
するとクロウくんは、あたしの問いに首を振った。
「ううん、まだ・・・。
医学書に載ってなかったから、今は歴史書なんかに目を通してるんだけど」
言いながら、しょんぼりと肩を落とす彼。
元気のない彼を見ていると、それまで自分の中で燻っていたことが、だんだんと小さく萎んでいくのが分かる。
ああどうしよう。ついに倒れた犬耳と尻尾の幻覚まで見えるようになっちゃった。
・・・そんな姿見せられたら撫で回したくなっちゃう・・・。
あたしは触れたいのを我慢して、そっと声をかけた。
「そっか・・・。
もうちょっと待っててくれたら、一緒に探すからね。
こっちは、あと少しで片付きそうだからさ」
「そうなの・・・?!」
見下ろすあたしを仰ぎ見て、クロウくんが掠れた声を上げた。
だいぶ暗闇に慣れた視界の中で、彼の眉が、見事な八の字になってる。
「うん。
お客様をあっちに連れて帰って、2日くらいでこっちに戻って来れると思う」
「えぇぇ・・・っ」
彼の隣・・・ベッドに腰掛けたあたしは、カーテンの隙間から伸びる光の筋を眺めながら、苦笑混じりに言った。
「いやいやいや、ちゃんと戻ってくるってば・・・。
帰るまでに呪いが解けても、今までのお礼をしに戻ってくるつもりだし。
・・・約束したでしょ?」
「うん、まあ・・・そうだけど」
あたしの言葉に渋々頷いた彼は、上目遣いにあたしを見つめてきた。
「じゃあ、アイリちゃん」
「う、うん?」
きゅるん、とわんこみたいに潤んだ瞳に、思わず一瞬たじろぐ。
すると彼は、ゆっくりとこっちに向かってにじり寄って来た。
クロウくんの瞳が、じわりと熱を滲ませる。
「聞かせてくれる?」
「え?」
もうちょっと、子犬が擦り寄ってくるみたいだったら身構えないんだけど・・・。
質問が何を指してるのかも気になるけど、それ以上に彼が振りまく雰囲気に戸惑って間抜けな声を出したあたしを、彼は喉の奥で笑った。
いつもは愛想いっぱいの目が、すっと細められる。
「アイリちゃんの気持ち。
仕事の目処もついたんだし、もう教えてくれてもいいよね~」
声もちょっと低いし、何より目つきが思いっきり捕食者だ。
なんだろう・・・近づいちゃいけない気が、すごくするけど。
あたしの目を見据えたまま、彼の手が伸びてくる。
思わず体を引いて逃げようとしたら、腰が捕まってしまった。
体の重心が引き寄せられたら当然、ぐいんっ、と頭がそれに追いつこうとして勢いよくクロウくんの方にいっちゃうわけで。
そして、あっという間に距離が詰まって、体が密着状態に。
「・・・それで、どうなの?」
間近で囁くクロウくんは、機嫌がいいのか楽しそうだ。
あたしは、急に体を動かされてバクバク暴れる心臓を宥めながら、生唾を飲み込む。
どうしてこんな、追い詰められた気持ちにならなくちゃいけないんだろうか。
・・・おかしいぞ。男の人って、好きな相手にこうやって詰め寄るんだっけ。あたしこれから、甚振られるんだろうか。
「ん?」
「えー・・・あー・・・っと・・・」
至近距離で小首を傾げた彼から、目を逸らして声を漏らす。
すると彼は、ふぅ、とため息を吐いた。
その瞬間にふわり、と腕から力が抜ける。
何でだろう・・・と見上げれば、何かを諦めたカオが間近にあって。不覚にもそんなカオをしたクロウくんに、ちょっとドキっとしたりして。
・・・たぶんその油断が、いけなかった。
唐突に視界が、ぐるん、と回る。
「・・・ひぁむぅぅっ?!」
驚いて上げた悲鳴を上から手で抑え込まれてる間に、頭が、ぼすん、とベッドに着地。
「コラ、煩くしたら見つかっちゃうでしょ」
あたしの眼前で、覆い被さってきたクロウくんが、とっても楽しそうにニコニコしてる。
・・・何が可笑しいんだ。何が。
「むぅぅーっ!」
抗議の声を上げたけど、押さえられた手の中でくぐもって終わった。
いっそのこと、無駄に長くて綺麗な指の1本にでも噛み付いてやろうか。
そんなことを考えながら、じとー・・・っと彼を見つめる。
すると、クロウくんは目を細めて手を離した。
「・・・っぷ、ぁっ・・・」
詰めていた息を吐き出して、新鮮な酸素を取り込む。
何か言わないと・・・と、急かされるようにして、あたしは言葉を紡いだ。
「じ、実力行使なんて、ず、ずる・・・っ」
さっきまであたしの声を奪っていた手が、頭の横にある。
彼が何も言わずに腕をついたら、保たれてたわずかな距離が、ぐんと短くなった。
「うーん・・・」
唸った彼の吐息がかかるくらい、近い。
あの唇が、あたしの鼻先に触れたらどうしよう。
想像した途端に、心臓が騒ぎ出す。
意識するのは、当然、胸元に散らばった花びらだ。
・・・こ、これじゃあたしがムッツリみたいですけど・・・!
絶対違う!・・・と否定して、頬に熱が集中しそうなのを霧散させていると、クロウくんが間近で笑った。
「押してダメなら、ってね」
「・・・はっ?」
いつもの声なのに、台詞が怪し過ぎる。
なんだ、何を考えてるんだ。
言葉の割に、楽しそうなのは何故なんだ。
そんなふうに、ぐるぐる回り始めた疑問の答えは、すぐにもたらされた。
「えっ、やっ・・・ちょっ・・・?!」
「あーもー、アイリちゃん大げさ」
足をばたつかせ腕を突っ張るけど、びくともしない。
・・・そういえばこの人、医者らしからぬ筋力してるんだった・・・。
呆然としてると、背中に差し込まれた手に体を掬われる。
そのまま、くるん、と半回転したあたしは、何をどうしたのかクロウくんの腕の中に収まってて・・・ぎゅむむ、と抱きしめられていた。
「こ、これが噂に聞く、腕枕ってやつでしょうか・・・」
意識するあまり、あたし、敬語。
「色気ないなぁ・・・」
がっくり、と音が聞こえてきそうに、クロウくんの顎がかくん、と落ちる。
あんまり近づき過ぎて、あたしからは彼の片側のほっぺと鼻、唇の凹凸くらいしか見えない。
ああ、片方の目のまつ毛の本数なら数えられそうだけど、そのためにはしばらく、彼に目を閉じてて貰わないとダメそうだ。
・・・こんなことでも考えてないと、この密着ぶりに心臓が破裂しそうな自分が、なんていうか残念でならないんだけど。
「まあ、そこは追々でいいんだけどさ」
ため息混じりの声が、おでこ越しに聞こえてくる。
クロウくんの吐息のせいで、おでこが熱い・・・。
てゆうか、唇付いてますよね、それ。
自分のおかれた状況にいっぱいいっぱいで、とてもじゃないけど会話を成り立たせるだけの脳の力が出せそうにない。
どうしよう、何を言えばいいんだ・・・いや、それ以前にこの腕枕は、一体いつまで続くんだろう・・・。
そんなことを考えていると、ふいに、彼の手があたしの頭を撫で始めた。いい子いい子、とでも言うかのように。
「く・・・クロウくん・・・?」
かろうじて、言葉を振り絞る。
すると彼は、喉の奥に笑みを押しやって言った。
「なぁに?
・・・あ、もしかしてコレもやだ?」
後から付け足された言葉に、思わず首を振る。
こういう咄嗟の言動って、きっと本心が影響するんだろうなぁ。
・・・まだ言えないけどさ。
あたしが頷いたのを小さく笑ったクロウくんは、ぽふぽふ、と手をバウンドさせた。
「アイリちゃんの髪って、気持ちいいよね。
ずっと撫でてられるな~」
言いながら、手であたしの髪を梳く。
時折首筋に触れる指が、肌をチリリと焦がす感じもするけど、それはなかったことにして。
「それは、どうも・・・。
てゆうか、ここで油売ってて平気?
ヘジーさんに迷惑かかったりしてない?」
「してない」
ドキドキしてる鼓動を誤魔化すために話題を変えてみようとしたけど、あっさり却下された。
心なしか、言い放ったクロウくんの声が硬くなった気もする。
すると、気を悪くしちゃったか、と心配したあたしのおでこで、彼は小さな音を立てた。ちゅ・・・っ、なんて、すごく可愛らしい音を。
・・・し、心臓が破裂する。きっとする。
「ヘジーじゃなくて、俺のこと考えててね」
囁きに、甘さが滲む。
今度は心臓が、きゅぅぅぅ、と小さく強張って、震えた。
息苦しさすら覚える衝撃は、今まで生きてきて初めて。
・・・こ、こんな甘い男の人、生息してたんだな・・・。
照れ隠しに胸の内で呟いたあたしは、そっと息を吐き出した。
「今、絶賛奮闘中なんだからね。
アイリちゃん堕とすのに、どんだけ必死だと思ってんの」
ゆるゆると吐き出していた息が、ぶほっ、と爆発音に変わる。
ああみっともない・・・。
でもそれ以上に、心臓がもたない・・・。
血が逆流してるんじゃないかってくらい、顔が熱い。
手で顔を扇ぎたいけど、生憎両手は自由にならない。
あたしはなんとか呼吸を整えて、意を決して口を開いた。
・・・けど、言葉を紡ぐよりも早く、クロウくんが爆弾を落としてくれて。
「カラダを先に堕としちゃえ、とも思ったんだけど・・・。
それじゃ嫌われそうだし」
あたし、開いた口をぱくぱくさせるしかなかった。
・・・おいこらお前今、何を堕とすって・・・?!
ちなみに、あたしが今まで付き合ったり付き合う寸前までいった男の人達は、9割方そういう思考回路の持ち主だったよ。
幸いコトに及ぶ寸前で、本命の殴り込みからの修羅場になって終わったりしてたけど。
・・・まあ、自分で言っちゃうくらいだから、きっとクロウくんはそういうのとは違うんだろうけど・・・。
「俺、アイリちゃんに嫌われたくないもん」
頭をなでなで言った彼に向ける言葉が見つからず、あたしはひたすら呆然としていた。
すると彼は、よっ・・・と掛け声をして、再びあたしに覆い被さるように体を動かした。
「でもさ、チューくらいはさせて。それで我慢するから」
そう囁いたクロウくんの唇が、あたしに向かって落ちてきた瞬間。
べちん、と小気味良い音が響いたのは、言うまでもない。
「アイリちゃん容赦ない・・・!」
クロウくん、絶対こうなるって分かってて、やってるに決まってる。
だって、あたしの手のひらが唇を防げるように、ちゃんと体離してくれてたもん。
・・・あたしが気づかないと思ったら、大間違いだ。




