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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第7章 人の為
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第7章3話 真実の共有と残す嘘

 港の鐘が六つを打ったあとだった。


 樹管局の上の方の部屋は、いつもより静かだった。

 壁を這う導管の拍はなく、床下からも唸りは上がってこない。

 代わりに、机の上の携行パックから滲む、細い光だけが部屋を支えている。


 窓の外には、港の樹が見えた。


 樹は、前と同じ場所に立っている。幹の太さも、根元の土の盛り上がりも、遠目には何ひとつ変わっていない。

 けれど、俺の身体は知っている。

 あの中で、もう導管の拍は刻まれていないことを。


 指先が、勝手に机の縁をなぞる。

 樹を止めたときの、あの一瞬の静けさが、掌の内側に戻ってくる。


「……揃ったな」


 古株が、低い声で言った。


 詰所でいつも帳面をめくっていた男だ。

 今日の彼は、工具袋ではなく、薄い記録板だけを脇に置いている。


 机の反対側には、港の代表格の男が一人。局と港湾連合との窓口を兼ねている、あの顔だ。

 リティは、その横に少し距離を置いて座り、膝の上に記録帳を伏せている。まだ一度も開いていない。


 三人分の視線が、こちらに向いた。


 喉の奥が、少し乾く。

 口を開こうとして、いったん唇がくっつく。


「ヴァル」


 古株が名を呼ぶ。


「お前が呼んだ場だ。お前の口から、始めてくれ」


「……はい」


 返事をすると、部屋の空気が少しだけ重くなった気がした。

 窓の外の樹は、相変わらず動かない。

 導管の拍が聞こえない港で、俺だけが今から拍を速める役を引き受けるのだと思うと、妙な気分だった。


「樹のことを、ここで一度だけ、全部話しておきたいんです」


 言葉にしてみると、意外と短かった。


「港じゅうに広げる話じゃないと思ってます。でも、誰も知らないままでいいとも、もう思えなくて」


 リティが、膝の上の帳面に指を置く。

 開きかけて、また閉じる。その仕草だけで、彼女が「今は書かない」側に立ってくれているのが分かった。


 港の代表が、腕を組んだまま顎を引いた。


「聞こう」


 それだけだった。


 俺は、一度だけ息を整えた。

 いつも導管の拍を掴む前にするのと同じように、肺の中身を入れ替えてから、順番に話し始める。


 ◇


「まず、賭場の裏導管の話からです」


 あの建物の床下で感じた、妙に元気な拍。

 鐘の刻と合わない針の振れ方。

 笑い声や怒鳴り声に合わせて跳ねる計器の針を、俺はそのままの順番でなぞっていった。


「最初は、ただ拍が高いだけだと思ってました。荷の出入りが多いのか、工事でもあるのかって」


 詰所の棚に並んだ、赤い印だらけの感応票。

 役人が紙の上で山と谷の線を引き、賭場の責任者が『流れ』と言いながら笑っていたこと。


「共鳴期に合わせて、“怒鳴り声が一番多くなる刻”を、紙の上で決めてました。

 勝たせて落として、また少しだけ持ち直させる。その揺さぶりを、樹の数字として揃えようとしていた」


 古株が、机の縁を指先で叩いた。

 港の代表は何も言わず、眉間に皺を寄せる。


「そのときも、導管の状態だけ見れば『異常なし』で済ませられました。

 実際、帳面にはそう書きました」


 言ってから、自分で苦くなる。


「でも、足の裏も手のひらも、違うことを言ってました。

 山と谷をああいう作り方で何度も繰り返したら、樹も導管も、どこかで限界に近づくのは目に見えてた」


 部屋の中の誰かが、小さく息を呑んだ気配がする。


「それで、非常規程の帳面を見せてもらいました。

 落雷のとき、土砂崩れのとき……それとは別に、樹の出力を人の側から落とす手順が書かれていた」


 古株が、わずかに目を伏せる。


「“全系統一時遮断”。港全体を一度沈めてから、順番に戻していくやり方です。

 うちの抜き書き帳にも似た文があったので、前から気にはなってたんですが……」


 そこまで一気に言ってから、言葉を区切った。


 本題は、ここからだ。


「……あの刻、賭場の導管で針が一段跳ねたの、覚えてますよね」


 古株と代表が、ほぼ同時にこちらを見た。


 あの瞬間のことは、誰も忘れていない。

 共鳴期と重なった山が、予定より一段高くなった刻。

 石畳まで振動が伝わり、港じゅうの導管が一瞬だけ変な音を立てた刻。


「計器の許容値には、まだ余裕がありました。

 でも、導管そのものの揺さぶり方が、もう限界すれすれでした」


 掌が、当時の震えを思い出す。


「このまま続けたら、賭場だけじゃなくて、港のどこか別の継ぎ目から先にひびが入る、そう思いました」


 沈黙が、机の天板に落ちる。


「……だから、俺は鍵核を使いました」


 そこだけ、はっきり言葉を切った。


「あのとき、樹を止めたのは……事故じゃありません。

 俺が、鍵核で出力を落としました」


 耳の奥が熱くなる。

 言った瞬間、部屋の空気が、少しだけ狭くなった気がした。


 港の代表が、ゆっくりと息を吐く。


「どういう手順でだ」


「樹根室の主幹の継ぎ目に、鍵核を合わせました。

 非常規程にある“全系統一時遮断”の手順をなぞりながら、核の方で拍を落とすように、何度か……」


 言葉にすると、馬鹿みたいに単純だ。

 ただ、止める方向に力を加えただけだ。


「賭場と繋いだままにしておけば、樹はきっと、もっと前にひび割れてました。

 どこで、誰の家で割れたかも分からないまま」


 導管の上で、誰かの灯りが先に潰れるか、樹の幹が先に悲鳴を上げるか。

 そのどちらかに転がるまで待つ気には、どうしてもなれなかった。


「止めたあとで、港がどれだけ困るかまでは……全部は見えてませんでした」


 そこは、はっきりと言っておく。


「灯りがどれだけ細くなって、レールがどこまで止まって、支援をどれだけ借りることになるか。

 あの瞬間には、そこまで見通せてなかった。

 ただ、『ここで線を切らなかったら、もっとまずいところで何かが壊れる』ってことだけしか、頭になかったです」


 部屋の隅で、携行パックの光がかすかに揺れた。

 止まった樹の代わりに、今ここにある光だ。


 ◇


 最初に声を上げたのは、古株だった。


「……どうして先に相談しなかった、と言いたいところだがな」


 低く言ってから、彼は額を押さえた。


「その刻、俺は詰所で感応票を見てた。針の山の形を見て、嫌な予感はしてた。

 ああ、このままだと、どっかが持たんなって」


 机の上で、古株の指が一度だけ拳になった。


「あの頃の導管の拍を思い返せば、どこかで誰かが止めなきゃいけなかったのも、分かる。

 ……分かるがな」


 「がな」のところで、声が少しだけ荒くなる。


「樹を止める手を、自分一人の懐で握ってたことにだけは、腹が立つ」


 それは、怒鳴り声ではなかった。

 けれど、樹の拍がなくなった港では、それだけで十分響いた。


「すみません」


 それしか言えない。


「謝る相手は、ここにいるだけじゃないだろうが」


 古株はそこで言葉を切り、それ以上責め立てなかった。


 港の代表が、腕を組み直す。


「過負荷で勝手に止まった、って話には、最初からどこか引っかかってたよ」


 静かな声だった。


「計器の数字も、導管の傷の入り方も、“自然に止まった”にしては筋が良すぎた。

 どこかで誰かが手を入れたな、とは思ってた」


 代表は机に身を乗り出し、俺を正面から見た。


「若い技師一人の判断だったと思うと、腹が立つのと同時に……助かったとも思う」


 その矛盾した言い方が、この港そのものの気持ちに聞こえた。


「賭場だけ止めて済む話じゃなかったからな。

 あのまま山と谷を続けてたら、港全体がべこっと沈んでたかもしれん。

 それに――」


 代表は、窓の外の止まった樹を一度だけ見やった。


「お前がそのあと港を出て、高原の連中とやり合って、支援の枠を一つ広げてきたことも、知ってる。

 止めたままどこかへ逃げた、って話じゃない分だけ、余計に複雑だ」


 そこで、古株が少しだけ肩を竦めた。


「おおかた、そういうことだろうとは思ってたさ」


 さっきまでの怒りを、無理やりまとめ直すような口ぶりだった。


「戻ってきて、自分の口で言っただけ、まだマシだ。

 黙ったままどこか別の港へ行かれたら、それこそ始末が悪い」


 リティは、ずっと黙って話を聞いていた。

 机の端に置いた記録帳は、まだ開かれていない。


 やがて彼女が、小さく息を吸った。


「だからあの刻、鍵核の話をあんなふうに避けたんですね」


 静かな声だった。


「港を出る前、樹を止める話になると、いつも少しだけ言葉を濁していた。

 今の話で、やっと腑に落ちました」


 彼女は視線を窓の外の樹に向ける。


「あなたがノクト樹を止めたことと、今こうして他所の樹と石に頼っていることを、つなげて話せるのは、この港だけです」


 その言い方に、少し救われる。


 ここで話しておかないと、どこかで全部が別々の話にされてしまう。

 それだけは避けたかった。


 ◇


「さて」


 港の代表が、指を組み直した。


「この話を、誰にまで広げるか、だな」


 部屋の空気が、もう一段階重くなる。


「全部話したら、真っ先に責められるのはお前だ」


 古株が言った。


「“樹を止めたのは技師の独断だった”って見出しで、港じゅうの井戸端で噂になる。

 それを止める術は、現場にはない」


「だが、“事故だった”という言い方に俺たちが乗っかったのも事実だ」


 代表が続ける。


「公式の票には、このまま“過負荷停止”と書いておく。

 そのほうが、他の港とのやり取りもいくらか楽だ。

 支援の帳尻も、今さら全部書き換えるわけにはいかん」


 リティが、そこで口を開いた。


「連合や他の港に出す記録は、今まで通りにしましょう」


 膝の上の帳面を、指先で軽く叩く。


「今日ここで聞いた話は、この港の“口伝”として残したほうが合っている気がします。

 票や通達ではなく、港の内部でだけ共有される話として」


 口伝――その言い方は、抜き書き帳よりも古い何かを連想させた。


 視線が、自然と自分の家の方角に向く。

 祖父や父が、口で繰り返してきた話。

 そのうち教本から消えていったもの。


「分かった」


 自分でも驚くほどはっきりした声が出た。


「港の票は、今まで通りでいいです。

 “過負荷停止”のままにしておいてください」


 三人の視線が集まる。


「今日の話は、ここにいる何人かが覚えてくれていれば、それで足りると思う」


 言いながら、自分の胸のあたりに手を当てる。


「本当のところを知ってる人間が、一人だけっていうのが、いちばん違うから。

 それさえ変われば、あとの言い方は、多少嘘が混ざってても構いません」


 リティの指が、記録帳の表紙の端で止まった。

 書くか書かないか、その境目に指を置くような手つきだった。


 ◇


「……で、鍵核と抜き書き帳の話に戻るわけだが」


 古株が、少しだけ口調を和らげた。


「お前、“あの箱の玉”を、本当に樹を止められるかどうか、確かめてしまったわけだ」


「……はい」


 認めるしかない。


「祖父たちの抜き書きにも、“樹を止める権利を持つ家”の話が、昔はあったはずです。

 ただ、その頁だけ、抜け落ちていて」


 抜き書き帳の、一枚ぶん低くなった段差。

 そこに何が書かれていたのか、誰も今は知らない。


 古株が、ゆっくり頷いた。


「鍵核を託された家の話か……あれも、教本からは消えかけてる。

 非常規程の帳面の端っこに、昔の局長の走り書きがあった。

 『一港につき一世帯、“止める手”を預ける』ってな」


 港の代表が、鼻を鳴らす。


「その“止める手”が、今こうして勝手に動いたわけだ」


「勝手に、ですね」


 リティが小さく繰り返す。


 彼女は、膝の上の帳面を見下ろした。


「その“空白”を、どう扱うか……今、私が勝手に書き足すわけにはいきませんね」


 頁に何かを足せる立場でありながら、あえて手を止める言い方だった。


 抜き書き帳も、非常規程の帳面も、鍵核も。

 どれも「書かれなかったもの」と「残らなかったもの」を抱えている。


 今日の話は、その空白の一部を埋めるものかもしれないし、

 あるいは、新しい空白を作ることになるのかもしれない。


 ◇


「ひとまず――」


 港の代表が、腰を上げる気配を見せた。


「真相を聞いた以上、これからの“借り方”も前と同じというわけにはいかないな」


 携行パックの方に視線を向ける。


「外から借りる量をどこまでにするか。

 お前の見てきた港の話も聞きながら、港の連中と話をしよう」


「……はい」


 返事をすると、胸の奥の何かが、少しだけ形を変えた。


 樹を止めたことを、ようやく口にした。

 ここから先は、それを前提にして、“どこまで借りるか”の話をしに行く。


 部屋を出ると、廊下の空気は少しひんやりしていた。

 導管の拍のない石の床を踏みしめながら、階段を降りる。


 外に出ると、港は薄い灯りの下でいつも通り動いていた。

 搬送レールの一部は止まったままだが、手押し台車がその隙間を埋めている。

 携行パックを担いだ支援の一行が、ゆっくりと埠頭の方へ歩いていく。


 港の中央には、止まった樹。


 その姿を一度見上げてから、俺は港全体をぐるりと見渡した。


 石壁の向こうから、鐘の音が一つだけ届く。

 薄い光の中で、響きが遠くまで広がっていく。


 その音を聞きながら、俺は指先に残った冷たさと重さを、もう一度確かめた。


 この港に残す嘘と、本当のことを知っている人数。

 その両方を抱えたまま、次の刻に向けて歩き出すしかないのだと、ようやく腹のどこかで納得しながら。


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