婚約者に虐げられていた公爵令嬢を助けたら嫌がらせされましたが、面白がって相手をしていたら勝手に自滅しました
大皇国の皇立学院の食堂には、心地よい風と陽光が降り注いでいた。
貴族の生徒たちが豪華な昼食を優雅に楽しむ中、平民の奨学生であるミアもまた、端の方に座ってうきうきした顔で食事をとっていた。
今日のメニューは、食堂でも最も安価な硬い黒パンと、具がほとんど溶けかかった薄味の豆のスープ。
ミアは黒パンを小さくちぎると、スープに浸して柔らかくなるのを待ち、嬉しそうに口へ運んだ。
「今日のスープ、昨日より豆が柔らかいー」
隣に座る青年――同じく平民の奨学生として学院に通い、いつもミアと行動を共にしているロキに向かって、ミアは満面の笑みで言った。
するとロキは、感情の読めない黒い瞳をスープの器の中へ落としたまま、淡々と返す。
「煮込み時間が長かったんじゃないですか」
「味は薄いけど、体に優しい感じがして美味しいー」
「…………」
ロキはそれを聞きながら一口すする。
美味しいとは思えない代物だが、ミアはにこにこと口に入れていた。
――この世界において、人は生まれながらにして何らかの異能――『ギフト』を持っている。
そして、己に発現したギフトの強さこそが、個人の価値を決定づける絶対的な基準となっていた。
そして、学院に登録されているミアのギフトは【どんな食事も美味しく感じる】という、戦闘にも実務にも使えない地味で無害なもの。
ロキに至っては、この世界では無価値とされる【無ギフト】であると登録されていた。
そんな二人は時折話をしながら、いつものように質素とも呼べる昼食を口にしていたのだが。
穏やかな昼休みを破るように、突然食堂に隣接する中庭から鋭い怒声が響いた。
「ロゼリア! 君がアンネを陰湿に追い詰めていたことは、もう分かっているんだ!」
「え、なになにー?」
ミアが大声に釣られて窓の外へ視線を向けると、取り巻きを従えた男子生徒が、一人の女子生徒を取り囲んでいるところだった。
声の主は、アルヴェイン公爵家の嫡男バッカス。
皇族の血を引く名門に生まれた、将来有望と目される貴公子だ。
その視線の先に立っていたのは、筆頭公爵家であるリプレイア家の令嬢であり、彼の婚約者でもあるロゼリアだった。
バッカスが激昂して声を張り上げた瞬間、ビリッと周囲の空気が震えた。
彼が持つギフトは【強者の威圧】。
格下や意志の弱い者を本能的に萎縮させ、従わせる強力な力だ。
その力にあてられ、野次馬となっていた周囲の生徒たちが一斉に青ざめ、息を潜める。
止めに入れる者は誰もいない。
だが、ロゼリアは四方から刺さる視線と威圧を受けながらも、背筋を伸ばして静かな声で答えた。
彼女の家はバッカスと同等の力を持ち、なおかつロゼリア自身も確固たる意志を備えている。
そのため、バッカスの威圧にも屈することはなかった。
「バッカス様。わたくしには身に覚えがございません。証拠をご提示ください」
「証拠? アンネが泣きながら訴えたんだぞ! それで十分だろう!」
ちなみにアンネとは、バッカスのお気に入りの女子生徒の一人である。
そしてロゼリアは、制服のボタンをだらしなく開けて歩いていた彼女に、身だしなみについて注意をしただけである。
おおかたそれが気に食わず、バッカスに泣きついたのだろう。
「そのような一方的な証言だけで断じられては、あまりにも不当です。せめて人のいない場所で、冷静にお話を――」
「往生際が悪いな。君は昔からそうだ。自分が正しいと思えば、誰に対しても冷たい顔をして言い負かそうとする」
バッカスは苛立たしげに吐き捨て、わざとらしく肩をすくめた。
「まったく、婚約者がこれでは、私の立場にも傷がつく」
「……わたくしは、事実を申し上げているだけです」
「そういうところだ。君はいつだって私を立てない。可愛げを母親の腹の中に置いてきたんじゃないのか」
ロゼリアは唇を引き結んだ。
このような言葉を浴びせられても、彼女は表情を崩さない。
ここで感情を露わにすれば、バッカスに都合よく利用されると分かっていたからだ。
そしてバッカスは、己のギフトが効かないからこそ、ロゼリアを昔から疎んじていた。
他の女性に手を出したり、ロゼリアをこうして人前で貶めたりすることで、これまでも己の鬱憤を晴らしており、今回もその一環にすぎなかった。
重苦しい沈黙が中庭に落ちた、その時だった。
「えー、証拠もないのに、婚約者の女の子一人を大勢で囲んで怒鳴るんですかぁ?」
のんびりとして、ひどく甘ったるい声が響く。
緊迫した空気をまったく読まないその声は、中庭の隅々にまで異様によく響き渡った。
バッカスもロゼリアも、周囲の生徒たちも一斉に振り向く。
そこに立っていたのは、右手に半分かじった黒パンを持ったミアだった。
彼女は、中庭の真ん中で婚約者を追い詰める貴公子へ向けて、心底不思議そうに首を傾げ、ぽんっと言い放った。
「あはっ♡ 名門貴族のお坊ちゃまって、さいてー」
その場にいた全員が息を呑んだ。
それは有力公爵家の嫡男に対する、明確な侮辱だった。
「……貴様、今、何と言った? 平民風情が、誰に向かって口を利いている?」
バッカスが眉をひくつかせ、低く唸るような声を絞り出す。
同時に、ミアへ向けて己の【強者の威圧】を全力で叩きつける。
本来であれば、平民など一瞬で白目を剥いて気絶するか、地に這いつくばって命乞いをするほどの圧力である。
だが――ミアは怯えるどころか、にこにこと笑いながら、半分残った黒パンをかじった。
バッカスは一瞬だけ動揺したものの、すぐに、ミアは自分の高貴なオーラすら感知できないほど愚鈍なのだと都合よく結論づけた。
虫ケラが竜の威圧を理解できないのと同じだと考えれば、己の力が通じないことにも説明がつく。
しかし威圧が通じないことで、バッカスの怒りは高まる。
そんなバッカスに気づかないのか、あるいはわざとなのか、ミアはさらなる爆弾を投下する。
「えー、婚約者さんを泣かせようとしてる、最低な男の人にですけどぉ」
「なっ……!」
「あなたには関係のないことです。下がりなさい」
バッカスが怒りを爆発させるより早く、ロゼリアが凛とした声でミアを制した。
自分が責め立てられている最中だというのに、助けに入ったように見えるミアに矛先が向かぬよう、咄嗟に庇ったのだ。
「あなたは確か、最近編入してきたミアさん、ですよね。これ以上口を挟めば、あなたまで面倒に巻き込まれます。早く行きなさい」
その言葉に、ミアは何かを思い出すように一瞬だけ目を細めた。
「ふぅん。……あなた、やっぱりいい人なんですね」
ミアはくすくすと笑うと、忠告をまるで聞いていない顔で、バッカスへ一歩近づいた。
「ねぇねぇ、そのアンネっていう子がいじめられた証拠って、本当にあるんですかー?」
「アンネが泣いて訴えたんだ。それ以上、何が必要だ」
「わあ。好きな女の子の言うことなら、調べなくても全部本当なんだー」
「私は彼女を信じているだけだ!」
「へえ。婚約者のロゼリア様の話は聞かないのに?」
バッカスのこめかみがぴくりと震える。
だがミアは、にこにこと笑ったまま、黒パンを手に彼を見上げている。
小動物のような見た目なのになぜだか一歩も引く気がないことだけは、誰の目にも明らかだった。
「黙れ、平民」
低く押し殺した声で、バッカスが言った。
「貴様のような身の程知らずに、私たちの問題へ口を挟まれる筋合いはない」
「えー。でもぉ、証拠もないのに婚約者を悪者扱いして、大勢で囲んで怒鳴るのって、すっごく格好悪いですよぉ?」
周囲の生徒たちが息を呑む。
誰もが思っていても口にできなかったことを、ミアは遠慮なく突きつけていた。
「……貴様」
バッカスが一歩踏み出しかけた、その時だった。
「もうおやめください、バッカス様」
鋭く、しかしよく通る声がその場を制した。
ロゼリアだった。
「これ以上続けても、学院の皆さまに醜態を晒すだけです」
「醜態だと?」
「少なくとも、証もなく人を糾弾し、反論も聞かず、挙げ句に所被生徒相手に感情を露わにしている今のあなたは、わたくしにはそう見えます」
一瞬、空気が凍った。
普段のロゼリアは、バッカスに何を言われても正面から強く言い返すことは少ない。
それを知る生徒たちにとって、今の言葉は意外なものだった。
だがその直後、昼休みの終わりを告げる予鈴が学院中へ鳴り響く。
バッカスはしばしロゼリアを睨み、次いでミアへ憎々しげな視線を向けた。
しかし、今ここで騒ぎを大きくすれば、自分の立場まで悪くなるとでも判断したのか、舌打ちを一つこぼして踵を返した。
「……覚えていろ」
吐き捨てるように言い残し、取り巻きを引き連れて足早に去っていった。
後に残されたのは、ミアとロキ、そしてロゼリアだけだった。
ロゼリアは小さく息を吐くと、ミアに向き直った。
「……助けていただいたことには感謝します。ですが、バッカス様は非常に執念深い方です。腹いせに何か仕掛けてくる可能性もあります。今後は決して近づかないようにしてください」
「んー。やっぱり、あなたいい人なんですねぇ。自分の方が大変そうなのに、先に他人の心配してるし」
ロゼリアは思わず言葉を失った。
だが次の瞬間、ふっと視界が揺らぐ。
胸の奥が詰まり、足元から力が抜ける。
「え……」
身体がぐらりと傾き地面へ倒れ込む寸前、いつのまにかやってきていたロキが素早く彼女の腕を掴んで支えた。
「だ、大丈夫です……。少し、寝不足なだけで……」
ここ最近はバッカスにこうして詰め寄られることが多かった。
そのせいで心労がたたっているのだが、そんなことを口にするわけにはいかなかった。
しかし、ミアは小首を傾げる。
「えー。全然大丈夫そうじゃないですよぉ? ロキ、保健室まで運んであげてぇ」
「……はぁ。本当に人使いの荒い人だ」
言うが早いか、ロキは無造作にロゼリアの背と膝裏へ腕を回し、軽々と抱き上げてしまった。
「えっ……!?」
ロゼリアは目を丸くした。
ロキは一見すると細身の青年だ。
それなのに、まるで何の重さも感じていないかのように、びくともせず歩き出す。
「あ、あの、下ろして……!」
「無理に動かないでください。落ちますよ」
淡々とした声で返され、ロゼリアはなすがまま、ロキの腕の中に収まるしかない。
しかも驚いたことに、彼が歩く足取りには少しの乱れもなかった。
ただの男子生徒とは思えないほど洗練された、まるで極限まで鍛え抜かれた武人のような歩法だった。
ロゼリアのギフト【慧眼】は、微細な違和感や人の本質を察する力だ。
相手の正体を明らかにするほど万能ではないが、ロキの隙のない身ごなしにも、威圧を受けても笑っていたミアの在り方にも、常人ではない異質さを感じ取っていた。
けれど疲れ切ったロゼリアの意識は、そこで限界を迎えた。
ミアは、ロキの腕の中で穏やかな寝息を立てるその顔をしばらく見下ろしていた。
するとロキが低い声で言った。
「……で、どうするんですか。あの公爵家の坊ちゃん、あのまま終わる性格じゃないでしょう」
「あはっ、だよねぇ」
ミアは振り返り、ぱっと顔を輝かせた。
「じゃあじゃあ、何か面白そうなこと仕掛けてくるかな? 楽しみだねー」
「楽しみにしないでください。面倒事はごめんです」
「えー、だってせっかく学院に来たのに、毎日同じじゃつまんないじゃん」
ロキが呆れ返っても、ミアはただ、新しいおもちゃを見つけた子供のように機嫌よく笑うだけだった。
◆
そして翌日。
ロゼリアの懸念通り、バッカスによるミアへの報復が始まった。
しかしそれは、報復と呼ぶにはあまりにも滑稽なものだった。
朝、教室に向かってロキと一緒に廊下を歩いていると、バッカスが取り巻きを引き連れて廊下を横一列に塞いできた。
「おい貴様! 先日はよくも――」
「あ、おはようございまーす。ところでロキ、朝の授業ってなんだっけー?」
「歴史学ですよ」
「私、歴史の勉強って好きー。他人の話を聞かない身勝手な独裁者が、どうやって毎回同じように国を破滅させるのか学ぶのって、すっごく面白くない?」
ミアは挨拶だけはしたものの、そのあとはバッカスを完全に風景の一部として認識してそんなことをこぼす。
そしてあっさりと無視されてしまったバッカスたちが、何も言えずに驚き固まっている間に、するっと絶妙な身のこなしで抜け、振り返りもせずに歩き去ってしまった。
ロキは一応、
「すみません、間失礼します」
と一声かけてから、バッカスたちの間をすり抜けてミアに続く。
我に返ったバッカスは激怒して、思わずこぶしを振り上げながら追いかけようとしたが、すでに2人の姿はなかった。
そして昼休み。
食堂でミアが食事をしていると、バッカスがわざとらしく正面の席にバンッと両手をついた。
「おい! 今朝はうまく切り抜けたと思っているようだが、そう何度もうまくはいかないからな!」
「あ、バッカス様だ。どうもー。ねぇ、ロキ、このスープ今日も美味しいけど、さすがにちょっと塩気が足りなくない? ってなわけで、厨房に塩もらってきてー」
ミアは平然とそう言い放つと、目の前で喚くバッカスを完璧なまでに透明人間扱いして、ロキに塩を取りに行かせた。
「分かりました」
ロキが席を立つと、度重なる無視に業を煮やしたバッカスは、ついに堪忍袋の緒が切れた。
「俺の話よりも食事を優先するなど到底許せん! 平民に食事など贅沢だ!」
そう叫び、バッカスはミアのスープ皿を無理やり奪おうと、乱暴に手を伸ばした。
けれどミアが短く何かを呟いた次の瞬間、バッカスの手がなぜか皿を押し戻すように動き、皿はするりとミアの手元へ戻った。
代わりに全力で皿を掴みにいったバッカスは、勢い余って足をもつれさせ、体勢を崩してテーブルに盛大に顔から突っ込んだのだった。
「ぶべらっ!?」
激しい衝突音と共にテーブルに突っ伏したバッカスの無様な姿に、食堂全体が水を打ったように静まり返る。
ミアは手元のスープが一滴もこぼれていないことを確認すると、心底呆れたように首を傾げた。
「バッカス様、お腹空いてたんですかぁ? でも残念。テーブルは食べられないですよ?」
しんと静まり返っていた食堂に、周囲の生徒たちからは、堪え切れなかったのか小さな嘲笑が漏れ始める。
そこへ、小皿に塩を乗せたロキが戻ってきた。
彼はテーブルに顔を埋めているバッカスと、にこにこ笑っているミアの姿を見て状況を察し、小さく頭を抱えた。
しかし特になにも言わず、無言でミアの横に塩を置く。
「お、おのれ……っ、貴様っ、覚えていろっ!」
周囲からのあからさまな嘲笑に耐えきれなくなったバッカスは、ワナワナと全身を震わせ、強打した顔面を手で抑えながら逃げるように食堂から飛び出していった。
入れ替わるようにして、騒ぎを少し離れた場所から見ていたロゼリアが、心配そうな顔で近づいてくる。
「……ミアさん。あまりバッカス様を怒らせるのは得策ではありません。あれほど気をつけるようにとお伝えしましたのに」
「えー、私は何もしてませんよぉ? あっちが勝手に転んでテーブルにダイブしただけですもん。ね、ロキ」
「俺は塩を取りに行っていたので、何も見ていません」
「ほらぁ、誰も何もしてないですー」
平然とうそぶくミアと、完全に巻き込まれないというスタンスを貫くロキを見て、ロゼリアは深々とため息をつく。
しかし、その表情は以前のような張り詰めたものではなく、どこか呆れと諦めが混じった、年相応の柔らかなものに変わっていたのだった。
だが。
度重なる失敗にもめげず、バッカスの嫌がらせはさらに続いた。
◆
その日の放課後。
人気のない裏庭を歩いていたミアとロキの前に、またしてもバッカスが取り巻きたちと共に立ち塞がった。
懲りない男である。
彼は今度こそ不意打ちでミアの鞄を奪い取ると、中に入っていた教科書を、近くにあった手入れされていない古い噴水へと放り投げたのだ。
「はーっはっは! 平民にはその泥水がお似合いだ。せいぜい惨めに拾うがいい!」
そう高笑いを残して、バッカスたちは逃げるように去っていった。
後に残されたミアとロキは、水面に浮かび、やがてぶくぶくと沈んでいく教科書を見下ろした。
長年放置された噴水は、底に泥や苔が分厚く溜まっており、水は茶色く濁っている。
深さは太ももあたりまでありそうだ。
「わぁ、すごぉい。もしかして何か起こるなーって思ってあえて人気のない裏庭に来たけどー、びっくりするくらい幼稚な嫌がらせだったね」
「本当にあなたって人はもう……」
ロキには分かっていた。
あの時鞄は不意打ちで奪われたわけではなく、あえてミアが奪わせたのだ。
「ふぅ、さっさと拾わないとねー。ロキ、一緒に入るよ? 手伝って」
「……は? 俺も入るんですか」
「当たり前じゃん。ロキは私のお友達、でしょー?」
「いや、友達じゃないですけど」
この学院ではそういうことになっているが、本当の関係は断固違う。
しかしロキがそう返している間にも、ミアは靴と靴下をぽいっと脱ぐと、制服のまま、躊躇なくバシャリと濁った水の中へ足を踏み入れていた。
ロキはこれ以上何を言っても無駄だと悟り、深いため息をつきながら渋々その後を追う。
「きゃーっ、底がぬるぬるする。気持ち悪ーい♡」
ミアは泥水に制服のスカートをどっぷりと浸しながら、なぜかとても楽しそうにはしゃいでいる。
「うげぇ……最悪だ……」
ロキは心底嫌そうな顔で顔をしかめながらも、冷たい水に腕まくりした手を入れて、水底に沈んだ教科書を一つずつ拾い集めた。
二人して泥だらけになりながら、なんとかすべての教科書を回収し、噴水の縁の石畳に等間隔に並べる。
太ももまで泥水に浸かったせいで、二人の制服は見るも無惨にドロドロだ。
制服からは泥水が滴っている。
「お日様が出てるから、放っておけば乾きそうだねー。それまで日向ぼっこでもしよっか」
「っていうか、これ、乾いてもそもそも文字見えるんですか? ぐちゃぐちゃですけど」
「大丈夫だよ、きっと」
並べた教科書を見下ろしながらのんきに笑うミアを見て、ロキは制服の水を絞りながら呆れたように言ったあと、ミアを見つめる。
ミアは泥だらけになった自分の制服と手足をまじまじと見つめ、嬉しそうに目を細めていた。
「こうやって服のまま水に入って泥んこになるのって、すっごく楽しくないー?」
「いや、俺はまったくもって楽しくないんですけど」
だがミアは聞いていない。
きゃはきゃはと無邪気に笑っているだけである。
ロキは再び深く、深くため息をついた。
――だが、その様子を少し離れた茂みの陰から、こっそりと覗き見ている者がいた。
バッカスである。
彼はミアが泣き顔で泥水に這いつくばり、絶望する無様な姿をこの目に焼き付けてやろうと、取り巻きを帰した後に一人で密かに戻ってきていたのだ。
しかし、バッカスの目に飛び込んできたのは、予想とはまったく正反対の光景だった。
距離があるため二人の会話までは聞こえないが、視界に映るミアは、泥だらけの制服のまま楽しそうに笑い、あまつさえ水遊びでも満喫するかのように呑気にはしゃいでいたのである。
「な、なんだあれは……っ!?」
バッカスは信じられないものを見るように目を剥いた。
惨めさなど微塵もないし、屈辱に震える様子もない。
自分のした渾身の嫌がらせが、まったく、欠片ほども効いていないのだ。
「ふざけるな……これでは、これでは私の方がまるで道化ではないか!」
ギリッと奥歯を噛み鳴らし、バッカスは怒りで顔を真っ赤に染める。
このままでは皇族の血を引く公爵家としての自分の威厳が丸潰れだ。
「あの忌々しい平民め……次こそは、次こそは絶対に泣き叫んで後悔させてやる……っ!」
もっと確実で、あの女が二度と立ち直れないほどの決定的な絶望を与えなければならない。
バッカスはさらなる報復の策を練るべく、血走った目で暗い情念を燃やしながら、足早にその場から立ち去るのだった。
◆
バッカスはもはや婚約者のロゼリアのことも、適当に遊んでいたアンネをはじめとした女子生徒たちのことも、どうでもよくなっていた。
そのおかげでロゼリアは無駄にバッカスに絡まれることがなくなり、平和な学院生活を送っていた。
肌艶もよくなり、最近のロゼリアはその美貌にさらに磨きがかかったと評判である。
そしてバッカスの頭の中にあるのは、いかにして己のギフトの通じないあのミアたちにぎゃふんと言わせるか――その一点のみだった。
バッカスの嫌がらせは手を変え品を変え続く。
けれどそのすべてが徒労に終わった。
例えばある日の放課後、階段を降りるミアの背中に向け、取り巻きの男子生徒が突進してきた。
彼女の持っている教科書だけを下に落とすつもりだったのだが、ミアが、
「あ、靴紐が」
と、絶妙なタイミングでしゃがみ込んだため、取り巻きは完全に空振りし、そのまま階段を真っ逆さまに転げ落ちそうになった。
「うわあああっ!?」
けれど大きく飛んで階下に激突する寸前、誰かの腕に受け止められた。
恐る恐る目を開けると、そこにいたのは無の表情のロキだった。
ロキがゆっくりと取り巻きの体を地面に下ろす。
「危ないですよぉ、大丈夫ですかー?」
気がつけば取り巻きは、ペタンと地面に座り込んでいた。
呆然と顔を上げると、下まで駆け下りてきて至近距離で覗き込んでくるミアとばっちり目が合う。
「っ…………!」
普段は適当な態度と話し方に隠れているが、至近距離で見る彼女は、ぱっちりとした大きな瞳を持つ、息を呑むほどの美少女である。
「階段で走ったら、怪我しちゃいますよぉ?」
首を傾げる天使のような美少女に、取り巻きの顔はボンッと音を立てるように真っ赤になった。
「あ、あ、あのっ、ありがとうございますっ!!」
取り巻きは脱兎のごとく逃走した。
その後、バッカスの元へ戻った彼は、すっかり夢見心地の表情で、
「バッカス様……もう彼女への嫌がらせはやめませんか? というか、俺はもうできません……」
そう進言し、バッカスを激怒させるのだった。
勿論ミアに痛い目を見せたいと思うバッカスが、この程度で諦めるはずもなく。
今度はミアとロキを騙して裏庭の古い体育倉庫に誘い込み、外からかんぬきをかけて閉じ込めた。
暗く、埃っぽく、蜘蛛の巣だらけの倉庫である。
今度こそ暗闇の中で泣き叫ぶだろうと、バッカスは扉の外で耳を澄ませた。
しかし、中から聞こえてきたのは絶望の悲鳴ではなかった。
「わあ、ロキ見て見て! ここ、秘密基地みたいで楽しー」
「……埃っぽいのであまり動き回らないでください」
「あ、こんなところにボールが。ねえ、的当てゲームしよ!」
なんとミアは、薄暗い倉庫を遊び場として、完全に満喫し始めてしまったのだ。
一時間後、苛立ちの限界を迎えたバッカスが扉を開け放つと、そこにはマットの上に座り込み、楽しそうにカードゲーム――ロキのポケットに入っていたものである――に興じる二人の姿があった。
「バッカス様も遊びに来たんですかぁ? でも残念、いま二人用ゲームやってるから無理でーす」
「き、貴様らぁぁぁっ!!」
バッカスはもはや何も言えず、怒りのあまり扉を蹴り飛ばし、叫び声を上げながらその場を去っていった。
◆
それからも幾度もバッカスの嫌がらせを軽くいなし続ける。
当然、そんな二人は学院でもすっかり噂の的になっていた。
曰く、あの編入生たちは、公爵令息を前にしてもまるで怯えない、とんでもなく図太い平民らしい。
中には、バッカスの【強者の威圧】すら効かないほど鈍感なのだと、まことしやかに語る者までいる。
だが、当の本人たちはそんな噂などまるで気にしていなかった。
そんなある日の放課後。
学院から少し離れた人通りの少ない裏路地で、ミアは上機嫌に鼻歌を歌いながら、石畳の上をスキップ気味に歩いていた。
「あーあ、もっと面白いこと起きないかなぁ」
「……あなたが面白いことを期待するたびに、俺の面倒ごとが増えるということをいい加減学習してください」
後ろを歩くロキが深々とため息をつく。
そんな彼の苦労などどこ吹く風で、ミアが路地裏の角を曲がろうとした、その時だった。
「おい、そこのガキ共。ちょっと面を貸せや」
ぞろぞろと、物陰から十人以上の柄の悪い男たちが湧き出してきた。
明らかにその筋のチンピラやならず者たちだった。
「最近、えらく調子に乗ってるガキがいるって聞いてな。ちょいとばかり痛い目見せて、身の程ってやつを教育してやるよ」
が、下卑た笑みを浮かべる男たちに囲まれながら、ミアはまったく怯えることなく、むしろ目をキラキラと輝かせてロキを振り返った。
「わあ、ロキ見て! 本物の小悪党だよぉ。私遭遇したの初めてー!」
「……はぁ。平穏な帰り道とはいかないようですね。下がっていてください」
ロキが今日一番の深いため息をつき、ミアを庇うように一歩前に出る。
男たちは進み出たロキを見て鼻で嗤った。
「おいおい、お前無ギフトらしいなぁ。そんな出来損ないが前に出て何ができるって? そんなひょろい体でイキってっと、死ぬぞ?」
男たちは嘲笑を浮かべ、一斉に己の『ギフト』を発動させた。
ある者は腕を岩のように硬質化させ、ある者は拳に炎を纏わせる。
全員が強力な武闘派のギフト持ちだった。
「無ギフトのガキが、粋がってんじゃねぇっ!」
先頭の男が炎の拳を振り下ろす。
しかし――その拳がロキの手のひらに触れた瞬間。
シュゥゥゥッ……と、燃え盛っていた炎が、まるで最初から存在しなかったかのように跡形もなく掻き消えた。
「は……? な、俺のギフトが……っ!?」
「ただの暴力なら、俺の方が得意なんですよね」
淡々としたロキの声とともに、彼の鋭い蹴りが男の顎を的確に打ち抜く。
そこからは一方的な蹂躙だった。
あらゆるギフトがなぜかロキに触れるだけで掻き消され、ただの力自慢に成り下がった男たちは、ロキの洗練された体術の前に次々と地面に沈んでいく。
「わーい、ロキすごーい、がんばれー!」
ミアは一切の恐怖を感じる様子もなく、呑気に手を叩いて応援していた。
しかし、ロキが数人をまとめて相手にしている死角を突き、一人の男がミアへ向かって刃物を構えて突進してきた。
「ちぃっ! なら無防備な小娘を人質に――!」
鋭い殺気を向けられても、ミアは逃げるどころか、首を傾げてにっこりと微笑んだ。
そして、甘く、ひどく無邪気な声でお願いした。
「えー、私に刃物を向けるなんて、さいてー。――【その刃物を手放してそこにひざまずいて。あとは抵抗せずに私の質問に答えてねぇ】」
ピタリ、と。
突進していた男の身体が、急激に停止した。
「あ……え……?」
男の顔に絶望と恐怖が浮かび上がる。
男は意思とは無関係に、彼の身体はガクンと地面に膝をつき、握りしめていた短剣をカランと石畳の上に落とした。
両腕はだらりと下がり、微かな抵抗すら許されない完璧な服従の姿勢をとる。
「で? 私を襲うように言われたのはバッカス様で合ってる?」
「……っ、はい。バッカス様から、金貨五十枚で雇われました……」
「わあ、私ってば結構お高いんだぁ」
男は自らの口が勝手に動くことに目を見開いて驚愕しながらも、ペラペラと自白を続ける。
それを見て、ミアは無邪気に手を叩いて喜んだ。
――方で、壁の陰に隠れていたロゼリアは、驚愕のあまりその場で固まっていた。
最近バッカスが自分に近づいてこないのは好都合だったが、彼に目をつけられたミアのことは気がかりだった。
そこでバッカスに直接注意を与えようと向かったところ、彼が廊下で取り巻きに対し、「裏社会の者たちを雇って平民を襲わせる」と指示を出しているのを偶然耳にしてしまったのだ。
いくらミアが気丈だとはいえ、裏社会の人間が相手ではさすがに無事では済まない。
そう慌てて二人を追ってきたロゼリアだったが、そこで彼女が見たのは、あまりにも規格外な光景だった。
まず、学院には【無ギフト】と登録されているはずのロキ。
男の放った炎は、彼に触れる寸前で跡形もなく消え失せた。
驚いたロゼリアが【慧眼】を向けるが――何も読み取れない。
そこでようやく気づく。
炎だけではなく、ロキは、自分へ向けられたギフトそのものを無効化しているのだ。
さらに、その歩法や体術も近衛騎士団の精鋭に匹敵するほど洗練されている。
ロキは【慧眼】で確かめることすらできない、底知れない青年だった。
だが、本当の恐怖は、平民の少女ミアにあった。
男が彼女に刃物を向けて襲い掛かった時に、ミアが甘い声で言葉を発した直後、ロゼリアの持つ【慧眼】のギフトが、ミアから放たれた『力の本質』を視覚化し、強烈な警鐘を鳴らしたのだ。
あれは単なる威圧ではなく、対象の肉体と精神の主導権を完全に奪い取り、強制的に服従させていた。
バッカスの【強者の威圧】も相手を萎縮させるが、自白や行動まであそこまで意のままに操ることなどできない。
ミアの力はそれとは明らかに一線を画す、圧倒的な支配の力だった。
……そして、ロゼリアの知識の中に、一つだけあの力に心当たりがあった。
相手の意思を完全に奪う、伝説のギフト――【絶対服従】。
歴史上、この世界で最も恐ろしいとされるその力は、大陸の絶対的覇者であるこの国の直系皇族にしか発現しないと言われている。
そして現在、大皇国にいる皇族のうちで、唯一ギフトが発表されていない人間が一人いる。
それは、幼い頃から十八歳になった今まで療養中と噂され、一度も表舞台に姿を現していない第二皇女、エミリア殿下である。
もしかして、彼女は……。
いや、飛躍しすぎた可能性ではあるが、もしその推測が正しいのだとしたら。
自分の婚約者がしでかしたかもしれない取り返しのつかない愚行に、ロゼリアは目の前が真っ暗になりつつも、急いでその場を離れた。
そしてミアは路地裏の入り口――ロゼリアの後ろ姿へ真っ直ぐ視線を向けると、ふわりと微笑みを浮かべた。
しかし彼女はロゼリアの後を追うことはなかった。
代わりに、残った男たちに向かってこう言った。
「【今見た私とロキのギフトについて、全部忘れてねー】」
それから呆然とする男たちをその場に残し、「帰ろー」とロキを引き連れて路地裏の奥へと消えていった。
◆
その日の夜、屋敷に戻ったロゼリアは自室に籠もり、皇国の皇室に関するあらゆる書物を読み漁った。
しかし第二皇女に関する記述は、病弱で離宮から出ないという一行のみで、肖像画はおろか、容姿の特徴すら一切残されていなかった。
藁にもすがる思いで、両親にそれとなく皇室の事情を尋ねてみたが、彼らも詳しいことは何も知らなかった。
それどころか、「そんな無駄な詮索をする暇があるなら、バッカス様のご機嫌を取ることに専念しろ」と冷たくあしらわれる始末だった。
ロゼリアの家族は、彼女をただの政略結婚の駒としか見ていない。
昔から「バッカス様の横暴はお前が我慢して受け入れろ」「公爵家との繋がりを絶対に手放すな」と押さえつけられてきたため、ロゼリアはずっと一人で孤独に耐え続けてきたのだ。
確証は得られなかった。
だが、ロゼリアの直感が警鐘を鳴らしていた。
もし彼女が本当に大皇国の直系皇族であれば、このままバッカスが手出しを続ければ、バッカスの公爵家が消し飛ぶどころか、大逆罪として関わった者すべてが処刑されかねない。
それほどまでの絶対不可侵の存在が、直系皇族なのだ。
仮にミアが本物の皇女だとして、なぜ身分を隠してこんな学院に通っているのか、その目的もまるで分からない。
ロゼリアは焦燥に駆られ、登校するなりバッカスの姿を探した。
そして、学院で最も人通りの多いエントランスホールで彼を見つけた。
バッカスは取り巻きを引き連れ、ひどく苛立った様子で歩いていた。
「バッカス様! 少し時間をいただけませんか。ミアさんのことについてお話したいことがございます」
「あ? なんだ君は。私の視界に勝手に入るなといつも言っているだろう」
ロゼリアは周囲の目も気にせず、バッカスの前に立ち塞がった。
「バッカス様、お願いです。これ以上、ミアさんに関わるのはおやめください! 彼女はあなたが手を出していい相手ではありません。どうか、私の言葉を――」
「ええい、うるさい! いつもいつも私に説教ばかりしおって!」
バッカスは激昂した。
ただでさえミアへの嫌がらせが失敗続きでストレスが頂点に達していたところへ、最も疎ましい婚約者からの忠告。
彼の短い堪忍袋の緒は、いとも容易く千切れた。
「私をコケにしたあの平民も、私を見下す君も、等しく目障りだ! 邪魔だ、道を開けろ」
「ですが」
「くどいぞ! 邪魔するというなら力づくで排除するまでだ!」
絶句するロゼリアに対し、バッカスは怒りに任せて太い腕を振り上げた。
周囲から「あっ」と悲鳴が上がる。
ロゼリアが思わず目を瞑った、次の瞬間だった。
「――【その手を下ろしてくださーい】」
鼓膜を打つような乾いた破裂音の代わりに、ひどく甘ったるい、のんびりとした声が耳に届いた。
ロゼリアが恐る恐る目を開けると、そこには、バッカスの振り下ろされた腕が、ロゼリアの顔の直前で不自然に軌道を変え、だらんと下へ落ちている光景があった。
バッカス本人は、勢い余って腕の筋が痙攣でもしたと勘違いしているのか、「な、なんだ……っ!?」と困惑の声を上げている。
「あはっ。女の子の顔を殴ろうとするなんて、ほんとに屑ですねぇ、さいてー」
二人の間にいつの間にか割り込んでいたミアが、にっこりと愛らしく笑う。
しかし次の瞬間、ミアはバッカスの腕にそっと両手を添えると、ロゼリアにしか聞こえない極小の声で「【自分で腕を捻って、地面に倒れてねぇ】」と呟いた。
「ぎゃあああああっ!?」
途端にバッカスの腕はあらぬ方向へギリッと捻り上げられ、バッカスは無様な悲鳴を上げてその場に引き倒された。
大理石の床に顔を押し付けられ、腕を極められたバッカスの姿に、エントランスホールは水を打ったように静まり返る。
端から見れば、小柄なミアが一切の力みも感じさせない流れるような体術でバッカスを投げ飛ばし、関節を極めたようにしか見えない。
「き、貴様ぁ……公爵家の跡取りに対して、なんという真似を……っ!!」
バッカスは脂汗を流し、悔しさと激痛に顔を歪ませながら、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた学院の警備兵たちに向かって叫んだ。
「な、なにをしている、この女をひっ捕らえろ! 皇族の血を引く者への直接的な暴行、これは国家への反逆も同然だ、直ちに学院の地下懲罰牢へ連行しろ!!」
学院内で暴行を受けたと生徒本人から訴えがあり、しかも相手を拘束するよう求められた以上、警備兵にはひとまず当事者を確保し、事情を確認する義務がある。
とはいえ、本来ならばその場で双方から事情を聞き、目撃者の証言も確認したうえで処遇を決めるべきだった。
いきなり地下懲罰牢へ放り込むなど、明らかに手順を逸脱している。
「で、ですが……まずは双方から事情をお聞きしなければ――」
「黙れ! 私を誰だと思っている! この学院に多額の寄付をしている公爵家の嫡男だぞ!? お前たちの給料も私が払っているようなものだろう! そんな私が被害を受けたのだ。現行犯だ! さっさと拘束しろ!」
バッカスの怒声とともに放たれた【強者の威圧】が肌を刺し、警備兵たちは反論しかけた言葉を無理やり呑み込まされる
高位貴族であるバッカス本人が被害を訴えている以上、警備兵たちも無視することはできない。
「お待ちください、バッカス様! 彼女はわたくしを庇って――」
「黙れ! たかが婚約者の分際で口出しするな!」
だが、当のミアはまるで動じていなかった。
「わあ、地下牢って一度行ってみたかったんですー! ね、連れてってくださーい」
動けず固まる警備兵に、なんと自分から連れて行けとおねだりしてきたのだ。
罰を告げられた人間の反応ではない。
むしろ新しい遊び場を見つけた子供のように、ぱっと目を輝かせている。
だが、あの地下は、この間閉じ込めた倉庫とは全く違う。
ジメジメしていて、ネズミやムカデなどの虫がうじゃうじゃと生息する場所だ。
今度こそその無邪気な笑顔も引きつるに違いないと、バッカスはほくそ笑む。
「おい、さっさと連れて行け!」
ミア本人がこういうのだから仕方がないと言わんばかりに、警備兵たちはのろのろと動きだす。
が、ミアは、警備兵たちに囲まれたまま「あ、そうだ」と思い出したように手を打つと、少し離れた場所で呆れ返って様子を見ていたロキを指差した。
「一人だと寂しいんでぇ。そこのロキも一緒に連れてってくださーい!」
「は!?」
突然巻き込まれたロキが、目を剥いて頓狂な声を上げた。
「ちょっと待ってください、俺は何一つ手を出してないでしょう! ただ見ていただけですよ!?」
「いいじゃんいいじゃん。お友達でしょー? あ、それに、今回の件私にロゼリア様を助けるように言ってきたのはロキなんで、彼も共犯でーす♡」
「ふざけないでください! なんで俺まで……っ、離せ!」
「ええい、構わん、その生意気な連れも一緒に放り込め!」
バッカスが怒鳴り散らす。
かくして、悲痛な叫びを上げるロゼリアと、騒然とする生徒たちを残し――。
ミアは「わーい、地下牢だぁ」とご機嫌な足取りで。
巻き添えを食らったロキは「あんたいい加減にしろよ……っ」と文句を垂れながら、二人そろって地下へと連行されていくのだった。
◆
暗く湿った地下。
鉄格子の向こうは太陽の光も届かず、カビと鉄錆、そして微かな腐臭が漂う劣悪な環境だった。
しかし、そんな絶望的な空間に放り込まれたというのに、ミアの口からは場違いなほど明るい声が響いていた。
「わあ、なんか変なにおいするー。あ、ロキ見て見て、壁に血の跡がいっぱいあるよ!」
「……触らないでください。ばい菌が入りますよ」
「あ、ネズミ発見。わわっ、ムカデもたくさんいるねぇ。地下牢って生き物がいっぱいで楽しいねー!」
きゃはきゃはとはしゃぎ回るミアを他所に、巻き添えを食らったロキは呆れ果てた顔で壁に背中を預け、冷たい石の床にしゃがみ込んでいた。
「……はぁ。まさか本当に地下牢までついてくることになるとは」
「あはっ、ごめんねぇロキ。巻き込んじゃって」
ちっとも悪びれていない、軽すぎる謝罪である。
ロキは溜息を一つ吐き出し、漆黒の瞳でミアを見上げた。
「別に気にしてませんよ。あなたが面白がって面倒事に首を突っ込むのは、いつものことですから」
「えへへー。ロキは優しいねぇ」
ミアはご機嫌に笑っていたが、一通り牢の中を探検し終えると、ふと立ち止まって大きくあくびをした。
「んー。なんか飽きちゃった。私、眠い」
「なら寝ればいいじゃないですか」
「でもぉ、地面で寝ると頭が痛いし、寒いんだもん」
言うが早いか、ミアは迷うことなくロキに近づき、彼が着ていた制服の上着を強引に剥ぎ取った。
そして、しゃがみ込んでいるロキの太ももの上に、ごろんと遠慮なく頭を乗せる。
まさかの膝枕である。
「ちょっと、何してるんですか」
「ロキの足、ちょっと固くて眠りにくいんだけど。もう少しぷよぷよにならない?」
「無茶言わないでくださいよ」
「なら仕方ないかぁ。ふぁぁぁっ。おやすみー」
「……あんた、この状況でマジで寝ようとするとか、どんだけ図太い神経してるんですか」
文句を言うロキを完全に無視して、ミアは上着を毛布代わりに丸まると、数秒後には本当に規則正しい寝息を立て始めた。
薄汚れた地下牢で、本気で熟睡している。
いや、本気を出せばこんな牢など簡単に出て行けるのだが、今の状況すらもミアには新鮮で楽しいのだろう。
それにしても……あたりをネズミや虫が走り回る中熟睡できるその異常なまでの肝の据わり方に、ロキはもはや何も言わず、ただ静かに目を伏せた。
◆
一方その頃。
エントランスホールでの騒ぎの後、ロゼリアは息を切らして学院の最上階にある学院長室へと単身乗り込んでいた。
バッカスの叔父であり、この学院の長であるダニエルは、突然血相を変えて飛び込んできた筆頭公爵令嬢に目を丸くした。
「学院長! 今すぐバッカス様を止め、ミアさんとロキさんを解放してください。彼らが学院の地下懲罰牢へ連行されてしまいました!」
「……なんだと? バッカスが、生徒を地下牢へ? 待ちなさい、そのミアとロキというのは……」
ロゼリアの口から出た名前に、ダニエルの顔からすっと血の気が引いた。
彼はもはや土気色を超えて死人のように青ざめ、ガチガチと歯を鳴らして立ち上がった。
「っ、な、なんということを……!」
ダニエルは呆然とするロゼリアを置き去りにする勢いで、なりふり構わず地下牢へと駆け出していった。
「が、学院長!? お待ちください!」
慌てて後を追ってきたロゼリアが、地下へ続く人気のない階段へ差しかかったところで、ダニエルに並走しながら、張り裂けそうな胸を押さえて尋ねた。
ダニエルのただ事ではない慌てように、ロゼリアの中でこれまで積み重なっていた疑念が確信へと変わる。
彼女は覚悟を決め、思い切って問いを投げかけた。
「学院長! ……もしかして、あのミアという平民の少女は、大皇国の第二皇女……エミリア殿下なのではありませんか?」
「――っ!? な、なぜそれを貴女が知っている!?」
ダニエルは息を切らしながら、驚愕に目を見開いてロゼリアを見た。
ロゼリアは、ミアが他者の意思を完全に奪い去る異常な力を振るうのをこの目で見たこと、そして自ら皇室について調べた末に行き着いた推論を、走りながら手短に伝えた。
それを聞いたダニエルは絶望に顔を歪め、重々しく首を縦に振った。
「ああ……そうだ。エミリア殿下が編入前、私のもとに皇室から直々に『第二皇女が身分を隠して入学する』と通達があったのだ」
ダニエルは足を止めないまま、血を吐くような声で続ける。
「バッカスが殿下に度々絡んでいることは耳にしていた。しかし殿下ご本人が被害を訴えるどころか、『面白いから放っておいて』と……! 皇室からも本人が助けを求めない限り特別な介入はするなと厳命されていて、こちらから強引に止めることができなかったのだ!」
「では、なぜ今になって慌てて……」
「限度というものがある!! いくら放置しろと言われても、あんな場所に皇族の直系を拘束したとあっては――」
自分の甥がしでかした取り返しのつかない愚行に、ダニエルは半狂乱になりながら地下への階段を駆け下りた。
ダニエルとロゼリアが血相を変えて地下牢へと駆けつけた時、彼らの目に飛び込んできたのは、冷たい鉄格子の向こうで繰り広げられている、あまりにも予想外の光景だった。
「あ、起きてください。お迎えが来たみたいですよ」
「んむぅ……あと一時間……」
「こんなところで二度寝しないでください。ほら、起きて」
平民の女子生徒改め、第二皇女エミリアは、ロキの膝を枕にしてぐっすりと熟睡していたのだ。
ダニエルは震える手で即座に鉄格子の鍵を開け、文字通り床に這いつくばるようにして平身低頭で謝罪の言葉を口走り始めた。
一方のロゼリアは、そのあまりの光景に呼吸を忘れたように鉄格子の前で固まっている。
そんな二人の様子など意に介す様子もなく、鍵が開けられたことに気づいたミアは寝ぼけ眼をこすりながら身を起こし、両腕を無防備にロキへ向けて伸ばした。
「んー……歩くのめんどくさーい。ロキ、抱っこぉ……」
「……はぁ。本当に世話の焼ける人だ」
ロキは深い溜息をつきながら立ち上がると、ミアをひょいと抱き上げた。
そして眠るミアを抱いたまま堂々と地下牢を出て行くのだった。
◆
数十分後、周囲は完全な人払いがされていた。
そして学院の最上階にある学院長室には、重苦しい沈黙と、場違いな怒声が響いていた。
「ええい、なぜ私がこんなところに呼び出されなければならない!」
「黙れえええっ!!」
ソファで喚くバッカスを、ダニエルが血走った目で怒鳴りつけた。
そこへ、乱暴に部屋の扉が開け放たれる。
「ダニエル、早馬など寄越して、至急とは何事だ!」
現れたのは、バッカスの父親であり、ダニエルの兄でもあるアルヴェイン公爵だった。
「おお、父上、ちょうどよかった! 学院の生意気な平民が私に暴力を振るったのです! 私はそいつらを地下牢に叩き込んでやりましたが、叔父上はなぜか私を責めるのです!」
バッカスは父親の姿を見るなり、我が意を得たりとばかりに駆け寄った。
公爵はバッカスの捻れた腕を見て眉をひそめると、横柄な態度でダニエルを睨みつけた。
「我が息子に怪我をさせるとは……! 虫ケラはしばらく地下にぶち込んでおいても問題はあるまい」
傲慢に言い放つ公爵。
部屋の隅に控えていたロゼリアは、彼らの底知れない愚かさに、もはや哀れみすら覚えていた。
「……虫ケラ、だと?」
ダニエルはうわ言のように呟き、やがて顔を両手で覆って、狂ったように笑い出した。
「ははは……! 処分するだと? お前たちが処分しようとしている『虫ケラ』が誰なのか、教えてやろうか」
「ダニエル? 貴様、気でも狂ったか」
突然笑い出したダニエルに公爵が不快そうに顔をしかめる中、ダニエルはギリッと歯を食いしばり、床に額を擦りつける勢いで叫んだ。
「お前が地下牢へぶち込んだのは……我が大皇国の絶対的主君の血を引く、第二皇女エミリア殿下だ!!」
「……は?」
バッカスと公爵の動きが、完全に停止した。
「な、何を馬鹿なことを言っている、ダニエル。殿下は離宮で療養中のはず……」
「身分を隠して入学されていたのだ! 見ろ、これを!!」
ダニエルは懐から震える手で一通の書状を取り出し、公爵の顔面に叩きつけた。
封蝋に刻まれているのは、紛れもない大皇国の『双頭の竜』の紋章。
「っ……! こ、これは、現皇帝陛下からの……っ!?」
「入学前に私宛に極秘に送られてきた親書だ。『娘が平民としてそちらに通うゆえ、よろしく頼む』とな」
公爵は血の気が失せた顔で書状を拾い上げ、その文面に目を通した瞬間、ガタガタと全身を震わせてへたり込んだ。
「だ、だが……なぜエミリア殿下が、わざわざ平民に身をやつして学院などへ……?」
公爵が掠れた声でそう言うと、答えを待つように全員がダニエルに目線を向ける。
やがてダニエルがポツリと言った。
「……暇つぶし、だそうだ」
「ひ、暇つぶし……!?」
「ああ。そもそも殿下が病弱だというのは、皇室が流した大嘘なのだ。……手紙に書いてあるように、殿下の持つ【絶対服従】のギフトは、言葉一つで他者の精神と肉体を完全に支配し、大軍すら一瞬で無力化するほど強力すぎる。その圧倒的な力を危惧した皇室が、彼女を離宮に隠すための口実だった。だが……退屈に耐えかねた殿下は、身分を偽ってこの学院へ遊びに来られたのだ!」
公爵が絶望に息を呑む中、ダニエルはバッカスを鬼の形相で睨みつけた。
「それだけではない、バッカス! 先ほどロゼリア嬢から話を聞き、慌てて警備に裏付けを取らせたが……貴様、殿下に向けて裏社会のゴロツキを差し向けただろう! 皇族に対する暗殺未遂、暴行、そして不当な幽閉。これがどういうことか分からないほど愚かではあるまい!」
「あ、あ、ああ……」
バッカスの口から、間の抜けた音が漏れた。
「嘘だ……だって、あいつは平民で、いつもヘラヘラ笑ってて……私の威圧も効かないような、ただの鈍感な馬鹿で……っ」
「貴様のくだらん威圧など、殿下の【絶対服従】の前に通じるはずがなかろう。お前のはしょせん、エミリア殿下の下位互換にすぎん! 殿下はただ、貴様の滑稽な嫌がらせを遊びとして楽しんでおられただけなのだ。そして貴様は、その遊びの果てに、決して超えてはならない一線を越えた!」
ダニエルの怒声が、容赦なく現実を突きつける。
「終わりだ……。公爵家は終わりだ。我々一族は、関わった者一人残らず、反逆者として首を刎ねられるかもしれん……っ!」
「ひっ……!」
その言葉に、公爵は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
その時だった。
「完全に目が覚めてるなら降りてもらえませんか? 重いんですけど」
「あははっ、ロキったらひどーい。女の子に向かって重いって言うのはマナー違反だよぉ?」
「事実を言ったまでです。いい加減自分で歩いてください。俺はあなたの馬車じゃないんです」
のんきな会話と共に、執務室の扉が開いた。
現れたのは、真新しい制服に綺麗に着替えたミアと、彼女を未だに軽々とお姫様抱っこしたままのロキだった。
ロキは口では文句を言いながらも、決してミアを床に下ろそうとはしない。
完全に目を覚ましたらしいミアは、彼の腕の中で機嫌よく笑っていた。
その姿を見た瞬間、絶望と恐怖で限界を迎えていたバッカスの頭の中で、何かが完全に弾け飛んだ。
「き、きさまぁぁぁぁっ!! お前のせいで、お前さえ来なければぁぁぁっ!!」
錯乱したバッカスは血走った目を剥き、獣のような咆哮を上げてミアへ突進した。
もはや自分が誰に向かって牙を剥いているのかすら理解できていない、完全な発狂だった。
ダニエルと公爵が「やめろ!」と悲鳴を上げる中、突進してくるバッカスを前にして、ミアはロキの腕の中に収まったまま、満面の笑みを浮かべた。
そして――。
「【おすわり♡】」
駄犬を躾けるような一言が放たれたと同時に、バッカスの両膝が、本人の意思とは無関係にガクンと折れた。
「が、げぇぇぇっ!?」
バッカスは勢いよく床に膝をつき、そのまま両手まで床につかされる。
さらに頭までもが勝手に下がり、額が大理石の床すれすれの位置でぴたりと止まった。
まるで主人の命令に従う犬のような、あまりにも無様な姿勢だった。
立ち上がろうとしても、指一本動かすことすらできない。
バッカスは己の身体が完全に自分の支配を離れた恐怖に顔を引きつらせ、涙と鼻水を垂れ流した。
「う、あ……あ、あああ……っ」
バッカスから漏れる絶望の呻き声。
己の意思など何一つ介在させない、圧倒的で絶対的な『支配』。
――これが、【絶対服従】の力。
しかし、恐怖に震え上がったのは彼だけではなかった。
ミアの命令はバッカス一人に向けられたものだったにもかかわらず、その場にいたダニエルも、公爵も、そして少し離れた場所にいたロゼリアでさえも、強烈な圧に気圧されてガクガクと膝を震わせていた。
あまりにも無邪気で、あまりにも残酷な絶対者の力。
自分たちに向けられた言葉ではないのに、魂の底からひれ伏さなければ殺されると本能が叫ぶのだ。
そんな地獄のような空気の中、ミアはあっけらかんと笑い声を上げた。
「あははっ! そんなに怯えないでくださいよぉ。別に私、怒ってませんから」
「で、殿下……本当に?」
学院長が怯えながらも尋ねる。
「本当ですよ? バッカス様のおかげで、退屈な日常が結構刺激的になりましたし。だから、私が私怨で一族郎党をどうこうするつもりはありません。安心してくださいねぇ」
その言葉に、公爵とダニエルは涙を流して安堵の息を吐いた。
しかし――次の瞬間、ミアの纏う空気が、ふっと氷のように冷たくなった。
「でもぉ……」
床に這いつくばるバッカスを見下ろす瞳には、先程までの無邪気さは微塵もない。
「私に手を出したことは許してあげますけど、何の罪もない自分の婚約者を、大勢の前でボロカスに貶めていたあれは……私、とーっても気に食わないんですよねぇ」
ミアはそう吐き捨てると、部屋の隅で硬直しているロゼリアへと視線を向けた。
そして再びふわりといつもの笑顔に戻り、小首を傾げる。
「ねぇ、ロゼリア様。あなた、本当にこんな男が婚約者でいいんですかぁ?」
「え……わ、私は……」
突然話を振られたロゼリアは戸惑い、無意識に公爵の顔色を窺ってしまった。
「私は……ですが、家のために、この婚約は……」
「今は家の事情じゃなくて、ロゼリア様自身がどうしたいかを聞いてるんですよぉ」
真っ直ぐに見つめてくるミアの瞳。
その言葉に、ロゼリアの中で、長年自分を縛り付けていた鎖が音を立てて砕け散るのを感じた。
公爵家のため、家族のため、そうやって自分の心を殺し続けてきた日々。
ロゼリアは深く息を吸い込み、はっきりと口にした。
「……嫌、です。私は、この方と結婚などしたくありません」
「ですよねー! じゃあ、こんな公爵家との婚約なんて、今すぐ破棄しちゃいましょ!」
ミアはぽんと手を打って明るく言い放った。
「実家のことなら気にしなくていいですよぉ。あなたのご両親が何か言うなら、私からお話してあげます。なんなら、今よりずーっと条件のいいお家との縁談だって、いくらでも用意できますしー」
「……え?」
「でも、それを受けるかどうかはロゼリア様が決めてくださいね。別に結婚したくないなら、しなくたっていいんですから」
ミアはにこりと笑い、ロゼリアへ向けて言葉を続けた。
ロゼリアは、阿鼻叫喚に包まれた部屋の中で、冷ややかな視線を彼らに向けていたが、いつしかその目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「……どうして」
震える声で、ロゼリアは問いかけた。
「どうして、私のような者のために、そこまでしてくださるのですか……?」
「んー、理由は二つありますよぉ。まず一つ目は、偉そうにふんぞり返ってたそこのバッカス様が、とーっても気に食わなかったからです」
ミアは這いつくばるバッカスをゴミでも見るような目で一瞥し、すぐにロゼリアへニコリと笑いかけた。
「もう一つは……ロゼリア様、私たちが編入してきた日のこと、覚えてますかぁ?」
「ええと……」
「私、あの日ハンカチを落としちゃったんですけど、あなたが拾ってくれたんですよぉ。その時に私の制服のリボンが曲がってるのに気づいて、『服の乱れは心の乱れですから気を付けてくださいね』って言いながら、綺麗に直してくれましたよね」
言われてみれば、そんなこともあったような気がする。
ロゼリアにとっては、息をするのと同じくらい無意識の行動だった。
「そのあとも、廊下で困ってる下級生に声をかけたり、落とした荷物を一緒に拾ってあげたりしてましたよねぇ。私、それを見て思ったんです。『あー、この人、すっごくいい人だなぁ』って」
「……ただ、それだけのことで?」
あまりにもささやかな理由に、ロゼリアは呆然と目を見開いた。
そんなことで、皇女が、己の後ろ盾になってくれるというのか。
感動で胸が詰まりそうになったロゼリアだったが、ミアはそこで口元に手を当てて、くすくすと悪戯っぽく笑った。
「あはっ、そんなに感動しないでくださいよぉ。私、そんな立派な善人じゃありませんから。助けた理由はそれですけど……偉そうにふんぞり返っていたあの男が、ただただムカついたのが理由の八割ですからねー!」
「そうですよロゼリア様。この人は昔から、己の気分と気まぐれだけで周りを振り回す人ですから。あまり立派な人物だと美化して感動すると、後で痛い目を見ますよ」
「あ、ロキ、その言い方はひどくないー?」
しんみりした空気を吹き飛ばすような、二人のあっけらかんとしたやりとりに、ロゼリアは思わず吹き出しそうになり、ふっと肩の力が抜けた。
そして、これまで彼女を縛り付けていた重い鎖が、音を立てて崩れ去っていくのを感じたのだった。
◆
あの一件から、数週間が経った。
大皇国の第二皇女・エミリア殿下が『平民のミア』として学院に在籍しているという事実は、あの日学院長室にいた者たちだけの極秘事項とされた。
エミリア自身は「別に怒ってないから」と言い残し、公爵家やダニエルに対して表立った処分を何も下さなかった。
しかし、だからといって彼らが平穏無事に済むはずがなかった。
まずバッカスは、エミリア本人が処罰を望まなかったため、皇女への大逆罪としての追及こそ免れた。
だが、裏社会の者たちを雇って学生を襲わせたことや、自身の立場を利用して、不当に強い拘束を要求したことについては、さすがにやりすぎだと当然責任を問われた。
その結果、バッカスは学院を退学処分となり、公爵家の跡継ぎからも廃嫡。
表向きには、病にかかったためということになっている。
代わりに現在五歳になる彼の弟が、次期当主として立てられることになった。
そしてバッカスは、あの日味わった【絶対服従】の圧倒的な力への恐怖が深く刻み込まれ、すっかり以前の傲慢さを失ってしまった。
今は公爵家の領地にある療養所で静養しているが、人が近づくだけで反射的に、
「ひっ、申し訳ありません、服従します、服従しますから!」
と四つん這いになって許しを乞うほど、すっかり人に怯えるようになってしまったという。
また、エミリアはあの場にいた彼らに秘密を守らせる際、自身のギフトを使わなかった。
「命令して強制的に口を塞ぐより、正体を知った上で『いつ殺されるか分からない』って怯えながら自主的に黙ってもらう方が、最高の抑止力になるでしょー?」
とは、エミリアの弁である。
事実、アルヴェイン公爵もダニエル学院長も、今回こそ許されたものの、今度エミリアの機嫌を本気で損ねれば何が起こるか分からないという恐怖を抱え、胃薬を手放せない日々を送りながら、絶対に口外しないと血を吐くような思いで誓っている。
一方、ロゼリアの身辺にも大きな変化があった。
バッカスの廃嫡が決まった直後、ロゼリアの家族――リプレイア公爵家は、ならば新しい跡継ぎである五歳の弟と婚約を結び直せと言い放ったのだ。
彼らにとってロゼリアは、どこまでいってもアルヴェイン公爵家と縁を繋ぐための便利な道具にすぎなかった。
だが、その強引な目論見は、思わぬ方向から物理的に粉砕されることになる。
『私の大切な友人のロゼリア嬢の意思を無視するような真似をするなら、私が相手になるけど、それでもいい?』
エミリアが(半ば面白半分で)大皇国の皇室の印が入った、要約するとそんな内容の親書をリプレイア公爵家に送りつけたのだ。
絶対的覇国の皇族から直接の圧力を受けたロゼリアの両親は、泡を吹いて卒倒し、五歳の弟との婚約話は完全な白紙となった。
これまで表舞台に出てこなかった病弱な皇女とはいえ、その影響力は絶大だった。
世間の噂では、彼女は両親である現皇帝夫妻からたいそう可愛がられており、エミリアを敵に回すことはすなわち、絶対的覇国の皇帝を敵に回すことと同義であるとされているからだ。
――なお実際のところ、皇帝夫妻は『本気を出せばすべてを意のままに操り、優秀な兄を押し退けて次期皇帝にすらなれる力を持つが、めんどくさいからやらないと言い切る娘』に対して、娘への愛情と同時に恐怖も抱いているだけなのだが、リプレイア公爵夫妻それを知る由もない。
ちなみに、正気を取り戻した公爵夫妻は、一体どこで病弱で表に姿を現さない皇女と繋がりを持ったのかと青ざめながら問い詰めてきたが、ロゼリアは決して口外することはなかった。
それどころか、ロゼリアの扱いを一つ間違えれば家が滅ぶかもしれないと悟った実家は、今や彼女に対して一切の干渉ができなくなっている。
長年彼女を縛り付けていた鎖は、こうして完全に断ち切られたのだった。
◆
「あはっ、今日のパン、いつもより少し柔らかーい!」
「……気のせいじゃないですか。どう見ても石のように硬いですよ」
そして、陽の光が降り注ぐ学院の食堂。
そこには、これまでと何も変わらない、平民の奨学生として質素な昼食を頬張るミアと、呆れ顔でそれに付き合うロキの姿があった。
「ねぇ、ロゼリア様もそう思いませんかぁ?」
「ふふっ。そうですね、いつもより美味しそうに見えます」
二人の向かいに座り、食事を口にしながらロゼリアは微笑んだ。
そしてふと、以前から気になっていた疑問を口にする。
「そういえば、エミリ……いえ、ミアさん」
ロゼリアは思わず本当の名前で呼びそうになり、慌てて咳払いで誤魔化すと、周囲に聞こえないよう声を潜めて尋ねた。
「学院の登録では、ミアさんのギフトは【どんな食事も美味しく感じる】というものでしたよね。もしかして、ギフトを二つお持ちだったのですか?」
【絶対服従】という恐るべき力に加え、もう一つギフトを持っているとしたら、それもまた規格外だ。
しかし、ロゼリアの真剣な問いに対し、ミアが口を開くより早く、隣のロキが心底呆れたようにため息をついた。
「あれはフェイクですよ。この人はただの馬鹿舌なんです。どんな粗末なものでも本当に美味しい美味しいと食べるので、便宜上そういうギフトだということにしているだけです。味覚が壊れてるんですよ」
「ちょっとロキ、馬鹿舌はひどくないー?」
ぷくっと頬を膨らませて抗議するミアと、涼しい顔でパンをかじるロキ。
そのあまりにも対等で自然なやり取りを見て、ロゼリアは目を瞬かせた。
「あの、ロキさん。実は以前、ミアさんについて調べた時、ロキさんについても調査したのですが……一切の情報が出てきませんでした。その……ロキさんは、ミアさんの護衛か、従者の方なのですか? それとも、どこか高位の貴族のご子息、とか……?」
大皇国の皇女にタメ口で接し、あまつさえ『馬鹿舌』などと暴言を吐く従者など、普通はあり得ない。
「あー、まあ、護衛も兼ねてますけど……」
しかし、ロゼリアの遠慮がちな質問に対して、ロキの言葉の続きを答えるように、ミアはあっけらかんと爆弾を投下した。
「ロキはね、私の夫!」
「…………はい?」
ロゼリアの時が止まった。
夫、と。
確かにミアはそう言った。
いや、年齢的にはあり得る話ではあるのだが……。
「まだ公表してないから、調べても何も出てこないですよぉ。知ってるのも皇室のごく一部だけですし」
ミアが言うには、昔夜の皇都を面白半分でコッソリ徘徊していた際に、路地裏で拾ったのがロキらしい。
「無ギフトだって勘違いされて捨てられた孤児だったんだけど、なんと私の【絶対服従】がまったく効かなくって! すっごく面白いから、勝手にお城に連れ帰ってまずは従者にしたの」
「拾った野良猫みたいな言い方をしないでください。夜の路地裏を歩いていたらいきなり皇族に拉致された俺の身にもなってほしいものです」
「で、でも、孤児からいきなり皇女殿下の夫に……? 一体どうやって……その、ロマンチックな恋に落ちて……?」
ロゼリアが混乱しながら尋ねると、ミアはケラケラと笑い飛ばした。
「あはっ、全然! お父様が毎日毎日しつこくお見合いの話を持ってくるから、めんどくさくなっちゃって。ロキの腕組んで『私、この人と路地裏で愛を誓ったから!』って宣言しちゃったの!」
「おかげで皇帝陛下は泡を吹いて倒れ、俺は皇女をたぶらかした大罪人として、しばらく肩身が狭かったですよ」
「でもほら、結局お父様も折れたし!」
「どうせ折れなかったとしても、あなたがギフトを使えば結果は同じですからね。陛下もそれに気づいて、折れざるを得なかっただけでしょう」
「それはそうなんだけどさー。でもね、ロキは一緒にいても変に気を使わなくてすっごく楽なんだよね」
「俺も毎日お腹いっぱいご飯食べられるんで、まあ損はしてないですね。……この学院の一番安い昼食だけはもうちょっと何とかしてほしいですけど」
隣で深く頭を抱えるロキを横目に、ミアはえへへと照れ笑いを浮かべている。
あまりにも衝撃的な事実に、ロゼリアはしばらく口を開けたまま固まってしまったが――やがて、耐えきれなくなったように吹き出した。
「ふふっ……あはははっ!」
お腹を抱えて笑うロゼリアを見て、ミアも一緒になって笑い出す。
婚約者という立場から解放され、実家からの重圧も消え去った彼女の表情は、以前のような張り詰めた冷たさはなく、年相応の柔らかなものになっている。
今ではこうして、昼休みにミアたちと一緒にお昼を食べるのが、ロゼリアのささやかな日課となっていた。
「あーあ、バッカス様がいなくなって平和になったのはいいけど、ちょっと退屈になっちゃいましたねぇ。ねぇロキ、午後から授業サボって、また地下牢に遊びに行かない?」
「行きません。俺は普通に平穏な学生生活を送りたいんです。行くなら一人で行ってください」
「えー、ロキのケチー」
常識外れで規格外の第二皇女。
だが、そんな彼女がもたらしてくれたこの騒がしくも温かい日常を、ロゼリアは心から愛おしいと感じていた。
「ロゼリア様、私のおかず、一口食べますー?」
「あ……はい、ありがとうございます。では、私のおかずもどうぞ」
「ちょっと、なんで俺の分のおかずを勝手に交換するんですか」
「えー、私のおかずは私の物。ロキのおかずは私の物、でしょ?」
「そんなわけないでしょう」
文句を言うロキと、まったく意に介さないミア。
そんな二人のやり取りに、ロゼリアの口からクスクスと自然な笑みがこぼれる。
いつ果てるとも知れない三人の他愛のない会話と笑い声が、穏やかな食堂の喧騒の中へと、心地よく溶けていった。
続編→『両親に使い潰されそうな侯爵令息がいたので、悪事を全部暴いて嬉々として破滅させてみました』
https://ncode.syosetu.com/n4476mp/
作ってみました。




