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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第6章 永夜の刻
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第6章6話 二重の記録と帰路の階段

 外へ続く階段の手前に、小さな踊り場があった。


 石を削って作られたその空間は、時間局の中とも外とも言い切れない“境目”みたいな場所で、足もとの段差には、外から吹き込む冷たい空気と、建物の内側にたまったわずかな温もりが、薄く混ざり合っていた。


 そこで俺たちは、歴史家と向かい合っていた。


 歴史家の手元には、布包みが二つ。どちらも、角が折れないように固めの板で挟まれている。包みを載せた台の上には、遠くの振り子の揺れが、石を通してかすかに伝わってきていた。


「こちらは連合行きです」


 歴史家が、片方の包みを少し押し出した。


「“今の言葉で書いた線”だけが並んでいます」


 布の隙間から、表紙の一部が覗いている。そこには、穏やかな字で「感応負荷の観測と調整に関する覚え書き」と書かれていた。外から見ただけでは、「世界の天井」だの「等しい負荷」だのという言葉はどこにもない。


 歴史家は、もう一方の包みに視線を移した。


「そしてこちらは、この国の棚に置いておく版」


 布を少しだけずらし、古い紙の端と、見慣れた均し表の文字が、その下から顔を出す。


「昔の帳面と並べておきますから、いつか誰かが“どこから書き足されたのか”を見比べられるように」


 リティが、ふっと息を飲んだ。


「……二つ残すんですね」


「記録とは、いつだって“一種類では足りない”ものですから」


 歴史家は、あたりまえのことを告げるみたいに言った。


「あなたの帳面も、その一つでしょう」


 リティは一瞬だけ目を伏せ、それから、胸元から自分の帳面を取り出した。表紙は、もう何度も開閉を繰り返したせいで、端が少し柔らかくなっている。


「正式な覚え書きは、港湾連合の棚に並ぶ」


 リティは、自分に言い聞かせるように小さくつぶやいた。


「でも、ここに来るまでのやり取りと、削られていった行のことは、私の紙のほうにも、別のかたちで残しておきます」


 そう言って、包みの上に見えているタイトルを、自分の帳面の末尾に丁寧に写し始めた。


 ペン先が、静かな踊り場にかすかな擦れる音を残す。その下に、さらに小さな文字で一行書き足す。


「……“歴史家の補足メモには、抜かれた行と、その理由についての推測が含まれる”」


 読み上げるようにそう書いてから、リティはペンを止めた。


「公式の線とは別に、“どうしてこう書かれたか”の影も残しておきます」


 帳面をぱたんと閉じ、俺のほうを見た。


「どこまで出せるかは、これから決めればいい。今は、消えない形で置いておくことだけ考えます」


「また、紙を二枚重ねるのか」


 思わず口からこぼれる。


 ナラシドアでの議事録と同じだ。表に並べる言葉と、裏に預かっておく言葉。どちらも「本物」の記録で、ただ向いている相手が違う。


「……でも、どっちかを最初から捨てるよりは、よっぽどいいな」


 俺がそう言うと、リティはわずかに笑った。


 歴史家が、布包みのひとつを俺たちのほうへ押し出す。


「港湾連合へ出す分は、あなた方に託します」


 その目が、俺とリティの顔を順番に見た。


「“外回りの目と耳”として、港ごとにこの線がどう見えるか、聞かせてもらえれば十分です」


 外回りの——目と耳。


 ナラシドアでも聞かされた言葉だ。紙の上で整えられた線を、現場に持ち込んで、実際にどれだけ歪むか、どこまではみ出すかを見てくる役目。


「こちらの版はこちらで、昔の帳面と並べておきます」


 歴史家は、もう一方の包みを抱え上げた。


「“等しく分ける”と書かれていた行と、“これ以上増やさない線”を書き足した紙が、同じ棚に並んでいる光景は——少しは、この国のバランスをよくするかもしれません」


 踊り場の石に、振り子の揺れが、微かな震えとして伝わってくる。


 この国は、樹でも石でもなく、こういう揺れと針だけで世界を揃えている。


「……世話になりました」


 俺は、包みの重さを両腕で受け止めながら頭を下げた。


「この線が紙切れにならないよう、できる範囲で動いてみます」


「紙切れになるかどうかは、線そのものだけの問題ではありません」


 歴史家は、穏やかな声で答えた。


「それを見て、どれだけの人が自分の港を思い浮かべるか——その回数のほうが、大事です」


 踊り場に、短い沈黙が落ちる。


 やがて歴史家は、いつもの落ち着いた調子で言葉を継いだ。


「時計の国は、樹も石も持たない代わりに、“時”と“線”を見張る場所であろうとしています」


 それは、自分の国の立場を一行で言い切るような口ぶりだった。


「外側で、あなた方がどれだけ嫌われるかまでは、さすがにここからは見えませんが……」


 そこで言葉を切り、ほんの少しだけ口元を緩める。


「少なくとも、この国の棚のいちばん下のほうに、“削られずに残った最初の一行があった”という記録くらいは、残しておきましょう」


 歴史家の言葉と一緒に、遠くの塔の鐘が一度鳴った。


     ◇


 時間局を出て港へ向かう坂道は、永夜側の冷たい空気で薄く凍みていた。


 石畳に、塔の振り子の箱と標準時計の盤が、歪んだ影を落としている。通りに並んだ機械式時計の小さな針は、どれもほぼ同じ刻を指していた。


 ここでは、誰も樹の拍を聞いていない。石の冷えを確かめる列もない。


 あるのは、全部の針を揃えようとする揺れと、刻みだけだ。


「この国には、樹も石もない代わりに——」


 坂道を下りながら、俺は心の中で言葉を並べる。


「“全部を同じ刻で動かそうとする線”がある」


 羨ましい、と思う。


 樹の導管が詰まったり、石の雫が足りなくなったりするたびに頭を抱えなくていい国。拍に振り回されることなく、針と歯車と紙だけを見ていればいい仕事。


 世界図の線を眺めているだけで、「どこかが壊れる前に」の目安を決めていく暮らし。


 でも、それだけじゃない。


「これもきっと、別の種類の重さを抱えてるんだろうな」


 口に出してみると、冷えた空気が喉を刺した。


「……この国は、負荷を均等にしようとして、“時間”を等しく配ったんですね」


 リティが、坂の途中で立ち止まり、振り返る。


 上方には、巨大な振り子時計の塔。振り子のゆるやかな揺れが、ここからでも目に入る。その横には、大きな盤面と、きっちり揃えられた針。


「樹も石もなくても、分け方の悩みだけは消えてくれない」


 リティの言葉に、俺は苦笑した。


「どこを回しても、結局は“どこまで使うか”なんだな」


 塔の隣の小さな標準時計が、またひと刻ぶんだけ針を進める。港のほうからは、船の鐘の音が、少しくぐもった響きで届いた。



 港の縁まで来たところで、俺は一度だけ振り返った。


 アイズドウの灯りは、冷たい空気の中で、紙に描いた線のようにまっすぐ並んでいる。塔の振り子の揺れは、もう肉眼ではよく分からない。


 ここに残れば——。


 樹の導管も、石の雫も、“無理させていない状態”からやり直せるかもしれない。世界図の端から端までを、数字だけで眺めていればいい仕事も、この国にはあるのだろう。


 でもそれは——。


「ミナトラアやカムイアオやワクミアオの“帳尻”を、全部どこかに置き去りにするってことだ」


 俺は、握っていた包みを少し持ち直した。


「樹にも石にもならない代わりに、“線を持ち歩いて嫌われる役”を選んだのは、俺の方だ。——それを、今さら別の誰かに押しつけ直すわけにはいかない」


『ここに残ったら、“樹も石もない、きれいな国”って看板の裏側で——』


 ノクトの声が、肩のあたりでひそやかに笑う。


『また誰かがどこかで燃やされるよ』


『“ここは特別だから”って言葉ほど、外側を見えにくくするものはありませんからねぇ』


 ルーメンの穏やかな声が続く。


『この国が特別なのではなくて——ただ、別の種類の役を引き受けているだけです』


 俺は、短く頷いた。


「……だったら、外側ごと抱えてる方に戻る」


 自分に言い聞かせるようにそうつぶやいて、船へ続く細いタラップを上り始めた。



 船が埠頭を離れたとき、塔の鐘が、一定の間隔で数回鳴った。


 港の灯りが、ゆっくりと後ろに遠ざかっていく。振り子の揺れはもう見えない。その代わりに、船の甲板の足もとで、小さな時計が、別の速さで針を進め始めていた。


 永夜側の暗がりから、黄昏帯の薄い明るさへ向かう方向に、船の先端が向く。太陽そのものは見えないが、遠くの空の一部が、じわりと淡く明るんでいる。


 甲板に立って、俺たちは、遠ざかる時計の国をしばらく眺めていた。


『樹を止めた港』


 ノクトが、いつもの調子で指を折る。


『樹をゆるめた高原、祈りを薄めた斜面、数字で平らにした本部、時間で均した時計の国』


 列挙された場所の景色が、それぞれ頭の中に浮かぶ。


『次は、どこにこの線を引き直しに行くんだっけ?』


 問いかける声に、リティが答えた。


「……ミナトラアです」


 彼女は、膝の上の帳面を軽く押さえる。


「最初に樹が止まった港。いちばん“帳尻が合っていないまま”の場所」


『あの港が、“樹がなくても暮らせる場所”として、別の線を引けたら——』


 ルーメンが、遠くの薄明るさの方角を見る。


『他の港も、少しずつ真似ができるかもしれませんねぇ』


「そこで、“どこまで使うか”の線を、もう一回みんなで引き直す」


 俺は、腕の中の包みと、リティの帳面を交互に見た。


「そのときに、今日のこの帳面が、ただの紙切れで終わらないといいんだが」


 リティは、答えの代わりに、自分の帳面を少し開いて見せた。


 片方には、「世界の負荷の決まり」と書かれた写しのページ。もう片方には、旅の途中で書き留めてきたメモと、四者会話の断片が、細かい字で並んでいる。


 振り子時計の刻みは、もう海の向こうに小さくなっていた。


 俺の手の中に残っているのは、薄い紙に引かれた一本の線と、それをどこまで信じるか決めきれていない、俺たち自身の重さだけだった。

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