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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第7章 人の為
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第7章1話 薄光の海と振り返る旅

 甲板に出た瞬間、空気の重さが変わった。


 アイズドウの港で吸い込んでいた、刺さるみたいな冷たさはもうない。それでも、肺の奥まで入ってくる風は、まだ硬い。吐いた息が、自分の肩と手すりのあいだで薄く渦を巻いて、すぐ闇に紛れていく。


 船は、永夜側の濃い影を背にして、ゆっくりと薄い光の帯へ向かっていた。


 海面は、深い墨を流したみたいな色をしている。だが、ずっと遠くには、かすかに明るさの境目が見え始めていた。黒と灰のあいだに、細く割り込んできた、淡い線みたいな光の帯だ。


 コートの襟を立て、手すりに両肘を預ける。金属越しに伝わる振動は、樹の拍じゃない。船腹を叩く波と、簡易機械の周期だけだ。


「……帰ってる、って感じは、まだしないな」


 自分でも聞こえるかどうか、というくらいの声でつぶやく。


 後ろの扉がきしんだ。振り返らなくても、出てきたのが誰かは分かる。足音の運び方で、だいたい察しがつくくらいには、この旅で一緒に歩いた。


「寒くないですか?」


 隣に並んだリティが、そう言いながら自分の襟も指でつまんで立てる。


「アイズドウほどじゃない。あっちは、空気ごと凍ってた感じだ」


「……そうですね。ここはもう、“冷たい国と薄い光の国のあいだ”くらいでしょうか」


 リティは手すりに片手を置き、もう片方の手で、小さな帳面を胸の前に抱え直した。その表紙は、何度も開いては閉じられたせいで、角が少し丸くなっている。


 俺とリティのあいだに、しばらく言葉のない時間が落ちた。代わりに聞こえてくるのは、船鐘の低い音と、甲板を渡る風がロープを鳴らす擦れ音。そして、遠くで誰かが閉めた扉の、鈍い響き。


 アイズドウで合わせてもらった懐中時計を、ポケットの内側から指で探る。薄い金属越しに、小さな歯車の動きがかすかに伝わってきた。あの国では、どの建物の壁にも、似たような拍が刻まれていた。


 樹も、石もない代わりに。


「全部を同じ刻で動かそうとしてる国、か」


 口の中で、その言葉を転がす。


 思えば、この旅のあいだ、いろいろなものの「刻」を、見てきた気がする。


 ミナトラア。止まった樹の根元から、無理やり絞り出していた刻。


 カムイアオ。高原を広げるのを少し遅らせて、“いつか建つはずだった家”の刻を保留にした場所。


 ワクミアオ。祈り枠を少しだけ縮めて、その分を“祈らない時間”に回そうとし始めた人たち。


 ナラシドア。数字と紙で線を引いて、こぼれた分を拾うために「外回り」をこしらえていた本部。


 アイズドウ。樹も石もないのに、壊さないための決まりだけは、一番丁寧に残していた国。


「どこの港も、“もっと楽をしたい”だけじゃなかったんだよな」


 手すりに額をあずけるみたいにして、目を細める。


「“これ以上壊したくない”って線を、なんとか探してた」


 その線を、紙の上に引き直すのを手伝ったのが、自分なんだという実感は、まだどこか他人事みたいに遠い。けれど、懐中時計の中で刻まれている拍だけは、やけに身近に感じられた。


「ヴァルさん」


 隣で、リティが小さく俺の名を呼ぶ。


「ん?」


「……あの」


 そこで、言葉が途切れた。


 視線だけ動かして横を見ると、リティは海ではなく、船の縁から少し離れたところを見つめていた。帳面の端を親指で何度も撫でては、止める。その仕草が、アイズドウの資料室で古い帳面を前に考え込んでいたときと、少し重なる。


「何だよ」


 せかすつもりはなかったが、声が少しだけ短くなった気がして、自分でも苦笑する。


 リティは一度、息を整えるみたいに胸元で手を組み、それからほどいて、ようやく口を開いた。


「……ヴァルさんは」


 そこまで言って、また止まる。


 甲板の上を、風がひとつ撫でていった。船体がわずかに軋む。その音が、言葉の隙間にはまり込む。


 リティは、自分の靴先を一度見てから、視線を海面の方へ戻した。


「……いえ、やめておきます」


「は?」


「今、聞いたことは、そのうちきっと“書きたくなる”ので」


 そう言って、少しだけ笑う。冗談めかした言い方なのに、瞳の奥には、どこか本気の戸惑いがにじんでいた。


「変なところで遠慮するなよ」


 そう返しながらも、何を聞きたかったのかは、だいたい分かった。


 共鳴者として、人の感情がどう流れ込んできているのか。


 怒りや諦めが、どんな響きで、どこに重さを置いていくのか。


 この旅のあいだ、リティは何度か、それを尋ねようとしていた。そのたびに、「後でいい」とか「まずは現場の話から」とか、別の話題を前に置いて、結局、聞かないままでいた。


 今、ようやく伸びかけた手を、自分で引っ込めた、ということなのだろう。


「……全部、言葉にさせたくないときもあるんですよ」


 リティが、俺を見ずに言う。


「心臓を、そのまま机の上に置いてください、って頼むみたいで」


「大げさだな」


「記録の人間は、すぐ大げさになりますから」


 そこでようやく、こちらを向いて小さく笑った。


 帳面は、まだ閉じられたままだ。表紙の上に置かれたリティの指が、さっきより少しだけ、強く紙を押さえている。


 ──線を引いたな。


 そう感じた。


 俺の中身に、どこまで踏み込んで書くのか。


 今はまだ、その線は越えない。そう決めた手の力だ。


「……まあ、いいけどさ」


 肩をすくめる。


「どうせ、俺がどう感じてるかなんて、俺がそのうち勝手に言い出すだろ」


「そうですね。そのときは聞き逃さないようにしておきます」


 リティはそう答え、帳面をようやく開いた。だが、すぐにはペンを走らせない。旅の途中で継ぎ足し続けてきた文字たちを、上から一度なぞるように、視線だけで追っていく。


 ──リティがいて、ルーメンがいて、ノクトがいて。


 甲板の風の中で、心の中の別の声が動き出す。


 俺は、その全部に引っ張られて、決めてきた。


 樹を止めるって言ったときも。


 祈りを少し減らせって提案したときも。


 支援の量に天井を置こう、って紙の上に線を引いたときも。


「最後に口を開いたのは、いつだって自分だったくせに」


 手すりに置いた拳に、力が入る。


 もし誰かのせいにするなら、この旅なんて最初からしていない。ミナトラアに戻ってから線を引き直したいって言い出したのも、結局は俺だ。


「……それでもさ」


 思っていたことが、半分だけ声になって漏れた。


「何もかも、自分ひとりで決めてきた、みたいな顔をする気にはなれないんだよな」


「顔?」


「お前や、あいつらに引っ張られたってことくらいは、ちゃんと覚えておきたいって意味だ」


「それは、“責任は自分で取るけれど、選ぶときは一人じゃなかった”ってことですか」


 リティが、帳面から顔を上げて言う。


「そういう言い方、得意だよな」


「仕事柄です」


 ふ、と笑い合った瞬間だった。


『あーあ』


 頭の後ろで、風より軽い声がした。


『なんかいい感じにしめに入ってるところ悪いんだけどさ』


 ノクトの声だ。


 甲板の一角に、さやさやと拍が寄ってきて、四つの窓が開く感覚がある。俺とリティ、そのすぐそばに、見えない位置取りでノクトとルーメンが並んだ。


『あたしたち、けっこうあちこちで口出ししてきたよね』


 ノクトが、わざとらしく大きなあくびの気配を送ってくる。


『樹を止めた港、高原をゆるめた港、祈りを薄くした港、数字で線を引く街、時計の国』


『……なんか、いっぱい廻りましたねぇ』


 ルーメンが、くすりと笑う気配を滲ませた。


『どの港も、“誰か一人を全部燃やす”ほうじゃなくて、少しずつ配り直すほうを選び始めているように見えましたねぇ』


「全部、正しかったとは言えません」


 リティが、風に向かって答えるように言う。


「でも、何もしなかったよりは、少しだけマシにできていると……信じたいです」


『理屈っぽいのは相変わらずだねぇ』


 ノクトが『ふふん』と笑ってから、俺の方に話を振ってくる。


『で、あんたは? 現場の“押し役”代表』


「……正しかったかどうかなんて、たぶんこれから決まるんだろ」


 自分でも驚くくらい、すっと言葉が出た。


「港の連中が、これからどう選ぶかで」


『そのとき、今日の紙の線が“なかったこと”になってたら、ちょっと寂しいですねぇ』


 ルーメンがぽつりと漏らす。


「少なくとも、戻ってから“なかったこと”にはしない」


 俺は、そう続けた。


「樹を止めたことも、他所から借りてることも、これからどこまで借りるか決めるって話も。全部、なかったことにしないで、港で話す。それだけは、やる」


『あら、ちゃんと言い切りましたね』


 リティが少しだけ驚いたように、でもどこか嬉しそうに目を細める。


『じゃあさ』


 ノクトが、甲板の手すりをとん、と叩くような拍を寄越す。


『次の港は、どこになるんだっけ?』


「……ミナトラアだよ」


 海面の向こう、薄い光の帯の中に、少しだけ濃い影が浮かび上がり始めている。港の輪郭にしてはまだ粗いが、あの高台の形と、防波堤の伸び方は、見慣れたものに似ていた。


「最初に樹が止まった港で」


 言葉を区切りながら、胸の奥の重さを確かめる。


「いちばん“帳尻が合ってないまま”の場所だ」


『あの港が、“樹がなくても暮らせる場所”として、別の線を引けたら……』


 ルーメンの声は、いつもと同じ柔らかさで、それでいてどこか遠くを見ていた。


『他の港も、少しずつ真似ができるかもしれませんねぇ』


『ま、まずは自分んとこの片づけから、ってやつだね』


 ノクトが、からかうみたいにまとめを入れる。


『現場の“押し役”さん』


「うるさい」


 返しながらも、口元が少し緩んでいるのが自分でも分かった。


「ミナトラアで、“どこまで使うか”の線を、もう一回みんなで引き直す。そのときに、今日までの旅で見てきた線を持ち込む」


 甲板の手すりから身を起こす。遠くの薄い光の帯は、さっきよりも幅を増していた。永夜側の重たい闇と、黄昏帯の淡い明るさの境目に、ミナトラアの輪郭が、ゆっくりと滲み出してくる。


「そのときになって、“行ってませんでした”みたいな顔だけはしない」


 リティが、ぱたんと帳面を閉じた。


「それを書いたら、“行ってました”ってことになるでしょうか」


「どうだろうな」


 俺は笑いながら、ポケットの中の懐中時計にそっと触れる。


 アイズドウの拍は、もう海の向こうに小さくなっていく。それでも俺の手の中には、そこから持ち出してきた薄い紙の線と、旅のあいだに選んできた道の重さが、確かに残っていた。


 船鐘が、ゆっくりと刻をひとつ告げる。


 ミナトラアへ向かう帰り船の甲板で、俺たちは、これまで選んできた道と、これから引き直す線を、もう一度だけ胸の中でなぞり直した。

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