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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第1章 港の樹
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第1章8話 軽口の時と瓦解の街

 「俺が、悪者になる。」


 石壁に染み込んだ自分の声が、まだ樹根室の空気から抜けきっていなかった。


 港の鐘が七つを打ち終えてから、まだあまり時間はたっていない。導管の唸りはうそのように静かだ。壁に埋め込まれた圧力計の針が、じりじりと下側の数字へ滑っていく。盤面の奥では、歯車がかすかに噛み合い、紙帯を送る音だけがしていた。


 代わりに、胸の内側で別の拍が鳴っている。樹の拍とも、自分の鼓動とも違う、熱を帯びた速いリズム。胸骨の中央を指で押せば、その拍に触れられそうな気がした。


「……やったんだよな、本当に」


 自分の声は思ったより軽かった。喉の奥がまだ乾いているのに、その軽さが少し怖い。


「やったんだよ。いまさら『やっぱやめた』はなしだからね」


 胸の内側で、笑い混じりの声が跳ねる。


 姿は見えない。だが、空気の密度がふっと変わる。さっきまで樹の根に沿って流れていた熱が、今は俺の周りでもつれ合っている。


「ノクト、少し静かにして。記録を確認させてください」


 リティが、樹根室の中央に据えられた記録板に近づく。板には導管の拍を刻んだ紙帯が巻き取られており、黒い線が一列、走っていた。


 さっきまで、紙はほとんど真っ黒になるくらい線で埋まっていた。それが解放の瞬間にいったん途切れ、そこから先は、まばらな点がぽつぽつと続くだけだ。


「出力、七割以上落ち……。共鳴期の前後でここまで下がるのは、記録上でもまずありませんね」


 リティは紙帯に指先をそっと沿わせる。薄い光を反射するその指が、かすかに震えているように見えた。


「でも、ゼロにはなってない」


 リティの隣で、柔らかな声が響く。


 ルーメンだ。彼女の声がするたび、樹根室の空気が一度だけ和らぐ。冷えすぎた導管の表面に、誰かが温い布を被せたような感じになる。


「上の蓄圧槽が、まだ踏ん張ってくれてます。灯りも水も、すぐに全部が落ちるわけじゃないですよ」


「そうそう。だからさ――」


 ノクトが、俺の胸の内から飛び出すみたいに言う。


「いまが一番、おしゃべりする時間あるんじゃない? 壊しはじめた街の、最初の休み時間ってやつ」


「物騒な言い方をするな」


 反射的にツッコミを入れながら、自分の口の軽さに苦笑する。ノクトの言い方は、いちいち角が立つ。けれど、その角がなかったら、ここまで踏み込めなかったかもしれない。


「でも、だいたい合ってると思う」


 リティは紙帯から視線を外さないまま言った。


「ここから先、この港は元には戻りません。樹の根元を一度切った以上、どれだけつぎはぎをしても……“昔と同じ運転”には戻らない」


 その言葉が、乾いた空気の中に落ちる。


 壁の向こうでわずかに流れている水音が、急に遠ざかったように感じた。


「怖がらせるために言ってるわけじゃないですよ」


 ルーメンが、すぐにその上から布をかぶせるように続ける。


「“戻らない”ってことは、“変えられる”ってことでもありますから。ね?」


「ふわっと言うなよ」


 そう返しながら、自分の胸の中身を確かめる。


 さっき、「俺が悪者になる」と口にしたとき、腹の底に落ちた重さは、まだそこに残っていた。


 ノクトが、その重さの上に指先を立てるみたいに囁く。


「さっきのさ、『自分が悪者を引き受ける』ってやつ」


「……あれか」


「けっこう、いいセリフだったよ」


 背骨をなぞられたみたいに、ぞわっとする。


 言った。確かに言った。樹の接点に鍵核を押し当てる前、自分で自分を追い込むみたいに。


「あれは勢いだ」


「勢いだけで樹は起きないよ」


 ノクトはきっぱりと言う。


「時刻合わせて、核持ってきて、体温も呼気も合わせてさ。それ全部やった上で、わざと嫌われ役になるって決めたんでしょ。だったら、ただの勢いとは言わない」


「言うねえ」


 ツッコミながらも、胸の奥が少し詰まる。


 リティが、ちらとこちらを見た。


「私も、あの言葉は記録しておきたいですね」


「やめろ、帳面に書くな。残るだろ」


「残すために書くんです」


 リティは淡々と返す。その口の端が、ごくわずかに上がっていた。


「“わざと悪者役を引き受ける”って、かなり難しい仕事ですよ。自分が本物の加害者にならない程度に、でも構造を止められるくらいには嫌われないといけない」


「さらっと恐ろしいこと言わないでください」


 ルーメンが、笑い混じりに挟む。

 その声がふわりと響くと、樹根室の乾いた空気に、わずかな湿り気が戻る気がした。


 圧力計の針が、さらにひと目盛り落ちる。

 頭上の照明球がじわりと暗くなり、すぐまた元の明るさへ戻った。その揺らぎと、導管の奥から来る拍の変調が、同じリズムで皮膚に触れてくる。


「上のシフト、そろそろ交代の時間ですね」


 リティが天井を仰ぐ。

 遠くから、中央塔の鐘がにぶく響いてくる。ここからでは何度鳴ったのか数えにくい。それでも、長く樹根室にいた身体は、音より先に“時間”を知っていた。


「上に顔、出すのか」


「出さないと不自然でしょう。樹根室に籠もったままでは、『何かしました』って宣伝しているようなものです」


「まあ、そうだな」


 導管に軽く手を置く。表面の温度はさっきより確実に低い。けれど、完全には冷え切っていない。


 遠くで、誰かの怒りや不安や期待が、まだ細く燃えているのが分かる。


「ヴァル」


 リティが、少しだけ声の調子を落とした。


「上では、当面の切り替え案を説明する必要があります。非常バイパスの運転、どこまで公開するかも」


「ああ」


 ここに来る前、夜なべして引き回した図面が、頭の中でめくれる。導管の一部を閉じ、別の道を開き、水と灯りを最低限だけ回すライン。そこだけは、樹がほとんど眠っても、人がいきなり倒れないように――そう願って引いた線だ。


「全部は話さない」


 自分でも驚くほどはっきりと、言葉が出た。


「“完全に止まった”とも言わないし、“何もしてない”とも言わない。最低限のことだけ伝える。それでいいか?」


「それが、あなたの選んだ『悪者のなり方』なら」


 リティは短く頷いた。


「わたしは、それを記録しておきます。賛成も反対も、後からいくらでも書き足せるけど、『そのときどう決めたか』だけは、今しか残せませんから」


「重いな」


「軽く言うと軽く扱われますから」


 そんなやり取りをしていると、樹根室の扉の向こうで足音がした。

 鉄の階段を上り下りする音が、静圧期の空気にくぐもって届く。


「ヴァルさーん、中、いいですかー?」


 若い局員の声だ。


 反射的に胸に手を当てる。中からノクトがくすくす笑う気配が伝わってくる。


「どうする?」


 ノクトが囁く。


「出ても出なくても、もう街は動き始めちゃってるけど」


「黙ってろ」


 思わず小声で返した途端、扉の向こうから「あれ? 今、何か言いました?」という声が重なった。


 リティと目が合う。

 ルーメンが、くすりと笑った。


「聞こえてないみたいですね」


「……そりゃそうだろ。ここで全部聞こえてたら、もう終わってる」


 胸の内側のノクトが、あからさまに残念そうな声を出す。


「つまんないの。ちょっとくらい聞こえてもいいのに」


「よくない」


 扉の方へ向き直り、声を張る。


「今行く! 少し待ってくれ!」


 返事をしてから、もう一度三人――いや、四人を見回した。


「とりあえず、ここから上は人前モードだ。余計なこと言うなよ、特にそこの二人」


「あたしと?」


「わたし、ですか?」


 ノクトとルーメンの声が、ぴったり揃う。


 リティが珍しく吹き出した。


「そこは、まず自分でしょ」


「……まあ、そうだな」


 結局、一番余計なことを言いそうなのは、自分だ。


 頭上の照明が、また一度だけふっと揺れた。導管の拍も、さっきよりさらにゆっくりしている。


 この港は、もう元には戻らない。


 その事実を一度、自分のものとして飲み込んでから、扉の取っ手に手をかけた。


 四人で、この街の形を変えていく。

 そう口に出したら戻れなくなる気がして、言葉にはしなかった。けれど、胸の中の拍は、さっきからずっと同じリズムで鳴り続けている。


 樹根室を出て階段を上るとき、足裏に伝わる振動は、さっきまでとは違う種類のものになっていた。


 樹の拍と、自分の決意と、見えない二人の気配。

 その三つが重なった新しいリズムが、石段の一段一段に、小さく刻まれていく。




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