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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第7章 人の為
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第7章6話 過去の記憶と未来の記録

 港の鐘が、一つだけ短く鳴ったあとだった。


 ミナトラアの記録部屋は、まだ人の気配が少しだけ残っていた。

 壁際に並んだ簡易机の上には、さっきまで開かれていた会議の票や、港会議で使った書きかけの紙束が重なっている。


 導管の拍は、ここには届かない。

 代わりに、天井から吊られた機械仕掛けの灯りが、一定の間隔で微かな音を立てていた。


 その一番奥の机に、俺とリティは向かい合って座っていた。


 机の上には、三つの帳面がある。


 一つは、古い革表紙の抜き書き帳。

 家の棚から持ち出してきた、祖父たちの文字が詰まったやつだ。


 もう一つは、リティの私的記録。

 旅のあいだずっと彼女が使ってきた、余白と欄外に細かいメモが埋め込まれた帳面。


 そして、その二つの横に、まだ何も書かれていない真新しい帳面が、閉じたまま置かれている。


「……揃いましたね」


 リティが、三つの帳面を順に見ながら言った。


 俺は抜き書き帳の上に手を置き、軽く押さえた。


「こいつには、昔の取り決めと、俺が勝手に書き足した迷いがだいたい詰まってる」


 樹の唸りが当たり前だった頃の話。

 樹を止めるか止めないかで、家の中でもめた夜の跡。

 抜け落ちた頁が、今も一枚ぶん、段差になって指先に触れる。


「それからこっちは……」


 隣の帳面に目をやる。


「港を出てから、俺たちがどう動いたか、だいたいこっちに挟まってるな」


「はい」


 リティは、自分の記録帳の端を指でなぞった。


「カムイアオのことも、ワクミアオのことも、ナラシドアのことも。

 “どこまで借りるか”“どこでやめるか”について、人たちがどう迷ってきたかは、だいたいここにあります」


 それから、まだ閉じたままの新しい帳面に視線を移す。


「これからの話は……こっちでいいか?」


 俺がそう言うと、リティは少しだけ笑って頷いた。


「古い方は、歴史の棚にしまいましょう」


 そう言って、彼女は自分の記録帳を抜き書き帳の隣にそっと重ねた。


「これからのことは、ここから一緒に書いていきましょう」


 リティが新しい帳面の表紙に手をかける。

 革のきしむ小さな音がして、真っ白な紙面が机の中央に広がった。


『またなんか書いてる』


 耳の奥で、ノクトの声が弾む。


『ほんと好きだねぇ、そういうの。

 あんたら、しゃべるより先に手が動いてるときが、いちばん真面目そうだよ』


『言葉にしておくと、あとで迷ったときに思い出せますからねぇ』


 ルーメンの声が、そのすぐ後ろをゆっくり流れる。


『消えそうな気持ちも、少しだけ長く机の上に置いておけます』


 俺は苦笑しながら、ペンを取った。


「……あんまりきれいな字じゃないけどな」


 白い頁の一行目にペン先を置く。

 ほんの一瞬、何から書き始めるべきか迷う。


 港会議で決めたことは、票にも通達にも刻まれた。

 支援の量に目印を置くこと。

 命と港の骨組みを先に押さえて、遊びや気晴らしはそのあとに回すこと。


 どれも、もうどこかに書かれている。


 けれど、この帳面にはもう少し素直な言い方で残しておきたかった。


「それでも、ここまでどうしてきたかくらいは、残しておいてもいいか」


 自分に言い聞かせるように呟いてから、一行目に文字を落とす。


「『どこまで使っていいかの印を、先に決めること。』」


 書き終えた文字を見て、思わず苦笑する。

 いつもの点検票に書く字と大差ない、実務用の線だ。


「きれいじゃなくていいんです」


 リティが、書きあがった一行を覗き込む。


「迷ったあとごと残っていた方が、きっと役に立ちます」


 そう言うと、彼女はペンを受け取り、そのすぐ下に少し整えた文を足していった。


「『支援の量を、港の側で先に決めること。

  その範囲で、何を先に守り、何をあとに回すかを、みんなで決め直すこと。』」


 リティの字は、俺より少し細くて、くせの少ない線をしている。


『おお、ちゃんと読める』


 ノクトが笑う。


『あたし、ヴァルの点検票はときどき読み飛ばしてたからさ』


『どちらの字も、いいですよ』


 ルーメンが穏やかに言う。


『乱れている線には、そのときの拍も混ざりますから』


 リティは、新しい帳面の端に、そっと日付と港の名を記した。

 「ミナトラア」と、その下に小さな印。


「古い二冊は、こっちですね」


 立ち上がり、壁際の棚へ向かう。


 抜き書き帳と自分の記録帳を、同じ段の、少し低い位置に並べて置いた。

 手を離すと、二冊の背が石壁の影の中に収まる。


 そこは、「もう別の誰かが読んでいい話」をしまっておく場所だ。


 新しい帳面だけが、机の上に残る。


 俺は席に戻り、その開かれた頁をもう一度見つめた。


「……ひとまず、ここでやれることは書き始めたな」


 自分に向けて言う。


「俺は、しばらく港を離れる」


 リティは驚かなかった。

 ただ、少しだけまぶたを伏せた。


「樹も石もあまり使ってないっていう港が、どこかにあるらしい」


 港会議のあと、何度か耳にした噂。

 昔から導管を薄くしか通さず、人の足と機械だけでやりくりしてきた港がある、とか。


「工房の手伝いでも、導管の跡を埋める仕事でも、なんでもいい。

 ここで決めたやり方が、本当に持つのかどうか、別の場所からも見ておきたいんだ」


 これは、誰かに頼まれた仕事ではない。

 ただ、自分の中でつじつまを合わせたいだけだ。


「……戻ってきたとき」


 リティが、帳面から顔を上げる。


「あなたの名前を記録のどこに置くかは、そのとき考えます」


 少しだけ冗談めかした口調で、続ける。


「港の誰がどんな顔で、あなたの話をしているかを見てから」


「厳しいな」


「記録役は、そういう役目ですから」


 そう言って、リティは新しい帳面の端にそっと手を置いた。


「でも」


 声色が、少しだけ柔らかくなる。


「あなたがここで迷ったことだけは、消さないつもりです。

 この一行目も、きっとその一部として残ります」


『だってさ』


 ノクトが、どこか得意げに言う。


『ほら、ちゃんと残ったじゃん。“どこまで使っていいか”の話』


『ええ』


 ルーメンが満足そうに頷く気配を見せる。


『迷ったあとを残した帳面というのは、あとから読む人の心構えもやわらかくしてくれますから』


 俺は、机の上のペンを元の場所に戻した。


「じゃあ、頼んだ」


 短く言って、椅子から立ち上がる。


 記録部屋の扉を開けると、廊下の空気はひんやりしていた。

 壁を這っていた導管の代わりに、細い線で刻まれた跡だけが続いている。


 背中の方で、机の上の帳面が、静かに光に照らされている気配を感じながら、俺は石畳の方へ歩き出した。


 廊下の先、港の方向から、鐘の音が一つだけ届く。


 その音を背中で受け止めながら、俺はミナトラアを、いったん離れることにした。


 ◇


 それから、刻と年の印がいくつも重なった。


 繁忙期の港には、以前にはなかった「天井」の刻が、はっきりと現れるようになった。


 搬送レール代わりの台車や、巻き上げ機がフルに動いている刻。

 掲示板の「支援量・出力」の印が、色の薄い線から濃い線へと近づいていく。


 ある刻を境に、その線の横に小さな印が重ねられる。

 「今刻で上限」と、港の書き手が決めた印だ。


 港の鐘が鳴る。

その合図とともに、導管に代わる灯りが、ふっと一段階落ちる。


 以前なら「まだやれるだろ」「止めるな」という怒鳴り声が飛んでいたであろう場面で、


「お、今日はここまでか」

「続きは次の刻だな」


 そんな言葉が、少し笑い混じりに交わされるようになった。


 暗くなりかけた通りを、人々は慣れた足取りで引き上げていく。

 台車は壁際に寄せられ、巻き上げ機には簡単な覆いがかけられる。


 港の掲示板には、「今年はここまで」という印が新しく刻まれる。

 携行パックの数は、以前ほどには増えない。


 人々はその印を見上げながら、足りない分をどう埋めるか話し合う。


「灯りを少し間引くか」

「この区画の機械は、刻を一つずらして動かそう」


 そんな相談が、石畳の上に静かに積み重なっていった。


 セマフォの報告や船乗りの会話の中で、


「別の港でも、上限を決める話が出ているらしい」

「どこかでは、祈りに使う分を決め直した港もある」


 そんな噂が、ときおり紛れ込むようになった。


 それがどこまで本当かを確かめる手立ては少ない。

 それでも、「ここだけが妙なやり方をしているわけではないかもしれない」という感覚が、港の内側に少しずつ広がっていった。


 世界が一気に救われたわけではない。


 樹のない港の不便さも、外から借りることへの心細さも、そのまま残っている。

 支援を巡る不満は消えず、会議室では今も、時折声の高い議論が起こる。


 ただ、「前よりひどくならないための踏ん張り」が、少しずつ港の習慣として形を持ち始めていた。


 ◇


 さらに、いくつもの年の印がひとめぐりした、ある刻。


 あの港会議で線を引いた世代は、少しずつ現場から退き、やがて名簿の上で「旧技師」「元代表」と呼ばれる側に移っていった。

 樹を止めた刻に立ち会った面々の名も、追悼の欄や古い記録の中でしか見かけなくなる。


 ミナトラアの書庫の片隅で、一人の若い技師見習いが棚と向き合っていた。


 導管跡の補修に連れて行かれるようになってから、まだ日が浅い。

 腕章の布も新しく、工具袋の中身も、まだきれいに整っている。


 けれど、「昔、この港がどうして樹を使わなくなったのか」を知りたくなったその見習いは、仕事の合間に書庫へ通うようになっていた。


 石壁に沿って並ぶ棚には、古い図面や感応票、取り決めが記された帳面が、段ごとに積み上がっている。


 見習いは、中段の一角に、他とは少し違う背を見つけた。


 表紙の端に、小さな印が押されている。

 港湾連合の固い紋ではなく、少し丸みを帯びた印。


 慎重にそれを引き抜くと、表紙の裏に、こう書かれていた。


「ミナトラア港 支援の上限と借り方に関する記録」


 その下に、小さく一つの名前。

 リティ――かつて港に出入りしていた「外回り記録役」の名だと、見習いはぼんやり思い出す。


 ページをめくると、港会議で交わされた言葉と、そのときの空気が、穏やかな文と、欄外の短いメモで並んでいた。


 やがて、ある一節で、見習いの目が止まる。


「──この港では、一度止めた樹を戻さないまま、

  どこまで借りて、どこから自分たちで支えるかを、みんなで決め直した。」


 さらに、次の行。


「それは誰か一人の決心だけではなく、

  そのあとも続いていく、たくさんの迷いと相談の積み重ねだった。」


 紙の上の言葉が、石壁の影の中に広がっていくように感じられる。


「……本当に、そんな決め方をした刻があったのか」


 誰にともなく、小さな声が漏れた。


見習いは、さらに下の方に目をやる。


 そこには、「港の技師たち」という言葉はあっても、個人の名前はほとんど出てこない。


「ここには、決めた人の名前は書いてないんだな」


 ゆっくりとページを閉じる。


 港のどこかで、導管跡を直していたかもしれない「昔の技師」を想像してみる。

 止まった樹の根元に立ち、出力を落とすかどうか迷っていた誰かの姿を思い浮かべようとする。


 けれど、その顔までは、灯りの届かない棚の陰の中に、うまく結ばれなかった。


 ただ、「この港には、そういう刻が確かにあったらしい」という事実だけが、胸の奥にゆっくり沈んでいく。


 書庫の外から、港の鐘が一つ鳴った。


 見習いは帳面を元の場所に戻し、棚に向かって一度だけ小さく頭を下げる。

 それから、導管跡の走る廊下へと戻っていった。


 ◇


 書庫には、再び静けさが降りる。


 中段の棚には、リティの記録と、その隣に古い抜き書き帳が並んでいた。

 背の文字は少し擦れてきているが、まだ読める。


 書庫から少し離れた、導管の跡が細い溝になって残る港の一角。


 石畳の隙間に落ちた光の筋の上で、二つの影が、誰の目にも見えないやり方で腰を下ろしていた。


『人間ってさ』


 ノクトが、溝の縁を指でなぞるような声で言う。


『もっと楽できる道が横にあるのに、わざわざ遠回りの方を選ぶときあるよね』


 ルーメンが、静かに笑う気配を見せる。


『ありますねぇ。

 今回はとくに、誰か一人を前に押し出さずに、

 みんなで荷物を少しずつ持ち直す道でした』


『派手さはないけどさ』


 ノクトは、溝の中の小さな段差を足先でなぞる。


『こういうのって、見てると案外じわじわ効いてくるんだよね』


『ええ』


 ルーメンの声は、止まった樹の根元に届くくらい穏やかだった。


『名札も旗もない分、静かに続いていきますから』


『ふーん』


 ノクトが、少しだけ鼻を鳴らす。


『ま、そういう歩き方、あたしはけっこう好きだよ』


 書庫の窓から漏れる灯りが、導管跡の溝の一部を照らす。

 その光が少しずつ薄くなるのを見ながら、二人は港の方角を眺め続ける。


 港のどこかで、また誰かが迷いながら帳面を開く。


 そのたびに、かつて書かれた拙い言葉が、ほんの少しだけ、その人の背中を押すかもしれない。


 世界は大きく変わりはしない。

 それでも、もう少しだけましな方へ歩こうとする意地だけが、薄い紙の上に、静かに重なっていく。


 次の鐘の音が石壁に届くまで、ノクトとルーメンは、導管の跡に沿って続く人の足音を、じっと聞いていた。

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