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勤務表には書かれない ―クローバーマート東坂下店、閉店までの三か月―

作者: 秋月キアラ
掲載日:2026/08/16

【第1話 勤務表には八時間しかない】


 午前七時五十八分。


「十八番、ホット一つ」


「はい」


「あと、新聞」


「こちらでよろしいですか」


「それ。それと三番」


 水野浩一は、客が口にした番号へ手を伸ばした。


 煙草棚の三番を抜き、新聞を二つ折りにしてレジへ通す。


 その間にも、隣のレジではコーヒーのカップを持った会社員がスマートフォンを見ながら待っている。


 店の外では、白い軽トラックが駐車場へ斜めに入りかけ、切り返した。


 自動ドアが開く。


 閉じる。


 また開く。


「いらっしゃいませー」


 早朝アルバイトの木村早苗の声が飛んだ。


 七時五十九分。


 水野は公共料金の払込票を受け取った。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 四枚。


 印字位置を確認して、読み取り機へ通す。


「ここ、ハンコいるんだっけ」


「はい。お客様控えのほうへ」


「ああ、そうそう」


「ありがとうございます」


 午前八時。


 事務所の壁時計が、秒針を一周させた。


 その瞬間、水野の勤務は終わった。


 勤務表の上では。


     *


 八時十五分。


「じゃあ、お先に失礼します」


「お疲れさまでした」


 木村がエプロンを外して帰っていった。


 早朝のピークも、ひとまず途切れた。


 水野はレジの金額を確認し、カウンター脇に放置されていた段ボールを潰した。


 水野浩一、四十二歳。


 クローバーマート東坂下店の社員で、肩書きは店長代理。


 店長の佐伯がいない時間帯には、たいてい水野が店のことを引き受ける。


 だから八時になったからといって、仕事がなくなるわけではなかった。


 八時二十分。


 配送トラックが来た。


「おはようございます」


「おはようございまーす。今日は多いっすよ」


「見ればわかるよ」


 番重が七台。


 紙パック飲料が二ケース。


 菓子パン。


 弁当。


 おにぎり。


 チルド麺。


 サラダ。


 店内へ運び込まれた商品を検品しながら、水野は片手で端末を操作した。


 八時四十一分。


 電話が鳴った。


「はい、クローバーマート東坂下店、水野です」


『お世話になっております。営業部の――』


 電話を肩に挟みながら、納品伝票へ印をつける。


 九時二分。


 昨日の返品商品をまとめる。


 九時十四分。


 店内調理の什器を修理する業者が来た。


「昨日、エラーコード出たって聞いてるんですけど」


「Eの七です」


「ああ。じゃあヒーターかな」


 水野はバックヤードから昨日の記録を持ってきた。


 九時三十九分。


 事務所へ戻る。


 発注端末を開く。


 牛乳。


 食パン。


 弁当。


 カップ麺。


 昨日の販売数と廃棄数を見ながら、数字を一つずつ入力した。


 九時五十八分。


 自動ドアが開いた。


「おはようございまーす」


 高橋陽葵が入ってきた。


「おはよう」


「おはようございます」


 私服のままレジ前を通り抜け、バックヤードへ入る。


 ロッカーの前で上着を脱ぎ、制服に着替える。


 その途中で、陽葵は壁に貼られた勤務表を見た。


 今日の日付。


 自分の名前。


 十時から十四時。


 その二つ上に、


 水野 23:00―8:00


 と書いてある。


 陽葵は時計を見た。


 十時。


 事務所を覗く。


 水野は発注端末を持ったまま、飲料売場へ向かっていた。


「水野さん」


「ん?」


「今日、何時までですか?」


「今日?」


 水野は少し考えた。


「もう終わってる」


 陽葵は勤務表を見た。


 もう一度、水野を見る。


「終わってないじゃないですか」


「勤務は終わってる」


「いや、働いてますよね」


「うん」


「じゃあ終わってないですよね?」


 水野は、そこで初めて妙な顔をした。


 質問の意味がわからないのではない。


 どこが質問なのかわからない顔だった。


「……まあ、そうなんだけど」


 陽葵は眉を寄せた。


「昨日もいましたよね?」


「いたね」


「私、十時半に帰りましたけど、そのときいましたよね?」


「ああ」


「一昨日も」


「一昨日は十一時前かな」


「何がですか」


「帰ったの」


「勤務、八時までですよね?」


「そうだね」


「三時間じゃないですか」


「そうだね」


「残業?」


「まあ」


「ついてるんですか?」


「何が?」


「残業代」


 水野は答えなかった。


 代わりに飲料ケースを持ち上げた。


「これ入れたらレジお願い」


「ごまかしました?」


「ごまかしてないよ」


「じゃあ、ついてるんですか」


「高橋さん」


「はい」


「社員って、そういうもんだから」


 陽葵は数秒黙った。


「社員って、時間が増える生き物なんですか?」


 水野が吹き出した。


「何だそれ」


「だって八時で終わってるのに、十時にもいるじゃないですか」


「増えてるね」


「増えてますよ」


「じゃあ進化したのかな」


「いや、たぶん退化です」


「ひどいな」


 二人とも笑った。


 そこで話は終わった。


 少なくとも、水野はそう思った。


     *


 十時十二分。


 水野は事務所の端末で退勤処理をした。


 ピッ、と短い音が鳴る。


 陽葵が後ろから画面を覗いた。


「今?」


「何が」


「退勤」


「うん」


「今まで押してなかったんですか?」


「押してたよ」


「今日の話です」


「今日?」


 水野は画面を見た。


 一瞬、黙った。


「あ」


「今押しましたよね」


「そうだね」


「じゃあ今日は残業つくんですか?」


「今日はね」


「昨日は?」


「八時」


「一昨日は?」


「八時」


「でも十一時までいた」


「いたね」


「何で?」


「数字が悪くなるから」


 陽葵は、また黙った。


「何の数字ですか」


「人件費」


「水野さんが残ると?」


「予定よりオーバーするだろ」


「しますね」


「すると、理由書いたり、店長から確認されたりするから」


「だから退勤押してから働くんですか?」


「働くっていうか」


 水野は頭を掻いた。


「片づけるだけだから」


「何を?」


「残ってる仕事」


「仕事じゃないですか」


「まあ、仕事だけど」


「それ、働くって言うんじゃないですか」


「そう言われるとそうだな」


 水野は笑った。


 陽葵は笑わなかった。


「いつからですか?」


「何が」


「そういうの」


「さあ」


「一日どれくらい?」


「日によるよ。二十分とか」


「昨日三時間いましたけど」


「昨日は棚替えもあったから」


「じゃあ今日は?」


「もう終わる」


「何時に?」


「十一時くらい」


「三時間じゃないですか」


「毎日じゃないよ」


 陽葵は、水野の顔をじっと見た。


「普通って便利ですね」


「便利?」


「何でも入るから」


     *


「じゃあ、今日だけやりましょう」


「何を?」


「水野さんが八時から何してたか、全部数えます」


「何で」


「気になるから」


「暇なの?」


「暇じゃないです」


「じゃあ仕事して」


「してます」


 陽葵はレジへ向かった。


 客がいなくなると、スマートフォンを取り出した。


「八時十五分までレジ?」


「まあ、そのくらい」


「十二分にしときます」


「何の十二分」


「レジ応援」


「そこまで細かく?」


「細かくしないと消えるんでしょう?」


 水野は何も言わなかった。


 陽葵のスマートフォンには、箇条書きが増えていった。


 レジ応援 十二分。


 納品立会い 十八分。


 本部電話 九分。


 返品処理 七分。


 修理業者対応 二十一分。


 発注。


 その途中、客に呼ばれて、水野はコピー機へ向かった。


「すみません、これ写真、小さくできる?」


「できますよ」


「このくらい」


「倍率下げますね」


 三分。


 レジに行列ができた。


 応援。


 六分。


 宅配便。


 四分。


 新人アルバイトが、宅配ロッカーの操作を間違えた。


 説明。


 十一分。


「水野さん」


「何?」


「すごいですよ」


「何が」


「全部合わせると一時間超えました」


「そりゃ超えるだろ」


「え?」


「だって一時間以上いるんだから」


「そうじゃなくて」


「じゃあ何」


「ちゃんと仕事してます」


「当たり前だよ」


「でも水野さん、さっき『片づけてるだけ』って言ったじゃないですか」


 水野は何か言おうとして、やめた。


 陽葵が画面を見せる。


 レジ応援。


 納品。


 電話。


 返品。


 修理。


 発注。


 コピー機。


 宅配。


 新人教育。


 その一つ一つを見ると、大した仕事には見えなかった。


 一時間かかる仕事など、どこにもない。


 二時間かかる仕事もない。


 三時間かかる仕事もない。


 五分。


 七分。


 十一分。


 十八分。


 そういうものだけだった。


「これ、全部誰の仕事ですか?」


 陽葵が訊いた。


「誰のって」


「発注」


「社員」


「修理業者の対応」


「店長か社員」


「クレーム」


「店長か社員」


「新人教育」


「社員」


「両替」


「社員」


「レジ応援」


「全員」


「つまり?」


「何が」


「水野さんの仕事、多くないですか?」


「社員だからね」


「だから社員って何なんですか」


「社員は社員だよ」


「八時間の中に、どこまで入ってるんですか?」


 水野は答えなかった。


 質問の意味はわかった。


 だから答えられなかった。


     *


 十一時前。


「おはよー」


 佐伯店長が入ってきた。


 五十五歳。


 この店が開いた当初から働いている。


 客から名前で呼ばれることも多い。


「佐伯さん、昨日のおでん什器、直りました」


「おお、ありがとう」


「ヒーター交換です」


「いくら?」


「見積もり後で来ます」


「了解」


 佐伯はバックヤードへ入る。


 陽葵が待っていたように口を開いた。


「店長」


「ん?」


「水野さん、今日もう三時間くらい残ってます」


「ああ」


 佐伯は制服のシャツへ腕を通しながら答えた。


「今日は納品もあったからな」


 それだけだった。


 陽葵は少し待った。


「……店長」


「ん?」


「普通なんですか?」


「何が?」


「八時までの人が十一時まで働いてるの」


「水野?」


「はい」


 佐伯は水野を見る。


「昨日も?」


「昨日は三時間ちょっと」


「そうか」


「そうか、じゃなくて」


「昔からこんなもんだよ」


 佐伯は笑った。


 冗談を言ったわけではなかった。


 それが、陽葵には余計に変だった。


「昔から?」


「ああ」


「じゃあ昔からおかしいんじゃないですか?」


「高橋」


 水野が止めた。


「いいから」


「でも」


「佐伯さん、棚替えの資料どこです?」


「ああ、昨日届いてたな」


 佐伯は事務所の書類を探し始めた。


 話はそこで終わった。


     *


 十一時十一分。


 水野はようやく帰る準備をしていた。


「帰るんですか?」


 陽葵が訊く。


「帰るよ」


「本当に?」


「今日は本当に」


「三時間十一分」


「何が」


「八時から」


「細かいな」


「三時間ですよ」


「そうだね」


「昨日もそのくらい」


「昨日はちょっと長かったかな」


「一昨日も」


「覚えてない」


「私は覚えてます」


「何で」


「変だから」


 水野は上着を持った。


「じゃ、お先」


「お疲れさまでした」


 少し歩いたところで陽葵が呼ぶ。


「水野さん」


「何?」


「今日の三時間十一分、全部ついてます?」


 水野は立ち止まった。


 十時十二分までは記録されている。


 そのあと約一時間は、また記録されていない。


「……全部じゃないね」


「ですよね」


「明日はちゃんとするよ」


「本当ですか」


「たぶん」


「信用ないなあ」


 陽葵が笑った。


 水野も笑った。


 そのまま店を出た。


     *


 数日後。


 午後一時過ぎ。


 閉店まで三か月。


 佐伯から、バックヤードに積まれた古い書類を少しずつ整理してほしいと言われていた。


「これ今日やるんですか?」


 陽葵が訊いた。


「今日は勤務中だから」


「そこ大事なんですね」


「最近うるさい人がいるから」


「誰でしょうね」


 段ボール箱を一つ床へ下ろす。


 古い棚割り表。


 改装前の図面。


 もう存在しない商品の販促物。


 何年も前の教育資料。


 紙は黄ばんでいた。


「何これ」


 陽葵が一枚取り出した。


 勤務表だった。


 十二年前。


「うわ、店長いる」


「そりゃいるだろ」


「若い」


「名前だけでわかるのかよ」


「勤務時間、六時から十五時」


 佐伯が横から覗いた。


「そんな頃あったっけ」


「店長、ちゃんと帰ってたんですか?」


「俺?」


 そこへ木村が戻ってきた。


「何見てるの?」


「昔の勤務表です」


「あら懐かしい」


「木村さんもいる」


「そりゃいるわよ」


 陽葵が佐伯の名前を指さした。


「店長、この頃六時から十五時だったらしいですよ」


「へえ」


「へえって」


 木村が笑った。


「佐伯さん、十五時になんか帰ってなかったわよ」


 陽葵が振り向いた。


「何時までいました?」


「知らない」


「知らない?」


「だって私が帰るときもいたし」


 木村は勤務表を眺めた。


「夕方買い物に来てもいたからね」


「じゃあ十二時間くらい?」


「もっとじゃない?」


「木村さん」


 佐伯が苦笑する。


「余計なこと言わなくていいよ」


「だって本当じゃない」


「昔の話だよ」


「昔からこんなもん、ですか?」


 陽葵が言った。


 佐伯は一瞬だけ黙った。


 それから、いつものように笑った。


「まあな」


     *


 水野は古い勤務表を一枚ずつめくった。


 佐伯。


 六時から十五時。


 翌日も同じ。


 その翌日も。


 紙の上では、きれいだった。


 一日の勤務時間は決められている。


 誰が何時に来て、何時に帰るのか。


 必要な人数が配置されている。


 その通りなら、この店では毎日きちんと人が働き、きちんと帰っている。


「会社が時間盗んでるって話なんですかね」


 水野が何となく言った。


 陽葵は少し考えた。


「違うんじゃないですか」


「違う?」


「だって、水野さん、自分で退勤押してたんですよね」


「うん」


「店長もたぶんそうですよね」


 佐伯は聞こえないふりをした。


「本部から『三時間タダで働け』って言われたんですか?」


「言われてない」


「じゃあ、何なんでしょう」


 水野は古い勤務表を見る。


「さあ」


 誰かが、


「サービス残業をしろ」


 と言ったわけではない。


 けれど仕事は残る。


 予定を超えれば、人件費の数字が悪くなる。


 理由を聞かれる。


 だったら、先に退勤しておく。


 残っているのは、あと少しだから。


 十分。


 二十分。


 三十分。


 その積み重ねだった。


「誰も盗んでないなら」


 陽葵が言った。


「一番困りますね」


「何で?」


「返してくれる人がいないから」


 水野は、その言葉には答えなかった。


     *


 その日の午後。


 佐伯が入口で脚立に乗っていた。


「それ、貼るんですか?」


 陽葵が訊く。


「ああ」


 一枚の紙だった。


 白い紙に青い縁取り。


 中央に大きな文字。


 佐伯が透明テープで四隅を留める。


 自動ドアの横。


 十八年間、季節のキャンペーンや新商品のポスターが貼られてきた場所だった。


 そこに、


 ――長らくのご愛顧、誠にありがとうございました。


 という文字があった。


 その下。


 ――当店は十一月三十日をもちまして閉店いたします。


 佐伯は一歩下がった。


「曲がってる?」


「ちょっと右上がり」


 水野が言う。


「マジ?」


「嘘です」


「やめろよ。こういうの気になるんだから」


 佐伯が貼り直す。


 その間にも客は来た。


 一人の老人がポスターに気づいた。


「ここ、なくなるの?」


「はい。十一月いっぱいで」


「へえ」


 老人はしばらく紙を見た。


「不便になるなあ」


「すみません」


「いやいや、あんたらが悪いわけじゃないよ」


 煙草を一箱買って帰った。


 次の客は、


「跡地、何になるんですか?」


 と訊いた。


「まだ決まってないみたいです」


「ドラッグストアかなあ」


 コーヒーを買って帰った。


 別の客は、


「あら、寂しくなるわね」


 と言った。


 それぞれ数十秒。


 自動ドアが開き、


 閉じた。


 閉店告知だけが残った。


     *


 翌朝。


 七時五十八分。


 水野はレジに立っていた。


「袋いらない」


「かしこまりました」


「煙草、十二番」


「はい」


「コーヒーも」


「ありがとうございます」


 七時五十九分。


 公共料金。


 午前八時。


 勤務終了。


 客が切れたところで、水野は事務所へ戻った。


 端末へ指を伸ばす。


 いつもの操作。


 退勤。


 それを押せば、


 今日も勤務表通りになる。


 23:00から8:00。


 休憩一時間。


 八時間。


 水野は指を止めた。


 八時十三分。


 納品が来た。


「今日も多いっす」


「毎日言うね、それ」


「毎日多いんで」


 検品。


 八時三十二分。


 電話。


 八時四十七分。


 発注。


 九時五分。


 レジ応援。


 九時二十一分。


 コピー機。


 九時三十三分。


 宅配便。


 九時四十六分。


 冷蔵庫の扉が閉まりきっていないのに気づいた。


「またかよ」


 蝶番を持ち上げ、何度か開閉する。


 九時五十五分。


 ようやく事務所へ戻った。


 時計を見る。


 あと五分。


 水野は椅子へ座った。


 極端に低い、昔からある椅子だった。


 机には、数日前に見つけた古い勤務表が置かれている。


 十二年前。


 佐伯 6:00―15:00。


 水野はその紙を裏返した。


 十時。


 端末へ手を伸ばす。


 退勤。


 ピッ。


 画面が切り替わった。


 本日の実働時間。


 10時間00分


 水野は、その数字を見た。


 十時間。


 昨日までなら、


 たぶん何とも思わなかった。


 納品を受けた。


 電話に出た。


 発注した。


 レジへ入った。


 コピー機を直した。


 宅配便を受け取った。


 冷蔵庫の扉を閉めた。


 どれも、いつもの仕事だった。


「……こんなに働いてたのか」


 売場から入店音が聞こえた。


「いらっしゃいませー」


 木村の声。


 自動ドアが開く。


 閉じる。


 また開く。


 水野はもう一度、


 画面の「10時間00分」を見た。


 ◇ ◇ ◇


【第2話 毎朝六時の客が来なくなった】


 午前五時五十二分。


 木村早苗は、レジ横のホットウォーマーを開けた。


 下段の端。


 ブラックの缶コーヒーが一本ある。


 百八十五グラム。


 無糖。


 深夜帯のうちから加温されているので、缶はもう十分に熱い。


 木村は指先で向きを直した。


「今日もありますね」


 レジの釣り銭を確認していた水野浩一が言った。


「何が?」


「それ」


 八月だった。


 夜明け前から空気はぬるく、今日も最高気温は三十五度を超えるらしい。


 真夏にホットの缶コーヒーは、それほど売れない。


 それでも、この店では朝六時までにブラックを一本、切らさないようにしていた。


「あの人、夏でもホットじゃない」


「そうですけど」


「だったらいるでしょ」


 木村はウォーマーの扉を閉めた。


 それ以上、説明することはなかった。


 毎朝六時ごろ、一人の老人が来る。


 新聞を一部。


 ブラックの缶コーヒーを一本。


 夏でもホット。


 だから一本、用意しておく。


 店では、そういう細かなことがいつの間にか決まっている。


 誰が最初に始めたのかは、たいてい誰も覚えていない。


     *


 午前六時。


 まだ来ない。


 六時三分。


 木村が入口を見た。


「今日は遅いね」


「誰がです?」


「新聞のおじいさん」


 水野は時計を見る。


「まだ三分ですよ」


「あの人、早いもの」


「電車じゃないんだから」


「電車よりよっぽど正確よ」


 木村は笑って、パン売場へ戻った。


 六時五分。


 自動ドアが開く。


 作業着の男性だった。


「いらっしゃいませ」


 六時九分。


 また開く。


 犬の散歩途中らしい女性。


 六時十二分。


 高校生。


 そのたび、水野は何となく顔を上げた。


 老人は来なかった。


「まあ、たまにはありますよ」


「そうね」


 木村も、それ以上は気にしなかった。


 六時半になるころには朝の客が増え、老人のことなど話題にもならなくなった。


 ウォーマーの下段には、


 ブラックの缶が一本残っていた。


     *


 老人の名前を、水野は知らなかった。


 名字さえ知らない。


 この店へ何年通っているのかも、正確にはわからない。


 佐伯店長の話では、十年近くになるらしい。


 ほとんど毎朝。


 だいたい六時。


 東都新聞。


 ホットのブラック缶コーヒー。


 現金払い。


 袋はいらない。


 ポイントカードも使わない。


 会話も、ほとんど同じだった。


「おはようございます」


「どうも」


「袋、大丈夫ですか」


「いらない」


「ありがとうございました」


「どうも」


 それだけ。


 一分もかからない。


 それを何年も繰り返していた。


     *


 翌朝。


 老人は来なかった。


「今日もね」


 六時十分を過ぎたころ、木村が言った。


「二日くらいならありますよ」


「そう?」


「病院とか、用事とか」


「まあねえ」


 ウォーマーには、昨日から残っているブラックコーヒーがある。


 ホット飲料は、一日で捨てるものではない。


 加温を始めた日を管理し、販売できる期間まではそのまま置く。


 だから、新しい一本を追加する必要はなかった。


 昨日、老人が買うはずだった一本が、


 今日もそこにある。


 木村は扉越しに缶を見る。


「来たらこれ買うでしょ」


「そうですね」


 水野も、それで話を終えた。


     *


 三日目。


 午前六時五分。


「変ね」


 木村が言った。


 今度は水野も、


「そうですね」


 と答えた。


 自動ドアが開く。


 二人とも見る。


 違う。


 また開く。


 違う。


「旅行じゃないですか」


「旅行ねえ」


「何です?」


「いや」


 木村は少し考えた。


「あのおじいさん、元日だって来るのよ」


 水野が笑った。


「ああ。来ますね」


「私、正月の朝に『あけましておめでとうございます』って言ったことあるもの」


「何て返されました?」


「『どうも』」


「いつもと同じじゃないですか」


「いつもと同じよ」


 二人とも少し笑った。


 元日の朝でも六時ごろに来る。


 新聞とホットコーヒーを買う。


 正月だから何か特別なものを買うわけでもない。


 新年の挨拶にも、


「どうも」


 と返す。


「だから三日も来ないの、珍しいのよ」


 木村が言った。


 それなら、水野にもわかった。


 老人が旅行好きなのかは知らない。


 毎日どんな生活をしているのかも知らない。


 けれど、


 元日にも来る人が三日来ていない。


 それは確かに、


 いつもとは違った。


     *


 午前十時。


「おはようございまーす」


 高橋陽葵が出勤してきた。


 着替えをしていると、木村が言った。


「毎朝来るおじいさんが三日来てないのよ」


「おじいさん?」


「六時の」


「私、その時間いないですからね」


「新聞とコーヒーの人」


「何かあったんですか?」


「わからない」


「電話してみたらいいじゃないですか」


 水野と木村が黙った。


 陽葵が振り返る。


「電話番号知らないんですか?」


「知らない」


「家は?」


「知らない」


「名前は?」


 木村は水野を見た。


 水野は首を横に振った。


「知らないですね」


 陽葵は眉を上げた。


「毎日来るんですよね?」


「ほぼ毎日」


「何年くらい?」


「十年くらいじゃない?」


 木村が答える。


「十年?」


「たぶん」


「十年会ってて名前知らないんですか?」


「客だからねえ」


 木村は何でもないことのように言った。


 客に名前を尋ねない。


 住所を尋ねない。


 家族構成も聞かない。


 それが普通だ。


 陽葵は売場へ出て、ウォーマーを見る。


「あれって?」


「何?」


「ブラック一本だけ残ってますよね」


「あのおじいさんがいつも買うやつ」


 木村が答えた。


 陽葵が振り返る。


「え?」


「夏でもホット飲むから」


「毎朝?」


「毎朝」


「名前知らない人がいつも買うコーヒーは用意してるんですか?」


「用意してるっていうほどじゃないわよ」


「でも、その人が買うから置いてるんですよね」


「そうね」


 陽葵はウォーマーの黒い缶を見る。


「何飲むか知ってるのに、名前知らないんだ」


「そう言われると変ね」


 木村が笑う。


 陽葵は指を折った。


「来る時間は?」


「六時」


「新聞は?」


「東都新聞」


「コーヒー」


「ブラック。ホット」


「支払い」


「現金」


「袋」


「いらない」


「ポイントカード」


「使わない」


 水野も答える。


「冬は茶色いコートですよね」


「そうそう」


 木村が言う。


「夏は白い帽子」


「歩くの、去年くらいから遅くなった気がします」


 水野が続けた。


 陽葵は三人を見た。


「めちゃくちゃ知ってるのに、何にも知らないですね」


 木村が笑った。


 水野も笑った。


 誰も否定はしなかった。


     *


 十一時過ぎ。


 佐伯店長が出勤してきた。


「店長」


 陽葵がすぐに声をかけた。


「六時のおじいさんの名前知ってます?」


「六時のおじいさん?」


「新聞とホットコーヒーの」


「ああ」


 佐伯はしばらく考えた。


「知らんな」


「店長も?」


「なんで俺だけ知ってると思うんだよ」


「昔からいるんでしょう?」


「いるけどさ」


「家は?」


「知らない」


「家族」


「知らない」


「仕事」


「昔は何かやってたんじゃないか」


「何かって何ですか」


「知らないから何かなんだよ」


 木村が笑った。


「奥さんはいたわよ」


「知ってるんですか?」


「ずっと前に一度だけ、一緒に来たことあるもの」


「いつ?」


「何年も前」


「今は?」


「さあねえ」


 佐伯がふと思い出したように言う。


「何年か前、『一人になって飯作るの面倒だ』みたいなこと言ってたな」


「それって奥さん亡くなったってことですか?」


「そこまでは聞いてない」


「なんで聞かないんです?」


「レジで聞くか? 普通」


 陽葵は黙った。


 ――奥さん亡くなったんですか。


 そんなことを突然レジで尋ねる店員はいない。


 聞かなかった。


 だから知らない。


 知らないまま、


 毎朝会っていた。


     *


「探せないんですかね」


 陽葵が言った。


「どうやって?」


 水野が訊く。


「ポイントカード」


「使ってない」


「宅配便とか出したことないんですか?」


「仮にあっても、勝手に個人情報探せないよ」


「防犯カメラとか」


「どっちから歩いてくるかはわかるかもしれないけど」


「その先は?」


「追いかけるの?」


 陽葵が黙った。


「警察は?」


 木村が言う。


 今度は全員黙った。


 毎朝新聞を買いに来る老人が三日姿を見せません。


 それだけで警察へ連絡するのも妙だった。


 事件かどうかもわからない。


 病院かもしれない。


 家族のところへ行ったかもしれない。


 別の店へ行くようになっただけかもしれない。


「心配なのに」


 陽葵が言った。


「何?」


「心配していい立場なのかも、よくわかんないですね」


 佐伯が制服の袖を直しながら言った。


「客だからな」


 友人ではない。


 親戚でもない。


 近所付き合いですらない。


 客と店員。


 それなのに、


 三日来ないだけで四人とも気にしていた。


     *


 五日目。


 老人は来ない。


 六日目。


 来ない。


 ウォーマーの中には、あの一本が残っている。


「まだ大丈夫ですよね?」


 水野が管理日付を確認する。


「まだ平気」


 木村が言う。


 それでまた置いておく。


 客がホット飲料へ手を伸ばすたび、


 水野は時折そちらを見るようになった。


 だがブラックは残った。


     *


 七日目になるころには、


「今日も来ないね」


 とは誰も言わなくなった。


 ただ、六時になると入口を見る。


 ウォーマーを見る。


 新聞ラックを見る。


 そして何も言わない。


 店はいつも通り忙しかった。


 宅配便。


 公共料金。


 コーヒーマシン。


 品出し。


 発注。


 レジ。


 老人が来なくても、


 店の仕事はほとんど変わらない。


 朝六時、


「おはようございます」


「どうも」


 と交わしていた数秒だけがなくなった。


     *


 九日目の朝。


 水野は入口に貼られた閉店告知を見て、思い出した。


「そうだ」


「何?」


 木村が新聞を並べながら訊く。


「あのおじいさん、これ見てましたよ」


「閉店の?」


「貼った次の日」


「何て?」


「『ここ、なくなるのか』って」


「ああ」


「『十一月いっぱいです』って言ったら」


「うん」


「『困るな』って」


 それだけの会話だった。


 水野はそのとき、


 店がなくなれば、老人は別の店へ行くのだろうと思った。


 新聞は別のコンビニでも買える。


 缶コーヒーもある。


 少し歩く距離が増えるだけ。


 そう考えていた。


 店がなくなるより先に、


 老人のほうが来なくなるとは思わなかった。


     *


 十二日目。


 午後一時過ぎ。


「すみません」


 一人の男性がレジへ来た。


 六十歳前後。


 水野には見覚えがなかった。


「はい」


 佐伯が応対する。


「ちょっと訊きたいんですけど」


「はい」


「こちらに、中山征一っていう老人、よく来てませんでしたか?」


「中山……?」


 佐伯は首を傾げた。


 男性がスマートフォンを取り出す。


「この人です」


 画面に写真が出る。


 公園らしい場所で、一人の老人がベンチに座っていた。


「あ」


 佐伯が声を出した。


 水野も覗き込む。


「あ。この人です」


 木村も寄ってきた。


「あら」


「知ってます?」


 男性が訊く。


「毎朝来てました」


 水野が答えた。


「中山さんっていうんですか」


 男性が少し意外そうな顔をした。


「名前はご存じなかった?」


「すみません」


「いや、普通そうですよね」


 男性は笑った。


「父なんです」


 老人に、初めて名前がついた。


 中山征一。


 七十九歳。


     *


「どうしてうちに?」


 佐伯が訊いた。


「ああ」


 男性はスマートフォンをしまった。


「父の部屋を片づけてたら、ここのレシートが何枚も出てきたんですよ」


「レシート?」


「新聞とコーヒーばっかりで」


 男性が笑う。


「それに前から、『朝の店』って話はたまに聞いてたんで。近所ならここかなと思って」


「そうでしたか」


「急に来なくなったから、もし毎日顔合わせてた人がいたなら、何か言っておいたほうがいいかと思って」


 木村の表情が少し変わった。


「何かあったんですか?」


「十二日前、自宅で転んだんです」


 男性は言った。


「朝だったみたいで」


 幸い、その日は訪問支援の人が来る日だった。


 午前中に発見され、救急搬送された。


 骨折はしたが、命に別状はない。


「ただ、検査したらだいぶ足腰も弱ってるってことで」


「そうですか」


「一人暮らしに戻すのは厳しいだろうって」


 退院後は、息子である男性の家に近い施設へ入ることになったという。


「じゃあ」


 木村が言う。


「もう、この辺には戻ってこないんですか?」


「たぶん」


 事件ではなかった。


 行方不明でもなかった。


 朝、自宅で転んだ。


 それをきっかけに、


 暮らす場所が変わった。


「よかった」


 木村が言った。


 男性が見る。


「何がです?」


「生きてて」


「ああ」


 男性が笑った。


「元気ですよ。骨は折れてますけど、文句は言ってます」


 木村も笑った。


「それなら大丈夫ね」


     *


「父、毎日来てたんですか?」


「ほぼ毎日ですね」


 水野が答える。


「何時ごろ?」


「六時」


 木村が言う。


「元日も来ます」


「元日?」


「来ましたよ」


「正月も?」


「普通に」


 男性が笑った。


「何買ってたんです?」


「東都新聞と」


 水野がウォーマーを見る。


「ブラックの缶コーヒー」


「ブラック」


「ホットです」


 木村が付け足した。


「夏でも?」


「夏でも」


「へえ」


 男性は少し驚いた。


「家ではそこまで気にしたことなかったな」


 木村がウォーマーを指さす。


「朝に切らさないようにしてたの」


「父が買うから?」


「まあ、そうね」


 男性はウォーマーを見る。


 黒い缶が一本、下段の端にある。


「それ、今も?」


「まだ販売できる期間なんで」


 水野が言った。


「そうですか」


 男性は少しだけ黙った。


     *


「父、あんまり人と話さない人で」


 しばらくして男性が言った。


「母が亡くなってから特に」


 木村と佐伯が目を合わせた。


 昔、一度だけ一緒に来た女性は、やはり妻だったらしい。


「私も離れて住んでますから、電話くらいはしてたんですけど」


「はい」


「聞いても『変わらない』『元気だ』ばっかりで」


 男性は苦笑する。


「近所付き合いもしないし、老人会みたいなのも嫌がるし。だから、ほとんど誰とも話してないと思ってたんですよ」


 少し首を傾げる。


「でも、たまにこの店の話はしてました」


「店?」


「『朝の店の人が』とか、『新聞買う店が』とか」


 水野が言う。


「うちですかね」


「たぶん」


「でも、そんなに話してないですよ」


 本当にそうだった。


「おはようございます」


 そのくらいだ。


 男性は頷いた。


「でも、たぶん父には、それが毎日の会話だったんだと思います」


 誰もすぐには答えなかった。


「それだけで?」


 陽葵が小さく言った。


「それだけでも」


 男性が答えた。


     *


 帰り際。


 男性が自動ドアの前で一度振り返った。


「今度、父に会ったら、店のこと話しておきます」


「あ」


 木村が言った。


「じゃあ……」


 少し考える。


「コーヒー、まだあるって言っといて」


 男性がウォーマーを見る。


「伝えます」


 水野も言った。


「新聞も余ってるって」


「それも」


 男性は笑った。


「ありがとうございました」


 自動ドアが開く。


 男性は出ていった。


 ドアが閉じる。


 しばらくして、木村が言った。


「中山さんか」


「中山征一さん」


 水野が答える。


 名前を知ったのは、


 もう来なくなったあとだった。


     *


 翌朝。


 午前六時。


 中山征一は来ない。


 当然だった。


 もう来ないとわかっている。


 それでも木村は、六時を過ぎたところで一度だけ自動ドアを見た。


 水野も気づいたが、何も言わなかった。


 ウォーマーには、


 ブラックの缶がまだある。


 木村が扉越しにそれを見る。


「これ、もう売れないわね」


「いや」


 水野は管理日付を確認した。


「商品としては、まだ売れますよ」


「そうじゃなくて」


 木村が言った。


 水野は、


「そうですね」


 とだけ答えた。


     *


 何日か後。


 加温期限を迎えた朝。


 水野はウォーマーの商品を一本ずつ確認していた。


 黒い缶のところで手が止まる。


 中山が来なくなった朝から、


 ずっとそこに残っていた一本だった。


 水野は扉を開ける。


 熱気が顔へ当たる。


 ブラックコーヒーを取り出す。


 熱い。


「それ、今日ですか?」


 陽葵が横から訊いた。


「うん」


「廃棄?」


「そう」


 水野は端末を操作する。


 商品を読み込む。


 画面に表示される。


 ホットブラック 1


 廃棄登録。


 決定。


 水野は缶を廃棄用の箱へ入れた。


 ごとん、と音がした。


 画面には、


 ホットブラック 一。


 それだけが残った。


     *


 翌朝。


 午前五時五十三分。


 木村が飲料ケースを開けた。


 商品を補充していく。


 冷たいブラックの缶が並んでいる。


 一本手に取った。


 体が先に動いたのだろう。


 そのままウォーマーへ向かって二歩歩く。


 そこで止まった。


 手の中の缶を見る。


 ウォーマーを見る。


 水野も気づいた。


 木村は何も言わない。


 水野も何も言わない。


 数秒して、


 木村は引き返した。


 缶を冷蔵ケースへ戻す。


 カタン。


 扉を閉めた。


     *


 六時三分。


 自動ドアが開いた。


「いらっしゃいませ」


 知らない老人が入ってくる。


 新聞ラックへ行く。


 東都新聞を一部取る。


 飲料ケースからブラックの缶コーヒーを一本取る。


 レジへ来た。


「お願いします」


「はい」


 新聞。


 コーヒー。


 バーコードを通す。


「袋はよろしいですか?」


「いらない」


「ありがとうございます」


 老人は新聞を左脇へ挟み、


 冷たい缶コーヒーを右手に持った。


 一瞬だけ、


 よく似た格好になった。


 けれど別人だった。


「ありがとうございました」


 老人が出ていく。


     *


「木村さん」


「何?」


「中山さん、最初に来た日って覚えてます?」


「最初?」


「初めてこの店に来た日」


 木村は少し考えて、すぐ首を振った。


「そんなの覚えてないわよ」


「ですよね」


「十年くらい前でしょう?」


「たぶん」


「最初は普通のお客さんだったんじゃない?」


「でしょうね」


 初めて来た朝。


 新聞を一部買った。


 コーヒーを一本買った。


「いらっしゃいませ」


 と言われ、


「ありがとうございました」


 と言われた。


 それだけだったはずだ。


 次の日も来た。


 その次の日も。


 正月も来た。


 夏でも来た。


 いつから、


「六時のおじいさん」


 になったのか、


 誰も覚えていない。


 最後に来た日も同じだった。


 いつも通り新聞を買って、


 いつも通り熱いコーヒーを持って、


 いつも通り帰った。


 誰も、


 それが最後だとは知らなかった。


     *


 店には今日も客が来る。


 自動ドアが開く。


 閉じる。


 また開く。


「いらっしゃいませ」


「ありがとうございました」


 水野はウォーマーを見る。


 昨日までブラックの缶が置かれていた場所には、何もない。


 誰かがいなくなった跡というには、


 あまりに小さい。


 たった一本分。


 けれど今朝から、


 木村はもう、


 その一本を温めない。


 十年近く続いた仕事が、


 ひとつだけなくなった。


 ◇ ◇ ◇


【第3話 退職届には本人の字がある】


 午前十一時四十七分。


「二番レジ、開けます」


 藤原由美の声が飛んだ。


 水野浩一が飲料ケースから顔を上げる。


 一番レジには五人。


 先頭は公共料金。


 その後ろに弁当を持った作業服の男性。


 宅配便の箱を抱えた女性。


 昼休み前の会社員。


 煙草だけを握った老人。


 藤原は二番レジへ入り、表示板を立てた。


「二番目にお待ちのお客様、こちらへどうぞ」


 弁当を持った男性が移る。


「温めますか?」


「お願いします」


「お箸、一膳で?」


「はい」


 バーコードを通している間に、電子レンジへ弁当を入れる。


 その途中で、宅配便の女性が、


「これって着払いでも大丈夫ですか?」


 と訊いた。


「大丈夫ですよ。伝票こちらです」


 藤原は着払い伝票を一枚抜いて渡す。


 レンジが鳴る。


 弁当を袋へ入れる。


「お待たせしました」


 次の客。


「十八番」


「十八番ですね」


 煙草を取る。


「一つで?」


「二つ」


「二点で千百六十円です」


 客が財布を探している間に、一番レジを見る。


 公共料金が終わり、陽葵が次の客を呼んでいる。


「藤原さん」


「はい」


「揚げ鶏あと二個です」


「了解。ピーク終わったら作るね」


「お願いします」


 レジへ戻る。


「千二百円お預かりします」


 釣り銭。


「四十円のお返しです。ありがとうございました」


 十一時五十二分。


 宅配便。


 十一時五十五分。


 コピー機の操作がわからない客。


 十二時ちょうど。


 弁当三個。


 カップ麺。


 アイスコーヒー。


 煙草。


 公共料金。


 また宅配便。


 十二時十二分。


 ようやく列が途切れた。


 藤原はレジを離れた。


「揚げ鶏、作るね」


「すみません」


 陽葵が言う。


「藤原さんいると助かります」


「何それ」


「だって今日、全然詰まらなかった」


「詰まったら困るでしょ」


「そうなんですけど」


 藤原はフライヤーの前で手袋をつけた。


「私、六年いるんだから。このくらいできないと逆にまずいよ」


 そう言って笑った。


 特別なことは何もしていなかった。


 レジを打つ。


 宅配便を受ける。


 公共料金を扱う。


 煙草の番号を覚える。


 揚げ物を作る。


 新人が困っていれば教える。


 誰かが呼ぶ前に、一つ手を出す。


 藤原がいる日は、店が少し静かだった。


 仕事が少ないわけではない。


 問題になる前に、仕事が終わっているだけだった。


     *


 午後二時。


「お先に失礼します」


「お疲れさまでした」


 藤原がバッグを肩へ掛けたところで、佐伯店長が事務所から顔を出した。


「藤原さん、ちょっといい?」


「はい」


「五分くらい」


 藤原はバッグを下ろした。


 閉店まで、あと二か月半。


 店員たちの次の勤務先について、佐伯が一人ずつ話をしていた。


「できれば続けたいです」


 藤原は言った。


「うん。今と同じ時間がいいんだよね」


「できれば。九時から二時。三時くらいまでなら」


 佐伯は近隣店舗の一覧を見る。


「駅前、朝六時から九時なら空いてる」


「六時ですか」


「厳しい?」


「母のところに寄る日があるので」


「そっか」


「娘もまだ高校生だし」


「夕方は?」


「難しいですね」


「南口が十七時から二十二時なんだよな」


「ああ」


 藤原は苦笑した。


「昼、ないですか?」


「今のところは」


「そうですか」


「昼はどこも長い人がいるからなあ」


「まあ、そうですよね」


 藤原は笑った。


「まだ時間あるから。空きが出たら声かけるよ」


「お願いします」


 そこで話は終わった。


 退職という言葉は、一度も出なかった。


     *


 二週間後。


 新しい勤務表が貼られた。


 藤原は自分の名前を探した。


 火曜日。


 九時から十四時。


 木曜日。


 九時から十四時。


 それだけだった。


「佐伯さん」


「ん?」


「来週、二日だけですか?」


 佐伯が勤務表を見る。


「ああ。ごめんね」


「そうですか」


「閉店前で売上落ちてるし、人時も抑えないといけなくて」


「はい」


「再来週はまだわからないけど」


「わかりました」


 藤原はそれ以上何も言わなかった。


 勤務表をもう一度見てから、ロッカーへ向かった。


     *


 翌週。


 午後一時半。


 昼のピークが終わり、藤原が廃棄商品を数えていた。


「水野さん」


「はい」


「どっか応援、入れないですかね」


「別の店?」


「うん」


「佐伯さんに言いました?」


「言った」


「昼がないんですよね」


「朝か夜ばっかり」


 藤原はサンドイッチを廃棄袋へ入れた。


「週二日だと、ちょっと厳しいんだよね」


「ああ」


 水野はようやく意味がわかった。


「月にすると、結構減るから」


「そうですよね」


「娘、来年受験だし」


「大学ですか」


「本人は行きたいって」


「それは金かかりますね」


「ねえ」


 藤原は笑った。


「母の病院もあるし。掛け持ち探そうかな」


「閉店まで?」


「うん」


「時間合うところあるといいですけど」


「そこなのよ」


 勤務できる時間は変わっていない。


 必要な金額も変わっていない。


 勤務表に書かれる日数だけが減っていた。


     *


 その日の夕方。


「藤原さん。一個あった」


 佐伯が言った。


「昼ですか?」


「いや。十七時から二十二時」


「ああ」


「駅向こう」


 藤原は少し考えた。


「難しいです」


「だよね」


「すみません」


「謝ることじゃないよ」


 佐伯は紙を畳んだ。


「また昼が出たら言う」


「お願いします」


 佐伯は本当に探していた。


 藤原を辞めさせたいわけではない。


 六年働いた人間がそのまま系列店へ移ってくれたほうが、店側だって楽だった。


 ただ、


 空いている時間と、


 藤原が働ける時間が、


 合わなかった。


     *


「藤原さん、閉店したあとどうするんですか?」


 休憩中、陽葵が訊いた。


 藤原は紙パックのカフェオレを飲んでいる。


「まだ決まってない」


「辞めちゃうんですか?」


「できれば続けたいんだけどね」


「コンビニ?」


「うん」


「好きなんですか?」


 藤原が吹き出した。


「好きっていうほどでもないよ」


「じゃあ何で?」


「もう覚えたから」


「ああ」


「六年やって、また別の仕事一から覚えるの面倒じゃない?」


「それはわかります」


「レジも宅配も公共料金も、何も考えなくてもできるし」


「藤原さん何でもできますもんね」


「何でもはできないよ」


「私よりできます」


「そりゃ陽葵ちゃんより長いから」


「じゃあ別のコンビニ行けばいいのに」


「時間が合えばね」


 藤原はカフェオレを一口飲んだ。


「昼があれば、そのまま移りたいんだけど」


「辞めたいわけじゃないんですね」


「別に辞める理由ないもの」


 藤原はあっさり言った。


     *


 さらに一週間が過ぎた。


「ここ、どう思う?」


 藤原が水野にスマートフォンを見せた。


 近所のスーパー。


 惣菜部門。


 午前九時から午後二時。


 週四日。


「いいじゃないですか」


「時間はね」


「家から近いんです?」


「自転車で十五分くらい」


「今より近いじゃないですか」


「そう」


 藤原は画面を下へ送った。


「ただ、すぐ働ける人だって」


「ああ」


 閉店まで、まだ二か月近くある。


 待てば、この求人はなくなるかもしれない。


「最後までいたら間に合わないですね」


「そうなのよ」


「閉店してから何も決まってないのも困りますよね」


「そうなのよ」


 同じ答えを二度言って、藤原は笑った。


「佐伯さんに相談したらどうです?」


「そうする」


     *


「受けたほうがいいよ」


 佐伯は即答した。


「いいんですか?」


「いいよ」


「でも閉店まで」


「閉店する店に付き合って仕事逃すことないでしょ」


「人、足ります?」


「何とかする」


「本当に?」


「何とかするしかないから」


 佐伯が笑った。


「受かってから考えればいいよ」


「ありがとうございます」


「決まったら早めに言って」


「はい」


 藤原は応募した。


     *


 三日後。


「受かった」


 藤原が陽葵へ言った。


「本当ですか?」


「うん」


「よかったじゃないですか」


「うん」


 藤原は笑っていた。


「いつから?」


「再来週」


「早い」


「すぐ働ける人って書いてあったからね」


「じゃあ」


 陽葵は少しだけ間を置いた。


「ここ、辞めるんですか?」


「そうなるね」


「そっか」


「何、その顔」


「いや」


「閉店したら、みんないなくなるんだから」


「そうですけど」


「二か月早いだけ」


 藤原はそう言った。


     *


 佐伯が事務所の引き出しから一枚の紙を出した。


「じゃあ、これ」


「はい」


「退職日ここ。日付と名前」


「はい」


「理由は、まあ一身上の都合で」


「わかりました」


 藤原は紙を受け取った。


 退職届。


 会社名。


 所属店舗。


 氏名。


 退職年月日。


 理由。


 定型の欄が並んでいる。


「いつまでに?」


「今週中でいいよ」


「わかりました」


 藤原は紙を鞄へ入れた。


     *


 翌日。


 午後二時過ぎ。


 藤原は事務所の低い椅子に座っていた。


「これ、ほんと低いね」


「壊れてるんじゃないですか」


 陽葵が言う。


「六年座ってるけど、年々低くなってる気がする」


「藤原さんが伸びてるんじゃないですか」


「四十六で?」


 二人とも笑った。


 藤原はボールペンを持った。


 日付。


 退職日。


 氏名。


 藤原由美。


 一文字ずつ、いつもの字で書く。


 最後に理由欄。


 少しだけペンが止まった。


 そして、


《一身上の都合により退職いたします》


 と書いた。


「本当に辞めちゃうんですね」


 陽葵が言った。


「何よ、今さら」


「前、辞める理由ないって言ってたから」


「ああ」


 藤原は紙を見る。


「辞めたいっていうか」


 少し考える。


「辞めるなら、今かなって」


「それ、辞めたいとは違いますよね」


「違うかな」


「たぶん」


「でも、ここなくなるじゃない」


「そうですけど」


「だったら早いか遅いかだけだよ」


 藤原は続きを書いた。


 印を押す。


 朱肉が少し濃くついた。


「あ」


「失敗です?」


「いや、大丈夫でしょ」


 ティッシュで端を軽く押さえる。


 本人の字。


 本人の印。


 藤原は紙を持って立ち上がった。


     *


「はい、ありがとう」


 佐伯が退職届を受け取った。


 日付。


 退職日。


 氏名。


「印もあるね」


「大丈夫です?」


「うん」


 確認して机の右側へ置く。


 そこへ水野が伝票を取りに入ってきた。


「藤原さんの?」


「うん。次決まったから」


「よかったですね」


「スーパーの惣菜だって」


「時間もちょうどいいですもんね」


 水野は紙に目を落とした。


《一身上の都合》


「自己都合ですね」


「まあね」


 佐伯が答える。


「本人が次の仕事決めたんだから」


「そうですね」


 そこへ木村が入ってきた。


「藤原さん、本当に辞めるの?」


「うん」


「次決まったから」


「よかったじゃない」


「そうですね」


 水野が言った。


 木村は机の退職届を見る。


「でも」


「何?」


「あの人、辞めたかったわけじゃないでしょう」


 佐伯の手が止まった。


「まあ……」


「ここ閉まるからでしょ」


「それはそうだけど」


「昼に入れなくなったからでしょ」


「それもあるけど」


 木村は、


「ふうん」


 と言った。


 責めるような言い方ではなかった。


 本当に、


 ただ不思議そうだった。


     *


「じゃあ、店が辞めさせたってことですか?」


 あとで話を聞いた陽葵が言った。


「いや、それは違うよ」


 佐伯が答えた。


「藤原さんが応募したんだろ」


「はい」


「本人が向こう行くって決めた」


「はい」


「俺、辞めろなんて一回も言ってないし、別店舗も探した」


「それも知ってます」


「だったら」


「でも、週二日に減ったんですよね」


 佐伯が黙った。


「それは店の都合ですよね」


「人時だからな」


「じゃあ藤原さんの都合じゃないですよね」


「高橋」


 水野が止めた。


「店長責めてもしょうがないだろ」


「責めてないです」


「そう聞こえる」


「じゃあ、誰が悪いんですか」


「誰も悪くないだろ」


 水野は言った。


「店が閉まる。昼は他店も空いてない。藤原さんは夜出られない。次の仕事が見つかった。だから辞める。それだけじゃない?」


「そうなんですけど」


「本人が決めたってことでいいだろ」


「そうなんですけど」


「さっきからそればっかりだな」


「だって」


 陽葵は退職届を見る。


「全部本当なのに、何か違うから」


 誰も答えなかった。


     *


 藤原の最終勤務日。


 特別なことはしなかった。


 木村が小さな紙袋を渡した。


「これ」


「何です?」


「お菓子」


「いいのに」


「いいから」


「ありがとうございます」


 陽葵は、


「向こうでも頑張ってください」


 と言った。


「惣菜だよ」


 藤原が笑う。


「今度は一日中揚げ物してるかも」


「藤原さんならフライヤー慣れてるじゃないですか」


「種類が違うでしょ」


 昼になった。


 客が増える。


 藤原はいつも通り二番レジを開けた。


「二番目にお待ちのお客様、こちらへどうぞ」


 宅配便。


 公共料金。


 弁当。


 煙草。


 コピー機。


 午後一時五十八分。


 レジ点検。


 違算なし。


 二時。


「じゃあ、お先に失礼します」


「お疲れさまでした」


 いつもの言葉だった。


 藤原はバックヤードで制服を脱ぐ。


 名札を外す。


 ロッカーから私物を出す。


 ボールペン。


 ハンドクリーム。


 予備のマスク。


「忘れ物ないです?」


 陽葵が訊く。


「ないと思う」


「また買い物来てくださいね」


「来るよ。閉まるまでは」


「なんか変ですね」


「何が?」


「客になるの」


「ああ」


 藤原は笑った。


「じゃあ今度から『いらっしゃいませ』って言って」


「言いますよ」


「ちゃんとね」


 バッグを肩へ掛ける。


「じゃあ、本当にお世話になりました」


 今度だけ、言葉が違った。


 佐伯が頭を下げる。


「こっちこそ。六年ありがとう」


「ありがとうございました」


 水野も、


「お疲れさまでした」


 と言った。


 陽葵も、


「お疲れさまでした」


 と言った。


 自動ドアが開く。


 藤原が出ていく。


 閉じる。


 三秒ほどして、


 また開いた。


「いらっしゃいませ」


 水野は反射的に言った。


 入ってきたのは、


 別の客だった。


     *


 次の週。


 新しい勤務表が貼られた。


 藤原由美という名前が消えていた。


 火曜日。


 九時から十四時。


 水野。


 木曜日。


 九時から十四時。


 陽葵。


 土曜日。


 九時から十三時。


 佐伯。


 昼の十二時から十三時に、一人少ない時間があった。


「ここ足りなくないです?」


 水野が指す。


「足りないな」


 佐伯が腕を組む。


「木村さんは?」


「その日駄目」


「陽葵は?」


「授業」


「じゃあ俺出ます」


「夜もだぞ」


「わかってます」


「長くなるぞ」


「一時間だけなら」


 佐伯が水野を見る。


「……悪い」


「大丈夫です」


 勤務表へ、水野の名前が書き足された。


 藤原の勤務時間を減らしたのは、人時を抑えるためだった。


 けれど、


 人時を減らしたからといって、


 昼の客が一人減るわけではなかった。


 宅配便も、


 公共料金も、


 コピー機も、


 十二時から十三時だけ止まってはくれない。


 必要になった一時間を、


 結局、そこにいる社員が埋めた。


     *


 その日の昼。


 予想通り、混んだ。


「二番レジお願いします!」


「はい」


 水野が入る。


 公共料金。


 煙草。


 宅配便。


「これ冷凍ですか?」


「はい。クール便なので――」


 その横でコーヒーマシンのエラー音。


「水野さん!」


「ちょっと待って!」


 フライヤーが鳴る。


 コピー機の前から客が手を挙げる。


「すいませーん!」


「はい、今行きます!」


 列が途切れたのは、十二時二十七分だった。


 陽葵が息を吐く。


「藤原さんいたら楽でしたね」


「そうだな」


「宅配、全部やってくれたし」


「そうだな」


「コピーも」


「そうだな」


「公共料金も速かった」


「そうだな」


「なんか他にないんですか」


「疲れた」


 陽葵が笑った。


 水野も笑った。


     *


 閉店準備は少しずつ進んでいた。


 古い書類。


 販促物。


 契約関係の控え。


 使わなくなったマニュアル。


「この辺、年度ごとに分けといて」


 佐伯に言われ、


 水野は事務所の棚からファイルを出した。


 退職者関係。


 何人分もの書類が綴じられている。


 名前を見ても、もう顔を思い出せない人もいる。


 その中へ、


 一枚追加する。


 藤原由美。


 退職届。


 水野は穴を合わせる。


《一身上の都合により退職いたします》


 六年間、


 発注メモや引き継ぎノートで何度も見た字だった。


「水野さん?」


 売場から陽葵の声。


「はい」


「レジお願いします」


「今行く」


 水野は退職届をファイルへ綴じた。


 金具を閉じる。


 ぱちん、と乾いた音がした。


 書類には、


 退職日がある。


 理由もある。


 印もある。


 全部、本当だった。


 水野はファイルを棚へ戻した。


     *


 夕方。


 勤務表には、


 藤原の名前はもうなかった。


 代わりに、


 水野。


 陽葵。


 佐伯。


 ほかの従業員の名前が並んでいる。


「水野さん」


 陽葵がレジから呼んだ。


「二番お願いします」


「はい」


 水野は勤務表から離れる。


 売場へ出る。


「お待たせしました。二番目のお客様、こちらへどうぞ」


 客から商品を受け取った。


 弁当。


 お茶。


 煙草。


 事務所の棚には、


 一枚の退職届が増えていた。


 本人の字で、


 本人が書いたものだった。


 ◇ ◇ ◇


【第4話 防犯カメラには事故が映っていない】


 音だけだった。


 ガタン、と。


 店の奥で、何か大きなものが倒れた。


 午後六時十九分。


 夕方のピークに入りかけていた。


「温めお願いします」


「はい」


 水野浩一は弁当を受け取り、電子レンジへ入れた。


 二番レジでは高橋陽葵が公共料金の払込票を読み取っている。


 店内には七、八人ほど客がいた。


 コーヒーマシンが動いている。


 自動ドアが開く。


「いらっしゃいませー」


 陽葵の声。


 その直後だった。


 ガタン。


 続いて、


 ドン。


 何かが床に当たった。


 陽葵が顔を上げた。


 水野もバックヤードを見る。


「何?」


「小野寺さんじゃないですか」


 夕勤の小野寺亮が、少し前にバックヤードへ入っていった。


 水野はレンジの残り時間を見る。


 二十八秒。


 レジの客を見る。


「すみません、少々お待ちください」


 バックヤードへ走った。


「小野寺?」


 返事がない。


 事務所の横を抜ける。


 奥。


 棚の陰。


「小野寺!」


 床に人が倒れていた。


 その横に、


 開いたままの脚立。


 上段から落ちた紙コップの箱。


 白いカップが何十個も、床に散らばっていた。


     *


 翌日の午前十一時。


 脚立は畳まれていた。


 バックヤードの壁際に、ぴたりと立てかけられている。


 誰も触ろうとしなかった。


「これですか?」


 陽葵が訊いた。


「うん」


 昨日、小野寺が使った脚立。


 アルミ製の小型のものだった。


 特別古くもない。


 店では何年も使っている。


 水野は脚立を壁から離した。


 床へ置く。


 開く。


 ロックをかける。


 上から体重をかける。


 ぐらつかない。


「壊れてないんですか?」


「見た感じは」


「じゃあ何で落ちたんです?」


「それがわかれば苦労しない」


 小野寺は左手首を骨折していた。


 背中も強く打った。


 入院するほどではなかったが、しばらく仕事には出られない。


 昨夜、病院から佐伯へ連絡があった。


 本人にも、何が起きたのかはよくわからないという。


 上の箱へ手を伸ばした。


 次に覚えているのは床だった。


「足滑らせたんですかね」


「かもしれない」


「箱、重かった?」


「紙コップだぞ」


「じゃあ軽いですよね」


「軽い」


 陽葵は開いた脚立を見る。


「これで落ちるんだ」


「脚立だからな。落ちるときは落ちるだろ」


「水野さんも使いますよね」


「使うよ」


「私も使ったことある」


「あるだろ」


「店長も」


「ある」


 陽葵は黙った。


 壊れているものなら、


 話は簡単だった。


 壊れた脚立を使った。


 だから落ちた。


 しかし脚立は、


 普通に立っていた。


     *


 佐伯店長は事務所で、事故報告書を前にしていた。


「何時だっけ」


「六時十九分です」


「十八分じゃなくて?」


「救急呼んだのが二十二分なんで、たぶん十九分」


「一応カメラで確認するか」


 佐伯は書き込む。


 発生日時。


 発生場所。


 負傷者。


 作業内容。


 負傷状況。


 そして、


《事故状況》


 そこでペンが止まった。


「何て書くかな」


 水野が横から見る。


「上段棚から備品を取るため脚立を使用。作業中に転落」


「まあ、そうだよな」


 佐伯が書く。


 それ以上が書けない。


「バランスを崩した?」


「本人、覚えてないって言ってましたよ」


「そうなんだよ」


「脚立が動いたとか?」


「わからん」


 佐伯はペン先で紙を叩いた。


「カメラ見るか」


     *


 店の防犯カメラは、


 売場だけを映しているわけではない。


 バックヤードにも一台ある。


 ただし、すべての場所を監視できるように設置されているわけではなかった。


 画面に映るのは、


 事務所前。


 バックヤード入口。


 通路の途中。


 問題の収納棚は、


 そのさらに奥だった。


「ここですよね」


 陽葵が画面の右端を指した。


「この向こう」


「完全に映ってないな」


 佐伯が椅子へ座る。


 事故当日の映像。


 午後六時十八分。


 売場側から小野寺が戻ってくる。


 画面を横切る。


 脚立を手に取る。


 奥へ消える。


「ここからですね」


 十八秒。


 二十秒。


 三十秒。


 誰も映らない。


 画面には、


 事務所の入口と、


 誰もいない通路だけが映っている。


 そのまま数秒。


 何も起きない。


 そして、


 画面の左側から水野が走り込んでくる。


 奥へ消える。


 さらに陽葵。


「……終わりですね」


「終わりだな」


 佐伯が再生を止める。


 陽葵が言った。


「事故、映ってない」


 水野も画面を見る。


 小野寺が脚立を持って、


 奥へ消えた。


 次に映ったのは、


 そこへ走っていく自分だった。


 間に起きたことは、


 何一つ映っていない。


「これじゃわからんな」


 佐伯が言った。


「ですね」


 水野は少し考えた。


「……ちょっと戻してもらえます?」


「どこまで?」


「五分くらい」


     *


 午後六時十三分。


 小野寺がバックヤードへ入る。


 収納棚のほうへ歩いていく。


 すぐに戻る。


 売場へ出る。


 二分後。


 また戻ってくる。


 何かを確認する。


 売場へ戻る。


「何してるんだ?」


 佐伯が訊く。


「あ」


 陽葵が言った。


「この日、紙コップなくなったんです」


 水野も思い出した。


 アイスコーヒー用のカップ。


 夕方になって、手前の在庫が切れた。


 陽葵がレジから言った。


『水野さん、アイスのカップ、もうないです』


 水野は答えた。


『予備、バックの上』


 それだけ。


「俺が言ったんだ」


「別に水野さんが悪いって話じゃないですよ」


「いや」


 水野は画面を見る。


 小野寺が売場へ戻っている。


 客が並ぶ。


 一番レジ、陽葵。


 二番レジ、水野。


 小野寺も一度レジ応援へ入る。


 列が減る。


 再びバックヤード。


 脚立を持つ。


 奥へ消える。


 事故。


「急いでたんですかね」


 陽葵が言う。


「急げとは言ってないぞ」


「言ってないです」


「俺も普通に『上にある』って言っただけだし」


 画面の売場側では、


 次々と人が動いている。


 夕方六時。


 早くしろ、と誰かが命令したわけではない。


 けれど、


 客が並んでいるときに、


 ゆっくり紙コップを取りに行こう、


 とも思わない。


「これだけじゃ原因じゃないな」


 水野が言った。


「何が?」


 佐伯が見る。


「急いでたこと」


「まあな」


「急いでたとしても、それだけで落ちるわけじゃないし」


「そうだな」


 水野は画面を見たまま言った。


「前の映像、見られます?」


     *


 一週間前。


 午後七時十一分。


 小野寺が脚立を持って奥へ消える。


 一分もしないうちに戻ってくる。


 両腕に段ボール箱。


「普通ですね」


 陽葵が言う。


「普通だな」


 二日前。


 佐伯が脚立を持っていく。


「あ、俺」


 箱を取って戻る。


 何も起きない。


 別の日。


 水野。


「俺もだ」


 脚立を持って奥へ消える。


 しばらくして、清掃用品の箱を持って戻る。


「結構使ってるな」


 佐伯が言った。


「全員やってますね」


「脚立使うこと自体は普通だからな」


「上にありますしね」


 水野が画面を見る。


 小野寺。


 佐伯。


 水野。


 違う日。


 同じ脚立。


 同じ棚。


 何も起きない。


「もう少し前」


 水野が言った。


「何で?」


「何となく」


     *


 三週間前。


「あれ?」


 今度は陽葵が気づいた。


「何?」


「広くないですか?」


 バックヤード。


 同じカメラ。


 同じ場所。


 しかし、


 今より床が見えている。


「ほんとだ」


 水野が言った。


 現在は、


 返送予定の販促物や段ボール。


 外した棚板。


 使わなくなった什器の部品。


 処分予定の書類。


 返送する制服の箱。


 そういうものが画面の右側へ積まれている。


 三週間前には、


 何もない。


 佐伯が映像を少し先へ進めた。


 翌日。


 段ボールが一箱置かれる。


 さらに数日後。


 もう一箱。


 その横に棚板。


 別の日には書類。


 少しずつ、


 床が消えていく。


「こんなに増えてたんだ」


 陽葵が言う。


「毎日見てたけどな」


 佐伯が答えた。


 一日で段ボールが十箱積まれたわけではない。


 一箱。


 翌日に一箱。


 一週間後に什器。


 少し空いた場所へ書類。


 それぞれ置く理由はあった。


 閉店までには処分する。


 業者が来たら返す。


 あとで分別する。


 一時的なものだった。


 一時的なものが重なって、


 三週間経っていた。


「脚立」


 水野が言った。


「昔の映像、止めて」


 三週間前。


 小野寺が脚立を持っている。


「ここ」


 脚立を棚の正面へ置く。


 十分に開く。


 登る。


 箱を取る。


 降りる。


「次、事故の数日前」


 佐伯が映像を切り替える。


 小野寺が脚立を置く。


 棚の正面には段ボールがある。


 それを避ける。


 少し左。


 斜め。


「位置、違うな」


 水野が言った。


「この箱があるからだな」


 佐伯が画面を指す。


 別の日。


 水野も同じ位置。


 さらに別の日。


 佐伯も。


「俺も斜めだ」


 佐伯が呟く。


 脚立は使えていた。


 開ける。


 登れる。


 箱も取れる。


 だから、


 そのままだった。


「これ、危ない置き方なんですか?」


 陽葵が訊く。


「危ないって言われたら、危ないんだろうな」


 佐伯が答えた。


「でも」


 水野が言う。


「俺も店長も普通に使ってる」


「そうだな」


 誰か一人だけが、


 変な使い方をしていたわけではなかった。


     *


 映像をさらに遡る。


「あ」


 陽葵が声を出した。


「これ」


 十日ほど前。


 午後五時四十分。


 小野寺が脚立へ登っている。


 事故現場そのものは映らない。


 しかし脚立の下半分だけが、


 画面の端に少し見えている。


 脚立が動いた。


 一瞬。


 次の瞬間、


 小野寺が画面へ戻ってくる。


 床へ降りたらしい。


 何事もなく立っている。


 近くに別の従業員。


 二人が話している。


 笑っているようにも見える。


「これ、俺じゃないな」


「私です」


 陽葵が言った。


「覚えてる?」


「……あ」


 顔が変わる。


「小野寺さん、この日言ってました」


「何て?」


「『これ、ちょっと危ないな』って」


 水野と佐伯が陽葵を見る。


「何が危ないって?」


「脚立なのか、場所なのか……そこまでは」


「高橋は何て言った?」


「私?」


 陽葵は考えた。


「『気をつけてくださいよ』って」


 佐伯が画面を見る。


「それで終わり?」


「終わりです」


「報告とかは?」


「してないです」


「まあ、しないよな」


 佐伯が言った。


 小野寺は怪我をしていない。


 脚立も壊れていない。


 箱も取れた。


 笑っていた。


 その日の仕事は終わった。


 翌日も、


 同じ脚立を使った。


     *


「私も言ったことあるわよ」


 午後から来た木村が、話を聞いて言った。


「何を?」


「上の物取るとき、一人でやらないでって」


「誰に?」


「誰っていうか、みんなに」


「そうでしたっけ」


「言ったわよ。危ないもの」


 水野が訊く。


「木村さん、自分で取ったことないです?」


 木村が黙った。


「あるでしょ」


「……あるわよ」


「ですよね」


「しょうがないじゃない。レジ混んでるのに、いちいち呼べないときあるもの」


「俺もそうです」


「だから気をつけてやるのよ」


 木村は言った。


 そこで少し止まった。


「……気をつけて、ねえ」


 危ないから、


 二人でやる。


 でも人がいない。


 呼べば、別の仕事が止まる。


 だから一人でやる。


 危ないから、


 気をつける。


 それで昨日までは、


 何も起きなかった。


     *


 事故前日の映像。


 午後八時四分。


 小野寺が脚立を使っている。


 少しして、


 水野が奥へ入った。


「あ」


 画面の端に、


 水野の腕だけが見える。


「何してるんです?」


「たぶん脚立押さえてる」


「覚えてます?」


「全然」


 小野寺が箱を抱えて降りる。


 水野が手を離す。


 二人とも売場へ戻る。


「昨日は押さえてたんだな」


 水野が言った。


 佐伯も画面を見る。


「次の日は?」


「一人です」


 同じ場所。


 同じ脚立。


 小野寺は一人で奥へ行った。


 そして落ちた。


「でも」


 水野が言う。


「前の日に俺が押さえてたから無事だった、って話でもないですよね」


「それ以前は一人でやってるからな」


「ですよね」


 どれか一つだけを指して、


 これが原因だ、


 とは言えなかった。


     *


 事故報告書は、


 まだ机の上にあった。


《脚立使用中にバランスを崩し転落》


 佐伯がそれを見る。


「これ自体は間違ってないんだよな」


「ですね」


「小野寺がバランス崩して、落ちた」


「それは事実です」


 水野は三週間分の映像を見る。


「でも」


「うん?」


「これだけ書いたら、小野寺が変なことしたみたいですね」


 佐伯が少し黙った。


 水野は続ける。


「脚立は斜めだった」


「うん」


「通路狭かった」


「うん」


「夕方で急いでたかもしれない」


「うん」


「一人だった」


「うん」


「でも、全部、俺らもやってた」


 佐伯は事故報告書を見下ろす。


「どれが原因かわからんな」


「原因って決めなくてもいいんじゃないですか」


「どういうこと?」


「状況として書けば」


 佐伯が水野を見る。


「通路が狭くなってたこととか」


「ああ」


「脚立の位置が変わってたこととか」


 少し考えて、


 佐伯はペンを持った。


「そうだな」


     *


 文章が少し増えた。


《閉店準備に伴う返送物・処分予定品の一時保管により、バックヤード通路幅が従来より狭くなっていた》


《そのため脚立の設置位置が通常位置からずれていた》


《同様の作業は以前から複数従業員が行っていた》


 佐伯はペンを止める。


「こうか」


「いいと思います」


「再発防止は?」


「片づける」


 陽葵が言った。


「上の紙コップも下ろしましょうよ」


「場所ある?」


「作ればいいんですよ」


「簡単に言うなあ」


 木村が言った。


「事故起きたんだからやりなさいよ」


「はいはい」


 佐伯が笑った。


     *


 その日の午後。


「これ捨てていいですよね」


「それ返送」


「こっちは?」


「廃棄」


「この棚板何です?」


「前の什器」


「いります?」


「いらない」


「じゃあ捨てます」


 バックヤードの片づけが始まった。


 段ボールを潰す。


 古い販促物を分ける。


 返送品を一か所へまとめる。


 書類を事務所へ移す。


 使わない備品を処分する。


 一時間ほどで、


 床が出た。


「広っ」


 陽葵が言った。


「元々このくらいだったんだよ」


 佐伯が答える。


 脚立を棚の正面へ置く。


 十分に開ける。


 人が横を通れる。


「紙コップ、下でよくないですか」


 陽葵が言う。


「毎日使うし」


「そうするか」


 上段の紙コップを下ろす。


 テイクアウト用の容器も。


 よく使うものを下へ。


 使わないものを上へ。


 作業は、


 あっけないほど簡単に終わった。


 水野は広くなった床を見る。


「これ」


「何?」


 佐伯が訊く。


「前からできましたよね」


 誰も答えなかった。


 できた。


 たぶん一時間あればできた。


 けれど昨日までは、


 その一時間を今日使う理由がなかった。


 段ボールがあっても通れた。


 脚立が斜めでも使えた。


 少し危なくても、


 気をつければよかった。


 実際、


 それで何週間も何も起きなかった。


 だから片づけは、


 明日でもよかった。


     *


 数日後。


 小野寺から店に電話があった。


 佐伯が受話器を取り、水野へ渡す。


「お前に代わってって」


「俺?」


「ほら」


「もしもし」


『お疲れさまです』


「どう?」


『痛いっす』


「だろうね」


『店、大丈夫ですか』


「こっちの心配かよ」


『シフト穴開けたんで』


「それは何とかしてる」


『すみません』


「謝らなくていいよ」


 手首の具合。


 病院。


 いつ頃戻れそうか。


 少し話したあと、


 水野が言った。


「落ちたとき、本当に何も覚えてない?」


『ないですね』


「足滑ったとか」


『たぶんバランス崩したんだと思うんですけど』


「うん」


『すみません、俺の不注意で』


 水野は少し黙った。


「いや」


『え?』


「バック、片づけたよ」


『ああ』


「紙コップも下にした」


『そうなんすか』


「戻ってきたら、あれ取るのに脚立使わなくていい」


『俺が落ちる前にやってくださいよ』


 小野寺が笑った。


 水野も笑った。


「ほんとだよ」


     *


 防犯映像は、


 もう一度だけ見た。


 報告のためではない。


 水野が何となく見たくなっただけだった。


 事故の二週間前。


 午後六時二十五分。


 小野寺が脚立を持っていく。


 奥へ消える。


 四十秒ほどして戻ってくる。


 箱を抱えている。


 何も起きない。


 翌日。


 佐伯。


 何も起きない。


 その翌日。


 水野。


 何も起きない。


 小野寺。


 何も起きない。


 別の日。


 小野寺。


 少しよろける。


 降りる。


 陽葵と笑う。


 何も起きない。


 次の日。


 また誰かが使う。


 何も起きない。


 防犯カメラには、


 事故が映っていなかった。


 事故の日だけではない。


 その前の日にも。


 さらにその前の日にも。


 映っているのは、


 事故が起きなかった日ばかりだった。


 段ボールが一箱増えた日。


 脚立を少し斜めにした日。


 一人で上へ登った日。


「危ないな」


 と言って、


 何も起きなかった日。


「気をつけて」


 で終わった日。


 翌日も無事だった。


 また次の日も。


 何度やっても、


 事故は起きなかった。


 それが、


 いつものやり方になった。


 水野は再生を止めた。


 事故そのものは映っていない。


 けれど、


 事故の日までの店は、


 全部映っていた。


     *


 翌日の午後六時。


「水野さん」


「はい」


「アイスのカップ、予備どこでしたっけ」


 陽葵がレジから訊いた。


「バック」


「上?」


「下」


「あ、そっか」


 陽葵がバックヤードへ入る。


 数秒後。


 箱を抱えて戻ってくる。


「ありました」


「はい」


 それだけだった。


 脚立は壁際に畳まれたまま。


 使う必要がなかった。


 客がレジへ来る。


「これお願いします」


「はい」


 水野は商品を受け取った。


 おにぎり。


 ペットボトルのお茶。


 アイスコーヒー。


「袋はよろしいですか?」


「お願いします」


「三円になります」


「はい」


 自動ドアが開く。


「いらっしゃいませ」


 閉じる。


 バックヤードでは、


 今日も防犯カメラが動いている。


 映像には、


 事故は映っていない。


 昨日までと同じだった。


 ただ今日、


 何も起きなかった理由は、


 昨日までとは少し違っていた。


 ◇ ◇ ◇


【第5話 クレームは解決済みになっている】


 午前十一時十三分。


 佐伯店長は、事務所のパソコン画面を見たまま言った。


「水野」


「はい」


「昨日の九時十四分って、誰?」


 水野浩一は飲みかけの缶コーヒーを机へ置いた。


「九時十四分?」


「夜」


「シフトですか」


「うん」


 事務所の壁に貼られた勤務表を見る。


 二十一時台。


「柴田ですね」


「だよな」


「何かありました?」


「これ」


 佐伯が少し椅子を引いた。


 水野は横から画面を覗く。


 件名。


《お客様ご意見受付 要対応》


「ああ」


 この件名だけで、大体どういうものかはわかる。


 お客様相談窓口へ寄せられた申し出が、本部を経由して店舗へ送られてきたものだ。


 水野も店長代理として、これまで何度も見ている。


 画面を読む。


《十一月十八日 二十一時十四分頃》


《クローバーマート東坂下店利用》


《弁当、飲料、フライドチキン一個を購入》


《帰宅後、フライドチキンが入っていないことに気づいた》


《レシート上では精算済み》


 その下。


《お客様ご申告》


《金額の問題ではない。仕事を終えて帰宅し、食べようとした際に商品がないことに気づいた。再度店舗まで取りに行くこともできなかった。同様のことが起きないようにしてほしい》


 水野は最後まで読んだ。


「チキン一個か」


「うん」


「返金希望?」


「そこまで強く言ってないみたい。店舗から連絡希望」


「じゃあ、まず確認ですね」


「カメラ見るか」


     *


 二十一時十四分。


 前日の防犯映像には、柴田奈緒が映っていた。


 大学一年生。


 十九歳。


 働き始めて五か月になる。


 画面の中の柴田はレジに立っている。


 客は四人。


 先頭は五十代くらいの男性。


「この人か」


 佐伯が言った。


「たぶん」


 レジデータと時刻を合わせる。


 宮本修司。


 相談窓口へ連絡した本人だった。


 宮本が弁当を置く。


 ペットボトルのお茶。


 レジ横を指さす。


 柴田がフライドチキンを一個取り、


 専用の袋へ入れる。


「ここまではある」


「ありますね」


 柴田はチキンをレジの奥へ置いた。


 弁当を温める。


 飲料を通す。


 袋を用意する。


 弁当が温まる。


 袋へ。


 飲料も入れる。


 そのとき、


 次の客が公共料金の払込票を三枚カウンターへ置いた。


 柴田が一瞬そちらを見る。


 宮本へ袋を渡す。


 宮本が帰る。


 レジの奥には、


 フライドチキンだけが残った。


「あー」


 佐伯が小さく言った。


「完全にこっちですね」


「だな」


 商品の入れ忘れ。


 店側のミス。


 映像を少し進める。


 公共料金。


 煙草。


 宅配便。


 柴田は次の客を処理している。


 フライドチキンだけが、


 ずっと同じ場所にある。


「気づかなかったんですね」


「忙しかったんだろうな」


「まあ」


 忙しかった。


 それは事実だった。


 商品を入れ忘れた。


 それも事実だった。


「夕方来たら聞きます?」


「そうする」


 佐伯は映像を止めた。


     *


 午後五時二分。


「おはようございまーす」


 柴田が入ってきた。


「おはよう」


 いつもと同じだった。


 バックヤードへ入ろうとしたところで、佐伯が呼ぶ。


「柴田さん、着替えたらちょっといい?」


「はい」


 一瞬だけ、


 柴田の表情が変わった。


     *


「昨日の夜なんだけど」


「はい」


「九時過ぎ」


「はい」


「フライドチキン、入れ忘れてる」


 柴田の目が大きくなった。


「え?」


「お客さんから連絡来てる」


「えっ」


 佐伯は画面を見せた。


 柴田自身がチキンを袋へ入れる。


 レジ奥へ置く。


 弁当。


 飲料。


 次の客を見る。


 袋を渡す。


「あ……」


 柴田は口元へ手を当てた。


「これ」


「うん」


「私です」


「うん」


「すみません」


「俺に謝ってもしょうがないけどね」


「はい……」


「ミスはミスだから、次から渡す前に一回確認しよう」


「はい」


「忙しいときほど」


「はい」


「お客さんには俺から電話する」


「私が電話しなくていいんですか?」


「店への申し出だから。店長からでいい」


「……はい」


「じゃあ仕事入って」


「はい」


 柴田は頭を下げた。


「すみませんでした」


「次、気をつけて」


 それで終わった。


     *


 午後五時二十八分。


 佐伯が電話をかけた。


「お電話失礼いたします。私、クローバーマート東坂下店、店長の佐伯と申します」


 水野は横で伝票を整理していた。


「昨日のお買い物の件で、お客様相談窓口よりご連絡をいただきまして――はい」


 佐伯の声は普段より少し低い。


「防犯映像とレジ記録を確認いたしました。こちらで商品を袋へ入れ忘れております。大変申し訳ございませんでした」


 相手が何か言う。


「はい」


 佐伯が頷く。


「おっしゃる通りです」


 少し長い沈黙。


「申し訳ございません」


 数分後。


「代金につきましては、次回ご来店の際に返金させていただければと――はい」


 受話器から男の声が少し漏れた。


『……金返してくれればいいって話じゃないんですよ』


「はい」


『仕事終わって帰って、食べようと思ったらないわけでしょう』


「申し訳ございません」


『また服着て車出して取りに行くのも違うじゃないですか』


「おっしゃる通りです」


 怒鳴ってはいなかった。


 声を荒らげてもいない。


「従業員本人にも確認しまして、今後は商品をお渡しする際の確認を徹底するよう指導しております」


 少し間があった。


『まあ、気をつけてもらえればいいです』


「申し訳ございませんでした」


『はい』


「失礼いたします」


 電話を切る。


 佐伯は受話器を置き、息を吐いた。


「よし」


「怒ってました?」


「そりゃ怒るだろ」


「返金は?」


「次来たとき」


「了解」


     *


《店舗にて防犯映像・レジ記録確認済み》


《商品入れ忘れを確認》


《当該従業員へ再指導》


《店長よりお客様へ謝罪》


《次回来店時、代金返金にてご案内》


《お客様了承》


 佐伯が入力する。


「こんなもんか」


「いいんじゃないですか」


「送るぞ」


「はい」


 送信。


 しばらくして、


 表示が切り替わる。


《対応状況》


《解決済み》


 佐伯が言った。


「終わった」


 水野も画面を見る。


「終わりましたね」


 事実確認。


 謝罪。


 従業員指導。


 返金案内。


 必要な対応は終わった。


 表示は、


《解決済み》


 だった。


     *


 午後六時四十分。


 自動ドアが開く。


「いらっしゃいませ」


 柴田が顔を上げる。


 五十代くらいの男性。


 一瞬、


 手が止まった。


 違う。


 六時五十一分。


 作業服。


 違う。


 七時七分。


 背の高い男性。


 また見る。


 違う。


「柴田さん」


 隣のレジにいた陽葵が言った。


「はい」


「さっきから入口ばっかり見てない?」


「見てないです」


「見てるよ」


 柴田は少し黙った。


「昨日のお客さん」


「ああ」


「どんな人だったかなって」


「カメラ見たでしょ?」


「見ましたけど」


 近くで品出しをしていた水野が言った。


「普通のおじさんだよ」


 柴田が困った顔をする。


「普通って一番わかんないです」


「確かに」


     *


 その夜から、


 柴田は袋の中を見るようになった。


 弁当。


 箸。


 唐揚げ。


 確認。


 次。


 肉まん。


 専用袋。


 レジ袋。


 確認。


 次。


 飲料。


 お菓子。


 ホットスナック。


 確認。


 もう一度見る。


「柴田さん」


 陽葵が言った。


「はい」


「見すぎじゃない?」


「でも入ってなかったら」


「一回見ればわかるでしょ」


「そうなんですけど」


 柴田は袋を閉じた。


     *


 三日後。


 午後八時十九分。


 自動ドアが開いた。


「いらっしゃいませ」


 柴田の声が少し固くなった。


 宮本だった。


 水野にはすぐわかった。


 宮本は店内へ入り、


 弁当と飲料を選んだ。


 そして、


 柴田のレジへ並んだ。


 水野は反射的に二番レジへ入ろうとした。


「二番――」


 声を出しかけて、


 やめた。


 宮本は柴田の列にいる。


 順番が来る。


「いらっしゃいませ」


 宮本は商品を置いたあと、


 折りたたんだレシートを出した。


「この前の」


「あ」


 柴田の顔が固まる。


「少々お待ちください」


「はい」


「店長お願いします」


 佐伯が出てくる。


 レシート確認。


 返金。


「この度は申し訳ございませんでした」


「もういいですよ」


 宮本は金を財布へ入れる。


「気をつけてもらえれば」


「申し訳ございません」


 佐伯が頭を下げる。


 柴田も、


「申し訳ございませんでした」


 と頭を下げた。


 宮本は帰り際、


 柴田を見る。


「今度はちゃんと入れてね」


「はい。申し訳ございませんでした」


「はい」


 宮本は出ていった。


 自動ドアが閉じる。


 佐伯が柴田を見る。


「ほら。もう大丈夫だよ」


「はい」


「気にしすぎない」


「はい」


 佐伯は事務所へ戻った。


 柴田は、


 次の客の商品を袋へ入れた。


 一回確認する。


 閉じる。


 また開く。


     *


 その後も、


 宮本は普通に店へ来た。


 もともとこの店を使っていた客なのだから、


 来なくなる理由はない。


 柴田は宮本が入店すると、


 まだ少しだけ体が固くなった。


 ある日、


 宮本は陽葵のレジへ並んだ。


 柴田は別の客を応対していた。


 ほっとした。


 その自分に気づいた。


     *


「私、あの人のこと嫌いになったのかな」


 休憩中。


 柴田が言った。


 陽葵は菓子パンを食べながら、


「嫌いっていうか」


 袋を畳む。


「怖いんじゃない?」


「怒鳴られてないんですけどね」


「怒鳴られたかどうかじゃないでしょ」


「でも私が悪かったし」


「それと怖いのは別じゃない?」


「別ですかね」


「両方ほんとでいいんじゃない」


 柴田は黙った。


「私が悪いのに、来ないでほしいって思うの、ひどくないですか?」


「知らない」


「知らないって」


「そこまでちゃんとした人じゃないから、私」


 陽葵は最後の一口を食べた。


     *


 数日後。


 水野がレジに立っていると、


 宮本が来た。


 弁当。


 お茶。


「あとチキン一個」


「はい」


 水野はフライドチキンを専用袋へ入れ、


 レジ袋へ入れる。


 そのまま渡そうとして、


 一度、中を見る。


 宮本が気づいた。


「今日は入ってるね」


 水野は笑った。


「確認しました」


 宮本も少し笑った。


「みんな確認するようになったの?」


「まあ」


「悪いことしたかな」


「何がです?」


「いや」


 宮本は財布から紙幣を出す。


「別に、あの子を怒ってほしかったわけじゃないんだけどね」


「はい」


「電話したら大事になっちゃって」


「窓口ですか」


「電話しただけなんだけどさ」


「はい」


「本部から店長から、全部行くんだね」


「そうですね」


「俺もクレーマーみたいになっちゃったな」


「商品なかったんだから、言ってもらっていいですよ」


「まあね」


 水野は釣り銭を渡した。


「じゃあ、どうしてほしかったんです?」


 宮本が少し考える。


「どうって?」


「返金でもなくて、柴田を怒ってほしいわけでもなかったなら」


「ああ」


 宮本は店内を見る。


「別に何してほしいってことでもないんだけど」


「はい」


「ただ」


 袋を持ち直す。


「入ってなかったってこと、知ってほしかったんですよ」


「知ってほしかった?」


「うん」


 宮本は少し笑った。


「仕事終わって帰って、飯にしようと思って袋開けたらない。腹立つじゃないですか」


「それはそうですね」


「だから、そういうことがあったって、知ってもらえればよかったんですよ」


 宮本は袋を持った。


「まあ、結果的に大事になっちゃったけど」


「ありがとうございました」


「どうも」


 宮本が出ていく。


 水野はその背中を少しだけ見た。


 柴田には、


 その話をしなかった。


     *


 さらに数日後。


 午後八時三十六分。


 宮本が来た。


 柴田も気づいた。


 水野も気づいた。


 宮本は弁当を選ぶ。


 ペットボトルのお茶。


 そして、


「チキン一つ」


「はい」


 柴田が答えた。


 水野は二番レジを開けなかった。


 柴田がフライドチキンを専用袋へ入れる。


 弁当を温める。


 飲料を通す。


 温まった弁当を袋へ。


 チキンも入れる。


 最後に、


 一度だけ中を見る。


 宮本が見ていた。


「そんな確認しなくても大丈夫だよ」


 柴田の手が止まる。


「確認することにしました」


「そう」


「はい」


 宮本は少し笑った。


「じゃあ、前より間違えないな」


「たぶん」


「それならいいや」


「ありがとうございました」


「どうも」


 宮本は帰った。


 それだけだった。


     *


 閉店準備で古いデータを整理していたある日。


 水野は宮本の案件を開いた。


《受付内容》


 商品入れ忘れ。


《事実確認》


 店舗過失確認。


《対応》


 店長謝罪。


 従業員指導。


 返金対応。


《対応状況》


 解決済み。


 全部、


 正しかった。


「高橋」


「はい?」


 陽葵が事務所を覗く。


「これ」


「宮本さん?」


「うん」


「解決済みですね」


「そうだな」


 水野は画面を見る。


 返金した日。


 対応完了日。


 きちんと記録されている。


「何です?」


「いや」


 水野は画面を閉じた。


     *


 夜。


 柴田がレジに立っていた。


「チキン一つください」


「はい」


 知らない客だった。


 専用袋。


 レジ袋。


 弁当。


 飲料。


 チキン。


 柴田は袋の中を確認した。


 一度だけだった。


「お待たせしました」


「どうも」


「ありがとうございました」


 ◇ ◇ ◇


【第6話 明日の勤務表には誰の名前もない】


 十一月二十九日、午後四時五十四分。


「おはようございまーす」


 高橋陽葵が自動ドアをくぐってきた。


「おはよう」


 水野浩一は、菓子売場の前から答える。


「寒っ。今日、急に寒くないですか?」


「十一月終わるんだから、こんなもんだろ」


「昨日まで秋だったのに」


「毎年そう言ってない?」


「去年の私を知らないでしょう」


「知らないね」


 陽葵は笑ってバックヤードへ消えた。


 いつもの会話だった。


 入口には、大きな白い紙が貼られている。


《当店は十一月三十日午前九時をもちまして閉店いたします》


 最初の頃は客が立ち止まって読んだ。


 最近では、ほとんど誰も立ち止まらない。


 店員たちも、もう見慣れていた。


 明日の朝九時。


 あと十六時間。


 クローバーマート東坂下店は、そこで十八年間の営業を終える。


     *


「今日で最後なんですよね」


 制服に着替えた陽葵が言った。


「店は明日」


「私が、です」


「ああ」


 水野はそこで気づいた。


 陽葵の勤務は二十二時まで。


 明日の朝には来ない。


「そうか」


「そうか、じゃないですよ」


「何て言えばいいんだよ」


「もっとこう、あるじゃないですか」


「長い間ありがとうございました?」


「私、一年半しかいません」


「じゃあ、お疲れさまでした」


「まだ働いてます」


「面倒くさいな」


「そういう日なんですよ、今日は」


 陽葵はレジへ向かった。


「いらっしゃいませー」


 すぐに声が変わる。


 客が来れば働く。


 最後の日でも、それは同じだった。


     *


 午後六時十八分。


 柴田奈緒のレジへ、一人の男が並んだ。


 宮本だった。


「いらっしゃいませ」


 弁当。


 ペットボトルのお茶。


 宮本がレジ横を指さす。


「あと、チキン一つ」


「はい」


 柴田はフライドチキンを専用袋へ入れる。


 弁当を温める。


 飲料を通す。


 レジ袋へ弁当。


 飲料。


 フライドチキン。


 最後に、


 一度だけ中を見る。


 宮本が言った。


「入ってる?」


 柴田が顔を上げた。


「入ってます」


「じゃあ大丈夫だ」


 二人とも少し笑った。


 宮本が入口の閉店告知を見る。


「明日の朝までだっけ」


「はい。九時までです」


「俺、その時間もう仕事だな」


「そうですか」


「じゃあ、今日が最後か」


 宮本は袋を持つ。


「次から駅前まで行かないとな」


「ご不便おかけします」


「仕方ないよ」


 自動ドアの前で軽く手を上げた。


「どうも」


「ありがとうございました」


 宮本が出ていく。


 柴田は次の客を呼んだ。


「お待たせしました」


     *


 午後九時五十八分。


「違算なしです」


「了解」


 柴田がレジ点検を終えた。


 バックヤードで制服を脱ぐ。


 名札を外す。


 大学のトートバッグを肩へ掛ける。


「じゃあ、お疲れさまでした」


「向こうの店、いつから?」


「来週です」


「頑張って」


「はい」


 柴田は少し考えてから笑った。


「また入れ忘れたらどうしよう」


「確認するんだろ」


「一回だけ」


「じゃあ大丈夫」


「それ、根拠あります?」


「ない」


「ひどい」


 柴田が笑った。


「お世話になりました」


「うん。お疲れさま」


「失礼します」


 自動ドアが開く。


 柴田が出ていく。


 閉じる。


 明日の朝、


 柴田はもう来ない。


     *


 午後十時。


「写真撮りません?」


 勤務を終えた陽葵が、突然言った。


「何の?」


「店の」


「まだあるだろ」


「明日なくなるじゃないですか」


「建物はなくならないよ」


「そういう屁理屈いいから」


 陽葵はスマートフォンを取り出した。


 その時間にいたのは、


 水野。


 陽葵。


 佐伯。


 小野寺。


 柴田は、もう帰った。


 木村は早朝勤務。


 藤原はとっくに退職している。


「全員いないじゃん」


 水野が言った。


「いいんですよ」


「記念写真なのに?」


 佐伯が笑った。


「全員揃ったことなんか、そもそもあったか?」


「あ」


 陽葵が黙った。


 二十四時間営業の店だった。


 朝。


 昼。


 夕方。


 深夜。


 同じ勤務表に名前があっても、


 全員が同じ時間にいることはほとんどない。


「じゃあ、いる人だけ」


 四人が売場の端に並ぶ。


 佐伯が、


「客来たらどうすんだ」


 と言った瞬間、


 自動ドアが開いた。


「あ、来た」


「ほら」


「いらっしゃいませー!」


 写真は一度中止になった。


 客が帰ってから、


 もう一度撮った。


 四人しか写っていない写真だった。


     *


「最後って感じしないですね」


 陽葵が言った。


「明日も開くからな」


「九時までだけど」


「それでも明日はある」


 陽葵は事務所を見る。


 低い椅子。


 勤務表。


 ロッカー。


 バックヤード。


「明日、来ちゃ駄目ですか?」


「客ならいいんじゃない」


 佐伯が答える。


「九時までだけどな」


「起きられないです」


「じゃあ無理」


「最後くらい開けてくださいよ」


「お前一人のために?」


「十五分くらい」


「閉店延長の理由に『高橋寝坊』って書くの嫌だよ」


 陽葵が笑った。


「じゃあ、これで最後か」


 声だけが少し変わった。


「そうだな」


 水野が答える。


「水野さん」


「何」


「お疲れさまでした」


「そっちも」


「店長」


「はいはい、お疲れ」


「小野寺さん」


「俺まだいるよ」


「じゃあ先に」


「雑だなあ」


 陽葵は笑いながら頭を下げた。


「お世話になりました」


 自動ドアを出る。


 振り返らない。


 そのまま駐車場を横切っていった。


     *


 午後十時四十五分。


 小野寺亮が返却予定の備品をまとめていた。


「これ、持っていくんですよね」


 畳まれた脚立。


「本部備品だから移送」


 佐伯が答える。


「最後まで残りましたね、こいつ」


「何が」


「俺を落としたやつ」


「落としたのは脚立じゃないだろ」


「そうでしたっけ」


 小野寺は笑った。


 左手首を軽く回す。


 もう勤務には問題ない。


 紙コップは下段にある。


 通路には物がない。


 小野寺は脚立を壁際へ戻した。


「これも別の店で使われるんですかね」


「たぶん」


「知らない人が?」


「備品だからね」


「そっか」


 脚立は、


 ただそこに立っていた。


     *


 午後十一時。


 小野寺も勤務を終えた。


「じゃあ俺も」


「お疲れ」


「また異動先で会ったらよろしくお願いします」


「会わないかもよ」


「狭い会社なんだから会いますって」


「そうかもな」


 小野寺はバックヤードを見る。


「広くなりましたよね、ここ」


「閉店前に一番きれいになった」


「遅いですよ」


「ほんとだよ」


 小野寺が笑った。


「じゃあ、お疲れさまでした」


「お疲れ」


 また一人、


 帰った。


 店はまだ十時間、


 営業する。


     *


 午後十一時を過ぎると、


 店はいつもの深夜になった。


 トラックの運転手。


 夜勤へ向かう人。


 仕事帰り。


 酒。


 カップ麺。


 煙草。


 アイス。


 水野はいつものようにレジを打った。


 ただ、


 棚の空きだけが増えていく。


 売れれば減る。


 もう補充されない商品もある。


     *


 午前二時過ぎ。


 水野は発注端末を手に取った。


 いつもの癖だった。


 飲料。


 弁当。


 パン。


 牛乳。


 販売数。


 在庫。


 曜日。


 画面を開いて、


 指が止まる。


「あ」


 発注する必要がない。


 明日の昼はない。


 明日の夕方もない。


「……いらないんだった」


 水野は端末を閉じた。


     *


 午前五時。


「おはよう」


 木村早苗が入ってきた。


「おはようございます」


「寒いねえ」


「朝は冷えますね」


「今日で終わり?」


「今日で終わりです」


「そう」


 木村はそれだけ言って制服に着替えた。


 新聞を並べる。


 パンを前へ出す。


 ホットウォーマーを開ける。


 ブラックの缶コーヒー。


 一瞬だけ手が止まる。


 それから、


 商品の向きを揃えた。


     *


 午前六時。


 自動ドアが開く。


「いらっしゃいませ」


 新聞を買う男。


 コーヒーを買う女。


 煙草。


 おにぎり。


 いつもの朝だった。


「今日までだったっけ?」


 作業服の常連客が訊いた。


「今日の九時まで」


 木村が答える。


「九時か」


「うん」


「明日からどこ行こうかな」


「駅のほうにあるじゃない」


「遠いんだよ」


「歩きなさいよ」


「朝から?」


 二人とも笑った。


 別の客は、


「長い間ありがとうね」


 と言った。


「こちらこそ」


 木村が答える。


 また別の客は閉店告知を見ずに、


「十五番」


 とだけ言った。


「一個?」


「二つ」


 煙草を買って帰った。


「ありがとうございました」


 その客が、


 今日で店がなくなることを知っていたかはわからなかった。


     *


 午前六時四十分。


「おはよう」


 佐伯が入ってきた。


「早いですね」


「店閉める日に寝坊したら格好つかないだろ」


 佐伯は十八年間いた店を眺めたりはしなかった。


「本部、八時過ぎに来るって」


「はい」


「レジ締め九時から」


「はい」


「在庫確認は閉店後」


「了解」


「返却品、全部まとまってる?」


「はい」


「よし」


 仕事の話ばかりだった。


     *


 午前七時十五分。


 事務所の壁に勤務表がある。


 十一月二十九日。


 陽葵。


 柴田。


 小野寺。


 今日、


 十一月三十日。


 水野。


 木村。


 佐伯。


 昨夜の三人は、


 もう来ない。


 閉店はまだ二時間近く先だった。


     *


 午前七時三十五分。


「あら」


 木村が言った。


 藤原由美が入ってきた。


 私服だった。


「いらっしゃいませ」


 水野が言う。


 藤原が笑った。


「やっぱり変」


「何がです?」


「あなたにそれ言われるの」


「客ですから」


「そうだけど」


 藤原は店内を見る。


「ほんとに今日までなんですね」


「九時まで」


 佐伯が答えた。


「あと一時間半か」


「そのくらい」


「短いね」


「何が?」


「十八年の最後にしては」


「始まったのは十八年前だからね」


「それもそうか」


 藤原はパンと飲み物、それから洗剤を買った。


「新しい仕事どうです?」


「揚げ物ばっかり」


「まだ言ってる」


「本当に揚げ物ばっかりなんだから」


 会計。


「袋は?」


「ください」


「三円です」


「はい」


 商品を袋へ入れる。


「ありがとうございました」


 藤原が笑った。


「やっぱり変だわ」


「何回言うんですか」


「これで最後だから」


 藤原は袋を持つ。


「じゃあね」


「お疲れさまでした」


「もう従業員じゃないって」


「あ」


 藤原は笑いながら、


 店を出た。


     *


 午前七時四十二分。


 朝のピーク。


「二番レジお願いします」


「はい」


 水野が入る。


 新聞。


 コーヒー。


 煙草。


 おにぎり。


 公共料金。


「十二番二つ」


「はい」


「これ温めて」


「少々お待ちください」


 木村が一番レジ。


 水野が二番。


 佐伯は売場とバックヤードを行き来する。


 最後の日でも、


 客は普通に並んだ。


     *


「カップもうないよ」


 木村が言った。


「予備、下です」


 水野が答える。


 佐伯がバックヤードへ行く。


 棚の下から紙コップの箱を取る。


 数秒で戻る。


 壁際の脚立は、


 畳まれたままだった。


     *


 午前八時十分。


 本部社員が二人来た。


「おはようございます」


「本日はよろしくお願いします」


 バックヤードで閉店手順を確認する。


 端末。


 備品。


 金庫。


 回収物。


 書類。


 少し遅れて撤去業者も駐車場へ入った。


 九時までは外で待つ。


 店の中では、


 まだ客が買い物をしている。


     *


 八時二十二分。


 木村の名前を知っている常連客が来た。


「木村さんも今日まで?」


「私も今日まで」


「次どこ行くの?」


「どこも行かないわよ」


「辞めるの?」


「六十七よ」


「まだ若いじゃん」


「あなたに言われたくないわよ」


 客が笑う。


「十五年くらいいたんだっけ?」


「そのくらい」


「長いな」


「そうね」


「お疲れさん」


「はいはい」


 客は新聞とコーヒーを持って帰った。


     *


 八時三十分。


 残り三十分。


 棚の隙間が目立っている。


 水野は菓子を前へ出した。


「店って」


「何?」


 木村が訊く。


「商品なくなると、急に店じゃなく見えますね」


「まだ店よ」


「あと三十分ですけど」


「三十分もある」


 木村がレジへ戻る。


 自動ドアが開いた。


「いらっしゃいませ」


     *


 八時五十八分。


 客がいなくなった。


 水野が時計を見る。


 佐伯も事務所から出てくる。


「あと二分」


「ですね」


 木村は新聞ラックを整えていた。


「今さらそれやるんですか」


「曲がってるから」


「あと二分ですよ」


「二分あるでしょ」


 八時五十九分。


 自動ドアが開いた。


 三人とも顔を上げる。


 高齢の男性。


「いらっしゃいませ」


 急ぐ様子もなく、


 食パンを一斤。


 牛乳を一本。


 レジへ来る。


「これ」


「はい」


 木村が受けた。


 九時。


 男が入口の貼り紙を見る。


「今日で終わりなんだって?」


「はい」


「今です」


「今?」


「九時だから」


 男も時計を見る。


「じゃあ俺、最後?」


「たぶん」


「へえ」


 大した感想ではなかった。


「不便になるな」


「皆さんそれ言うのよ」


「そりゃ不便だもの」


「三百四十八円です」


「三百五十円」


「二円のお返しです」


「どうも」


「ありがとうございました」


 男は牛乳とパンを持って出ていった。


 名前は知らない。


 レジには、


 食パン。


 牛乳。


 三百四十八円。


 午前九時二分。


     *


 自動ドアが閉じた。


 佐伯が入口へ歩く。


「じゃあ、閉めるぞ」


「はい」


 設定を切る。


 施錠。


《閉店いたしました》


 店内には、


 店員と本部社員しかいない。


 冷蔵ケースの音がする。


 木村が言った。


「終わった?」


 佐伯が振り返る。


「営業はね」


 水野が笑った。


「ここから長いですよ」


「ああ、そうだった」


 木村も笑った。


     *


 店内BGMが止まった。


 レジ締め。


 現金確認。


 残商品。


 廃棄。


 返却。


 端末処理。


 段ボールを畳む音。


 テープを剥がす音。


 冷蔵庫のモーター。


「最終売上、出ました」


 本部社員が言った。


 客数。


 売上。


 違算。


 廃棄。


 佐伯が数字を確認する。


     *


「木村さん、そろそろ上がって大丈夫ですよ」


 佐伯が言った。


「もう?」


「ここからは社員と本部でやるから」


「じゃあ帰ろうかな」


 木村は制服を脱いだ。


 名札を外す。


 ロッカーを確認する。


「忘れ物ないです?」


 水野が訊く。


「たぶん」


「たぶんじゃ困ります」


「忘れたら取りに来るわ」


「もう入れませんよ」


「あ」


 木村が笑った。


「そうだった」


 佐伯が頭を下げる。


「十五年間、本当にありがとうございました」


「長かったねえ」


 木村が言った。


「十五年ですからね」


「でも、あっという間よ」


 水野も頭を下げた。


「お疲れさまでした」


「水野さんはまだ働くんでしょう」


「別の店で」


「じゃあ、ちゃんと帰りなさいよ」


「何の話です?」


「時間になったら」


 水野が笑う。


「今はちゃんとつけてます」


「ならいい」


 木村はバッグを肩へ掛けた。


「じゃあね」


 入口へ歩く。


 自動ドアの前に立つ。


 開かない。


「あ」


 木村が止まった。


「あら。開かない」


 一瞬、


 誰も何も言わなかった。


 それから笑った。


「もう切ったから」


 佐伯が言う。


「そうだった」


 十五年間、


 そこに立てば勝手に開いた扉だった。


 佐伯が手動で開ける。


 冷たい空気が入ってくる。


 木村が外へ出る。


 一度だけ振り返った。


「じゃあね」


 佐伯が扉を閉めた。


     *


 午前十時を過ぎると、


 撤去作業が始まった。


 商品。


 販促物。


 端末。


 備品。


 書類。


「これ、移送です」


 本部社員が脚立を指す。


「はい」


 水野が答える。


 アルミ脚立に、


 備品番号の札がついている。


 別の箱には、


 退職者関係のファイル。


 パソコンの端末も、


 一つずつ処理されていく。


 水野はそれらを運んだ。


     *


 壁の勤務表を外そうとして、


 水野の手が止まった。


 十一月二十九日。


 陽葵。


 柴田。


 小野寺。


 十一月三十日。


 水野。


 木村。


 佐伯。


 その下には、


 何もない。


「どうした?」


 佐伯が訊いた。


「いや」


 水野は紙を見る。


「明日、誰も来ないんですね」


「そうだな」


 佐伯も見る。


 それだけだった。


 水野は勤務表を外した。


 画鋲の跡が残った。


     *


 午後十二時半。


「現金確認、問題なし」


「はい」


「返却備品、これで全部」


「鍵は?」


「あります」


「店舗番号確認」


「はい」


 佐伯が最終報告を見る。


 開店日。


 閉店日。


 最終売上。


 閉店理由。


 佐伯がぽつりと言った。


「十八年って、どこに書くんだ?」


 水野が顔を上げる。


「開店日と閉店日でわかるんじゃないですか」


「そういう意味じゃなくて」


「じゃあ何です?」


「いや」


 佐伯は自分で笑った。


「なんでもない」


 しばらく書類を見る。


「そういう欄はないなと思って」


 水野も見た。


 なかった。


     *


 午後一時十四分。


 最後の箱を運び終える。


 最後の確認を終える。


 水野は勤怠端末の前へ立った。


 退勤。


 ピッ。


 実際に働いた時間が表示される。


 長い。


 けれど、


「こんなに働いてたのか」


 とは言わなかった。


 もう知っていた。


     *


 店の中から、


 一つずつ灯りを消す。


 事務所。


 バックヤード。


 売場。


 保安灯だけが残る。


「こんな暗いんだな」


 佐伯が言った。


「電気消せば暗いでしょう」


「そうじゃなくて」


 佐伯は売場を見る。


「ここ、ずっと明るかったから」


 最後に出たのは、


 佐伯と水野だった。


 佐伯が鍵をかける。


 二度引いて確認する。


「閉まった」


「はい」


 二人は駐車場へ出た。


 店内は暗い。


 看板の照明も消えている。


 水野が建物を見る。


「コンビニって」


「ん?」


「暗いとコンビニに見えないですね」


 佐伯も振り返る。


「俺も、こんなの見るの初めてかもな」


「十八年いたのに?」


「開けてる店だったからな」


 少しだけ、


 二人で店を見た。


「じゃあ」


 佐伯が言う。


「はい」


「また向こうでな」


「はい」


 それぞれの車へ向かった。


     *


 十二月一日。


 午前六時。


 東坂下店は、


 暗かった。


 一台の車が駐車場へ入ってくる。


 いつものように、


 店舗前へ停まる。


 運転手がドアを開けかける。


 店を見る。


《閉店いたしました》


 しばらくして、


 ドアが閉じた。


 車は駐車場を出ていく。


 少し後。


 自転車の男が店の前を通った。


 ちらりと見る。


 そのまま走り去る。


 午前六時を過ぎても、


 自動ドアは開かなかった。


 誰も、


「いらっしゃいませ」


 とは言わなかった。


 - 閉店 -

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