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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第1章 港の樹
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第1章4話 岸辺の邂逅と禁じられた相談

 港の鐘が六つ鳴るころ、樹の拍は少しだけ静圧に傾き始めていた。


 共鳴期の高ぶりが一段落して、街全体がすこし息を抜く刻だ。石畳の下を走る導管の唸りも、さっきまでの尖った振動をやめて、丸い波に戻っている。


 仕事の区切りがつくと、俺はそのまま港の外れの岸辺まで歩いた。


 樹管局の建物から少し離れると、導管の拍よりも水音の方が強くなる。岸壁に打ち寄せる水が、石の縁を細かく叩き、冷えた飛沫を上げる。薄い光は相変わらずで、空も水面も、境目が曖昧な灰のままだ。


 岸壁の端には、導管が外に露出している場所がある。樹から伸びた幹の一本が、港の底へ潜り込む前に、石の上を這うように曲がっているのだ。点検用に残されたわずかな露頭。


 俺はそこに腰を下ろし、導管の表面に手を当てた。


 金属越しに伝わってくる拍は、今日も港の形をしている。荷を詰めた搬送レールが動いたときの重さ、樹根室で感じた熱の名残り、賭場の裏で跳ね上がった針の記憶まで、ぜんぶ一度混ざり合って、今の一拍になっている。


 「……静かすぎるぐらいだな。」


 共鳴期の終盤にしては、樹の唸りは落ち着いている。賭場の導管で感じたあの尖った波は、今はどこにも見当たらない。あそこが静まると、港全体の出力も少し落ちる。そう思うと、今の穏やかさが、ほんの少し薄暗く見えた。


 そのとき、背中の方から足音がした。


 石を踏む音が一つ、二つ。急ぎ足ではないが、躊躇いもない。港の人間にはあまりない歩き方だと思った。


「すみません。」


 声がした。柔らかいが、よく通る声だった。


 振り向くと、上着の裾を押さえながら立っている人物がいた。薄色の髪を後ろでまとめ、襟元を簡素な布で留めている。旅人にしては服の縫い目が整いすぎていて、この港の者にしてはどこか浮いている。


 肩から提げた筒のようなものの中には、巻き取った紙が何本か入っている。書き付けか、図面か。腰には簡素な記録板がぶら下がっていた。


「樹管局の方、ですよね?」


 視線が、俺の腰の工具袋に落ちる。


「まあ、そんなところだ。点検明けの余り時間だよ。」


「よかった。話しかける相手を間違えたら困ると思っていたんです。」


 そう言って、その女は俺と一定の距離を保ったまま、岸壁の縁に視線を向けた。足元の石の上に、彼女の影が薄く伸びている。


「わたし、他の港から来た者なんです。連合の……上の方で作られた取り決めを、現場に合うように写したり直したりする仕事をしていました。」


 そこで一拍おいて、肩をすくめる。


「正式な肩書きを名乗ると話がややこしくなるので、ただの視察の旅人だと思ってください。」


 連合、という言葉に、少しだけ背筋が伸びる。


 教本や通達の中に、何度も出てくる大きな名前だ。各地の港を束ねる取り決めや、樹と石の利用規約をまとめている組織。俺にとっては、紙の上でしか会ったことのない相手だった。


「わざわざ、こんな端まで?」


「港の真ん中は、人が多くて。」


 彼女は控えめに笑い、それからゆっくりと俺のそばまで歩いてきた。座っている俺から見上げる角度になる。


 その瞬間、空気の密度が少し変わった。


 岸壁を撫でていた冷たい風が、一瞬だけ止まったような気がした。代わりに、足元からじわりと別種の冷えが上がってくる。導管の拍とは違う、きめの細かい圧の変化。


 何だ、と一瞬思う。彼女のそばの空気だけが、ほんの少し澄みすぎている。


 そして、胸の内ポケットのあたりが、わずかに重くなる感覚があった。


 あの玉だ。


 遺品として受け継いだ丸い玉。今日は、家を出るときになんとなく落ち着かなくて、仕事着の内ポケットに忍ばせてきた。抜き書き帳を読んだせいかもしれないし、単に指先が空っぽなのが嫌だっただけかもしれない。


 布越しに伝わるひんやりとした感触が、今、少しだけ違っていた。冷たさの奥に、かすかな拍が混じっている。導管のリズムとは合っていない。懐の中で、勝手に自分の速さを決めているような拍だ。


 女がわずかに首をかしげた。視線が、一瞬だけ俺の胸元をかすめる。その瞬間、玉の拍がわずかに強まり、彼女の周りの空気の冷えも、ほんの少しだけ深くなった気がした。


「ここ、他の港よりも樹が近いですね。」


 何事もなかったように言う。


「導管の拍が、岸にまでよく届く。」


「他の港を、そんなに見て回ってるのか?」


「少しだけ。さっき言ったように、規約を写す仕事をしていたことがあって、そのついでに。」


 写す、という言い方に、俺の手が無意識に動く。抜き書き帳の紙の感触がよみがえる。


「他の港は、どうなんだ。」


「そうですね……樹に近づきすぎないように柵を張っているところもあれば、祠みたいに飾り立てて神様扱いしているところもあります。この港は、もう少し実務寄り、という感じがしました。」


 彼女は岸壁の縁まで歩み寄り、水面を見下ろした。薄い光を含んだ波が、石の肌を舐めている。


「実務寄り、ね。」


「はい。導管の引き回しが、祈りのためではなく、人の手のために組まれている。……わたしは、その方が好きです。」


 そう言ってから、彼女は振り向き、俺の隣の石に腰を下ろした。距離はひとつ分空いている。それでも、さっきより空気の密度がはっきり違った。


 彼女のすぐそばの空気が、わずかに冷えている。それなのに、懐の玉は微かに温い。二つの温度のあいだに、目に見えない線が引かれているような気がした。


 その線のどこかに、誰かがもうひとり立っている気配がある。


 姿は見えない。ただ、空気の層が一枚増えたような感じだけが残る。導管の拍と、岸壁の冷えと、懐の玉の鼓動の間を、何かが静かに往復している。


「……何か、変な感じがしますか?」


 女が問いかけてきた。


「いや、別に。」


 反射的に否定する。言葉にしてしまうと、何かが形を持ってしまうようで、怖かった。


 彼女はそれ以上追及せず、代わりに視線を港の方へ向けた。樹の幹は、この位置からでも見える。薄明かりの中に、黒い縦の影として立っている。


「樹のことを、教えてもらってもいいですか。」


「教えるってほどのもんじゃない。俺はただの技師だ。」


「若い現場の感覚を聞きたいんです。紙よりも、そっちの方があてになることが多いので。」


 紙よりも、という言い方に、少し笑いそうになる。抜き書き帳のページに書き込まれた父の小さな注釈が、頭をよぎる。


「……樹は、鐘の回数に合わせて出力が変わる。導管の拍も、それに連れて変わる。港の荷や、水場や、灯りや……人の集まり具合で、微妙に癖が出る。」


「先ほど、荷揚げ場の方を見てきました。確かに、拍の癖がありました。」


 彼女はそう言いながら、どこか納得したような表情をした。


「それで、この港の樹は――あなたには、どう見えますか。」


「どう、って?」


「他の港と比べて、です。港湾連合の報告では、『安定している』と評されていました。でも、それは紙の上の数字での話です。」


 賭場の裏で見た針の山を思い出す。


 安定、ね。


「……表向きは、問題ないと思う。灯りも、水も、止まらない。搬送レールも動いている。」


「表向きは。」


 その言い回しを、そのまま返される。


 言葉の端が、ひっかかる。


「裏は?」


 女は少しだけ口元を引き締めた。


「そこは、あなたの方が詳しいと思います。今日、賭場の裏導管に入ってましたよね。」


 胸の奥が冷たくなる。


 俺が驚いたのが分かったのか、彼女はすぐに続けた。


「すみません。覗き見をするつもりはなかったんです。ただ、紙札の動きと、詰所の出入りを見ていれば、だいたい察しはつくので。」


 港の人間よりも、ずっと遠くからこの街を見ている目だと思った。


「……あそこは、拍が変だ。」


 気付けば、口が勝手に動いていた。


「荷の動きとも、鐘の回数とも、合わない。笑い声と怒鳴り声に合わせて、針が跳ねる。そこだけ、樹が……楽しそうにしているみたいに見える。」


 最後のひと言は、自分でも驚くくらい勝手に出た。


 女は短く息を呑み、それからゆっくりと頷いた。


「樹は、何でも拾うんですね。」


「たぶん、何でも。」


 希望も、祈りも、負け惜しみも、諦めも。


 俺の中で、抜き書き帳の文と、賭場の熱が重なっていく。


 しばらく沈黙が落ちた。水音と、遠くの圧送ポンプの往復音だけが聞こえる。彼女のすぐそばの空気の冷えと、懐の玉の温もりが、その沈黙の形を縁取っていた。


「もし。」


 女が小さく息を吸ってから言った。


「もし、この港の樹を、一度止めたら……どうなると思います?」


 樹を――止める。


 その言葉が、胸の内側で鈍く響いた。


 止める、というのは、故障させるという意味じゃない。彼女の口ぶりは、もっと慎重だった。計画的に、意図して、一時的に停止させる、という響きがあった。


「この街が、もたない。」


 反射的に出た答えは、教本通りのものだった。


「灯りが消えて、水が止まる。搬送も止まる。船の出入りも乱れる。……樹に繋がっているものが全部、止まる。」


「全部、ですか。」


「たぶん。」


 賭場の裏導管の針が脳裏にちらつく。


 もしあそこへの線を切ったら、あの針はどう動くだろう。あの部屋の声はどうなるだろう。港全体の針は、少しだけ、別の位置で安定するのかもしれない。


「でも。」


 言いかけて、口をつぐむ。


 女は、待っていた。


「でも?」


「……全部では、ないのかもしれない。」


 自分の声が、自分のものではないみたいに聞こえた。


「樹が止まっても、人は、たぶん、何かしら動こうとする。別の火を焚くかもしれないし、水を手で運ぶかもしれない。港の仕事だって、全部が全部、導管に頼っているわけじゃない。」


「樹が止まったあとに、何が残るか。」


 彼女が静かに言う。


 その言葉が、抜き書き帳の余白に書かれた小さな字と、重なった。


「樹を止める、というのは……樹を壊す、ってことか。」


「必ずしも。」


 彼女は首を横に振る。


「止めることは、壊すことじゃない、とわたしは思っています。今の繋がれ方から、一度だけ解き放つ。樹を、この使われ方から解放する。……そういう意味での『解放』という言葉もあります。」


 解放。


 その音が、懐の玉の鼓動と同じ速さで、胸の内を叩いた。


 樹を止める。樹を解放する。


 同じ言葉のようで、違う意味を持つ二つの言い回しが、頭の中でぶつかり合う。


 賭場の裏で跳ねた針と、この岸辺の静けさ。抜き書き帳の古い文と、目の前の旅人の言葉。全部が一度に押し寄せてきて、言葉が出てこない。


「危ない話だ。」


 ようやく出てきたのは、それだけだった。


「樹を止めるなんてことを考えるのは。それを口にするのも。」


「危ないですね。」


 女はあっさりと認めた。


「わたしも、怖いです。だから、紙には書けません。規約にも、教本にも。……でも、考えるくらいは、してもいいと思うんです。」


 彼女の視線が、もう一度だけ俺の胸元をかすめる。その瞬間、懐の玉がわずかに熱を増し、彼女のそばの空気の冷えが、ほんの少しだけ強まった気がした。


 目に見えない何かが、その二つを繋いでいる。


 樹の拍とは違う、もっと細い、個別の線。


 誰かがそこに立っていて、こちらをじっと見ているような気配がした。


 俺は無意識に、内ポケットの上から掌を当てた。


 玉は、沈黙している。ただ、沈黙の仕方が、さっきまでと違う。誰かに呼びかけられて、返事を待っているような静けさだった。


「答えは、急がなくていいです。」


 女が立ち上がる。


「わたしはしばらく、この港に滞在します。他の港の例や、取り決めの写しも、必要なら見せられます。……ただ、最初の一歩は、現場の技師の感覚から始まるべきだと思っているので。」


 そう言って、軽く頭を下げた。


「わたしの名前は、リティと言います。」


 リティ。


 短くて、聞き慣れない響きだった。


 俺は少し遅れて名を名乗る。


「俺はヴァル。樹管局の……まあ、下の方の技師だ。」


「ヴァルさん。」


 彼女はその名前を一度だけ確かめるように口にした。


 そのとき、彼女のすぐ後ろの空気が、ほんのわずかに揺れた。薄い光の中で、目に見えない波紋が一瞬だけ広がったように見える。


 気のせいだ、と自分に言い聞かせる。


 リティは岸辺から離れ、港の方へ歩き始めた。肩から下げた筒が小さく揺れ、その後ろを、誰かの気配だけがついていく。


 残された俺の耳には、樹の低い唸りと、水音と、自分の心臓の拍だけが残った。


 樹を止める。樹を解放する。


 禁じられた言葉が、薄い光の下で、ゆっくりと形を持ち始めていた。




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