「お前との毎日は退屈だ」と私を捨てた元彼が、三か月後「戻ってきてほしい」と言ってきました
「嫌いになったわけじゃない。でも、お前との毎日は退屈なんだ」
和樹は、買ってきたアイスの蓋を開けながら言った。
私は二本出したスプーンを持ったまま、彼を見た。
「……別れたいってこと?」
「うん。俺たち、まだ二十六だろ。このままずっと同じ生活して、そのまま結婚するのかなって考えたらさ」
そこで言葉を切って、和樹は小さく息を吐いた。
「もっと楽しい毎日もあるんじゃないかって」
冷凍庫の扉が、閉めきれていなかった。
警告音が鳴る。私は振り向いて扉を押した。
「土曜日、水族館に行こうって言ったよね」
「そういうことじゃなくて」
「先月の連休も、どこか行きたいって」
「たまに出かければいいって話じゃないんだよ。澪といると、何も変わらない気がする」
水族館は混んでいるからと断られた。連休は、家でゆっくりしたいと言われた。
それならと、映画を借りて、途中で二人とも寝てしまった。
私はあの日を、いい休日だったと思っていた。
「私と出かけるのが、嫌だったんだ」
「だから、嫌いになったわけじゃないって」
和樹がようやくアイスから目を上げた。
「泣かないでくれよ。澪は悪くないんだから」
まだ泣いていなかった。
泣いて話を長くする相手だと、先に決められた気がした。
「他に、付き合いたい人がいるの?」
返事までに、一拍あった。
「気になってる人はいる。でも、何もしてない。ちゃんと別れてからって思ってる」
最近、和樹の口からよく出る女性がいた。会社で知り合った人で、週末のたびに旅行やイベントに行くらしい。
その人の話をするとき、和樹はスマホを私に見せていた。
海。ライブ会場。夜景の見えるレストラン。
「こういうの、楽しそうだよな」
写真の場所にも、一緒に行きたいと言えばよかったのだろうか。
言ったところで、彼が行きたかったのは私とではなかったのかもしれない。
「分かった。部屋、探すね」
和樹が、ほっとした顔をした。
六年付き合った人が私を見て、そんなふうに安心するのを、初めて見た。
スプーンを一本、引き出しに戻した。
残りの一本は、テーブルに置いた。
◇
引っ越しは、別れ話から十二日後に済んだ。
会社に通える範囲のワンルームを借り、三年暮らした部屋の家賃や、折半で買った家具の代金を精算した。大学二年からの六年間が、振込金額と段ボール八箱になった。
最後の箱を運び出すとき、和樹が玄関に立っていた。
「そんなに急がなくてもよかったのに」
「一緒にいると退屈なんでしょ」
彼は黙った。
合鍵を渡すと、何か言いたそうに私を見た。
私は靴を履き直して、ドアを開けた。
新しい部屋では、最初の一週間だけテレビをつけっぱなしにした。
見たい番組があったわけではない。お湯が沸く音まで大きく聞こえるのが、嫌だった。
仕事は休まず行った。
食品メーカーの営業事務は、失恋を待ってくれない。納品日の変更も、注文書の数量間違いも、普段どおりやってくる。
和樹に話すつもりで覚えていたことが、帰り道で行き場を失った。
駅前の美容室が、いつも妙な名前の割引券を配っていること。営業の人が、新商品名を三回連続で間違えたこと。
スマホを出してから、鞄に戻す。
それを何度か繰り返した。
別れて三週間ほどたった日、社内試食会に出た。
発売前のひと口サイズの焼き菓子が、紙皿に二種類ずつ載っている。営業部からも感想を集めるため、私たち事務職に声がかかったのだ。
右の試作品を食べて、私はアンケートを書く手を止めた。
「前より少し甘くなりました?」
向かいに立っていた男性が、顔を上げた。
「分かりました?」
商品開発の片桐亮介さんだった。二十八歳。社内メールで名前は見たことがあるけれど、直接話すのはほぼ初めてだ。
「前回のは、もっと塩味が残った気がして」
「砂糖は同じなんです。塩を少し減らしました」
「それで甘く感じるんですね」
「そうです。どっちが好きですか?」
私は二枚の紙皿を見た。
「新しいほうが、食べやすいと思います」
「食べやすいのと、好きなのは別ですよね」
急かす様子もなく、片桐さんが待つ。
「……私は、前のほうが好きでした。最後に少し塩が残るところ」
「俺もです」
思わず彼を見ると、困った顔で笑われた。
「ただ、社内では今回のほうが人気で。俺が好きだからって押し切るわけにもいかなくて」
そのあと別の開発担当に呼ばれ、片桐さんはそちらに行った。
私はアンケートに、今言ったことをそのまま書いた。
片づけを手伝っていると、戻ってきた彼が紙皿の束を受け取った。
「具体的に言ってもらえて助かりました。前の味、覚えてたんですね」
「営業に配られた試作品、よく余るので。結構食べてます」
「じゃあ、次もお願いします」
その日初めて、帰り道で思い出すことが、和樹に話したいことではなかった。
◇
澪が出ていった週末、和樹は新しい恋人と海へ行った。
彼女とは、澪と別れたあとに交際を始めた。
行きたい場所を次々に挙げる彼女といると、自分まで行動的になった気がした。
翌週は音楽イベント。その次は、予約の取れない店へ。
スマホの写真が増えた。土曜日の朝に起きる理由ができた。
これが欲しかったのだと思った。
勤め先のIT企業で、提案していた業務システムの大きな契約が決まったのは、一か月ほどたった頃だった。
上司に肩を叩かれ、席へ戻る途中でスマホを出した。
いつものトーク画面を開きかけて、指が止まった。
澪との最後のやり取りは、電気代の精算だった。
和樹は画面を閉じ、新しい恋人に連絡した。
すぐに、お祝いしよう、という返信が来た。金曜日の夜に店を予約してくれた。
嬉しかった。彼女は何も悪くなかった。
けれど、今話したかった。
先方の担当者が、契約書に判を押す直前まで日付を間違えていたこと。ずっと厳しかった課長が、今日は二回も笑ったこと。
澪なら、あの課長、と言えば通じた。
半年前から何度も愚痴を聞いてもらっていた。
帰りにコンビニで、期間限定の柚子アイスを見つけた。
去年、澪が買ってきたものだった。
和樹は食べながら、もう少し酸っぱいほうが好きだと言った。翌週、澪は別の柚子アイスを持ってきた。
『これはどう? パッケージに酸味って書いてあった』
仕事の帰り道、そんな一言を覚えていてくれた人がいた。
和樹はアイスを一個買った。
去年のほうと同じ、甘いほうだった。
◇
二度目の試食会で、片桐さんの説明資料に誤字を見つけた。
紅茶風味、とあるはずのところに、紅茶風呂、と書いてあった。
「ここ、お風呂になってます」
「えっ」
彼は資料を顔の近くまで持っていき、しばらく黙った。
「昨日から、誰も言ってくれなかった」
「皆さん、疲れてたんじゃないですか」
「小宮山さんには、味を見る前に資料を見てもらうべきでしたね」
笑ったら、頬が少し痛かった。
それから新商品の出荷予定を確認するため、彼と話すことが増えた。味の話になると説明が長くなるのに、本人は長いと思っていないらしい。
ある日は五分の立ち話で、砂糖について随分詳しくなった。
「すみません。引き止めました」
「今の話、半分くらいしか分かりませんでした」
「次は半分にします」
次も長かった。
私が時計を見ると、彼は途中で「あ」と言った。
ある金曜日、退勤の時間が重なった。
駅まで話しながら歩いていると、彼のお腹が鳴った。
「聞こえました?」
「はい」
「夕飯、まだなら一緒に食べませんか」
誘われているのだと分かるまで、少しかかった。
私は頷いた。
「何食べたいですか?」
「私は何でも」
「俺はラーメン食べたいです。でも、小宮山さんが食べたいものも聞いてます」
交差点の向こうに、パスタの店があった。
会社帰りに何度も看板を見ていた。和樹は夕飯にパスタだと物足りないと言うので、行ったことがなかった。
「……パスタが食べたいです」
「いいですね。どこか知ってます?」
「あそこ。入ったことはないんですけど」
片桐さんは信号を見た。
「じゃあ、次の青で」
こんなに簡単なことだった。
言ってみたら、二人でそこに行くことになった。
注文したトマトクリームのパスタは、少し酸味が強かった。片桐さんは大盛りにしたのに、デザートのメニューまで開いている。
「まだ食べるんですか?」
「仕事で食べるのとは別なんです」
プリンを頼み、一口食べた彼が黙った。
「仕事、始まってますよ」
「……あ、今、材料考えてました」
笑った拍子に、フォークを落としかけた。
食後、彼は帰る路線を聞いてくれた。
私は答えたあと、最近引っ越したのだと話した。
「三年、一緒に住んでた人と別れたんです」
口にしたら、まだ喉の奥が痛んだ。
片桐さんは、何か言いかけてやめた。
「今日、食事に誘って大丈夫でした?」
「はい。パスタ、食べたかったので」
言うと、彼が少し笑った。
「それならよかった。また行きましょう」
◇
別れて二か月が過ぎた頃、私は文房具店で柚子色の付箋を買った。
名前はレモンイエローだったけれど、どう見ても柚子だった。
昔なら、和樹にそう言っていただろう。
彼は柑橘類が好きで、私はその区別に詳しくなった。
レジに向かいながら、少しだけ寂しくなった。
それでも、付箋は買った。和樹を思い出したからという理由で、棚に戻す必要はなかった。
翌週、その付箋を片桐さんに渡す資料に貼った。
『試食サンプルは金曜までにお願いします』
彼は二日後、きちんとサンプルを持ってきた。
袋に同じ付箋が貼り直してあり、その下に一行増えていた。
『今回は風呂ではなく紅茶です』
私は机に向かって、声を出さずに笑った。
仕事帰りの食事は、それまでに三回行った。
四回目の予定は、片桐さんの仕事が長引いて延期になった。
『すみません。今日は間に合いません』
メッセージを見て、いつものように返した。
『大丈夫です。私も特に予定なかったので』
送ったあと、予約していた店の画面を見た。
前に私が気になっていると言った、小さな洋食店。片桐さんが覚えていて、誘ってくれた。
昼休みに、何を頼もうかメニューまで調べていた。
予定がなかったわけではない。
『でも、楽しみにはしてました』
迷ってから、一通足した。
電話がかかってきたのは、仕事を終えて家に帰ったあとだった。
「楽しみにしてくれてたのに、すみません」
「お仕事なら、仕方ないです」
「はい。でも、俺も残念だったので。来週、もう一度誘っていいですか」
私はカレンダーを見た。
「金曜日は友達と会うので、木曜日なら」
「木曜にしましょう」
通話を切ったあと、スマホを両手で持ったまま、しばらく座っていた。
楽しみだったと言った。都合の悪い日も言った。
それで、次に会う日が決まった。
◇
和樹と新しい恋人の交際は、二か月余りで終わった。
土曜日、和樹は家で休みたいと言った。
前の晩、急な仕事で帰宅が遅かったのだ。
『分かった。じゃあ私、友達誘って行ってくるね』
彼女の返信を見て、勝手に取り残された気がした。
次の週末も、和樹は家にいたかった。彼女は、一緒にいるならどこかへ行きたいと言った。
「私、無理して来てもらっても楽しくないよ」
話し合ったとき、彼女はそう言った。
「最初は和樹くんも楽しそうだったから、同じように出かけるのが好きなんだと思ってた」
「楽しかったよ」
「でも、毎週は疲れちゃうんでしょ」
彼女は彼女の休日を楽しみたかった。
和樹は、刺激のある休日と、誰かとだらだら過ごす休日の両方が欲しかった。
互いを責める理由はなかった。それでも、続けるのは難しかった。
別れた翌日、和樹は昼過ぎまでソファにいた。
部屋は片づいている。洗濯もした。昼は自分で焼きそばを作った。
生活には、何の支障もなかった。
テレビで、変わった形の野菜を紹介していた。
昔、同じものをスーパーで見つけた澪が、恐竜みたいだと言った。
「これ、あれだ」
言ってから、隣を見た。
誰もいない。
ソファの端に置いたクッションが、朝から同じ向きのままだった。
澪はよく、そこに足を載せて座っていた。和樹がつまらない冗談を言うと、足で彼の膝を軽く押した。
笑ったときには、その足が落ちた。
何もしない日が、こんなに長いとは知らなかった。
同じ映画を見て、同じところで寝た日。
近所のスーパーへ行くだけなのに、帰るまでずっと何か話していた日。
退屈だったと言った。
もっと楽しい毎日があるはずだと言った。
では、あのとき何が足りなかったのだろう。
和樹はトーク画面を開いた。
澪はアイコンを変えていた。以前は二人で行った旅行先の写真だった。今は、知らない店のプリンだった。
『久しぶり。元気?』
返信は、翌日の夜に届いた。
『元気だよ』
和樹はすぐに文字を打った。
『一度、会って話したい』
既読がつくまで、何度も画面を見た。
◇
和樹からの連絡を見たのは、片桐さんと洋食店に行った翌日だった。
元気かと聞かれたので、元気だと答えた。
会いたいというメッセージには、すぐに返せなかった。
鍵も返した。お金の話も終わっている。
『何の話?』
『別れたときのこと、ちゃんと謝りたい』
少し考えて、駅前の喫茶店を指定した。
『日曜の三時。一時間だけなら』
別れて、ちょうど三か月になる頃だった。
和樹は先に来ていた。
私を見ると、立ち上がりかけた。
「久しぶり」
「うん」
向かいに座って、私は紅茶を頼んだ。
和樹がメニューを見たまま言う。
「コーヒーじゃないんだ」
「今日は紅茶が飲みたいから」
彼はメニューを閉じた。
「澪。あのときは、ごめん」
テーブルの上で、彼の指が組み直された。
「退屈とか、あんなこと言って。俺、調子に乗ってた」
私は黙って聞いた。
「付き合ってた人とは、別れた」
「そう」
「悪い子じゃなかったんだ。ただ、合わなくて」
紅茶が届いた。
店員が離れるまで待って、和樹は私を見た。
「澪。戻ってきてほしい」
カップの持ち手に触れた指を止めた。
「……どこに?」
「俺のところに。前みたいに」
「私、もうそこに住んでないよ」
「部屋の話じゃなくて――」
「分かってる」
和樹は、口を閉じた。
「引っ越すの、大変だった。新しい部屋を探して、休みの日に荷物を詰めて。夜、一人でいるのも、最初は嫌だった」
「うん。ごめん」
「前みたいにって言われても、私は、あのあとを三か月やってきたんだよ」
和樹の目が伏せられた。
「分かってる。簡単に戻れるなんて思ってない。でも、また一緒にいたい」
彼は、言葉を探しながら続けた。
「この前、仕事で契約が取れてさ。真っ先に澪に連絡しようとしたんだ。あの課長の案件。ずっと話してただろ」
知っていた。
準備で眠れなかった夜も、資料を作り直した日も。
「あれ、取れたんだ」
「うん」
「よかったね」
和樹が、泣きそうな顔をした。
「そうやって言ってほしかった」
私はカップを持ち上げた。
彼が欲しかった一言を、つい自然に言っていた。
それでも、このあと彼の部屋に帰りたいとは思わなかった。
「お前といた頃が、一番楽しかった」
和樹の声が小さくなった。
「休みの日に何もしなくても、澪といたら楽しかったんだって、今頃分かった」
彼が見ているのは、もうない休日だった。
その中にいる私は、きっといつものように笑っている。
「私も楽しかったよ」
顔を上げた和樹に、続けた。
「だからって、戻りたいとは思わない」
彼の表情が止まった。
「もう一回だけ、考えてくれないか。今度はちゃんと――」
「あの日、別れたくないって言えなかったの。和樹がほっとした顔をしたから」
言葉が一度、喉に引っかかった。
「私が出ていくって言ったとき、嬉しそうだった。あれ見て、もうここにいちゃいけないんだって思った」
「そんなつもりじゃ」
和樹が言いかけて、やめた。
「……あったんだと思う。あのときは」
私は頷いた。
「今は、私が一緒にいたくない。そこは分かってほしい」
しばらく、食器の触れ合う音だけがした。
「他に好きな人でも、できたのか?」
顔が浮かんだ。
プリンを食べて黙った人。私のつけた付箋に、くだらない一行を書いて返した人。
「まだ分からない。でも、もっと知りたいと思ってる人はいる」
和樹は唇を引き結んだ。
「その人がいなかったら?」
「それでも、戻らないよ」
彼は、今度は何も言わなかった。
約束の一時間より、少し早かった。
私が伝票に手を伸ばすと、和樹が先に取った。
「今日は、俺が」
「ありがとう」
店を出たあと、駅へ向かう私を、和樹が呼び止めた。
「澪」
振り向くと、彼は一歩近づきかけて、その場にとどまった。
「本当に、ごめん」
「うん」
何か続きを待たれているのが分かった。
私は小さく頭を下げ、改札へ歩いた。
電車の窓に、見慣れた街が流れた。
和樹の住む駅を通り過ぎ、自分の駅で降りた。
◇
三週間後の日曜日、片桐さんと駅で待ち合わせた。
これまでは仕事帰りの食事ばかりだった。
休日にも会いたいと言ったのは、彼のほうだ。
「で、今日どうします?」
改札を出てすぐ、そう聞かれた。
「決めてなかったんですか?」
「決めてません」
「誘ったの、片桐さんですよね?」
「はい。日曜日に会えるって決まったところで、満足してました」
悪びれずに言ってから、彼はスマホを出した。
「一応、調べます」
「待ってください」
私は駅前を見た。
川沿いに続く道がある。パン屋の前には、焼き上がりの札が出ていた。
「パン買って、あっち歩きません?」
「いいですね」
パン屋で、私はクリームパンを選んだ。
片桐さんはカレーパンと、あんパンと、もう一つ迷っていた。
「お昼ご飯ですか?」
「これから歩くんで」
「そんなに歩きませんよ」
彼はあんパンを戻した。
私が笑うと、「笑わないでください。結構迷ったんです」と言った。
川沿いのベンチに座った。
少し離れたところで、犬が散歩を拒否している。飼い主が名前を呼んでも、四本の足を突っ張ったまま動かない。
片桐さんがカレーパンを持った手を止めた。
「あれ、俺も月曜の朝やりたいです」
「玄関で?」
「はい」
私はクリームパンを飲み込めず、しばらく返事ができなかった。
食べ終わってからも、二人とも立ち上がらなかった。
風で紙袋が飛びそうになり、同時に手を伸ばした。
触れた指を彼が引っ込めて、袋を私に任せた。
「小宮山さん」
「はい」
「この前、駅で『出口はこちら』って矢印が壁を向いてたんです」
急に何の話かと、彼を見た。
「写真撮ろうとして、あ、今度会ったとき話せるなって。それで、自分でも気づいたんですけど」
彼は空の紙袋の端を折った。
「小宮山さんと話したいこと、会わない日にも探してるんですよね。また、こうやって会いたいです。仕事のあとだけじゃなくて」
「それは、私も」
「それと、できれば付き合いたいです」
今度は私が、紙袋を握った。
「付き合うって、恋人として?」
「はい。そこは曖昧にしたくないです」
彼がこっちを見た。
いつものように、返事を待っていた。
「私も、片桐さんと付き合いたいです」
口にすると、顔が熱くなった。
片桐さんは息を吐いて、背もたれに寄りかかった。
「よかった。パン、もう一個買うべきでした」
「何でですか」
「緊張してて、味、あんまり分からなかった」
味の分からない商品開発の人を見て、私は笑った。
彼も笑い、それから、私の名前を呼んでいいかと聞いた。
「澪さん、って」
「じゃあ、私も亮介さんで」
練習みたいに一度ずつ呼んで、二人で照れた。
帰り道、通り過ぎた自動販売機の前で足を止めた。
前はよく、和樹とここで飲み物を買った。見慣れた柚子ソーダが、まだ並んでいる。
その隣にあった桃の紅茶を押した。
「おいしそうですね」
「気になってたんです」
亮介さんは柚子ソーダを買った。
私はそれを見て、少し笑った。
「どうしました?」
「それ、結構酸っぱいですよ」
「そうなんですか。好きなんで、ちょうどいいです」
缶を開ける音が二つした。
ひと口飲むと、桃の香りが鼻に抜けた。
駅へ着くと、亮介さんが時計を見た。
「まだ早いですね」
「はい」
改札を通る人を、二人で眺めた。
昼間の犬は、もう家に帰れただろうか。そう考えたら、また笑いそうになった。
「……もう少し歩きません?」
私から言うと、亮介さんは飲みかけの缶を持ち直した。
「どっちに?」
「さっきと反対側。何があるか、知らないですけど」
「じゃあ、行ってみましょう」
特別なものを見たわけでも、おいしい店を見つけたわけでもない。
それなのに、帰るにはまだ早いと思った。
駅を背にして歩き出すと、隣から手が差し出された。
空いているほうの手で、私はそれを取った。




