あたしの動揺
丸まった背中が、ひくっ、と引き攣るように動いた。
ぽつりと言葉を零したきり、クロウくんはこっちを見もしない。
あたしを「好き」だって、言ったきり。
心臓が痛い。
せわしない動きに、尋常じゃない動揺の仕方をしてるんだって、自覚する。
そっと息を吐き出して、吸い込む。
脳みそが酸素を欲してるのは分かるけど、全然ダメだ。
・・・呼吸するのが、こんなに大変なことだったなんて。
せめて暴れる心臓だけでも宥めようと、胸に手を当てる。
でもその瞬間、自分の手が触れてる部分が昨夜、軟膏を塗るクロウくんの手が、撫でていた場所だったことを思い出す。
そして、煽られた鼓動の音が頭の中で鳴り響く。
・・・意識しすぎ!
思い切り頭を振って自分に喝を入れて、クロウくんの後頭部を見つめた。
時折小さく息を吐き出しているらしく、はぁぁ、とでも言いたげに上下してる。
あたしは、張り詰めた沈黙に耐えきれなくなって、とうとう口を開いた。
まだ、何を言えばいいのかも分からないけど。
どんなカオして向かい合えばいいのかも、はっきりしないけど。
・・・クロウくんに背を向けられ続けるより、ずっといい。
「えっと・・・クロウくん・・・こっち、向いて」
そっと呼びかければ、のそのそとクロウくんが肩越しに振り返った。
眉毛が八の字になって、口の端が歪んでる。
どうしよう、可愛いすぎる。撫でまわしたい。
深呼吸をひとつ。湧き上がる欲求を抑えつけて、あたしはもう一度口を開く。
その時だ。
カタカタカタカタ、カタカタカタカタ・・・
「・・・っ?!」
何かが固い物の上で跳ねる音に、あたしは息を飲んだ。
それはクロウくんも同じだったのか、緊張した顔つきであたしを見つめて。
カタカタカタカタ、カタカタカタカタ・・・
規則正しく響く音に、ドアの方に視線を送るけど、誰かがノックしてる気配はない。
小首を傾げたあたしは、ややあってから自分の手がやけに軽いことに気がついた。
「・・・あっ」
思わず声を上げて、クロウくんを見遣る。
「あたしのバングル、知らない?」
手首を見せると、彼は、あっち、とテーブルの上を指差した。
「窮屈そうだったから・・・、ごめん」
「そっか、ありがと」
申し訳なさそうにしてる彼のことは、とりあえず後回しだ。
あたしはベッドから降りて、テーブルに散らかった物をかき分ける。
そして、音の発生源を掴んだ。
バングルが、一定の間隔で小刻みに震える。こっちには電子音なんてものがないからだ。
「よいしょ、っと・・・」
振動するものを、腕に嵌めて金具を留める。
イヤホンを延ばして耳に嵌め、同時にボタンを押す。
「もしも、」
『おっそぉぉぉぉい!』
くわぁぁぁぁん・・・
ぐわんぐわんぐわん・・・
相手の声が大きすぎて、イヤホンの限界を超えたらしい。
物凄いハウリング。修学旅行のメガホンなんて比較にならない。
鼓膜が。鼓膜が破れる!
「おおおぅ・・・」
病み上がりの体に、この音はきついものがある。
思わず眉間を指で揉んだあたしに、イヤホンの向こうの声が喚き立てた。
『やっと検索範囲に戻ってきたと思ったら、何やってんの?!
笹川くんは話したがらないし、あんたは風邪引いてるし!
おまけに可愛い子犬みたいな声の男が看病してるとか!
心配してたのに私を差し置いてズルイんじゃないの愛梨?!
紹介しなさい、乾いた生活してる三十路の先輩に異世界の男でも紹介しろー!』
「本音が駄々漏れです先輩・・・」
いろんな意味で耳の痛いあたしは、沈痛な面持ちで呟く。
てゆうか、先輩最近出来たてホヤホヤの彼氏はどうしたんですか。
・・・なんて聞ける雰囲気じゃないし深みに嵌まる気がするから、そっとしとこう。
「えっと、とりあえず、すみませんでした」
・・・あ。そういえば週末に合コンあるって言ってたけど、あたしが戻らなかったから、行けなかったりとかしたのかな。
もしかして、今回の彼氏とは上手くいかないのを予見してたんですか。
その腹いせですか、先輩。もしかして好みのスペックが揃ってましたか。
先輩が合コンにかける思いを知ってるあたしは、とりあえず話しながら頭を下げかけて・・・背後に人の気配を感じた。
そして振り返ろうとして、固まる。
「・・・くっ?!」
小さな悲鳴が、ついて出た。
ほったらかしにしてたクロウくんが、べったり背中に貼り付いたのだ。
『ん?!何よ?!』
先輩の怒り冷めやらぬ声に、背筋が伸びる。
クロウくんがあたしの、イヤホンを嵌めた方の肩に顎を乗せて、息を吐く。
濡れたままの髪が、ひんやり冷たい。
「・・・いや、えっと、なんでもないです。
定期連絡ですか?」
彼の挙動はなかったことにして、あたしは尋ねた。
すると先輩が、声色を変えて言った。
『それもあるけど、やっぱり声を聞いておきたいじゃない。
笹川くんの話だと、国の端まで連れて行かれたって・・・』
「あー、はい。そうなんですよね。
スタート地点に立つまでに時間がかかっちゃってて・・・。
実はまだ、王都の手前なんです」
『転送先、ちょっと無茶したツケだわ。
お客様の所なのは間違いなかったんだけど・・・。
ほんと、ごめん。私のせいだね』
「あー・・・それは、まあ、忘れましょう。
てか、あたしは忘れたいです~・・・」
バスローブから伸びる腕が、あたしのお腹に回ってくる。
そのまま、ぐい、と後ろに引き寄せられて、息を飲んだ。
あたしは一度バングルを口元から遠ざけて、背後のクロウくんに、あっち行け、とジェスチャーで訴えてみる。
分かってたけど、それはあっさり拒否された。
クロウくんが、渋いカオで舌を出したのだ。
・・・べー、って・・・可愛かったら許されると思ってんな、わんこめ。
さっきまでの殊勝な態度はどこへいったのか、彼はぐるりと巻き付けた腕を離そうとせず、あたしと先輩の話に耳を傾けていた。
『帰って来たら、焼肉連れてくよ。きなこアイスもつける』
「ほんとですか?
やばい、俄然やる気出てきたー!」
食欲に従順なあたしに、先輩が笑みを漏らす。
風邪なんか引いてる場合じゃないな、とあたしが気合いを入れようとした時だ。
クロウくんが、イヤホンを嵌めてない方の肩に顎を落ち着けた。
そして、何やら口を開く気配がする。
先輩が、焼肉関連で冬のボーナスの話なんかを始めたけど、もうそんなの耳を通過するだけで話がいっこも入ってこない。
冬のボーナスは、あたしにとって死活問題なのに。
「アイリちゃん・・・」
囁きに、耳たぶが熱くなる。
反対側の耳からは、もっと大きな声が入ってくるっていうのに。気持ちが勝手に、クロウくんの声を聞き取ろうとしてる。
ぴくん、と強張った頬に、彼の頬がくっつく。近い。でも、あったかい。
どうしよう。物凄く、イケナイことしてる気分。
助けて欲しいような、でも、誰にも邪魔されたくないような。
内心戸惑ってるのに、あたしは彼の囁きの続きが欲しくて目を、ぎゅっと閉じた。
感覚をひとつ閉じたら、吐息がかかるのが生々しく感じられて、鼓動が速まる。
「帰らないで」
ああもう、何も考えられない。
たったひと言なのに、頭の中が真っ白になる。
囁いてるからなのか、声が掠れてた。切なそうに。
ほんとに、心から引き留めたくて言ってるみたいに聞こえる。
首筋に、何か熱いものが。熱くて、なんか、ヌルっと・・・。
ああ無理だ。怖くて目を開けられない。
それが何だか分かるから、絶対に開けられない。
『それでね、愛梨・・・愛梨?』
「ふぁ、いっ!」
先輩の声に、慌てて返事をする。
首筋を伝うものを意識するな、って方がおかしい。
触れてないとこが、ムズムズする。痒くて、甘い痛みがいろんなとこで生まれる。
離れろ、と腕を叩いても、クロウくんが喉の奥で笑うだけだ。
抓ったり引っ掻いたり、そんな小さな抵抗を大きな手が全部飲みこんでいった。
翻弄されながら、あたしは先輩からの指示を懸命に頭に叩き込んだ。
たまに変な相槌を打っちゃったりして、先輩が向こうで首を捻ってるのが伝わってきたけど、もうそこに構うだけの余裕もなくて。
ただ、クロウくんが耳元で笑みとも、ため息ともつかない吐息を漏らしてるのだけは、はっきりくっきり分かったんだけど・・・。
突然、それまで悪戯に専念してたクロウくんが、イヤホンをしてる方の肩に顎を乗せてきた。
「すみませーん」
「は?!」
あんたそれ、あたしが隠そうと頑張ってたの、見て分かってたでしょうに!
思わず、声を上げたあたしを無視して、先輩が応答した。
『うん?・・・誰かいるの?』
「聞こえますかー、せんぱーい」
「ちょっと!」
『あー、愛梨煩い』
「あたしですか?!」
苛立ちを滲ませた先輩の声に抗議した途端、クロウくんが腕ごとバングルを口元に寄せる。
そして、イヤホンをあたしの耳から引き剥がした。
「これ、耳に嵌めるのがなくても聞こえるんでしょ?」
「なんで知ってんの?!」
『だから愛梨、声がでかい』
降って湧いた事態に、頭が大混乱だ。
ぎゃんぎゃん喚いたあたしは、息切れして。肩で息をしてたら、自分が病み上がりだってことを思い出した。
クロウくんもそれに気づいてるのか、ぜーぜーしてるあたしを横抱きにしてベッドに運ぶ。
ああ、せっかく起き上がったのに・・・。
騒ぐだけ騒いで疲れたあたしは、横になるつもりでいたんだけど。クロウくんはあたしを横抱きにしたまま、ベッドに腰掛けた。
・・・なんだこれ、この密着度。楽だけど。
いろいろ投げやりになったあたしは、されるがまま、息をついた。
さっきまでイヤホンに塞がれた耳が、今度はクロウくんの鼓動の音を拾う。
それは電子音まみれの先輩の声よりも、ずっと優しくて温かくて、なにより心地良い。
「えーっと、せんぱい、聞こえますかー」
『聞こえまーす』
・・・この2人が勝手知ったる雰囲気で会話してるのは、なんでですか。




