第1章5話 罰札と決起の火
翌日、港の鐘が四つを打ったころ、詰所の壁に掛かった感応票の棚が、いつもより赤かった。
木札の列のあちこちに、小さな赤印が増えている。
賭場系統の印だ。札の端には、昨夜の時刻と波形の記号が並んでいた。
「よく燃えた夜だったな」
古株が、赤印の札を指で弾きながら言った。
「燃えた、って……また比喩ですか」
「そうさ。火の話じゃない」
古株は苦笑し、札を一枚抜き取る。
「賭場の感応だ。ここ数日、共鳴期の折れ線が妙に“整ってる”って上が喜んでてな。怒鳴り声の多い夜ほど、グラフがきれいに山を描くんだとよ」
怒鳴り声が、多いほど。
紙帯の数字と一緒に、昨日、裏導管室で跳ね上がった針と、潰れたような声が浮かんだ。
「ヴァル」
名前を呼ばれて顔を上げると、詰所の入口に上役が立っていた。袖口の布は新しく、腰には硬い記録板がぶら下がっている。
「裏導管、もう一度見てこい。役所の方から直々に依頼だ」
「役所……感応票をまとめてる連中、ですか」
「ああ。今夜の共鳴期に合わせて、“調整”をしたいそうだ。賭場側とも話を付けてる。お前はいつも通り、導管と弁を見てくれればいい。余計な口は挟むなよ」
調整、という言葉が耳にひっかかった。
何を、誰のために、どう調整するつもりなのか。
その問いは喉の奥で溶け、言葉になる前に飲み込まれる。
「了解です」
形式通りに答えて、工具巻きを肩に掛けた。
◇
賭場の裏手にある導管室は、昨日と同じく、外から見ればただの倉庫だった。
違うのは、扉の前に立つ人間の数だ。
上等な布の上着を着た男たちが四人。
胸元には、港の紋章と役所の印章が縫い付けられている。
その横には、賭場側の責任者らしい、派手な刺繍の服を着た男が立っていた。
「お待たせしました」
上役が先に頭を下げる。
「樹管局のヴァルです。導管の担当をしています」
こちらも決まり文句を口にする。
役人たちは短く頷いただけで、すぐ計器の方へ視線を移した。
「ここが賭場系統の接点か」
一人が言った。低い声に、好奇と計算が混ざっている。
「昨夜のピーク、ここでしたね?」
「ええ。共鳴期の波に重なって、一番高い出力になっていました」
俺が答えると、別の役人が嬉しそうに笑った。
「感応票のグラフも、見事でしたよ。山が崩れない。負けた客が程よく散ってくれたおかげで、波形がきれいに揃った」
「負けた客が、散る……」
口の中で、その言葉をなぞる。
賭場の責任者が、それに応じて笑った。
「お役に立てたなら何よりです。ご要望通り、昨夜は“締め側”の配りにしておきましたからね」
「締め側?」
思わず問い返しそうになって、奥歯を噛んだ。
「勝ち逃げを出さない配り方、という意味ですよ」
責任者の男が、こちらを横目で見て、わざとらしく砕けた口調で続ける。
「序盤はちょっと勝たせて、気分を上げてもらう。共鳴期の山に差しかかったあたりで、配当を薄くする。……そういう夜も必要でしょう?」
役人の一人が頷く。
「勝たせすぎると、みんな早く帰ってしまう。拍が途切れる。負けが込んで声を荒げてくれる夜の方が、樹には“安定した数字”が入るんです。港全体の出力にも優しい」
「優しい、ですか」
俺の声は、自分でも驚くほど平らだった。
「ええ。帳簿の上では、ですが」
役人は笑う。
「灯りや水の方は、少しくらい後ろに回してもらうとして。樹管局でうまくやり繰りしてもらえるでしょう?」
うまくやり繰り。
その言い方は、導管図の線を消して引き直す作業を、ただの数字の遊びのように扱っていた。
同じ樹から伸びる導管の先には、家があり、共有水場があり、倉庫がある。
そこに暮らす人間の顔を、彼らは知らない。知らないままでいいものとして扱っている。
「ヴァル、始めてくれ」
上役の声が、間に落ちた沈黙を切った。
「はい」
俺は導管の継ぎ目に手を当てる。
金属越しに伝わる拍は、すでに共鳴期の前ぶれを帯びていた。
鼓動が速まるように、樹のリズムが少しずつ高くなる。
「今夜はどのあたりで山を作りたい?」
賭場の責任者が役人に尋ねる。
「港の鐘で言えば、七つから八つの間ですね。港全体の共鳴と合わせたい。そこに向かって徐々に煽ってもらって、八つを打ち終わるころに、一度深めの谷を作る」
「谷、ね」
「勝ちを散らして、一気に落とす。怒鳴り声とため息が重なってくれると、ちょうどいい。そこから先は……そうだな、九つまでには少しだけ持ち直してもらいましょう。完全に折れる前に、次の夜も来たくなる程度に」
指先で紙の上のグラフをなぞりながら、役人はさらりと言った。
勝ち、負け、怒鳴り声、ため息。
その全部が、紙の上では線と点に置き換えられている。
「お客様の“遊びの範囲”は守っておりますよ」
賭場の責任者が、こちらを見ないまま付け足した。
「樹使用枠の前払いを混ぜるのも、“希望者のみ”ですから。規約にもそう書いてある。嫌なら署名しなければいいだけの話でしょう?」
昨日、札束を握って青ざめていた男の顔が浮かぶ。
何も言えなかった自分の口の感触も、一緒に蘇る。
指先に、導管の拍が脈打った。
樹の中で混ざり合う声の中に、その男の声も含まれているのだと思うと、腕の内側がひやりとした。
「導管の状態は?」
上役が、こちらに視線を寄越す。
「……今のところ異常はありません。ただ、共鳴期と重なる時間帯に、急激な上げ下げを繰り返すと、少し危ないかもしれません」
「危ない?」
役人が顔を向けた。
その表情には、不安よりも好奇心が混ざっている。
「計器の許容値には、まだ余裕がありますよ」
「数字の上では、そうです。けれど、導管そのものが受け持てる“揺さぶり”には限度があります。山と谷を作るなら、もう少し緩やかなほうが――」
「なるほど。貴重なご意見です」
役人はあっさりと遮った。
「では、こうしましょう。山を少しだけ低く、そのぶん谷を深く。拍の揺れ方は変えずに、客のほうの振れ幅で稼ぐ。賭場側で、うまくやれますね?」
「お任せください」
責任者は、嬉しそうに笑った。
「いつも通り、こちらで“流れ”は作ります。お客には、好きに怒ってもらえばいい」
◇
賭場の営業時間が深くなるころ、壁の向こうから、昨日と同じような声が聞こえてきた。
「ふざけるなよ、さっきまで勝ってたじゃないか!」
「もう一回だ! ここでやめたら、負けたままだろ!」
机を叩く音。椅子が軋む音。
笑い声と罵声とが重なり、導管室の空気を震わせる。
計器の針が、そのたびに跳ね上がったり沈んだりする。
波形は、役人の描いたグラフに似た形をなぞっていた。
俺は記録板に、いつもの文句を書きつけた。
――導管・弁ともに異常なし。出力変動は負荷側の操作による。
紙の上では、それで十分だ。
けれど、指先に残る拍は、別のことを伝えていた。
勝たされて、落とされて、怒鳴らされて。
その一連の揺さぶりが、港全体の「安定した数字」としてまとめられていく。
詰所への帰り道、足裏に伝わる導管のリズムが、街の形を描き直していくような気がした。
教本には、こう書いてある。
樹は人の願いを受け、灯りと水を返してくれる、と。
でも、今、港のどこかで濃く燃えているのは、誰かの負けた顔と、煽られた怒りだ。
役人が紙の上でなぞった山と谷に合わせて、人の感情が揺さぶられている。
この街は、誰かの負けや怒りを、計算して焚き付けているのかもしれない。
その言葉を心の中で形にした瞬間、胸の奥で何かがはっきりと反発した。
俺は導管から手を離し、指先をこすり合わせる。
油と汗の感触はいつも通りなのに、触れてはいけないものに触れてしまったような感覚が残った。
港の鐘が五つ目を打つ。
一日の中で、樹の拍がいちばん高くなる時間帯だ。
感応票の棚には、今夜もまた赤い印が積み上がっていく。
賭場の裏で笑っていた役人たちは、それを「良い数字」と呼ぶのだろう。
全部まとめて一つの仕組みだ、と認めてしまった自分がいた。
だからこそ、その仕組みごと壊してしまいたい、という考えもまた、はっきりと形になり始めていた。
俺は工具巻きを肩に担ぎ直し、樹根室へ続く階段を選んだ。
紙の上では、今日もきっと「問題なし」で終わる。
けれど足の裏から伝わる拍だけが、俺だけの知る「問題」を、静かに刻み続けていた。
薄暮の空の下で、リティの声が思い出される。
――もし、この港の樹を一度止めたら、どうなると思います?
役人たちのグラフと、賭場の叫び声と、その問いが、胸の内側でゆっくりと同じ熱に混ざっていった。




