第6章5話 戻れない世界と新しい線
世界図と帳面を広げられる低い卓のまわりに、俺たちは腰を下ろしていた。
壁の向こうから伝わってくる振り子の揺れは、ここまで来ると、ただの低い揺れ方にしか感じない。部屋の隅の小さな時計が、その振れに合わせて針を進めている。目盛りひとつぶん進むたびに、紙をめくる音と、小さな金属音がかすかに重なった。
卓の一辺には歴史家が座り、向かい側に俺とリティが並ぶ。そのあいだに、世界図と、さっきまで見ていた「均し表」と古い運転帳が重なっている。
樹の導管図じゃなくて、世界じゅうの“負荷の流れ”だけを描いた運転図みたいだ——そう思いながら、俺は、机いっぱいに広げられた紙を見下ろした。
世界図の上には、小さな印が点々と打たれている。樹と石のある港、黄昏帯の高原、石の斜面。均し表のほうには、それぞれの横に、昔の数字が一列に並んでいた。
歴史家が、その一行をゆっくりと指でなぞる。
「このときの世界は、今より港も人も少なかったのです」
その声は、紙の繊維をなでる音に混じって聞こえた。
「ひとつの港で負荷を少し減らせば、別の港がすぐにそれを受け持つことができた時代でした。——この数字は、その前提で書かれています」
リティが、均し表と世界図を見比べながら、静かに尋ねる。
「もし今、この数字に戻そうとしたら……どうなりますか?」
歴史家は、一度目を閉じてから、世界図のいくつかの印にそっと触れた。
「おそらく、どこかの港は灯りを消し、どこかの港は高原の端を手放さなければならないでしょう」
淡々とした口調なのに、その「消す」「手放す」という言葉の重さは、紙を通して指先まで伝わってくる。
「昔の線は、そのままには使えません」
部屋の時計の針が、ちょうど目盛りひとつぶんだけ進む。
“元の形に戻す”って言葉が、どれだけ人の暮らしを削ることになるか——この帳面は、黙って教えてくる。
俺は、均し表から視線を外して、世界図を見直した。
樹の印のいくつかは、今の出力じゃ到底足りないほどの街に囲まれている。石の印の横には、祈りの列が何重にもできている気配が、薄い点として重なっているように見えた。
「……じゃあ、昔の線をそのまま引き直すのは、やめたほうがいいってことですね」
リティが、確認するように言う。
「ええ。あのころに戻ろうとすれば、今ここにいる誰かの時間を、大きく削らなければならない」
歴史家は、指先を少し離した。
「ただ——昔の帳面から借りられるものも、まだ残っています」
そう言って、均し表の余白に、さらさらと何かを書き足した。
港の数。おおまかな人口の増え方。樹と石に頼っている割合。
数字そのものは細かくはないが、「今はこれくらい」という目安の重さが、線の端に加えられていく。
「この世界全体で、いま“使っている感応の重さ”は、昔よりずっと大きくなりました」
歴史家は、余白に書いた数字の輪郭を軽く指で囲った。
「ここからさらに増やし続ければ、どこかが壊れても不思議ではない——その感覚だけは、昔とあまり変わりません」
俺は、その囲まれた輪郭をじっと見た。
昔の線をなぞるんじゃなくて——。
「今の港と人の数を前提に、“これ以上は増やさない線”を引き直すことはできませんか」
言葉が、思っていたよりあっさり出た。
「世界じゅうで一つ、“ここまで”って線を決めておいて、それ以上は増やさない。——その線を、ここで見張る」
歴史家とリティが、同時にこちらを見る。
「ここって?」
「樹も石もほとんど使っていない、この国で」
自分の指先で、世界図の端にあるアイズドウの印を軽く叩く。
「樹の拍にも石の冷えにも直接は手を出さない場所だからこそ、その線を見張る役には、向いてるんじゃないかと思って」
歴史家はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「世界全体で一つの目安を決める……昔の均し表の精神だけを、今の数字で書き直すわけですね」
ゆっくりと頷く。
「ここが、その目安を預かる場所になる、という案は、たしかに筋が通っています」
「線そのものは、ここで預かって——」
リティが、自分の手帳を開きながら言葉を継ぐ。
「どの港がどれだけ近づいているかを、日々刻んでいく。……そういう役目の紙を、作れないでしょうか」
『樹と石がないぶん、ここは“刻”だけを見ていればいいもんね』
ノクトが、半分感心したように言う。
『拍の熱と冷えに引きずられずに、数字と記録だけを並べておける場所……』
ルーメンの声は、針の進む音に溶けていく。
「やってみましょう」
歴史家は、立ち上がると、棚から白紙の帳面を一冊持ってきた。
まだ何も書かれていない、その表紙を一度撫でてから、卓の真ん中に開く。
「ここに、新しい線のための欄を作ってみましょうか」
白い紙の上に、三人の視線が落ちる。
「港名と……」
リティが、ペン先で一番左の列を軽くなぞった。
「自前の樹や石にかけている負荷の目安」
「他所から買っている雫や携行パックの量も、必要でしょう」
歴史家が、その右隣に線を引き足す。
「この国には具体的な数字は集まりませんが、各港から送られてくる票の形なら、揃えられるはずです」
「“使いすぎた”だけじゃなくて」
リティがさらに右側に、もう一つ欄を描き込んだ。
「“軽くできた分”も一緒に残せるようにしておきたいです」
ペン先が「軽くした分」「戻した分」と小さく書き込む。
「どこかの港が少しだけ頑張って軽くしたときに、別の港もそれを見て真似できるように」
歴史家は、興味深そうにその文字を眺めた。
「どこがどれだけ“借りているか”だけでなく、どこがどれだけ“返そうとしているか”も見える帳面……ということですね」
「はい」
リティが短く答える。
「ナラシドアでは、数字の伸びばかりに目が行きがちでした。でも、“減らした努力”が紙の隅にでも残っていれば——他の港が、それを言い訳ではなく、参考として使えるかもしれません」
俺は、その「返そうとしているか」の欄を、ぼんやり見つめた。
『あの賭場を止めたのも——』
ノクトが、ひょいと顔を出す。
『本当は、こういう欄に書きたかったことなんだろうね』
『“ここまでなら減らせました”という印は、祈りの帳面にも、もう少し残せたらよかったのですけれど』
ルーメンの言葉は、少しだけ遠くを見ている。
白紙の帳面には、まだ数字はひとつも載っていない。それでも、「借りている」「返している」「軽くした」という三つの言葉が並んだだけで、世界図の印のいくつかが、ほんの少しだけ色を変えたように見えた。
「……偏りが大きくなりすぎたときは、どうしますか」
俺が口にすると、歴史家は世界図の上に、小さな印を二、三箇所付けた。
「ここが、今すでに重たいとされている港だとしましょう」
印の周りを丸く囲む。
「いきなり“止める”と書けば、その円の中の暮らしは、急に空白になります」
丸の外側に、点をいくつか打つ。
「ですから——」
『どこか一か所が真っ赤になったら、いきなり冷やすんじゃなくて』
ノクトが、世界図の上に身を乗り出すような声で言う。
『まわりから順番に火を弱める……そんな感じかね』
『“ここが危ないから、少しずつ分けましょう”と祈りに書いておけば』
ルーメンが、その丸の周りの点を指さすように続ける。
『まだ耳を貸してもらえますからねぇ。いきなり「止めろ」だけが届くよりは』
リティは、ペン先で丸の外側に、小さな矢印をいくつか描いた。
「“限界を越えたら止める”じゃなくて」
矢印の根本に、短くメモを書き足す。
「“近づいてきたら、ゆっくり引き返す”決まりにする」
歴史家は、その矢印をじっと見つめた。
「昔は、その引き返し方が書かれていた行が、今では薄く削られてしまっています」
さきほど見せてくれた古い帳面のことだろう。
「ならば、今の言葉で、もう一度書き足しておく必要がありますね」
部屋の時計の針が、またひと目盛りだけ進む。
世界図と白紙の帳面のあいだに、短い沈黙が落ちた。
俺は、ふと、世界図の片隅にある故郷のあたりに目をやる。
ミナトラアの印。その周りの海と、かつて樹が立っていた場所。
——もしここにもう一本、自分を樹として立てられるのなら、話は早いんじゃないか。
実際にはそんなことはできない、と分かっていながら、それでも一瞬だけ、そう考えてしまう。
俺が樹になって、港ひとつ分の帳尻が合ったとして——。
それで、“全部を誰か一人に押しつける世界”は、何ひとつ変わらない。
俺の港も、高原の港も、石の斜面も。誰かに丸ごと背負わせるやり方で、どうにかしてきた結果が、今の偏りだ。
『あんたが樹になったら、きっとどこかで、“あの樹にもっと流せ”って票が増えるよ』
ノクトの声は、わざと軽く聞こえるようにしながら、その奥で刺さるような冷たさを持っていた。
『“誰か一人にお願いすればいい”って習慣を、また一段濃くしてしまいますねぇ』
ルーメンの穏やかな口調にも、同じ色が混ざっている。
リティが、世界図と俺の顔を見比べてから、静かに言った。
「あなたが樹になる案は——」
彼女は、白紙の帳面の端を、そっと指で押さえた。
「この帳面から、一行減らすだけです」
淡々とした言い方なのに、その一行は、胸のどこかにまっすぐ刺さる。
「私が書きたいのは、“一行増やす方”の案です」
世界図の上に、まだ印が打たれていない空白の場所がいくつも広がっている。
そこには、これから書かれるかもしれない線と数字が、まだ何も宿っていない。
「……じゃあ俺は、嫌われる役のままで、線を引く方に残る」
言葉にすると、少しだけ肩が軽くなった。
樹になって全部を抱え込む近道を捨てて、紙の上で“ここまで”を決めるほうに残る。
それがどれだけ面倒で、どれだけ時間がかかって、どれだけいろんな港に文句を言われるか——想像するだけで頭が痛くなるけれど。
それでも、そのほうが、まだマシだ。
歴史家は、俺をじっと見てから、ゆっくりと頷いた。
「では、この帳面の表紙に、仮の名を付けておきましょう」
白紙だった表紙を開き、ペンを構える。
「正式な名前は、連合や記録局と相談して決めればよいとして……」
リティが、少し考えるように目を伏せ、それから口を開いた。
「今は、“世界の負荷の決まり(仮)”くらいでしょうか」
歴史家が、その言葉をそのまま筆でなぞる。
「世界の……負荷の決まり」
表紙の真ん中に、その字が並んだ。
「呼び名は何でもいい」
俺は、小さく笑う。
「これを、どこか一か所の都合だけじゃなく、世界じゅうの港で見られるようにしてくれれば」
「ここから先は、記録局と港湾連合の仕事になります」
歴史家は、帳面を閉じる前に、一行目に小さく線を引いた。
「私は、その最初の一行が、削られずに残ることだけを祈りましょう」
壁の向こうで、時計塔の鐘が、ひと刻ぶんだけ鳴る。
部屋の小さな時計の針が、鐘の回数に合わせて、またひと目盛り進んだ。
昔の均し表と、抜かれた一枚と、新しい白紙の帳面。
戻せないものと、まだ引き直せるかもしれない線が、一つの卓の上に重なっている。
その真ん中に置かれた「世界の負荷の決まり」を見下ろしながら、
俺は、針の進む音とともに、自分の役目をもう一度飲み込んだ。




