第7章5話 書く言葉と削る言葉
港の鐘が、会議の終わりを告げてから、いくつか刻が過ぎていた。
私がいるのは、港の一角に急ごしらえされた「記録の部屋」だ。
石壁に沿って簡易机が三つ並び、天井からは灯りが数つだけ吊られている。
弱い光が、机の上の紙と手元だけをくっきり浮かび上がらせ、それ以外のものをゆっくりと影の中に沈めていた。
会議のざわめきは、もう遠い。
外から届くのは、ときどき鳴る港の鐘と、石畳を行き来する足音だけだ。
私は机の前に座り、ペン先を紙の上に置いたまま、しばらく動けずにいた。
目の前には、二つの束がある。
一つは、港の印を押す予定の清書用紙。これが「公式議事録」になる。
もう一つは、旅のあいだずっと使ってきた、書き込みだらけの私の帳面。余白や欄外に、四者会話の断片や、人々の表情のメモが挟まっている。
――何を書いて、何を薄めて、何を落とすのか。
さっきまでの会議の声が、そのまま紙の上に乗ろうとしている。
それを、どこまでそのまま通してよいのか。どこでいったん布で包むのか。
ペン先の重さだけで、その線が決まってしまうと思うと、指先に余計な力が入った。
◇
まずは、形から整えた方がいい。
そう思って、私は公式用の紙束を手前に寄せた。
上の余白に、小さく日付と刻を書き込む。
港会議――「樹のない港における外部支援の扱いについて」。
文体は、自然と硬くなった。
「本日、港中央集会場において、外部支援の量および用途に関する協議を実施した」
会議で交わされた言葉を、いったん「調整」「検討」といった言い回しに置き換えながら、骨組みだけを並べていく。
「外部支援の総量について、港として暫定の上限案を共有」
「生命維持および港の基礎維持を優先する方向で、大枠の合意」
「娯楽・賭博に関する枠については、継続協議とする」
“天井”も、“借り方”も、“気晴らし”も、そのままの言葉では紙に載せない。
代わりに、「上限」「配分」「優先順位」という角の取れた語に姿を変えていく。
紙の上では、さっきまでのざわめきも、椅子を引く音も、娯楽側の男の棘のある笑いも、きれいな線に揃えられてしまう。
それが「公式議事録」の役割だと分かっていても、どこかで申し訳なさが残った。
私はペン先を少し持ち上げ、息を吐いた。
その横で、私の帳面――私的な記録――が、じっとこちらを見ているように感じる。
◇
今度は、その帳面を手前に引き寄せた。
旅の最初の港で書いた走り書きから、カムイアオの高原の風、ワクミアオの祈り枠、ナラシドアの数字の線、アイズドウの時計の針――余白には、いろんな港の断片が積もっている。
新しい頁を開き、私は見出しをつけた。
「ミナトラア港 支援の上限と優先順位に関する会議(私的記録)」
公式用紙と違って、こちらには遠慮はいらない。
私は、ヴァルの言葉をほぼそのまま、行を変えながら写していった。
『俺たちは、自分の樹を止めました』
『前みたいな楽さを、そのままここに戻すことは、もうできません』
『足りない分を、見えないどこかの誰かに押しつけるかどうかを、この港が選ぶのかどうか』
商人代表の言葉も書く。
『これ以上、荷の便を減らされたら、うちはもうやっていけませんよ』
『灯りが減って、人が外に出てこなくなっているのに』
娯楽側の男が吐き出した本音も、できるだけ崩さずに残す。
『ここで気晴らししてくれる人がいるから、港に貨幣が流れているんでしょう?』
『静かにしすぎた港に、人はどれだけ留まってくれるんです?』
石診療所の担当者の、一行だけの願い。
『診療に回す分だけは、先に確保しておきたい』
ページの端には、会議場の空気も一緒に押しピンで留めるように、短く書き添える。
「娯楽側の代表、一度席を離れ、輪の外に立つ。灯りから半歩離れた場所」
「倉庫帯の古株、票を見下ろしながら、腕を組み直す。怒鳴り声はないが、顎が固い」
公式用紙の上で「合意」「共有」と呼ばれるものが、どれだけぎりぎりのところで結ばれたか。
それを、少しでも未来に伝えておきたい。
ペン先が滑るたび、あの部屋の薄暗さと、灯りの芯の短さが、少しだけ蘇る気がした。
◇
「……さっきの会議で感じてたこと、もし必要なら書いておいてくれ」
不意に、さっきの声が耳の奥で再生された。
記録の部屋に入ってくる前、工具箱を片づけながら、ヴァルがそう言ったのだ。
言い終わったあとで、「あとから“そんなことは言ってない”って言われても困るしな」と苦笑した顔まで、目の裏に残っている。
言った言葉は、もうだいぶ書いた。
では、「感じていたこと」は?
私は、帳面の余白に新しくペンを走らせた。
「会議中のヴァルは、会場の――」
そこで、ペン先が止まる。
何と書くつもりだったのか、自分で分かっていた。
人の拍を聞いていた。
導管の代わりに、人の側の揺れを測っていた。
怒りや諦めや安堵が、どこからどのくらい流れ込んでいたかを、身体のどこかで受け止めていた。
そういうことを、「私の言葉」で説明しようとしていたのだと気づいた瞬間、手が動かなくなった。
ペン先を少し持ち上げ、いま書きかけた行を見下ろす。
「会議中のヴァルは、会場の……」
その続きに何を書いても、きっと「仕組み」のような言い方になってしまう。
――これを“仕組み”の話みたいに書いてしまったら。
胸の奥で、言葉にならないざらつきが膨らむ。
私はそっとペン先を戻し、さっきの行を細い線で消した。
字が完全に見えなくならない程度に、でも読み取ろうとしなければ分からないくらいに。
次の行に、小さく書き足す。
「※会議中のヴァルが人の拍をどう感じていたかの詳細は、あえてここには書かない」
書きながら、自分の喉がひとつ鳴る。
私たちはこれまで、「見てしまったものを全部書いておく」のが正しい記録だと思っていた。
いや、正しいと信じたかったのかもしれない。
でも、誰かの感覚を、その人より先に「分かったつもりになる」ような書き方は、一番やってはいけないことかもしれない。
ヴァルがどんなふうに人の拍を受け取っているのか。
それは、彼自身が、そのうち自分の言葉で決めていけばいい。
私の仕事は、それよりもまず、「港の人たちが何を選んだか」を残すことだ。
そうやって自分に言い聞かせながらも、ペンを持つ手はしばらく震えていた。
◇
『記録は、残さなかったら消えてしまうことを拾い上げるためのものですよねぇ』
不意に、優しい声が耳元で揺れた。
顔を上げると、部屋には私しかいない。
けれど、机の上の携行パックの影が、わずかに膨らんだように見えた。
『でも、人の中でしか生きられないことまで紙に貼りつけちゃうと、かえって息を止めることもあるよ』
今度は、どこかいたずらっぽい響き。
ルーメンの声だ。
「……来ていたんですね」
誰にともなくそう言うと、帳面の欄外に、さっきの一文の続きが自然と浮かんだ。
『記録は、残さなかったら消えてしまうことを拾い上げるためのものですよねぇ』
『でも、人の中でしか生きられないことまで紙に貼りつけちゃうと、かえって息を止めることもあるよ』
ルーメンの言葉を、そのままの形で書き写す。
『私たちが見てしまったものを、全部書いておくのが“正しい記録”だと思っていました』
自分の声も、そこに一行足す。
『でも、“見たまま書かないでおく”勇気も、どこかで必要なのかもしれません』
『ふふ。やっと気づきましたか』
ルーメンが笑ったような気配がした。
『港の人たちがどう線を引いたかは、紙に残しておいたほうがいいでしょうねぇ。
でも、ヴァルさんの胸の内側の拍の細かいところまでは、今は紙にしなくてもいい』
「ノクトさんなら、何て言うでしょうね」
思わずそう零すと、欄外にさらに一行が浮かぶ。
『そのかわりさ、あの子はきっと「聞きたくなったら、そのとき直接聞け」って言うでしょうねぇ』
私は小さくため息をつき、欄外にもう一行足した。
『ここに書かなかったからといって、存在しなかったことにはならない』
言葉にしてみると、思っていたよりも軽かった。
『知らないまま尊重する、という記録の仕方もあるはずだ』
最後の一文は、少しだけペン先を強く押しつけて書いた。
◇
港の鐘が、遠くでまた一つ鳴る。
灯りの芯は、さっきより短くなっていた。
机の上の光はそれでも、帳面の頁全体をかろうじて照らしてくれている。
私は、公式議事録の束と、私的記録の帳面を、並べて見比べた。
片方には、穏やかな文言で整えられた港会議の骨組み。
もう片方には、生の言葉と沈黙と、書かれなかった一行。
どちらも嘘ではない。
どちらも、この港の今日の一部だ。
私は公式用紙の束を揃え、端を紐でまとめた。
港の代表に渡すための印を捺す場所を確認してから、机の端にそっと寄せる。
次に、自分の帳面を閉じた。
表紙の端に、小さく自分の印を押す。
それから、抜き書き帳や古い記録がしまわれている棚の一段を思い浮かべた。
――いつか、この帳面も、あの棚のどこかに並べることになるかもしれない。
ヴァルが抜き書き帳をどう扱うか。
それを見届けるまでは、ここに置いておくわけにはいかない。
今はただ、「並べるつもりでいる」という約束だけを、自分の中に置いておく。
「全部を今すぐ広げるわけにはいかない」
誰もいない部屋で、小さくつぶやく。
「でも、いつか誰かが、“この港はどうやって借り方を決めたのか”知りたくなったときのために……ここに置いておきます」
そう言って、私は帳面を胸に抱えた。
書かれたことと、書かれなかったこと。
一冊の中で静かに同居しているその重さを、両腕で確かめる。
灯りの下で、紙の端がかすかに光った。
私は机から立ち上がり、記録の部屋を出る。
石の廊下の向こうには、止まった樹と、薄い灯りと、今日引かれた新しい線がある。
この帳面は、未来の誰かへの預かり物だ。
そう思いながら、私は胸に抱えたままの重さと一緒に、次の選択の刻へ向かって歩き出した。




