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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第6章 永夜の刻
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第6章4話 負荷の規約と消えた一行

 歴史家の案内で、俺たちは書庫からさらに奥の部屋へ移った。


 扉をひとつ隔てただけなのに、空気の重さが違う。さっきまでの棚の列よりも、紙の層が厚くなったせいかもしれない。


 小さな窓がひとつだけ開いていて、そこから時計塔の脇腹が斜めにのぞいている。ガラス越しに、大時計の盤の縁と、その下の箱に収まった振り子の影が見えた。揺れは見えないが、壁を伝ってくる低い振動が、この部屋の奥まで届いている。


 高い棚に古文書が並び、その足もとには、箱や束ねた紙が控えめに積まれていた。

 どれも、今すぐ誰かが手に取るというより、「まだここにいる」と主張しているような置き方だった。


「ここは、昔の取り決めと、運転の考え方をまとめた部屋です」


 歴史家はそう言って、机の前で立ち止まる。


 指先に薄い布を巻きつけ、慎重に棚から一冊を引き出した。背には、滲んだ文字で「負荷等分規」と書かれている。その隣から、もう一冊。「初期港湾連合合意」と読めるか読めないかの字が続いた。


 布越しの指で撫でたあと、歴史家はゆっくりと表紙を開く。


 乾いた紙の擦れる音に、遠くの振り子の揺れが一瞬だけ重なった気がした。


「こちらが、“等しい負荷の時代”と呼ばれていたころの条文です」


 広げられたページには、細かい字が縦に並んでいた。ところどころに、樹と石を表す小さな印が挟まっている。


 歴史家が、その一節を指先でなぞる。


「ここですね。――“樹と石の負荷は、世界各地に均しく配すること。一箇所のみを酷く用いること、かたく禁ず”」


 声に出すと、条文の硬さが少しだけ和らぐ。


「“出力を増すときは、あわせて他のどこを軽くするかを決めること。負荷の増減は、必ず対の札として記すこと”」


 俺は、無意識に喉を鳴らしていた。


 樹を“どこまで使うか”の線を、世界じゅうで一回、そろえてた時代があったってことか。


「これは、かつて樹と石を使う国々が、互いに“ここまで”という線を揃えようとしていた名残です」


 歴史家は、ページの端に小さく書かれた年号を示す。


「今から見れば、ずいぶん大雑把ですがね。――それでも、“どこか一つだけを酷使しない”という考え方だけは、はっきり残っています」


 隣でリティが、手帳に素早くペンを走らせている。


 負荷の等分。一箇所酷使の禁止。増やすときは、どこを軽くするか。


 きっとそんな言葉を、事実のかたまりとして書き留めているのだろう。


『ちゃんと、紙の上で“どこまで”を決めてた時代があったんだね』


 耳の奥で、ノクトが小さく息をついた。


『“誰か一人を燃やして回す”じゃなくて、最初から分け合う前提、か』


『祈りの帳面も、きっとこの条文のそばに並んでいたのでしょうねぇ』


 ルーメンの声は、ページの余白を見つめながら漏れている。


 歴史家には、もちろん二人の声は届いていない。ただ、紙の上の印だけを淡々と辿っていく。


「この章は、今の教本の多くでは、かなり短くなっています」


 歴史家は、別の棚から薄めの冊子を取り出した。現行の一般向け資料らしい。


 先ほどの条文と見比べながら、何カ所かを指差した。


「もともとは、これくらいの長さで“等しく分ける決まり”が書かれていましたが、各港向けの教本や、家系ごとの抜き書き帳では、だんだん姿を消していきました」


「……どういう理由で?」


 リティが、少し間を置いて尋ねる。


「記録だけ見れば、いくつかの理由が重なったように見えます」


 歴史家は、「負荷等分規」の余白に書かれた小さな注記を指先でなぞりながら言った。薄く消された字の跡が、その下にうっすら残っている。


「“全部を読ませると混乱が増える”“経済の足を止めたくない”“自分たちの利を守りたい”……そういった、さまざまな思惑が、少しずつ重ね書きされていった結果でしょう」


『いい約束ほど、真っ先に薄められることもあるからね』


 ノクトが、斜めに笑う気配を送ってくる。


『忘れたのではなく、“見えないところにしまった”に近いかもしれませんねぇ』


 ルーメンの穏やかな声が、紙の下へ沈んでいく。


 リティは、唇をきゅっと結んでいた。


「明確な悪意だけじゃなくて、“混乱させたくない”“自分の港を守りたい”って気持ちも混ざっていた……ということですね」


「そう読めます」


 歴史家はあっさりと頷く。


「誰かひとりの命令というより、多くの港と家が、自分たちの事情を優先した紙を少しずつ重ねていった。そのうえで、この国――アイズドウの側で、“平らに書き直す”役を、長いあいだ担ってきたのだと思います」


 静かな声だったが、その「平らに」という言葉には、ほんのわずかに疲れが混ざっているように聞こえた。


「書き直す、といえば――」


 歴史家は、別の帳面を取り出した。背には、「家系抜書記録」とだけある。


「各地の帳面を写し取ったなかには、綴じ紐の根元に“紙一枚ぶんの段差”だけ残っているものが少なくありません」


 そう言って、開いた綴じ目を俺に見せてくる。


 紐の締まり具合はきちんとしているのに、その奥に、わずかな空洞がある。そこだけ、他よりも紙の厚みが足りない。綴じ目の縁には、はがされた紙の痕のような、白い筋が一筋だけ残っていた。


「そこだけを抜いて、残りを綴じ直した痕跡です。あなたの家の帳面も、そうなっていましたか?」


 心臓が、振り子の揺れとは違うリズムで打った。


「……そう、でした」


 声がかすれるのを、自分でもどうにもできない。


「うちの抜き書き帳も、綴じ紐の根元に、一枚ぶんだけ段差があって。物心ついたころには、もうそこは空白で」


 綴じ紐の根元。布に覆われた指。段差の感触。


 港の家の薄暗い部屋と、紙の匂いが、頭の中に一度に戻ってくる。


 初めてあの段差に気づいたとき、俺はただ「古い帳面だから、どこかにいったのだろう」としか思わなかった。祖父に尋ねても、「昔のことは昔のことだ」と笑ってごまかされた。


 それ以上、踏み込んで聞こうともしなかった。


「なら、きっと同じ箇所が抜かれているはずです」


 歴史家は、俺の顔と綴じ目を交互に見ながら言った。


「この条文の次の章――港の樹を最初に据えたときの取り決めが、それに当たります」


 そう言って、「初期港湾連合合意」と書かれたほうの古文書を開く。


 紙はさらに黄ばんでいるが、文字の筆圧はしっかりしていた。インクの筋が、ところどころ紙の裏側まで染みている。


「ここです」


 歴史家の指が、ある段落の頭を示す。


「――“港の樹を初めて据えるにあたり、いくつかの樹管局の家系にのみ、緊急停止および切替え用の鍵核を託すこと”」


 鍵核、という言葉に、喉が勝手に反応した。


「“樹の動きが暴れすぎたとき、あるいは負荷が偏りすぎたとき、人の判断により一度止めるための最後の手段とする”」


 歴史家は、その一文を淡々と読んでいく。


「そのあとに、家系名と担当の港が続きます。ここでは読み上げませんが……」


 指先が、列になった名前の上を滑る。


「ミナトラアの系譜でいえば、あなたの家は、その鍵核を預かる家系のひとつに数えられていたはずです」


「……うちの“守り玉”が?」


 口の中が、急に乾いた。


「祖父も父も、“樹を止めたり動かしたりするための大事な道具だ”って言ってました。でも、半分は昔話だと思ってて……」


 自分で言いながら、情けないと思う。


 家の棚に置かれた玉を、子どものころから何度も手に取ってきた。光を反射する表面。ひんやりとした芯。冗談半分で「これが本当に樹を止めるのか?」と父に聞いたとき、「本気で扱う時がこないように祈っておけ」と笑われた。


 あれを、「守り玉」だとしか思ってこなかった自分が、今はやけに遠く感じる。


『……止める役目まで、一緒に抜いたんだ』


 ノクトが、低くつぶやいた。


『等しく分ける約束と、“線を越えたときに誰が止めるか”の話と』


『責任だけ、紙の上からそっと外した、とも言えますねぇ』


 ルーメンの声も、いつもより少しだけ固い。


 歴史家は、古文書を閉じずに、さらに先のページをめくった。


「やがて、樹管局の運転は票と規約で細かく管理されるようになりました」


 条文の行間に挟まれたメモを指し示しながら言う。


「“家に鍵核を置いておく”という役目は、次第に実際には使われなくなり、別の言い方に置き換えられていきます」


 別の棚から、比較的新しい年代の資料が取り出された。


 そこには、「守り玉」「家印」といった言葉が、鍵核のところに書き換えられている。


「鍵核は、“守り玉”や“樹管局の家の証”としてだけ残り、なぜ誰に託されたかまでは、一般の教本からは消えていきました」


 歴史家は、小さく肩をすくめた。


「あなたの家の抜き書き帳の“段差”には、本来――」


 ゆっくりと言葉を区切る。


「“どの港で、どの家が、どの樹の鍵核を預かるか”“なぜその家が選ばれたか”といった、初期の取り決めが写されていたはずです」


 指が、綴じ紐の根元をそっと押さえた。


「負荷を等しく分ける約束と、その線を越えたときに誰が止めるか。その部分だけが、多くの港で静かに抜かれていきました」


 俺は、手のひらを見下ろした。


 そこには何も握っていないのに、家の棚から取り出した玉の重さが、今も乗っている気がする。


 俺が「家に昔からある玉」だと思っていたものは、本当は、“樹を止める役目を預かった家”の印でもあった、ってことか。


 止める責任だけが、紙から外されて。玉だけが、“お守り”みたいな顔をして残った。


「等しく分ける決まりと、止める役目のところだけが、いちばん先に薄められていった……ってことですね」


 リティが、手帳から目を離さずに言った。


 その横顔には、ナラシドアで「穏便な議事録」を書き直してきた自分自身の影も、きっと重なっている。


「昔と同じやり方には戻れません」


 歴史家は、二冊の古文書を重ねてから、静かに言葉を続けた。


「港も人口も、樹と石への頼り方も、あのころとはすっかり変わりましたから」


 机の端に置かれた小さな掛け時計の針が、目盛りひとつぶんだけ進む。遠くの塔の鐘が、それに答えるように短く鳴った。


「それでも、“これ以上ひどく偏らせない”線を引くことなら、まだ遅すぎるとは言い切れません」


『等しく分ける約束が消えて、“もっと自分のところに”だけが残った、ってわけだ』


 ノクトが、わざとらしく肩をすくめてみせる。


『なら、“ここまでにしましょう”の線を、もう一度どこかに描き直さないといけませんねぇ』


 ルーメンの声は、鐘の余韻に混じっていった。


「世界じゅうの樹と石を、俺が止めて回るわけにはいかない」


 自分の声が、思ったよりはっきりと響いた。


「でも、“どこまで使うか”くらいは、どこかで言葉にしておかないといけないんだと思う」


 負荷を等しく分ける条文と、鍵核を託された家の一覧と、抜かれた一枚ぶんの段差。


 その全部が、今ここで、ようやく一枚の紙の上につながった気がした。


 窓の外で、大時計の針が、またひと目盛りぶんだけ進む。


 振り子の揺れは変わらない幅で往復しながら、その下で変わってしまったものと、まだ変えられるかもしれないものの境目を、淡々と刻み続けていた。


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