第1章6話 壊す手と守る手
港の鐘が五つを打ち終えたころ、詰所の中は、それぞれの持ち場へ散っていく前の、短い溜めの空気で満ちていた。
壁際の棚には、刻ごとの感応票が新しい列を作っている。賭場系統の札には、昨日までと同じように、赤い印が並んでいた。
「今日も、よく燃えそうだな」
古株が、札を指で弾きながら言った。
「……燃やしてるんだろ、あいつらが」
口から出た声は、自分でも驚くほど平らだった。
古株はちらと俺の顔を見て、何も言わず、棚の下段から分厚い帳面を引き抜いた。革表紙は指の跡で黒ずみ、背には細い傷が何本も走っている。
「ヴァル、お前、これ読んだことあったか」
「非常規程集……? いや、表のやつしか」
俺が知っているのは、樹管局が公に配る薄い冊子だ。落雷、導管の破損、港の一部沈下。そういうときの手順が、簡単な図と一緒に載っている。
古株が持っているのは、それとは別物だった。背表紙には、小さな印章と、手書きの文字で「内部用」とだけ記されている。
「昔の局長が、自分で写したやつさ。正式な棚には上がってない。お前の親父さんも、これを写した口だ」
そう言って、彼は帳面を俺の方へ押しやった。
「なんで、今それを」
「樹は機嫌がいい。局は黒字。港は安定。――そういう時ほど、こいつを眺めとくもんだ」
冗談めかした調子だったが、目つきだけは笑っていなかった。
俺は帳面を受け取り、重さを片手で確かめる。指先に、微かなざらつきが伝わった。紙と、擦り切れた墨と、それを何度もなぞった誰かの手の感触。
ページをめくる。手書きの図面が並んでいた。港の導管網を簡略化した絵。主幹から枝分かれした線に、細かい印字が添えられている。
その中の一つに、見覚えのない記号があった。
「……ここ、何だ?」
港の樹から出た主導管が、街の中心で二本に分かれている。その片側に、小さな輪が描かれ、その横に「非常バイパス」と書かれていた。
「口伝でしか降りてこない系統だよ」
古株が、少しだけ声を落として言う。
「樹が折れたとき、根が死んだとき、それでも水と灯りだけは繋ぎとめるための抜け道だ。俺らの仕事は、表向きは“安定の維持”だけどな、本当は“最悪の場合の運び方”も、セットなんだ」
「……樹が折れるなんて、想定してるのか」
「想定してなきゃ、こんなもん、誰も写さんさ」
そう言って、古株は立ち上がった。
「共鳴期までに、港の表配分はひと通り見ておけ。帳面は、お前に預ける」
「いいのか」
「非常用だからな。誰かが、ちゃんと覚えてなきゃ困る」
古株はそれだけ言い残し、出力計の並ぶ部屋へ消えていった。
手の中の帳面が、思ったよりも重かった。
◇
港の鐘が六つを打ち、共鳴期の厚みが街を満たしていくあいだ、俺は表の巡回を必要最低限だけ済ませ、詰所と樹根室と家のあいだを往復した。
家の床に、樹の導管網を写した古い図面を広げる。内部用の非常規程集のページを隣に置き、感応票の札と抜き書き帳をその上に並べる。
自分の部屋が、一時的な図書室と実験室を兼ね始める。
床の上に膝をつき、木炭の先で線を引く。
水系統。
灯り。
港の搬送レール。
賭場。
一本一本の線に、刻の数字と出力の幅を書き込んでいく。
樹が出している力のうち、どれだけを外しても、港はまだ生きられるのか。
何本かの線を、わざと強くなぞる。
港の中央にある給水塔へ向かう幹線。
岸壁の灯りを支える回路。
貨物用の昇降機を動かす導管。
それだけを残して、他を閉じたらどうなるか。
賭場へ伸びる線に印をつけ、太いバツを重ねる。
そこから先は、すべて切る。
切ってもいいはずだ。
頭ではそう言い切れるのに、木炭の先は、紙の上で一瞬だけ止まった。
賭場の裏導管室で見た、役人の顔。
「どうせ負けるなら、一ヶ所で負けてもらった方がいい」
あの言葉が、墨よりも濃く、胸に残っている。
港全体のために、誰か一ヶ所を沈める。それを“うまく使う”と呼ぶ考え方。
その先にあるのが、今の赤い印の並びだ。
それでも、非常バイパスを開くには、何かを切らなければならない。
俺は息を吐いて、バツ印を描き切った。
紙の端に、小さく一行を書き添える。
――ここまで削れば、止めても、いきなり誰も凍えない。
自分にしか読めないような字だったが、その一行が、この港での「最低ライン」になっていく気がした。
◇
静圧期に向かって拍が細くなり始めたころ、樹根室はいつもの唸りを少しだけ抑えていた。
地下へ降りる階段を下りるたび、石の隙間から伝わる振動が変わる。共鳴期の厚い鼓動から、静かな呼吸へ移る途中の、短い中間だ。
樹根室の扉を閉め、閂を下ろす。
中は、導管の唸りのせいで、完全な静けさにはならない。それでも、外の港に比べれば、別世界のように落ち着いていた。
壁際の棚から、古い手押しポンプを引き出す。金属の表面には、昔の油が薄く残り、ところどころに細かい傷が刻まれている。
これは、簡易コンプレッサとしても使える、と抜き書き帳には書いてあった。
樹から出る圧を一度受け止め、手の力で押し込んでやることで、細い導管の先でも、最低限の水や空気を送れる。
ただし、そのあいだ、押している人間は、その場から離れられない。
手押しポンプを床に据え、樹から伸びる副導管に繋ぐ。一つ一つの継ぎ目を確かめながら、ナットを締める。
樹の拍が、金属を通して指先に返ってくる。
まだ、充分な厚みがある。
これがゼロに落ちたとき、自分の腕と足が、港の一部の心臓になる。
「……バカみたいだな」
思わず、独り言が漏れた。
樹を止める準備をしながら、その先で町を守る段取りを考えている。
どちらか一方だけを選べれば、ずっと楽なのに。
導管の分岐に取り付けられた古いバルブに手を伸ばす。賭場へ向かう線の根本。そこに、小さな印が刻まれていた。
抜き書き帳の、片隅の走り書き。
――“ここを閉じるときは、別のどこかを開けること”。
誰の手跡か分からない文字が、かすかに滲んでいる。
「別のどこか、ね」
俺は、賭場と反対側の小さな枝管を探した。
そこから伸びる先には、坂の途中の共同水場がある。港の下層の家々が使う、古い蛇口だ。
賭場の拍を、そっちに切り替えられないか。
紙の上では足りない圧も、蓄圧槽を挟んでやれば、少しだけ持続できるかもしれない。
棚の上から、小さな鉄製の筒を取り出す。簡易の蓄圧器だ。
非常用、と刻まれたその表面は、長く触れられていなかったのか、薄い埃をまとっていた。
俺は袖でそれを拭き、導管との接続部を確認する。
――樹が止まっても、すぐには全部が死なないように。
そのための、古い工夫がここには残っている。
誰が最初に考えたのか。
その人間も、きっと俺と同じように、樹を信じながら、同時に疑っていたのだろう。
樹は街を守る。
けれど、いつか守れなくなる日が来るかもしれない。
そのときに、誰の手で、どこまで繋ぎ止めるのか。
俺はバルブを少しだけ回し、出力計の針の揺れを見た。
賭場系統の値が、ほんのわずかに落ちる。
共同水場の系統が、それに応じて、少しだけ数を増した。
港全体の合計は、変わらない。
数字だけ見れば、安定だ。
だが、その中身は、もう同じではない。
「……こういうことなら、俺にもできる」
誰に向けるでもなく、そう呟く。
壊すのでもなく、守るのでもない。
導管の拍の向きを、少しだけ変えるだけだ。
だが、その少しの向きが、誰かにとっての生活の境目になる。
賭場へ流れていた憎悪と絶望の拍を、坂の途中の水場へ。
そこでは、誰かが水を汲み、樹の拍を「助かった」と言って受け取るかもしれない。
紙の上と、鉄と石の上で、俺の手は同じ動きを繰り返す。
バルブを閉じ、ポンプを繋ぎ、蓄圧器を挟み、計器の針を確かめる。
港の鐘が七つ、八つと重なっていっても、手は止まらなかった。
静圧期の底に沈む港の上で、樹根室だけが、かすかな唸りを残している。
その唸りのすぐそばで、俺は、一本一本の導管に触れながら、港の形を頭の中で組み替えていった。
樹を止めるかどうかは、まだ決めていない。
けれど、もし止めるなら――止めたその刻にも、誰もいきなり息絶えないところまでは、自分の手で用意しておかなければならない。
壊す手と守る手が、同じ指を使っていることを、嫌でも思い知らされながら。
導管の拍が、一瞬だけ、いつもよりもゆっくりと返ってきた。
紙の上の線と、鉄の中を走る拍と、自分の鼓動が、どこかで重なった気がした。
◇
樹根室を出て、石段を上がると、樹管局の廊下はほとんど人影がなかった。
窓の外の薄い光は、刻をあまり教えてくれない。ただ、壁際の歯車時計が、静圧期の入口を指している。
「お疲れさまです」
曲がり角の先から、聞き慣れた声がした。
振り向くと、簡素な上着の裾を整えながら、リティが立っていた。肩から下げた筒は、昨日と同じだ。
「局の方に、少し資料を借りに来ました。……樹根室から、ずいぶん長く音がしていたので」
「点検だよ。非常用の配分を、少し確認してただけだ」
口から出た説明は、我ながら官用文みたいだった。
リティは、それ以上詮索するような顔はせず、廊下の窓の外――樹の幹の黒い影に、ちらと視線を向けた。
「全部、止めるつもりなんですか?」
静かな問い方だった。
さっきまで導管に触れていた指先に、まだ樹の拍が残っている。懐の内ポケットの玉も、布越しに重さだけを主張していた。
「……一度止めないと分からないこともある」
自分でも硬い答えだと思った。
「全部を一度切って、そのあとで必要なところだけ繋ぎ直す。そういうやり方もある」
「段階的に、少しずつ絞っていく方法もあります」
リティは、窓枠に視線を預けたまま言う。
「港全体をいきなり揺らさずに済む。反発も、小さく抑えられるかもしれない」
「分かってる」
それが現場にとって「穏当な案」だということくらい、頭では理解していた。
けれど、賭場の裏導管で見た針の山と、感応票の赤い印の列を思い出すと、「少しずつ」の曖昧さが、喉に引っかかった。
「少しずつ絞っていく間に、誰かが“まだ使える”って言い始める。止める理由を、数字の方から削られる」
リティは短く息を飲み、それから小さく頷いた。
「だから、一度切る方がいい、と?」
「……俺が悪いって言われるなら、それでいい。どこかの刻で、誰かひとりが“もう止めた”って言わないと、この街は永遠に『まだ大丈夫』を続ける」
言葉にしてしまってから、自分の声の温度の低さに気づく。
リティは俺を真正面から見た。
「全部を守ろうとしている人の言い方じゃないですね」
「全部は守れない」
口の中で転がしてから、そう言い直す。
「だからせめて――止めた瞬間に、全員がいきなり死なないところまでは、こっちで決めておく」
リティは少しだけ目を細めた。
「……段階停止の案も、手元には持っていてください。わたしの方の紙にも、そういう余白を書いておきます」
そう言って、彼女は軽く頭を下げた。
「今日は、これだけ。お邪魔しました」
リティが廊下を去っていく。肩から下げた筒が小さく揺れ、その後ろを、薄い冷えだけが追いかける。
樹の唸りは、床下から相変わらず続いていた。
その上に、決まりきらない怒りの拍と、壊すか守るかをまだ決めきれない、人間の迷いが、静かに重なっていた。




