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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第7章 人の為
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第7章2話 仮設の拍と再会の港

 港の輪郭が、薄い光の帯の向こうから浮かび上がってきた。


 甲板の手すりに肘を預けると、船底を伝う振動が、少しずつ変わっていくのが分かる。永夜側の水を割っていたときの、重く粘った揺れが抜けて、ミナトラアの沿岸に近づくにつれて、浅い場所を擦る細かい振動に変わっていく。


 遠くで鐘が鳴った。回数を数えるより先に、身体の方が先に反応する。あの港でずっと聞いてきた金属音だ。船の鐘と、岸の鐘とが、薄い空気の層を挟んで、少しだけずれて重なる。


「……見えてきましたね」


 隣で、リティが小さく息を吐いた。


 薄い光の中に、ミナトラアの埠頭が伸びている。石を積み上げた岸壁、その上に並ぶ搬送レールの柱。輪郭だけ見れば、一度出ていったときと同じだ。


 違うのは、動き方だった。


 樹から真っ直ぐ港へ下っていたはずの導管の列が、ところどころで切れている。代わりに、仮設らしい細い管や箱が、上からぶら下がるように継ぎ足されていた。レールの一部は沈黙していて、その脇に、人の押す台車が寄せてある。


 港の中央に立つ樹は、今日も同じ場所にいた。


 ただ、幹の根元から這い出している導管が、以前のようには息をしていない。薄い光の中で見る限り、樹の肌も導管の金属も、ただの「置かれたもの」に近い静けさをまとっていた。


 足裏で覚えているような拍は、ここまでは届いてこない。


「樹……止まったまま、ですね」


 リティが、手帳の端を指で押さえながら呟いた。


「ああ」


 短く答える。舌の上で、余計な言葉がばらけそうになるのを飲み込んだ。


 船が岸壁に寄せられ、縄が掛けられる。タラップが下ろされる金属音が響くたびに、胸の内側がじわじわと重くなる。


 帰ってきた。


 けれど、出ていったときと同じ港ではない。


 そういう実感だけが、じわじわと身体の中に広がっていった。


 ◇


 石畳に足を下ろした瞬間、懐かしい匂いが鼻を打った。潮と、油と、樹の根が残していったわずかな湿り気。


 ただ、その奥に、知らない匂いが混じっている。


 携行パックの匂いだ、とすぐに分かった。


 埠頭の一角に、仮設の柵で囲われた場所がある。そこに、他所の港の刻印が押された木箱や容器が、幾列にも積まれていた。側面には、見慣れない印章と、数字が並んでいる。


 箱の蓋の隙間から、樹の花を封じた容器や、石の雫を満たした小瓶が覗いていた。どれも薄い膜で封じられ、表面に貼られた封緘紙には、寄越した港の名と、開封する刻の印が押されている。


 けれど、近づくだけで、皮膚の下でわずかに拍が変わる。樹の導管とは違う、慣れないリズムが、港の空気の中に混ざり込んでいた。


 その手前で、腕章を巻いた係の人たちが、札と箱の数を照らし合わせている。紙に刻まれた線を指で追いながら、残量を数え、印を押し、また次の箱に移っていく。


「……ずいぶん、借りてますね」


 リティが、声を潜めて言った。


「見ただけでも、この港の樹ひとつぶんくらいはあるでしょうか」


「全部合わせれば、もっとだろうな」


 俺は、箱の列から視線を外す。


 携行パックの拍は、まだ他人行儀だ。この港の石畳や壁が覚えているリズムとは、少しだけ噛み合っていない。それでも、人の足元はその拍に合わせて動き始めている。


 樹が止まった分を、どこかの港が肩代わりしている。


 その実感が、冷たい石より先に、足の裏に沈んだ。


 ◇


 樹に向かう道の途中、小さな広場に人の列ができていた。


 臨時の石診療所だ。


 いつもは別の用途に使っていた倉庫を、急ごしらえで仕切っているのが外からでも分かる。入口の脇には、番号札を配る台が置かれ、その前に、札を握った人たちが並んでいた。


 列の先頭近くでは、係の声が聞こえる。


「次の方、こちらへ。今日は一人あたり、雫はこれだけです」


 配られる雫は、小さな容器の底を、うっすらと濡らす程度だ。それでも、受け取った人の肩の力が、少しだけ抜けるのが見えた。


「ここに並んでいるあいだは、この港も“まだ繋がっている”って感じるのかもしれませんね」


 リティが、小さく言う。


「ワクミアオでは、祈りの列の前で、皆さんもっと肩に力が入っていましたけれど……ここの列の空気は、少し違います」


 俺は列を横目に見ながら、頷いた。


 重い空気ではない。


 不安の底に、どこか「ここに来れば何とかなる」という、細い安心が混じっている。


 自分たちの樹は止まっている。それでも、港は完全には切り離されていない。その感触を、あの列は形にしているのかもしれない。


「記録、残しますか?」


 俺が問うと、リティは手帳を開きかけて、すぐに止めた。


「……あとで」


 その一言に、迷いが滲んでいた。


 ◇


 樹管局へ向かう坂を上る途中で、何人かの顔に呼び止められた。


「おい、ヴァルじゃないか」


 作業着の袖をまくった荷役の男が、両手で台車を押しながら笑った。台車の車輪が、かつてはレールに噛んでいたはずの溝を、ぎこちなくなぞっている。


「帰ってきたか。……聞いたぞ、カムイアオまで行ってたって」


「まあ、ちょっとな。向こうの樹の押し方を、少しだけいじらせてもらった」


「“ちょっとな”で済ますなよ」


 男は鼻を鳴らし、台車を止めて肩を回した。


「お前らがあっちで高原の負荷を軽くしてくれたおかげでだな」


 顎で、携行パックの集積所のほうをしゃくる。


「ああいう箱が、前より多くこっちに回ってくるようになったんだ。灯りも水も、なんとか持ってる。……ありがとな」


 「よくやった」と同じ重さの言葉が、軽い口調の中に混じっていた。


 胸のあたりが、わずかに軋む。


 あの高原で、樹の拡張を遅らせる線を引いた。

 “こっちへ多めに回す代わりに、あっちはゆっくり広げる”と決めた。


 その結果が、いま目の前の箱の列につながっている――そう思えば、

 港の「助かってる」という実感を、自分の手柄みたいに受け取ってしまいそうになる。


 けれど、樹を止めたのは、自分だ。


 この港の、もともとの拍を。


 その事実を、胸の内側のもっと深いところで抱えたまま、俺はただ「そうか」とだけ返した。


 少し離れた場所から、別の声が飛んできた。


「こっちが押してたあいだに、いつの間にか偉くなったもんだな」


 前に同じ現場に出ていた男だ。手にした記録板の裏で、空になった携行パックの容器を支えている。


「“高原の調整役”さまのおかげで、箱は増えたけどよ」


 軽く笑いながらも、目だけは俺を値踏みするように見ていた。


「まあ、戻ってきたなら、これからは一緒に押してくれよ。今度は、ここでだ」


 言葉の端に、棘が一本だけ混ざっていた。


 冗談とも、本気ともつかない。


 それでも、その棘は、俺の側にだけ刺さる。


「押すよ」


 それしか言えなかった。


 押すしかない。


 自分で止めたあとを。


 自分で選んで外に出ていった、その続きとして。


 ◇


 樹管局の玄関をくぐると、懐かしい湿り気が鼻を刺した。


 導管の唸りは、以前よりも薄い。それでも、壁を這う管の中を、どこかの港から借りてきた拍が、細く流れている。


 詰所では、古株が感応票の棚の前に立っていた。


 俺の顔を見るなり、しわだらけの目が細くなる。


「戻ったか」


「ただいま戻りました」


 口にしてみて、妙な言い方だと自分で思う。


 それでも、古株は何も言わず、棚から一歩下がった。


「顔つきが変わったな」


 短く、それだけ言う。


「カムイアオの技師連中から、“あの若いのがよくやってくれた”って紙が回ってきてな」


 感応票の束の端を、指先で軽く叩く。


「お前が引いてきた線で、この港の支援枠が一段増えた。……ようやった」


 あっさりとした労いなのに、その一言は、さっきの荷役の「ありがとな」と同じくらい重かった。


 どこまで知っていて、どこから先を知らないのか。


 その線は分からない。


 ただ、古株の目には、「樹を止めた当人」としての俺だけではなく、「止めたあとも外へ出て、高原の負荷をいじってきた若い技師」が、両方重なって映っているのだと分かった。


 その視線を正面から受け取るのが、少しだけ苦しかった。


「港は……どうです?」


 棚の感応票に目をやりながら問うと、古株は肩をすくめた。


「灯りは細くなった。レールも、三本に一本は止めてある。診療の列は、さっき見ただろう」


 そこで一拍置き、付け足す。


「でもまあ、樹が止まった日よりは、だいぶマシだ。向こうからの支援が増えた分、人間は勝手に、新しい押し方を覚える」


 その言い方に、少しだけ救われる。


 樹が止まっても、人の手は止まらない。


 この港は、樹だけでできていたわけじゃない。


 そう思えるだけで、足の裏に乗っていた重さが、わずかに変わった。


 ◇


 外へ出ると、港の表通りが、以前とは違うリズムで動いているのが分かった。


 搬送レールの一部は、静かなままだ。その脇で、台車を押す影が行き交う。車輪の軋みと、人の掛け声が、以前なら樹の唸りに紛れていたはずの音を、はっきりと浮かび上がらせていた。


 灯りの柱も、刻によっては、頭の光が細くなる。光が薄くなった刻には、手前の店が早めに戸板を立てるようになったらしい。通りの奥で、戸を立てかける音が、ひとつ、またひとつと続いた。


 携行パックの残量を数える係が、広場の片隅で札に目を走らせている。紙の端には、各港からの借り入れ分と、今この刻に使っている量が、ぎっしりと並んでいた。


 変わったところはいくらでも拾える。


 それでも、変わっていないものもあった。


 通りの脇で立ち話をする影。樹の根元とは関係ない世間話に、短い笑い声が混ざる。荷の受け渡しで交わされる、ぶっきらぼうな掛け合い。


 子どもの背丈くらいの小さな影が、石畳の端を蹴って遊んでいるのも見えた。樹が止まってから、その数は減ったのかもしれない。それでも、完全に消えたわけではない。


 樹が止まっても、人の話し声だけは止まらなかった。


 そう言い切ってしまっていいのか分からないが、足の裏に伝わる港の揺れ方は、まだ「ここにいる」と言い張っているように感じられた。


「便利さは削れた。けど、この港そのものは、まだここにいるな」


 小さく呟くと、隣でリティが手帳を開いた。


 紙の上に、鉛筆の先が触れる。


 「樹を失ったあとも生きている港」と書きかけて、そこで止まった。


 ほんの少しの沈黙のあと、彼女はその行を薄くなぞるように消し、代わりに別の言葉を迷っているようだった。


 「樹を奪われた港」という言葉が、紙の上ではなく、空気の中でいったん形になったのが、気配で分かった。


 けれど、その語は書かれない。


 何度か鉛筆の先が動きかけては止まり、結局、その行は空白のまま残された。


「……言い方を一つ間違えるだけで、この港の立ち方を変えてしまいそうで」


 リティが、紙から目を離さずに言った。


「書くのは、私なんですけどね」


 俺は、しばらく迷ってから口を開く。


「書くのはお前だ。迷うなら、迷ったまま置いておいてもいい」


 自分で言いながら、それが自分にも向けた言葉だと分かっていた。


 この港をどう呼ぶか。


 止めた樹をどう扱うか。


 どこまでを口に出し、どこから先を胸の中にだけ置いておくのか。


 答えが固まっていないのは、リティだけじゃない。


 ◇


 坂道を登り切る手前で、足が自然に止まった。


 樹の根元が見える場所だ。


 少し離れた通りからでも、中央の広場に立つ樹の幹が見える。


 かつては、ここまで来れば、足裏から導管の拍がはっきりと伝わってきた。


 今は、静かだ。


 樹はそこに立っているだけだ。幹の肌はひびを抱えつつも持ちこたえ、根の周囲には、仮設の機械設備や細い配管が増えている。


 導管の一部は封緘紙で塞がれ、別の一部は携行パックへ繋ぐための器具に付け替えられていた。


 樹そのものは、もう「港を回すもの」として扱われてはいない。


 広場を行き交う人たちは、樹の根元を避けて通るでもなく、特別に祀り上げるでもなく、「もう止まったもの」として、その横を抜けていく。


 立ち尽くす俺の横で、リティが静かに息を吸った。


「この港は、もう“前の樹のまま”には戻らない」


 声に出してみると、思っていたよりも淡々とした響きになった。


 決めつけたいわけじゃない。ただ、今目の前にある景色が、そう告げている。


 戻さない、と決めたのは、自分だ。


 樹そのものを壊したわけじゃない。けれど、「前と同じように使う道」を、俺はもう選ばないと決めた。


 その選び方に、この港を巻き込んでいる。


「だったらせめて、止めた理由だけは、どこかで一度は言っておかないと」


 胸の内側で膨らんでいた言葉が、ようやく形になって出てきた。


 リティが、手帳を閉じる。


 その仕姿は、いつもより少し慎重だった。


「話すなら」


 彼女は樹から視線を外さないまま、問いを落とした。


「誰に、どこまで話しますか」


 樹の根元を通り過ぎる人々の足音と、遠くの鐘の音が、薄い光の中で混ざり合う。


 港は、止まっていない。


 残したままにしたものと、これから引き直す線と、その間に挟まっている自分の立ち位置を、ようやく真正面から見なきゃいけない刻が来ている。


俺は、樹の幹から目を離さずに、小さく息を吐いた。


「……そこから決めないとな」


 ミナトラアの薄い光が、樹の影と重なり合うのを見ながら、そう答えた。


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