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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第7章 人の為
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第7章4話 港会議と戻らぬ楽さ

 港の鐘が、ゆっくり七つを打った。


 さっきまでいた樹管局の部屋から、俺たちはそのまま港の中央に向かって歩いた。

 小さな輪で真相を分け合ったあとの胸の重さが、まだ喉の奥に残っている。


 このあと、この話を「港全体の借り方」にどう結びつけるかを決めるために、集会場に集まることになったのだ。


 石畳の上を歩く足裏に、導管の拍は戻ってこない。

 代わりに、携行パックを担いだ支援の一行が遠くを横切り、淡い光の束をいくつも引きずっていく。

 その光のいくつかは、この集会場の中にも流れ込むことになる。


 ◇


 集会場は、港の中央にある石造りの広間だった。


 壁際には、低い位置に灯りがいくつか並んでいる。

 芯を短く切ったせいか、一つ一つの光は小さい。

 中央の卓と椅子を照らすには足りず、部屋の真ん中には、ゆるく溜まった影が敷物のように広がっていた。


 奥の壁には、港の簡単な図と、支援物資の入荷票が何枚も貼られている。

 携行パックの数、樹の花の数、石の雫の数。

 どれも赤い印が増えすぎていて、どこまでが最新なのか、一目では分からなかった。


 樹管局の古株は、そこから少し離れた席に座っていた。

 さっきと同じ記録板を脇に置き、今日は工具袋の代わりに、支援の票の束を抱えている。


 港の代表格たちが、区画ごとにばらばらと腰を下ろしていく。

 倉庫帯の古株、埠頭側の取りまとめ役、石診療所の担当。

 そのほかに、荷を扱う商人の代表と、娯楽施設の側から来た男が一人。

 賭場の顔を知っている俺から見ても、今日はあえて一歩引いた表の人間を出してきた、という感じだった。


 最後に、俺とリティが入る。


 リティは入口で一度だけ深く息を吸い、膝に抱えていた記録帳と、薄い紙の束をそれぞれ胸に持ち替えた。

 俺は、その紙を配る手伝いをしながら、集まった顔ぶれの視線を一つずつ受け取っていく。


 鐘がもう一度、短く鳴った。

 今日の刻を、この港の中で一度だけ揃える合図だ。


「……では」


 静まりかけたところで、リティが立ち上がった。


「今日は、“樹を戻さないまま”この港が、これからどこまで他所の樹と石に力を借りるか、その目安を決めたいと思います」


 彼女の声は、灯りよりも少しだけ明るかった。

 紙の束が、参加者の前に行き渡っていく。


「今は、連合からの支援を“もらえるだけもらう”形になっています。

 この票は、一度、港の側で“ここまで”と決めた上で、中でどう分けるかを一緒に考えるためのものです」


 卓の上に置かれた票には、簡単な枠が四つ引かれていた。


 一つ目は、灯り・水・診療など「生きるために必要な分」。

 二つ目は、最低限の港の動き――荷を受け渡し、船を出し入れするための分。

 三つ目は、工房や仕事場に回す力。

 四つ目は、娯楽や賭場など、「なくても命は保てる分」。


 紙の上では、どれも同じ大きさの欄だった。

 けれど、各々の目に映る重さは、きっと違う。


「支援の量そのものに、一度“天井”を置きたいのです」


 リティは続ける。


「“これ以上は借りない”という目印を、港の側から先に決めておく。

 その中で、先に押さえるべきことと、後回しにできることを、順番に並べてみたい」


 「制限」という言葉を、彼女は避けた。

 代わりに、「止める線」「天井」「目印」といった言い方を、ていねいに選んでいるのが分かった。


 その横で、俺は席に腰を下ろし、配られた票を軽くたたいてみる。

 紙の震え方で、この部屋の空気の重さが、少しだけ指に伝わってきた。


 ◇


「……ちょっと待ってくれ」


 最初に手を挙げたのは、商人代表の男だった。


 倉庫帯からよく見かける顔だ。

 いつもは荷の上に帳面を置いて笑っているが、今日の表情は笑っていない。


「これ以上、荷の便を減らされたら、うちはもうやっていけませんよ」


 彼は票の、二つ目の欄を指で叩いた。


「ただでさえ灯りが細くなって、人が外に出てこなくなっている。

 この上、“港としての動き”の枠まで削られたら、港そのものが痩せていきます」


 娯楽側の男が、それに続いた。


「娯楽の枠をいちばん最後に回すってことですか」


 紙の四つ目の欄を、くしゃりと押さえ込む。


「ここで気晴らししてくれる人がいるから、港に貨幣が流れているんでしょう?

 灯りが減って、荷の動きが鈍くなってる今だからこそ、賭ける場所や音の出る場所を細くしたくない」


 彼らの言い分は、自分たちの懐だけを守ろうとしている、というよりは、

 この港の中でなんとか持ちこたえようとしている手探りの声に聞こえた。


「娯楽の枠を削れば、短い刻だけは静かになるかもしれませんがね。

 静かになりすぎた港に、人はどれだけ留まってくれるんです?」


 会議場のあちこちから、低いざわめきが上がる。


 倉庫帯の代表が、腕を組みながら頷き、

 埠頭側の古株が、口の端に苦いものを噛みしめたような表情を浮かべている。


 リティは、それを一度受け止めるようにうなずき、すぐに言葉を継いだ。


「娯楽や賭場をなくす、という話ではありません」


 彼女は四つ目の欄の上を、そっと指でなぞる。


「ただ、限られた支援の中で、先に押さえるべきものの順番を、港の側で決めておきたいのです」


 言葉の刃先が、なるべく鋭くならないように工夫しているのが分かった。


 それでも、どこかの角は誰かの心に当たる。

 そういう話だ。


 ◇


「……俺からも、一つ」


 そこまでのやり取りを聞きながら、俺は手を挙げた。


 この場にいる誰よりも、この話を言い出しにくい立場だということは、自分が一番よく知っている。

 樹を止めたあとに港を出た技師。

 支援を増やすために歩き回って、今こうして戻ってきた若いの。


 その俺が、今度は「借りる量を減らしたい」と言おうとしている。


 居心地の悪さをごまかすように、一度だけ喉を鳴らした。


「……俺たちは、自分の樹を止めました」


 まず、そこからだ。


「前みたいな楽さを、そのままここに戻すことは、もうできません」


 会議場の空気が、少しだけ固くなる。


「それでも、前と同じ便利さを全部求めるなら、その分、別の樹と石にもっと冷えや拍を背負わせることになる」


 旅の間に見てきた港の光景が、頭の中に浮かぶ。


 高原を広げるのを少し遅らせた町。

 祈り枠を少し縮めた斜面。

 数字で線を引こうとしていた本部。

 時間で刻を揃えた時計の国。


 どこも、自分の場所の便利さを少し削って、その分をどこかに戻そうとしていた。


「“足りない分を、見えないどこかの誰かに押しつける”っていうやり方を、この港が選ぶのかどうか。

 今日はそれを決めたい」


 俺の声が、灯りの影に沈んでいく。


「外から借りる量に天井を決めて、“これ以上は借りない”って、港の側から先に言う。

 その中で、命に関わる分と、港の骨組みを保つ分を先に押さえる。

 そのあとで、工房や仕事場の分を考えて、最後に、気晴らしに使う分を自分たちでひねり出す」


 賭場側の男が、露骨に顔をしかめるのが見えた。


「さっきも言いましたけどね、技師さん」


 皮肉混じりの声だった。


「前の拍を止めたのは、あんたの手だ。

 それを責める気は、今さらない」


 「今さら」という言葉に、少しだけ棘が混じる。


「でも、そのあと港を回してきたのは、ここにいる連中だ。

 灯りが細くなった通りで店を開けて、荷の便が減った港で荷を待ってたのも、こっちだ」


「分かってます」


 俺は遮らずに、うなずいた。


「だからこそ、ここで“どこまで借りるか”を一緒に決めてほしい。

 俺の一存で止めた樹の尻ぬぐいを、いつまでも見えないどこかに押し付け続けるわけにはいかないから」


 言いながら、自分の胸の内側がじわりと熱を帯びるのを感じた。

 自己弁護でも、きれいごとでもない。

 ただ、もう一度線を引き直す場に、自分も立っていたいという感覚だけが、そこにあった。


 そのとき、港の代表が、少しだけ俺の方に目を向けた。


「お前が高原まで行って、支援の枠を一つ広げてきたことは、こっちも分かってる」


 短い一言だった。


「その線を、今度は“借り方を細くするほう”にも引いてもらう、って話だ」


 ◇


「少し、言い換えさせてください」


 リティが横に一歩出た。


 俺の言葉を、その場に馴染む形に変える役目だ。


「支援の量を港の方で決める、というのは、連合にとっても“ありがたい話”でもあります」


 彼女は、票の端を指で押さえながら言う。


「“どこまで借りるか”を自分たちで先に決めておけば、いずれ連合から一方的に絞られるより、まだ筋の通った話にできます。

 港の側から、『ここまでで止めます』と伝えられるほうが、お互いに調整しやすいのです」


 会議場の空気が、少しだけ和らぐ。


「娯楽や賭場の枠をなくす、とは票には書いていません。

 ただ、“余った分”と、“自分たちで工夫してひねり出す分”として扱わせてほしい。

 そうすれば、命に関わる部分と、港の骨組みを守る部分を先に押さえた上で、まだ灯りの下で笑える場所も残せます」


 リティの言葉に、石診療所の担当者が、小さく手を挙げた。


「診療に回す分だけは、先に確保しておきたい」


 疲れた声だったが、そこには切実さしかない。


「それを認めてもらえるなら、ほかの枠の話もしやすくなる。

 具合の悪い人を前にして、『娯楽の分を削るかどうか』なんて話はしたくない」


 その一言が、部屋の中の重心を少し変えた。


 倉庫帯の代表が、腕を組み直す。


「……総量に天井を置くのは、怖い話だ」


 彼は票の上に目を落としたまま続ける。


「だが、“いつまで借り続けるつもりか”を決めないでいるほうが、もっと怖いのかもしれん」


 娯楽側の男は、まだ納得していない様子だった。


「俺は、この話には乗れませんよ」


 椅子を引き、半身だけ立ち上がる。


「うちの枠が“余り”扱いだなんて、笑えない」


 そう言い残して、彼は部屋の隅に移動した。

 出ていくまではしなかったが、輪の外側に立つことを選んだのだろう。


 誰もそれを止めなかった。

 止める権利も、義務も、たぶん誰にもなかった。


 ◇


 灯りの芯が、さっきより少しだけ短くなっている。

 集会場の中央の影が、さっきより濃い。


「全部を決め切るのは、今日一回では無理だ」


 港の代表が、最後にそう言った。


「だが、“どこまで借りるか”と“何を優先するか”の骨組みくらいは、ここで線を引いておこう」


 支援の総量に、暫定の天井を置く。

 その中で、「命に関わる分」と「港の骨組みを保つ分」を優先する。

 工房や仕事場の分は、その次に並べる。

 娯楽や賭場に回す分は、「余った分」と「自分たちで工夫してひねり出す分」として扱う。


 それが、この場でなんとか合意できた線だった。


 誰も満足はしていない。

 商人代表は、票を見下ろしながら、まだ眉間に皺を寄せている。

 娯楽側の男は、輪の外側で壁にもたれかかり、灯りから半歩離れた場所にいる。


 それでも、誰も「前と同じに戻せ」とだけ叫んで終わりにはしなかった。


 古株が、記録板に今日の骨組みを書きつける。

 リティは、その言葉を少しだけ違う形で、自分の帳面にも写し取る。

 あとで公開される議事録と、自分だけが持つ記録。

 二種類の線が、同じ刻に引かれていくのが見えた。


 ◇


 会議がいったん散会になったあと、集会場の外に出る。


 石畳の上には、薄い灯りがところどころに落ちているだけだ。

 樹の拍はないが、人の足音と話し声は、まだ港じゅうに散らばっている。


「……どうでした?」


 隣に並んだリティが、小さく尋ねた。


「どう、って?」


「“前と同じに戻せ”だけで終わらなかったことが、少しだけマシだと、思えそうですか」


 彼女の問いに、俺はしばらく答えを探した。


 支援の枠に天井を置く話は、これから何度も揉まれるだろう。

 今日引いた線が、そのまま残るかどうかも分からない。

 どこかでまた塗り替えられるかもしれないし、こっそり越えられることだってある。


「……誰も、喜んじゃいなかったな」


 それが、まず最初の感想だった。


「でも、“もらえるだけもらう”を続けるって話でもなかった。

 そこだけは、たぶん変わったと思う」


 港の中心に立つ止まった樹を、一度だけ見上げる。


「前と同じ楽さは戻らないまま、この港なりの“これ以上ひどくしない線”を、ようやく一つ引いた。

 そのくらいの言い方なら、今はしてもいい気がする」


 リティは、うなずいてから、自分の帳面にそっと手を置いた。


「今日の言葉のうち、どこまでを“港の記録”にして、どこまでを“私だけの記録”にするかは……もう少し迷ってから決めます」


「迷ったままでも、いいんじゃないか」


 俺は、彼女の帳面をちらりと見た。


「今日の線を、きれいな形で残すかどうかも、この港がこれから決めることの一つだろ」


 港の鐘が、遠くで小さく鳴った。

 薄い光の下で、音だけははっきりと届く。


 誰も満足してはいない。

 けれど、“前と同じに戻せ”だけで終わらなかっただけ、少しだけマシだと思いたい。


 そう思いながら、俺は集会場から港の中心へと歩き出した。

 止まった樹と、薄い灯りと、新しく引かれた一本の線。

 その全部を抱えたまま、次の刻に向かうために。

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