第1章7話 希望の点火と決意
港の鐘が六つを打ったころ、樹根室の空気は、共鳴期の残り火を抱えたまま、静圧期へとゆっくり傾き始めていた。
石段を降りるたび、足裏に伝わる導管の拍が変わる。さっきまで街じゅうを揺らしていた厚い鼓動が、少しずつ薄くなり、丸い波へと形を変えている。
樹根室の扉を閉め、閂を下ろす。外のざわめきが切り離され、低く続く唸りと、自分の呼吸の音だけが残った。
中央の床には、樹の根が露出している場所がある。黒く固まった木質が、石床を押し広げるようにゆっくり膨らみ、その根もとの一部には、人の手で削られた浅い窪みが刻まれていた。
祖父の代から「接点」と呼ばれてきた場所だ。
そのすぐそばの作業台の上に、二つの玉が並んでいた。
ひとつは、俺の家から持ち出した、あの丸い玉。祖母の遺品として箱に収められていたものだ。布を外すと、表面にかすかな光沢が浮かぶ。手のひらに乗せると、冷たさの奥に小さな拍がある。
もうひとつは、リティが袋から出した玉だった。形も大きさも、驚くほどよく似ている。ただ、こちらの表面には、ごく薄い刻印がいくつか入っていた。目を凝らせば、規約局の印章に見える細い線だ。
「こっちが“戻す用”。」
リティが刻印のある方を指先で示す。
「正式には、封印核と呼ばれているものです。樹を止めたあと、どうしても『昔通り』に戻す必要が出たときのために、港湾連合から預かっている。」
「戻す……。」
口の中で繰り返す。
リティはもう片方――俺の家の玉――を見て、ほんのわずかに表情を和らげた。
「そっちが“解放用”。鍵核ですね。」
「鍵、ね。」
手の中の玉は、そんな大層な名前を与えられているとは思えないほど、ただの無口な重さだった。
「名前はさておき。」
リティは深く息を吸う。
「今日ここで手をかけるのは、鍵核だけです。封印核の方には触れません。」
「……一度、切る。」
「ええ。一度、切るだけです。」
言葉が、樹根室の石壁に薄く跳ね返っていく。
作業台の端には、さっきまで使っていた図面も広げてあった。非常バイパスの線に赤鉛筆が走り、共同水場や灯りの系統に厚い丸印がつけてある。賭場系統の上には、大きなバツが重ねられていた。
リティはそこに一瞥を落とし、静かに頷く。
「本当に、ここまでやったんですね。」
「まだ足りないかもしれないけどな。」
苦笑が漏れる。
「樹を全部止めても、すぐに全員が死ぬわけじゃない、ってくらいには、なんとかしたつもりだ。」
「……段階的に落とす案は、やっぱり嫌ですか。」
リティの声には、責める色はなかった。ただ、最終確認のような響きだけがあった。
「賭場の線だけ切って様子を見る、港の外れから順番に絞っていく、そういう止め方もある。全部知っていて、その上で、一度完全に断つ方を選ぶ理由を、聞かせてもらってもいいですか。」
図面の上のバツ印を見ながら、喉の奥に溜まっていた言葉が、自分でも驚くほどあっさり浮かんできた。
「段階停止だと……誰がどこまで責任を持って止めたのか、ぼやける。」
石床に座り直し、接点の方を見やる。樹の根もとを走る導管の唸りが、じわりと低くなっている。
「少しずつ絞っていけば、『まあ、このくらいなら我慢できる』って言いながら、結局何も変わらない。賭場だって、『港のためだ』って言い訳し続ける。」
圧力計の針が耳の裏側で跳ねる。賭場の裏導管室で聞いた役人の声が、まだ消えない。
「だから……」
言葉の先に、自分でもまだ触れていない場所があるのを感じる。その手前で、一度息を吸った。
「だから、はっきりさせる。」
接点の窪みに、見るともなく目を向ける。
「誰が、どのタイミングで、この街の樹を止めたのか。港の形をひとつ壊したのか。それを、うやむやにしたくない。」
リティは黙っていた。
樹根室の唸りが、さらに一段低くなる。共鳴期の厚みが抜けていく境目。振り子時計の針が刻む音が、やけに大きく感じられた。
「……俺が悪者になれば。」
自分の声が、思っていたよりも静かに石壁に届く。
「少なくとも、“構造”の話は始められる。」
リティの肩が、わずかに揺れた。
「構造。」
「港の収支表だの、感応票の赤印だの、樹の出力だの。全部ひっくるめて、『誰がどこで得をして、どこで負け続けてるのか』って話だ。」
賭場の裏導管室で見た光景が、目の前に重なる。針の山。赤い印。笑い声と、押し殺した怒鳴り声。
「俺が樹を止めれば、みんな、嫌でもそこを見ることになる。『なんで止まったか』を、個人の不始末じゃなくて、港のつくりそのものとして考えざるを得なくなる。」
自分が何を言っているのか、途中で少し怖くなる。それでも、言葉は止まらなかった。
「誰かの不祥事で、勝手に止まったんじゃない。俺が、意図して止めた。そういう形にしないと、全部“事故”に回される。」
リティは、しばらく目を閉じていた。
静かな呼吸が、樹根室の空気の中で、かすかな温度差をつくる。
「……本当に、悪者になってくれるんですね。」
目を開けたリティが、ゆっくりとそう言った。
「なってくれる、って言い方は変だろ。」
「わたしには、そうとしか言えません。」
リティは小さく笑った。笑っているのに、その目の奥にはどこか痛みがあった。
「わたしの立場では、こういう案は絶対に通せません。規約の内側にいる限り、『樹を止めましょう』という提案は出せない。」
「だから、外から来て、俺に話を持ちかけた。」
「ええ。」
短い返事。
「でも、決めるのは、現場の技師です。あなたが『やる』と言わなければ、わたしはこれ以上踏み込めない。……そういう構造の中に、わたし自身もいます。」
その言葉に、妙な滑稽さと、どうしようもない重さが混じっていた。
上から権限を預かっているはずの人間が、自分の足元の構造に縛られている。
だったら、俺が一度、その構造ごと揺らすしかない。
「――やる。」
自分でも驚くほど、簡単に口から出た。
「樹を止めて、解放する。」
リティは真っ直ぐにこちらを見た。
「……分かりました。」
その瞬間、樹根室の空気が、わずかに張り詰めた。
どこか別の場所で、誰かが息を飲んだような気配がある。
リティの肩のあたりの空気が、ほんの少しだけ冷える。さっきまで気のせいだと思っていた薄い層が、輪郭を持ち始めた。
そこに、誰かが立っている。
「……ルーメン?」
リティが、耳の奥で囁く。
「うん。」
柔らかい声が、返ってきた。
高くも低くもない、少し眠たそうな響き。けれど、その中に、よく研がれた理性の光が混じっている。
俺にも、その声がはっきり届いていた。
「聞こえるのか?」
思わず尋ねると、空気がゆっくり揺れた。
「共鳴が深くなってきましたね。」
ルーメン、と呼ばれた気配が、穏やかに言う。
「鍵核もここまで連れてきましたし、接点も、時刻も、だいたい揃ってきた。条件が重なると、わたしたちの声は、もっとはっきり届くようになるんです。」
樹の拍が、一瞬だけ強くなる。根もとに埋め込まれた導管が、低く唸った。
「じゃあ、あとは体温と呼気だ。」
リティが言う。
「ヴァルさんの。」
接点の窪みに、俺はそっと手のひらを当てた。
樹の根の表面は、いつもよりも少し冷たかった。共鳴期を終え、静圧期へ向かう途中の、呼吸を溜め込んだような温度だ。
その窪みに、手の中の玉をそっと押し当てる。
石と木の間に、わずかな隙間が残る。そこに、自分の息を吹きかける。薄い水分が、冷えた表面に張り付いた。
体温と、呼気と、核と、樹。
それらが一度、同じ場所に集まる。
「鐘が七つに変わる刻。」
ルーメンの声が、静かに告げる。
「樹の拍が、いちばん浅くなる。そこで、接点を通して鍵を回す。」
「鍵なんて、回る仕組みは見えないけどな。」
自嘲気味に言うと、リティが小さく笑った。
「形式的な言い方です。……でも、形式も、こういうときには大事だから。」
樹根室の天井から、遠い鐘の音が降ってきた。
一打目が石壁を震わせる。
二打目。樹の唸りが、さらに薄くなる。
三打目。導管の拍が、足元から抜けていく感触。
四打目。振り子時計の針の音が、やけに大きくなる。
五打目。呼吸が浅くなり、胸の内側が緊張で冷えていく。
六打目。手の中の玉が、急に重くなった。
七打目が鳴る瞬間、樹根室の唸りがすっと消えた。
完全な静寂――に近い状態。
導管の中を流れていた圧が、一度、限りなくゼロに近づく。
出力計の針が、滑るように左へ倒れる。その動きが止まる少し手前で、俺の手のひらの中に、別の拍が生まれた。
熱い。
火傷をするほどではない。けれど、今まで感じてきたどの樹の圧とも違う熱が、掌の中心から腕へ、胸へ、首筋へと駆け上がってくる。
怒りとも違う。賭場の裏導管室で感じた、あの刺すような熱ではない。
もっと、前に進もうとする方向を持った熱だ。
止まっていたものを動かしにいく、子どもの足音みたいな衝動。
「――あたし、やっと起きた。」
耳の奥で、明るい声が弾けた。
年齢も、輪郭も分からない。けれど、どこかいたずらっぽい調子が混じっている。
「ずいぶん待たされたよ、ヴァル。」
「……誰だ。」
口が勝手に動く。舌の上に乗った名前は、まだ知らないはずなのに、喉のあたりまで滑り落ちてきていた。
「ノクト。」
その声は、自分で名乗った。
「あたしはノクト。止まった場を、熱で前に押す係。」
樹根室の空気が、一気に温度を取り戻した。
ただし、それはさっきまでの樹の拍とは違う。根もとから均一に広がる熱ではなく、俺の胸の中を中心に、放射状に広がっていく熱だ。
同時に、別のところから柔らかな圧が重なる。
「少し、静かに。」
ルーメンの声が、おっとりと割り込んだ。
「ヴァルさんの拍が、上がりすぎます。」
「いいじゃん、こんなの。ようやく動く気になってるんだから。」
ノクトが笑う。
「ずっと見てたよ。導管ばっかり撫でて、怒ってばっかりで、自分は動かないでいたの。」
「勝手に見てるな。」
「勝手に見てたんだもん。」
樹根室の空気が、彼女の笑いに合わせて微かに震える。目には何も映らないのに、そこに誰かが腕を組んでいる気配がある。
「……本当に、四人とも聞こえてるんですね。」
リティが呟いた。
「四人?」
ノクトが首をかしげる気配を見せる。
「ヴァル、リティ、あたし、ルーメン。ね。」
「ええ。」
ルーメンが穏やかに答える。
「共鳴がここまで深くなると、声も通りやすくなるんです。」
「じゃあさ。」
ノクトの声が、急に近くなる。
「ヴァル。あんた、さっき言ったよね。」
「何を。」
「『俺が悪者になれば、構造の話が始められる』って。」
自分の言葉を、他人の口から聞かされる。
胸の奥で、熱がひとつ跳ねた。
「あれ、いいね。」
ノクトが笑う。
「ちゃんと悪者になってよ。中途半端にいい人ぶらないで。」
「簡単に言うな。」
「簡単に言うよ。あたしはそういう役割だもん。」
彼女の声は、悪びれもない。
「止まってる場を、無理やり動かす。誰かに嫌われても、場そのものが動く方を選ぶ。それが“希望”ってやつでしょ。」
希望。
言い慣れない言葉だった。抜き書き帳の上では何度も見てきたのに、自分の口から出したことはほとんどない。
「……希望なんて、大げさなもんじゃない。」
俺は息を吐く。
「ただ、構造が歪んでるってだけだ。誰かひとりが負け続けて、その負けで灯りが点いてる。そんなのは、おかしいって思うだけで。」
「それを、おかしいって思えるのが、もう希望なんですよ。」
ルーメンが、ゆっくりと言う。
「構造を見ようとすること自体が、秩序を組み替える最初の一歩ですから。」
「ほら。」
ノクトが楽しそうに笑った。
「二対一で、希望だって言われてるよ。」
「多数決で決めるな。」
口ではそう返しながらも、胸の中の熱は、不思議と落ち着いてきていた。
怒りだけが燃えていたときの、あの尖った熱とは違う。
今は、その怒りに方向が与えられている。
樹の拍が、ゆっくりと戻り始めた。
ただし、さっきまでのような均一な唸りではない。俺の胸の鼓動と、ノクトの熱と、ルーメンの柔らかな圧が混ざり合い、細かな揺らぎを伴った新しいリズムを作っている。
出力計の針が、ゼロから少しだけ浮き上がる。
それは、港全体を回すには心許ない数値だ。けれど、この樹根室の中だけを照らすには、十分な拍だった。
「……始まっちゃいましたね。」
リティが、小さく呟く。
「何が。」
「“ひとつの街を壊していく”話が。」
その言い方には、諦めではなく、覚悟に似た静けさがあった。
「でも同時に、別の形で守ろうとしている人間もいる。」
ルーメンが続ける。
「壊す手と、守る手が、同じ場所から伸びている。それは、あまり悪くない構造ですよ。」
「そうそう。」
ノクトが笑う。
「一回、派手に壊してさ。どうせなら、前よりマシな形で組み直そうよ。」
樹根室の空気が、四人分の呼吸と、二つの気配で満たされていく。
港の上では、まだ誰も何も知らない。
導管の拍が変わったことに気付くのは、もう少しあとになる。
その前にここで、樹の出力が一度ゼロ近くまで落ちて、新しい拍が生まれた。
その事実だけは、俺の手のひらと胸の奥が、はっきりと覚えていた。
俺は接点から手を離し、ゆっくりと拳を握る。
自分の中に渦巻く熱を確かめながら、もう一度だけ言葉にした。
「俺が、悪者になる。」
樹根室の石壁に、その宣言が静かに染み込んでいった。




