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第三十七章 間に立つ男

第三十七章 間に立つ男


 1987年の夏。


 新日本プロレスの空気は、少しずつ変わっていた。


 長州力が戻ってきた。


 マサ斎藤。


 小林邦昭。


 スーパー・ストロング・マシン。


 ヒロ斎藤。


 保永昇男。


 ジャパンプロレスから新日本へ戻ってきた男たちが、リングに姿を現す。


 そして長州は、6月12日の両国で声を上げた。


 世代闘争。


 ナウ・リーダーとニュー・リーダー。


 猪木たち旧世代と、長州、藤波、前田ら新世代。


 それまで別々の場所にいた者たちが、一つの大きな括りの中に入れられていく。


 花嵐一美も、その中にいた。


 ただし。


 花嵐には、少し困ったことがあった。


「お前、長州さんと仲いいよな」


 ある日、前田日明が言った。


「まあ、普通に話しますよ」


「普通に?」


「普通に」


 前田が笑う。


「お前らしいな」


「前田さんとも普通に話してますけどね」


「……まあ、それもそうか」


 前田は苦笑した。


 花嵐は長州とも話す。


 前田とも話す。


 橋本とも話す。


 藤波とも話す。


 猪木とも、試合をすれば普通に会話する。


 それが花嵐だった。


 敵と味方を、人間関係まで一緒にするつもりはなかった。


 リングでは戦う。


 リングを降りれば話す。


 ただ、それだけだった。


 ところが。


 世代闘争という言葉が、その境界を少しずつ壊していった。


     *


「花嵐」


 長州が声をかけてきた。


「はい」


「お前、前田とよく話してるな」


「まあ、同じUWFから来てますから」


「そうか」


 長州はそれ以上言わなかった。


 花嵐も、それ以上聞かなかった。


 だが、以前とは少し違う。


 長州と前田。


 二人の間には、何かがある。


 まだ大きな衝突ではない。


 試合では同じ側に立つこともある。


 実際、1987年の新日本では、長州、藤波、前田らがニューリーダー側として同じチームを組む試合も行われていた。


 しかし、控室では。


 少し離れている。


 言葉が少ない。


 目が合っても、以前ほど長く話さない。


 花嵐はそれに気づいていた。


「……何かあったんですか?」


 ある日、前田に聞いた。


「別に」


「そうですか」


「お前は気にしなくていい」


「でも――」


「花嵐」


 前田が振り返った。


「お前はお前でいいんだよ」


 その言葉に、花嵐は黙った。


     *


 ところが、その数日後。


 長州からも同じようなことを言われた。


「花嵐」


「はい」


「お前は無理に誰かと一緒に動く必要ないぞ」


「……」


「自分のプロレスをやれ」


「長州さんも、そう思いますか」


「ああ」


 長州は短く答えた。


「お前のプロレスは、お前のものだからな」


 花嵐は笑った。


「それ、前田さんにも言われましたよ」


 長州の表情が一瞬だけ変わった。


 ほんの一瞬だった。


 だが、花嵐には分かった。


「……そうか」


「はい」


「なら、それでいいんじゃないか」


 長州はそれ以上言わなかった。


 花嵐も聞かなかった。


 ただ、帰り道で考えた。


 ――同じことを言っているのに。


 ――どうして二人とも、こんな顔をするんだ。


     *


 夏が進む。


 新世代軍と旧世代軍の抗争は大きくなっていった。


 8月には5対5のイリミネーションマッチも行われた。


 花嵐も、その周辺で戦っていた。


 だが、リングの上ではまだ問題がなかった。


 長州が相手なら戦う。


 前田が味方なら組む。


 前田が相手なら戦う。


 それだけだった。


 問題は、リングの外だった。


「お前はどっちなんだ?」


 橋本が聞いた。


「どっちって?」


「長州さん側か、前田さん側か」


「……なんで俺が選ばなきゃいけないんだ?」


「いや、だってよ」


 橋本は困ったように頭を掻いた。


「最近、みんなそういう話してるだろ」


 花嵐は黙った。


 それは分かっている。


 誰と誰が一緒にいる。


 誰が誰と話していない。


 誰が誰に不満を持っている。


 誰がどちら側なのか。


 そんな話ばかりが増えていた。


「俺はどっちにも世話になってるんだよ」


 花嵐が言った。


「前田さんとはUWFから一緒だった」


「うん」


「長州さんとも、戻ってきてから普通に話してる」


「うん」


「だから、どっちかを嫌いになる理由がない」


 橋本は黙って聞いていた。


「でもよ」


 花嵐は続けた。


「俺がどっちとも仲良くしてると、それが気に入らない人間もいるんだろうな」


「……」


「それが一番困る」


     *


 秋。


 世代闘争そのものが、少しずつ形を変えていった。


 長州は世代闘争から距離を取るようになり、10月にはその抗争自体が終息へ向かう。


 しかし、花嵐にとっては終わらなかった。


 むしろ、終わったからこそ分かりやすくなった。


 長州と前田。


 二人の間にあるものが。


「花嵐」


 前田が言った。


「長州とは、あまり一緒にいない方がいい」


「……どうしてですか?」


「別に」


「でも」


「俺はあいつとは考え方が違う」


 花嵐は黙った。


 少し時間を置いて言った。


「前田さん」


「何だ」


「俺は、長州さんと考え方が同じだとも思ってません」


「……」


「でも、だからって話をしちゃいけないとも思わないです」


 前田は花嵐を見た。


「お前らしいな」


 それだけ言った。


     *


 その夜。


 今度は長州だった。


「前田と話したか?」


「はい」


「そうか」


 長州は少し黙った。


「花嵐」


「はい」


「お前は、無理に俺の側に来なくていい」


「……」


「ただ、自分のことは自分で決めろ」


 花嵐は苦笑した。


「それ、前田さんにも言われました」


「そうか」


 長州も笑った。


 だが、花嵐には分かっていた。


 二人とも、自分に選ばせたくないと言いながら。


 本当は、自分がどちら側にいるのかを気にしている。


 そして花嵐自身も。


 少しずつ苦しくなっていた。


     *


 11月。


 後楽園ホール。


 控室には、いつもと違う緊張があった。


 前田。


 長州。


 花嵐。


 それぞれが同じ場所にいる。


 だが、以前のような気楽な空気はない。


 花嵐は橋本の隣に座っていた。


「……嫌な感じだな」


 橋本が言った。


「うん」


「何か起きそうだ」


「俺もそう思う」


 花嵐はリングを見た。


 そして、その日の試合。


 前田と長州が同じリングに立った。


 試合が進む。


 緊張が積み重なる。


 そして――。


 一瞬。


 花嵐には、何が起きたのか理解できなかった。


 前田が動いた。


 長州が振り返る。


 そして、蹴りが入った。


 リングの空気が変わった。


 長州が倒れる。


 観客がどよめく。


 花嵐は立ち上がっていた。


「……前田さん!」


 しかし、もう遅かった。


 1987年11月19日。


 後楽園ホール。


 前田日明が長州力の背後から顔面へ蹴りを入れ、長州が負傷。前田には無期限出場停止処分が下された。史実では、この事件が両者の対立を決定的なものにしていった。


 花嵐はリングの中を見つめていた。


 何も言えなかった。


 前田も。


 長州も。


 どちらも知っている。


 どちらとも話してきた。


 どちらとも戦った。


 どちらとも、笑ったことがある。


 だからこそ。


 目の前で起きたことが、重かった。


     *


 試合後。


 花嵐は一人で控室に残った。


 橋本も、何も言わずに出ていった。


 静かだった。


 花嵐は自分の手を見る。


 突き。


 かち上げ。


 喉輪。


 ボディプレス。


 自分は身体で戦ってきた。


 リングの中なら、どんな相手でも戦える。


 敵になったっていい。


 味方になったっていい。


 試合が終われば握手もできる。


 それが自分のプロレスだった。


 でも。


 リングの外まで戦いになったら。


 どうすればいい。


「……俺は、どうすりゃいいんだよ」


 誰もいない控室で呟く。


 前田を嫌いになれない。


 長州も嫌いになれない。


 どちらかを裏切るつもりもない。


 だからといって、二人の間に立ち続けることもできない。


 花嵐は初めて思った。


 自分が大きいことが、こんなに苦しいと思ったことはなかった。


 リングでは。


 150キロの身体が武器になる。


 相手を受け止めることもできる。


 押し返すこともできる。


 飛ぶことだってできる。


 けれど。


 人と人の間に立った時。


 150キロの身体は、ただ重いだけだった。


 その夜。


 花嵐は初めて、自分が「どちらとも仲良くできる男」であることが、必ずしも長所ではないのだと知った。


 むしろ。


 両方を知っているからこそ。


 両方の苦しさが見えてしまう。


 そして、その間に立つ者ほど。


 どちらか一方を選べ、と迫られる。


 花嵐は、まだ選ばなかった。


 選べなかった。


 ただ一つだけ、決めていた。


 自分のプロレスだけは、誰かの派閥のものにはしない。


 それだけだった。

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