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「お前との毎日は退屈だ」と私を捨てた元彼が、三か月後「戻ってきてほしい」と言ってきました

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/06

「嫌いになったわけじゃない。でも、お前との毎日は退屈なんだ」


 和樹は、買ってきたアイスの蓋を開けながら言った。


 私は二本出したスプーンを持ったまま、彼を見た。


「……別れたいってこと?」

「うん。俺たち、まだ二十六だろ。このままずっと同じ生活して、そのまま結婚するのかなって考えたらさ」


 そこで言葉を切って、和樹は小さく息を吐いた。


「もっと楽しい毎日もあるんじゃないかって」


 冷凍庫の扉が、閉めきれていなかった。

 警告音が鳴る。私は振り向いて扉を押した。


「土曜日、水族館に行こうって言ったよね」

「そういうことじゃなくて」

「先月の連休も、どこか行きたいって」

「たまに出かければいいって話じゃないんだよ。澪といると、何も変わらない気がする」


 水族館は混んでいるからと断られた。連休は、家でゆっくりしたいと言われた。

 それならと、映画を借りて、途中で二人とも寝てしまった。

 私はあの日を、いい休日だったと思っていた。


「私と出かけるのが、嫌だったんだ」

「だから、嫌いになったわけじゃないって」


 和樹がようやくアイスから目を上げた。


「泣かないでくれよ。澪は悪くないんだから」


 まだ泣いていなかった。

 泣いて話を長くする相手だと、先に決められた気がした。


「他に、付き合いたい人がいるの?」


 返事までに、一拍あった。


「気になってる人はいる。でも、何もしてない。ちゃんと別れてからって思ってる」


 最近、和樹の口からよく出る女性がいた。会社で知り合った人で、週末のたびに旅行やイベントに行くらしい。

 その人の話をするとき、和樹はスマホを私に見せていた。

 海。ライブ会場。夜景の見えるレストラン。


「こういうの、楽しそうだよな」


 写真の場所にも、一緒に行きたいと言えばよかったのだろうか。

 言ったところで、彼が行きたかったのは私とではなかったのかもしれない。


「分かった。部屋、探すね」


 和樹が、ほっとした顔をした。

 六年付き合った人が私を見て、そんなふうに安心するのを、初めて見た。


 スプーンを一本、引き出しに戻した。

 残りの一本は、テーブルに置いた。


     ◇


 引っ越しは、別れ話から十二日後に済んだ。


 会社に通える範囲のワンルームを借り、三年暮らした部屋の家賃や、折半で買った家具の代金を精算した。大学二年からの六年間が、振込金額と段ボール八箱になった。


 最後の箱を運び出すとき、和樹が玄関に立っていた。


「そんなに急がなくてもよかったのに」

「一緒にいると退屈なんでしょ」


 彼は黙った。


 合鍵を渡すと、何か言いたそうに私を見た。

 私は靴を履き直して、ドアを開けた。


 新しい部屋では、最初の一週間だけテレビをつけっぱなしにした。

 見たい番組があったわけではない。お湯が沸く音まで大きく聞こえるのが、嫌だった。


 仕事は休まず行った。

 食品メーカーの営業事務は、失恋を待ってくれない。納品日の変更も、注文書の数量間違いも、普段どおりやってくる。


 和樹に話すつもりで覚えていたことが、帰り道で行き場を失った。

 駅前の美容室が、いつも妙な名前の割引券を配っていること。営業の人が、新商品名を三回連続で間違えたこと。


 スマホを出してから、鞄に戻す。

 それを何度か繰り返した。


 別れて三週間ほどたった日、社内試食会に出た。


 発売前のひと口サイズの焼き菓子が、紙皿に二種類ずつ載っている。営業部からも感想を集めるため、私たち事務職に声がかかったのだ。


 右の試作品を食べて、私はアンケートを書く手を止めた。


「前より少し甘くなりました?」


 向かいに立っていた男性が、顔を上げた。


「分かりました?」


 商品開発の片桐亮介さんだった。二十八歳。社内メールで名前は見たことがあるけれど、直接話すのはほぼ初めてだ。


「前回のは、もっと塩味が残った気がして」

「砂糖は同じなんです。塩を少し減らしました」

「それで甘く感じるんですね」

「そうです。どっちが好きですか?」


 私は二枚の紙皿を見た。


「新しいほうが、食べやすいと思います」

「食べやすいのと、好きなのは別ですよね」


 急かす様子もなく、片桐さんが待つ。


「……私は、前のほうが好きでした。最後に少し塩が残るところ」

「俺もです」


 思わず彼を見ると、困った顔で笑われた。


「ただ、社内では今回のほうが人気で。俺が好きだからって押し切るわけにもいかなくて」


 そのあと別の開発担当に呼ばれ、片桐さんはそちらに行った。

 私はアンケートに、今言ったことをそのまま書いた。


 片づけを手伝っていると、戻ってきた彼が紙皿の束を受け取った。


「具体的に言ってもらえて助かりました。前の味、覚えてたんですね」

「営業に配られた試作品、よく余るので。結構食べてます」

「じゃあ、次もお願いします」


 その日初めて、帰り道で思い出すことが、和樹に話したいことではなかった。


     ◇


 澪が出ていった週末、和樹は新しい恋人と海へ行った。


 彼女とは、澪と別れたあとに交際を始めた。

 行きたい場所を次々に挙げる彼女といると、自分まで行動的になった気がした。


 翌週は音楽イベント。その次は、予約の取れない店へ。

 スマホの写真が増えた。土曜日の朝に起きる理由ができた。


 これが欲しかったのだと思った。


 勤め先のIT企業で、提案していた業務システムの大きな契約が決まったのは、一か月ほどたった頃だった。


 上司に肩を叩かれ、席へ戻る途中でスマホを出した。

 いつものトーク画面を開きかけて、指が止まった。


 澪との最後のやり取りは、電気代の精算だった。


 和樹は画面を閉じ、新しい恋人に連絡した。

 すぐに、お祝いしよう、という返信が来た。金曜日の夜に店を予約してくれた。

 嬉しかった。彼女は何も悪くなかった。


 けれど、今話したかった。

 先方の担当者が、契約書に判を押す直前まで日付を間違えていたこと。ずっと厳しかった課長が、今日は二回も笑ったこと。


 澪なら、あの課長、と言えば通じた。

 半年前から何度も愚痴を聞いてもらっていた。


 帰りにコンビニで、期間限定の柚子アイスを見つけた。


 去年、澪が買ってきたものだった。

 和樹は食べながら、もう少し酸っぱいほうが好きだと言った。翌週、澪は別の柚子アイスを持ってきた。


『これはどう? パッケージに酸味って書いてあった』


 仕事の帰り道、そんな一言を覚えていてくれた人がいた。


 和樹はアイスを一個買った。

 去年のほうと同じ、甘いほうだった。


     ◇


 二度目の試食会で、片桐さんの説明資料に誤字を見つけた。


 紅茶風味、とあるはずのところに、紅茶風呂、と書いてあった。


「ここ、お風呂になってます」

「えっ」


 彼は資料を顔の近くまで持っていき、しばらく黙った。


「昨日から、誰も言ってくれなかった」

「皆さん、疲れてたんじゃないですか」

「小宮山さんには、味を見る前に資料を見てもらうべきでしたね」


 笑ったら、頬が少し痛かった。


 それから新商品の出荷予定を確認するため、彼と話すことが増えた。味の話になると説明が長くなるのに、本人は長いと思っていないらしい。

 ある日は五分の立ち話で、砂糖について随分詳しくなった。


「すみません。引き止めました」

「今の話、半分くらいしか分かりませんでした」

「次は半分にします」


 次も長かった。

 私が時計を見ると、彼は途中で「あ」と言った。


 ある金曜日、退勤の時間が重なった。

 駅まで話しながら歩いていると、彼のお腹が鳴った。


「聞こえました?」

「はい」

「夕飯、まだなら一緒に食べませんか」


 誘われているのだと分かるまで、少しかかった。

 私は頷いた。


「何食べたいですか?」

「私は何でも」

「俺はラーメン食べたいです。でも、小宮山さんが食べたいものも聞いてます」


 交差点の向こうに、パスタの店があった。

 会社帰りに何度も看板を見ていた。和樹は夕飯にパスタだと物足りないと言うので、行ったことがなかった。


「……パスタが食べたいです」

「いいですね。どこか知ってます?」

「あそこ。入ったことはないんですけど」


 片桐さんは信号を見た。


「じゃあ、次の青で」


 こんなに簡単なことだった。

 言ってみたら、二人でそこに行くことになった。


 注文したトマトクリームのパスタは、少し酸味が強かった。片桐さんは大盛りにしたのに、デザートのメニューまで開いている。


「まだ食べるんですか?」

「仕事で食べるのとは別なんです」


 プリンを頼み、一口食べた彼が黙った。


「仕事、始まってますよ」

「……あ、今、材料考えてました」


 笑った拍子に、フォークを落としかけた。


 食後、彼は帰る路線を聞いてくれた。

 私は答えたあと、最近引っ越したのだと話した。


「三年、一緒に住んでた人と別れたんです」


 口にしたら、まだ喉の奥が痛んだ。

 片桐さんは、何か言いかけてやめた。


「今日、食事に誘って大丈夫でした?」

「はい。パスタ、食べたかったので」


 言うと、彼が少し笑った。


「それならよかった。また行きましょう」


     ◇


 別れて二か月が過ぎた頃、私は文房具店で柚子色の付箋を買った。

 名前はレモンイエローだったけれど、どう見ても柚子だった。


 昔なら、和樹にそう言っていただろう。

 彼は柑橘類が好きで、私はその区別に詳しくなった。


 レジに向かいながら、少しだけ寂しくなった。

 それでも、付箋は買った。和樹を思い出したからという理由で、棚に戻す必要はなかった。


 翌週、その付箋を片桐さんに渡す資料に貼った。


『試食サンプルは金曜までにお願いします』


 彼は二日後、きちんとサンプルを持ってきた。

 袋に同じ付箋が貼り直してあり、その下に一行増えていた。


『今回は風呂ではなく紅茶です』


 私は机に向かって、声を出さずに笑った。


 仕事帰りの食事は、それまでに三回行った。

 四回目の予定は、片桐さんの仕事が長引いて延期になった。


『すみません。今日は間に合いません』


 メッセージを見て、いつものように返した。


『大丈夫です。私も特に予定なかったので』


 送ったあと、予約していた店の画面を見た。

 前に私が気になっていると言った、小さな洋食店。片桐さんが覚えていて、誘ってくれた。

 昼休みに、何を頼もうかメニューまで調べていた。


 予定がなかったわけではない。


『でも、楽しみにはしてました』


 迷ってから、一通足した。


 電話がかかってきたのは、仕事を終えて家に帰ったあとだった。


「楽しみにしてくれてたのに、すみません」

「お仕事なら、仕方ないです」

「はい。でも、俺も残念だったので。来週、もう一度誘っていいですか」


 私はカレンダーを見た。


「金曜日は友達と会うので、木曜日なら」

「木曜にしましょう」


 通話を切ったあと、スマホを両手で持ったまま、しばらく座っていた。

 楽しみだったと言った。都合の悪い日も言った。

 それで、次に会う日が決まった。


     ◇


 和樹と新しい恋人の交際は、二か月余りで終わった。


 土曜日、和樹は家で休みたいと言った。

 前の晩、急な仕事で帰宅が遅かったのだ。


『分かった。じゃあ私、友達誘って行ってくるね』


 彼女の返信を見て、勝手に取り残された気がした。

 次の週末も、和樹は家にいたかった。彼女は、一緒にいるならどこかへ行きたいと言った。


「私、無理して来てもらっても楽しくないよ」


 話し合ったとき、彼女はそう言った。


「最初は和樹くんも楽しそうだったから、同じように出かけるのが好きなんだと思ってた」

「楽しかったよ」

「でも、毎週は疲れちゃうんでしょ」


 彼女は彼女の休日を楽しみたかった。

 和樹は、刺激のある休日と、誰かとだらだら過ごす休日の両方が欲しかった。

 互いを責める理由はなかった。それでも、続けるのは難しかった。


 別れた翌日、和樹は昼過ぎまでソファにいた。


 部屋は片づいている。洗濯もした。昼は自分で焼きそばを作った。

 生活には、何の支障もなかった。


 テレビで、変わった形の野菜を紹介していた。

 昔、同じものをスーパーで見つけた澪が、恐竜みたいだと言った。


「これ、あれだ」


 言ってから、隣を見た。


 誰もいない。


 ソファの端に置いたクッションが、朝から同じ向きのままだった。

 澪はよく、そこに足を載せて座っていた。和樹がつまらない冗談を言うと、足で彼の膝を軽く押した。

 笑ったときには、その足が落ちた。


 何もしない日が、こんなに長いとは知らなかった。


 同じ映画を見て、同じところで寝た日。

 近所のスーパーへ行くだけなのに、帰るまでずっと何か話していた日。


 退屈だったと言った。

 もっと楽しい毎日があるはずだと言った。


 では、あのとき何が足りなかったのだろう。


 和樹はトーク画面を開いた。

 澪はアイコンを変えていた。以前は二人で行った旅行先の写真だった。今は、知らない店のプリンだった。


『久しぶり。元気?』


 返信は、翌日の夜に届いた。


『元気だよ』


 和樹はすぐに文字を打った。


『一度、会って話したい』


 既読がつくまで、何度も画面を見た。


     ◇


 和樹からの連絡を見たのは、片桐さんと洋食店に行った翌日だった。


 元気かと聞かれたので、元気だと答えた。

 会いたいというメッセージには、すぐに返せなかった。


 鍵も返した。お金の話も終わっている。


『何の話?』

『別れたときのこと、ちゃんと謝りたい』


 少し考えて、駅前の喫茶店を指定した。


『日曜の三時。一時間だけなら』


 別れて、ちょうど三か月になる頃だった。


 和樹は先に来ていた。

 私を見ると、立ち上がりかけた。


「久しぶり」

「うん」


 向かいに座って、私は紅茶を頼んだ。

 和樹がメニューを見たまま言う。


「コーヒーじゃないんだ」

「今日は紅茶が飲みたいから」


 彼はメニューを閉じた。


「澪。あのときは、ごめん」


 テーブルの上で、彼の指が組み直された。


「退屈とか、あんなこと言って。俺、調子に乗ってた」


 私は黙って聞いた。


「付き合ってた人とは、別れた」

「そう」

「悪い子じゃなかったんだ。ただ、合わなくて」


 紅茶が届いた。

 店員が離れるまで待って、和樹は私を見た。


「澪。戻ってきてほしい」


 カップの持ち手に触れた指を止めた。


「……どこに?」

「俺のところに。前みたいに」

「私、もうそこに住んでないよ」

「部屋の話じゃなくて――」

「分かってる」


 和樹は、口を閉じた。


「引っ越すの、大変だった。新しい部屋を探して、休みの日に荷物を詰めて。夜、一人でいるのも、最初は嫌だった」

「うん。ごめん」

「前みたいにって言われても、私は、あのあとを三か月やってきたんだよ」


 和樹の目が伏せられた。


「分かってる。簡単に戻れるなんて思ってない。でも、また一緒にいたい」


 彼は、言葉を探しながら続けた。


「この前、仕事で契約が取れてさ。真っ先に澪に連絡しようとしたんだ。あの課長の案件。ずっと話してただろ」


 知っていた。

 準備で眠れなかった夜も、資料を作り直した日も。


「あれ、取れたんだ」

「うん」

「よかったね」


 和樹が、泣きそうな顔をした。


「そうやって言ってほしかった」


 私はカップを持ち上げた。

 彼が欲しかった一言を、つい自然に言っていた。

 それでも、このあと彼の部屋に帰りたいとは思わなかった。


「お前といた頃が、一番楽しかった」


 和樹の声が小さくなった。


「休みの日に何もしなくても、澪といたら楽しかったんだって、今頃分かった」


 彼が見ているのは、もうない休日だった。

 その中にいる私は、きっといつものように笑っている。


「私も楽しかったよ」


 顔を上げた和樹に、続けた。


「だからって、戻りたいとは思わない」


 彼の表情が止まった。


「もう一回だけ、考えてくれないか。今度はちゃんと――」

「あの日、別れたくないって言えなかったの。和樹がほっとした顔をしたから」


 言葉が一度、喉に引っかかった。


「私が出ていくって言ったとき、嬉しそうだった。あれ見て、もうここにいちゃいけないんだって思った」

「そんなつもりじゃ」


 和樹が言いかけて、やめた。


「……あったんだと思う。あのときは」


 私は頷いた。


「今は、私が一緒にいたくない。そこは分かってほしい」


 しばらく、食器の触れ合う音だけがした。


「他に好きな人でも、できたのか?」


 顔が浮かんだ。

 プリンを食べて黙った人。私のつけた付箋に、くだらない一行を書いて返した人。


「まだ分からない。でも、もっと知りたいと思ってる人はいる」


 和樹は唇を引き結んだ。


「その人がいなかったら?」

「それでも、戻らないよ」


 彼は、今度は何も言わなかった。


 約束の一時間より、少し早かった。

 私が伝票に手を伸ばすと、和樹が先に取った。


「今日は、俺が」

「ありがとう」


 店を出たあと、駅へ向かう私を、和樹が呼び止めた。


「澪」


 振り向くと、彼は一歩近づきかけて、その場にとどまった。


「本当に、ごめん」

「うん」


 何か続きを待たれているのが分かった。

 私は小さく頭を下げ、改札へ歩いた。


 電車の窓に、見慣れた街が流れた。

 和樹の住む駅を通り過ぎ、自分の駅で降りた。


     ◇


 三週間後の日曜日、片桐さんと駅で待ち合わせた。


 これまでは仕事帰りの食事ばかりだった。

 休日にも会いたいと言ったのは、彼のほうだ。


「で、今日どうします?」


 改札を出てすぐ、そう聞かれた。


「決めてなかったんですか?」

「決めてません」

「誘ったの、片桐さんですよね?」

「はい。日曜日に会えるって決まったところで、満足してました」


 悪びれずに言ってから、彼はスマホを出した。


「一応、調べます」

「待ってください」


 私は駅前を見た。

 川沿いに続く道がある。パン屋の前には、焼き上がりの札が出ていた。


「パン買って、あっち歩きません?」

「いいですね」


 パン屋で、私はクリームパンを選んだ。

 片桐さんはカレーパンと、あんパンと、もう一つ迷っていた。


「お昼ご飯ですか?」

「これから歩くんで」

「そんなに歩きませんよ」


 彼はあんパンを戻した。

 私が笑うと、「笑わないでください。結構迷ったんです」と言った。


 川沿いのベンチに座った。

 少し離れたところで、犬が散歩を拒否している。飼い主が名前を呼んでも、四本の足を突っ張ったまま動かない。


 片桐さんがカレーパンを持った手を止めた。


「あれ、俺も月曜の朝やりたいです」

「玄関で?」

「はい」


 私はクリームパンを飲み込めず、しばらく返事ができなかった。


 食べ終わってからも、二人とも立ち上がらなかった。

 風で紙袋が飛びそうになり、同時に手を伸ばした。

 触れた指を彼が引っ込めて、袋を私に任せた。


「小宮山さん」

「はい」

「この前、駅で『出口はこちら』って矢印が壁を向いてたんです」


 急に何の話かと、彼を見た。


「写真撮ろうとして、あ、今度会ったとき話せるなって。それで、自分でも気づいたんですけど」


 彼は空の紙袋の端を折った。


「小宮山さんと話したいこと、会わない日にも探してるんですよね。また、こうやって会いたいです。仕事のあとだけじゃなくて」


「それは、私も」

「それと、できれば付き合いたいです」


 今度は私が、紙袋を握った。


「付き合うって、恋人として?」

「はい。そこは曖昧にしたくないです」


 彼がこっちを見た。

 いつものように、返事を待っていた。


「私も、片桐さんと付き合いたいです」


 口にすると、顔が熱くなった。

 片桐さんは息を吐いて、背もたれに寄りかかった。


「よかった。パン、もう一個買うべきでした」

「何でですか」

「緊張してて、味、あんまり分からなかった」


 味の分からない商品開発の人を見て、私は笑った。

 彼も笑い、それから、私の名前を呼んでいいかと聞いた。


「澪さん、って」

「じゃあ、私も亮介さんで」


 練習みたいに一度ずつ呼んで、二人で照れた。


 帰り道、通り過ぎた自動販売機の前で足を止めた。

 前はよく、和樹とここで飲み物を買った。見慣れた柚子ソーダが、まだ並んでいる。


 その隣にあった桃の紅茶を押した。


「おいしそうですね」

「気になってたんです」


 亮介さんは柚子ソーダを買った。

 私はそれを見て、少し笑った。


「どうしました?」

「それ、結構酸っぱいですよ」

「そうなんですか。好きなんで、ちょうどいいです」


 缶を開ける音が二つした。

 ひと口飲むと、桃の香りが鼻に抜けた。


 駅へ着くと、亮介さんが時計を見た。


「まだ早いですね」

「はい」


 改札を通る人を、二人で眺めた。

 昼間の犬は、もう家に帰れただろうか。そう考えたら、また笑いそうになった。


「……もう少し歩きません?」


 私から言うと、亮介さんは飲みかけの缶を持ち直した。


「どっちに?」

「さっきと反対側。何があるか、知らないですけど」

「じゃあ、行ってみましょう」


 特別なものを見たわけでも、おいしい店を見つけたわけでもない。

 それなのに、帰るにはまだ早いと思った。


 駅を背にして歩き出すと、隣から手が差し出された。

 空いているほうの手で、私はそれを取った。


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