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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第6章 永夜の刻
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第6章3話 古い帳面と残る鼓動

 時間局の玄関先まで戻ってきたところで、リティが足を止めた。


「……古い運転帳、見ることはできますか」


 受付の窓口に向き直った声は、さっきまで案内に礼を言っていたときより、すこしだけ硬かった。


 窓の向こうで帳面を整理していた若い職員が、ぱちりと瞬きをする。


「古い……とは、どのあたりのものでしょう」


「樹と石の負担を、全体で均そうとしていた時代の記録があれば。

 “均し表”とか“共通帳”とかいう名前で残っているはずです」


 言い回しは、完全に記録局のそれだ。

 若い職員は一瞬だけ目を見開いてから、奥のほうを振り返る。


「少々お待ちください。古い棚のことは、あの者のほうが詳しいので」


 奥の扉が静かに開き、しばらくしてから、別の足音が戻ってきた。


 現れたのは、俺の親よりもう一回りは年上に見える人だった。

 外套の襟は少し擦り切れているのに、胸元の札だけはきっちり磨かれている。背筋はすこし曲がっているが、目の中の光は曇っていない。


 紙をめくったり工具を握ったりしてきたのだろう、両の手の甲には、細かい傷跡がいくつも走っていた。


「樹のそばで使われていた帳面を探していると聞きました」


 その人は、こちらをひとわたり眺めてから、口角をわずかに上げた。


「樹の拍と、時計の刻。両方のうるささを知っている者でよければ、お相手しましょう」


 そのひと言で、この人がどこにいたのか、おおよそ想像がついた。


 リティが、丁寧に一礼する。


「記録局からの外回りです。ミナトアラ、カムイアオ、ワクミアオを回ってきました。

 昔の“均し方”を、今の話と照らし合わせておきたくて」


「そうですか」


 年配の人――時間局の歴史係なのだろう――は、納得したように頷くと、手招きをした。


「ではこちらへ。機械室ほど寒くはありませんから、外套はそのままでどうぞ」



 案内された先は、時間局の奥に続く別棟だった。


 扉をくぐると、空気の温度がわずかに変わる。

 振り子室の乾いた金属の匂いとは違う、紙とインクと、少しだけ鉄が混ざった匂いが鼻に残った。


 天井まで届く棚が壁一面に立ち、その隙間を縫うように細い通路が伸びている。

 新しい帳面ほど手前の低い棚に、背の色が薄くなった古い帳面ほど、奥の高い段に押しやられていた。


 遠くのほうから、かすかに振り子の規則正しい揺れだけが伝わってくる。

 それが、この静かな部屋の「時間」だった。


「ここが書庫です。時刻の帳面も、昔の運転記録も、全部ここに押し込められています」


 歴史家は、棚の配置を体で覚えているらしく、迷いなく奥へ分け入っていく。


「あなた方は、樹の国から?」


「樹のそばで働いていたのは、俺です」


 俺は後ろからついていきながら名乗った。


「港の樹の拍を見ながら、導管や設備の帳尻を合わせる役をしていました。

 今は、止まった樹の、その後を見て回っています」


「ほう」


 歴史家の背中が、少しだけこちらを向く。


「樹の拍を聞いていた人が、この永夜の国まで。珍しい組み合わせですね」


「驚いて、ちょっとほっとしてますよ」


 口から勝手に言葉が滑り出た。


「振り子の国にも、樹の拍を覚えている人が、まだ残ってるんだなって」


 歴史家は、くすりと笑って、指先で棚の背表紙をなでた。


「若い頃は、黄昏帯の樹の施設にいました。拍を聞いて、港の暮らしを合わせる手伝いをしていたんです。

 “共鳴役”なんて呼ばれていましたよ。樹の機嫌と町の都合の、あいだに立つ係です」


 共鳴役――その言葉の響きに、ノクトが耳の奥で揺れた気がした。


『昔の同業者ってやつかな』


 小声が内側で弾む。


『拍の書き方は、きっと覚えておられるでしょうねぇ』


 ルーメンも、静かに付け足す。


「でも、世界の年月を見るには、拍より刻のほうが扱いやすいと、誰かが決めましてね」


 歴史家は続けた。


「だから私は、樹から離れて、こちらで針のほうを見る役に回されたわけです」


 棚の上段から、ひとつの帳面が引き抜かれる。

 背には、かすれた字で「共通帳」と書かれている。角はすり減り、表紙の色もところどころ薄くなっていた。


 他にも、「均し表」「配分図」と書かれた帳面が、二冊三冊と抱えられる。


「お待たせしました。昔の線を引いた紙です。こちらの机で」


 歴史家は、通路の途中に置かれた低い机に帳面を並べていく。



 最初の一冊を開いた瞬間、紙の繊維がこすれる音が、部屋の静けさの中にしみ込んだ。


 中身は、世界地図のような粗い図だった。


 輪郭だけ描かれた大陸の上に、丸や四角で描かれた印がいくつも並んでいる。

 印のそばには、小さな数字の列が添えられていて、それぞれが樹や石の「持ち分」のように見えた。


「昔は、樹も石も“並んで立つ”のが前提でした」


 歴史家が、指先で印をなぞる。


「どこか一つが出力を上げるときは、別の場所が少し力を抜く。

 そうやって、全体の重みを(なら)す紙が、ここにはあったんです」


 ページをめくるたびに、似たような図が続く。

 印の数や数字の並びは少しずつ違うが、「どこかだけが飛び出さないようにする」という癖は共通している。


 俺は、無意識に息を詰めていた。


 樹と石を一列に並べた運転図。


 俺が頭の中で描いてきた「帳尻の合わせ方」に、少し似ている。


 港の樹の拍が荒れたとき、どこからどこへ導管を切り替えるか。

 誰の時間をどこからどこまで借りるか。

 そうやって自分なりに描いてきた線が、この紙の上にも細く走っている。


『拍を均す、か』


 ノクトが、図の上に身を乗り出すような気配を見せた。


『誰か一人を燃やして回すよりは、ずっとマシなやり方だね』


『あのころの祈りは、“分け合う算段”といっしょに書かれていたんですねぇ』


 ルーメンの声は、図の端に書き込まれた小さな文字を見つめながら漏れる。


 もちろん、歴史家には二人の声は届かない。

 ただ、紙の上の線を淡々と指で辿るだけだ。


「ここでは、“どこまで使っていいか”の線を、樹だけに押しつけてはいなかった、ってことですよね」


 自分でも驚くくらい静かな声が、口から出た。


「少なくとも、紙の上では、そうしようとしていました」


 歴史家はうなずく。


「誰か一つの印だけが黒くなるような表にならないよう、何度も書き直していた記録が、ここには残っています」


 そう言って、新しい棚のほうへと手を伸ばした。


 今度は、背に光沢の残る教本のような冊子が、数冊机の上に置かれる。


「そして、こちらが最近の教本です。図はほとんど同じでしょう?」


 並べて見比べると、確かに、樹や石を示す印の位置は似ていた。

 けれど、添えられた文字が違う。


 古い帳面では「均す」「分け合う」「引き受ける」といった言葉が、印の間に細かく書き込まれている。

 新しい教本では、同じ場所に「出力例」「参考数値」といった、角の取れた言い方が乗せられていた。


「誰か一人が塗り替えた、というよりは……そうですね」


 歴史家は、二冊を少し離して置き直しながら言う。


「港が増えて、樹や石の負担に差が出て、“自分のところだけ少し多めに”という紙が重なっていって。

 そういう紙を、そのままのせるわけにもいかないから、ここで何度も平らに書き直して……」


 指先が、新しい教本の余白を軽く叩いた。

 そこには、消した字の跡がかすかに浮いている。


「気がつくと、“均す”という言葉より先に、“例”とか“目安”という言葉が前に出るようになっていた、という感じでしょうか」


 リティが、古い帳面の「均し表」という字をじっと見つめていた。

 自分の書いた議事録のことを思い出しているのだと、言葉にしなくても分かる。


「……私も、同じようなことをしてきたのかもしれません」


 やっと出た声は、紙よりもかすかだった。


「波が立たないように、と言われて、言い回しを丸くして。

 大事なところほど、短く均してきた気がします」


「記録を薄めるのが、仕事だったわけではないでしょう」


 歴史家は、責めるでも慰めるでもない調子で言う。


「ただ、重ね書きされてきた言葉の上に、あなた方の紙も一枚増えた、というだけのことです」


 遠くのほうで、塔の鐘がひとつ鳴った。

 書庫の奥にある小さな時計の針が、目盛りひとつぶんだけ進む。


 この部屋の時間も、やっぱりあの塔に合わせられているのだと思うと、少しおかしくなる。


「ただ、今は港の数も、人の数も、あのころとは違います」


 歴史家は、古い共通帳の最後のページを開いた。


 そこには、大雑把な世界図の端に、白い余白が残されていた。

 昔の誰かが、そこに線を延ばそうとして手を止めたような跡だけがある。


「この“均し表”をそのまま戻すのではなくて、いまの世界の重さに合わせて、もう一度線を引き直す人が必要なんでしょう」


 指先が、余白の上をそっとなぞる。


 リティは、その余白を見つめたまま、自分の帳面を開いた。

 まだ何も書かれていない白いページが、古い共通帳の余白と重なって見える。


 俺は、その横顔と紙の白さを見ながら、胸の奥で言葉を探した。


 昔の線をなぞるだけじゃ足りない。

 でも、その線の引き方を忘れたまま、今の天井だけ決めるわけにもいかない。


 遠くで、振り子の揺れが変わらない幅で往復している。


 昔の拍を覚えている人が、その揺れの下で静かに紙をめくっている。


 そのすぐそばで、新しい帳面の白さが、ひとつぶんだけ息を吸いこんだ気がした。


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