闇夜のあたし
獣の遠吠えが、聞こえてきた。
肌寒いくらいの夜に、あったかい紅茶が喉に優しい。これにハチミツがあれば、飲み終えた頃にはあっさり眠りに堕ちると思う。
もしゃもしゃと夜食を平らげ、わんこは斜めだったご機嫌を直してくれたらしい。
胸を撫で下ろしたあたしは、出来ればぐっすり眠って、手が出てしまったことは綺麗に忘れてくれたらいいな、なんて思いつつ、お茶を啜っていたりする。
「明日の確認・・・?」
トレーを端に寄せて、テーブルに広げた地図とにらめっこしてるクロウくんに、声をかける。
「・・・んー、そんなとこ・・・」
カップに息を吹きかけるのも忘れて、視線を上げもしないで。彼の視線は、ひたすらに地図の上を走っていた。
クロウくんは、すいぶんと集中してるみたいだ。
・・・ここで見てたら邪魔かな。
彼の向かいでお茶を啜っていたあたしは、気配を消すようにしてそっと立ち上がる。
すると彼の顔が上がった。
「アイリちゃん、」
小首を傾げたあたしに、柔らかい笑みを浮かべた彼が言った。
「ここ、来る?」
簡単に言ってくれるけど、今座ってるのは1人掛けのソファですよね。
「ここ?」
訝しげに尋ねるあたし、満面の笑みで膝を叩いてみせるクロウくん。
「ほーら、おいでおいで」
嫌な予感に、あたしは思わず顔をしかめる。
・・・あれか。思いっきり叩いたお返しか。体重測定か。
機嫌が直ったと思ったのは、あたしの勘違いだったらしい。
「仕返しは、体重測定以外でお願いしたいんですけど・・・」
零れ落ちた言葉を拾った彼は、呆れ果てたカオをした。
そして、何かをひと摘まみする仕草をして、口を尖らせる。
「体重の話なんか、これっぽっちもしてないじゃん。
一緒に地図見て明日の話しよう、って言ってるの」
「なんだ、そういう嫌がらせじゃないんだ」
「・・・そんなちっさい男だと思われてんのね、俺。
あーもー・・・ぶつぶつぶつ」
眉間のしわを解いたあたしを見て、俯いた彼がため息をついた。
「・・・ん?」
何か言われた気がして、首を捻る。
すると、クロウくんが微笑む。にっこりと、綺麗な微笑みだった。
「なあに?」
言葉の裏に、「何でもないよ?」が含まれてる言い方だ。
「・・・いいえ?」
そんな彼に、あたしは疑問形の相槌を打った。
おっかしいなぁ・・・。
いつかぎゃふんといわせてやるからなアイリ、とか。
そんな台詞が聞こえた気がするんだけど・・・わんこなクロウくんが、そんなやんちゃっ子なこと言うわけないか。
「ともかく、」
カップを傾ける仕草だけでなく、彼の所作には、どこか品がある。
涼しいカオをしてお茶をひと口啜ったクロウくんが、立ち尽くすあたしに言った。
「王都に着いてからの話、しといた方がいいね」
言葉を紡いだ目につられて、あたしは頷く。
「そうだね。
えっと・・・会社から王様宛ての手紙を預かってるから、それを届けなくちゃ。
その時に謁見するだろうから・・・王様に、直接お願いしてみようかな」
「ああ、皇太子の恋人を連れて帰りたいって?」
「んー・・・」
小首を傾げた彼に、言葉を選ぶ。
「説得するのに、まずはお客様に会わせてもらえるようにお願いする、かな」
カップの中身に視線を落としたあたしに、彼が言う。
「それでいいの?」
「うん、とりあえずね。
引き裂いちゃうのはちょっと・・・恨まれるのも嫌だし」
ため息混じりに答えながら、あたしはクロウくんの向かいに腰を下ろした。
「最初は、多少無理にでも連れて帰っちゃえ、と思ってたんだけどさ。
やっぱり、仲良くしてるのに強引に引き離すのは、ねぇ・・・」
「・・・あー・・・」
それまであたしを見上げていた彼が、視線を彷徨わせる。
なんだか思わせぶりな反応が気になって、あたしは小首を傾げた。
「なんかあの人、勢い余って駆け落ちとか・・・しちゃいそうかも・・・」
「あの人って?」
気になる台詞に、思わず言葉が鋭くなるのが分かる。
クロウくんは、身を乗り出したあたしに、ぶんぶん手を振って言った。
「皇太子様だよ。
ほら俺、医師団にいたでしょ。だから。ちょっとだけ見たことあんの」
「そうなの?
どんな人だった?」
そう簡単に皇太子に出会えるもんなのかな。
新聞の記事を読んだ限りでは、民衆との距離は近そうな感じだったけど・・・。
聞き返したあたしに、彼は記憶を手繰り寄せてるのか、少しの間口を閉じる。
やがて、何かが浮かんだのか、口を開いた。
「・・・真面目が服着てるような人だよ。
女の人と手とか、繋げるのかなぁ・・・あの人・・・」
「へー・・・」
あんまり役立ちそうにない情報に、適当に相槌を打つ。
あたしの仕事の予定に関しては、とりあえずの見通しが立ってるけど・・・。
気になることを尋ねようと、あたしはテーブルにカップを置いた。
「ね、クロウくん・・・」
なんとなく、目を合わせづらい。
彼がそんなあたしに先を促すことはなかったけど、きっと聞いてくれてると信じて、言葉の続きを紡いだ。
「クロウくんは、王都に着いたらどうするの・・・?」
訪れた沈黙に、落ち着きを失った手先がもじもじする。
あたしは少しずつ速度を増す鼓動を宥めようと、ゆっくりと息を吐き出した。
「アイリちゃんにくっ付いて、王城に行こうと思ってるけど」
勝手に緊張していたあたしは思わず、クロウくんに視線を投げる。
だって、彼には彼の探し物があるはずなのだ。
驚きと嬉しさの混じった視線に、彼はきょとん、と首を傾げた。
「・・・アイリちゃん?」
小首を傾げたままのクロウくんに呼ばれて、そのわんこ的な可愛さに目を奪われていたあたしは、はっと我に返って。
「あ、うん、ありがと。
でもクロウくん、自分の探し物はいいの・・・?」
問いかけに、彼が頷く。
「ああうん、大丈夫。
王城の資料室を覗かせてもらおうと思ってるんだ。
・・・知り合いに頼んで、入れてもらえないかな、って」
「そっか・・・じゃあ、もうちょっと一緒にいられるね。
・・・あ、そうだ!」
「ん?」
「あたしが王様に謁見した時に、ちょこっと話してみようか。
資料室だけじゃなくて、すごい学者さんとか紹介してもらえるかも!」
我ながら良い思いつきだ、と勢いよく両手をぱちん、と合わせたあたしに、彼はゆるゆると国を振った。
「それはいいや。
俺、あの王様ちょっと苦手なんだよね。
だから、俺のことは触れなくていいよ」
そう言ったクロウくんの顔は、真顔過ぎて、ちょっとだけ怖かった。
隣のベッドから、規則正しい寝息が聞こえてくる。
あたしは仰向けになって天井を見つめながら、その寝息を聞いていた。
クロウくんて、イビキかいたりしないんだ・・・。
文字通り、すやすやと寝ているらしい彼のことを思い浮かべて、頬が緩む。
天井に飽きたあたしは、なんとなく彼の方を向いて横になってみる。
すると思っていたよりも近くに、その寝顔がこっちを向いていた。
人って、それぞれ自分が自然に寝るための体勢があると思う。
横を向いてすやすや寝てるクロウくんにも、何か理由があるんだろうか。
・・・もっと話したかったな。予定のことだけじゃなくて、いろいろ。
そんなことを考えたあたしの視線は彼の頬から顎を伝って、ぐるりと輪郭を追いかけて、やがて厚みのなさそうな唇を辿る。
先輩の買ってくれた夜食を、ぺろっと平らげた唇だ。
品の良い食べ方をするクセに、口の端っこにソースが付いてたりして、なんだかもう気になって気になって仕方なかった。
思い出して、頬が緩む。
そして次の瞬間、ふいに、別のことを思い出した。
突然の光景が、頭の中で自動再生される。
香水の匂いがする手が伸びて、意地悪な笑みで、掠め取るようにキスされた。
夜食の載ったトレーで両手がふさがってたあたしは、全然避けられなくて。
・・・嘘だ。
あたしは毛布を鼻先まで被って、大きく息を吐いた。
自分の口から出た息の熱さに驚いて、心臓がばくばくする。
そして、あたしは思い返す。
・・・避けられなかったんじゃない。避けなかったんだ。
視線が、クロウくんの唇から剥がせない。
別の人の唇なのに、見てるとどうしても先輩を思い出す。
・・・キスされて、ドキドキしてるけど・・・。
・・・初めてじゃないクセに、ドキドキしちゃってるけど・・・!
沸騰しそうな頭の芯の部分で、考える。
・・・今はもう、先輩とどうにかなりたい、って気持ちはないもん。
・・・イケジョの嫌がらせに神経すり減らして、戦う気力もないし。
1年前に怖気づいてすっぱり諦めた恋は、再燃しないのだ。
いっぱい泣いて湿気を吸って、とてもじゃないけど、もう火はつかない。
そう結論付けて、あたしは息を吐き出す。
生まれて初めての、その人自身にトラブル要素のない、素敵な人だったんだけどな。
仕事も出来て、優しくて、格好良くて。笑うと可愛くて。
でもやっぱりイケジョからの嫌がらせが、すぐにやってきた。それも複数人で。
社会人1年目のあたしは、右も左も分からなかった。相談出来る人もいなかった。
そして、吹いてきた風に立ち向かうだけの気力がなかったあたしは、あっさり諦めたんだ。
ちょうどその頃募集のかけられた“お客様係”への異動を、願い出て。
「・・・ふ、ぅぅ・・・」
・・・っ。
感傷に浸っていたら、突然クロウくんが吐息を漏らした。
反射的に息を詰めたあたしは、彼が目を開ける気配がないことに胸を撫で下ろす。
「びっくりしたぁ・・・」
小声で自分に囁いて、息を吐く。
そして再び、規則正しい寝息を紡ぎ始めた彼を眺めた。
あどけない顔に、長いまつげ。
間近で見てるわけじゃないのに、すごくよく見える。不思議なくらい。
あんまりじろじろ見るもんじゃない、って分かってるんだけど。
ほぅ、とため息に似たものを放り投げたあたしの視線は、やっぱり彼の唇に釘付けになってしまって。
少し前には、トマトみたいな赤いソースをくっ付けてた唇が、今は半開きになって、気持ち良さそうに深い呼吸を繰り返してる。
人懐っこくて、くるくる表情が変わるクロウくん。
行く先々の人達の反応を目の当たりにしたあたしは、よっぽど辛い思いをしてきたんだろうな・・・なんて、勝手な想像を膨らませてる。
きっと、全くの的外れってわけでもないと思うんだ。
寂しんぼの甘えんぼで。いつでもひと肌が恋しくて。
・・・さっきも「アイリちゃんは、俺のだもん」なんて言ってたし。
「ごめんね、何も出来なくて」
あたしには呪いを解く方法なんて分からないし、見つけ方の見当すらつかない。
でも、くっついてきた君を甘やかすくらいは、両手があれば出来ると思うんだ。
ぎし、とベッドの軋む音に、クロウくんの唇がぴくりと動く。
あたしは心臓が飛び跳ねるのを何とか抑えて、音を立てないように細心の注意を払いながら、彼に近づいた。
あたしは手を伸ばして、そっと、彼の髪を撫でた。
その時、彼の頬が緩んだのは気のせいじゃない、と思う。




