第6章2話 振れる振り子と刻の配信
岸に渡された板を踏んだとき、靴底越しの冷たさが、港を移ったばかりだというのに、もう別の国に来たんだと教えてきた。
埠頭の端で待っていた灰色の外套の人が、胸元の札を軽く押さえて会釈する。
「アイズドウ時間局の者です。遠路、お疲れさまでした。まずは本局のほうへ、ご案内します」
声も仕草も、ナラシドアの事務官たちとよく似ている。違うのは、胸元の札に刻まれている印が、港の紋じゃなくて、針と振り子の形をしていることくらいだ。
港から少し坂を上るあいだ、空は相変わらず薄い闇のままだった。頭上から降りてくるのは光じゃなくて、時計塔の上のほうから洩れる淡い明かりと、一定の間隔で落ちてくる鐘の音だけだ。
歯車の絵が描かれた看板の下をくぐると、目の前に時間局の建物が現れた。塔の根元に抱きつくようにした四角い屋根がいくつも繋がっていて、その中央に、塔の柱がまっすぐ突き立っている。
「下層が事務と配信、上が振り子とテンプの室です」
案内役がそう言って、重そうな扉を押し開けた。
中に一歩入ると、外の冷気とは別の、乾いた金属の匂いが鼻をくすぐる。壁沿いには、各港名が刻まれた札と、書類を詰めた箱がきれいに並んでいた。どこにも導管の光はない。ただ、床下のどこかから、細かい歯車が噛みあう、布越しのような震えだけが伝わってくる。
「まずは振り子室からご覧になりますか」
うながされるまま、石の階段を上がる。数段ごとに、塔の中心から、低いうなりにも似た「揺れの音」が、胸の奥へゆっくり染み込んでくる。
扉を押し開けた先の部屋は、思ったよりも広かった。
薄い光に照らされた中央に、一本の巨大な棒が、静かに、しかし止まることなく行き来している。先端の重りが、左右に、一定の幅だけ揺れて、そのたびに床がほんのわずかに遅れてついてくる。
壁には細かい目盛りが刻まれていて、その何か所かに紙片が吊るされていた。紙には細い線が引かれていて、揺れの偏りが、誰の目にも分かるように記されている。
「この振れが、アイズドウの基本の刻です」
案内役が、声を落として言った。
「揺れが重くなりすぎていないか、軽くなりすぎていないか。ここで見張りながら、調整をかけています」
俺は、思わず喉の奥で息を飲んだ。
樹の唸りの代わりに、この揺れが、この国の“息”を決めている――そんな感じがした。
隣でリティが、帳面を胸の前に抱えたまま、目盛りと紙片を交互に見ている。
「……刻む音が、そのまま紙の上の数字に変わっていく街、ということですね」
記録局出身らしい感想に、案内役が小さく笑った。
「そうかもしれません。こちらは、刻を分けるほうです」
振り子室を出て、さらにひとつ上へ。
テンプ室には、振り子とは違う種類の揺れが並んでいた。小さな金属の腕が、箱の中で規則正しく揺れている。ひとつひとつは拳ほどの大きさなのに、その列が何本も続くと、不思議な圧迫感があった。
部屋のあちこちで、時間局の職員たちが黙々と点検をしている。油差しを傾ける手、ネジをわずかに締め直す手、そのどれもが、揺れに合わせて無駄なく動いていた。
「ここから、各地の補助時計へ力を渡しています」
案内役が、列の一端を指さす。
「一本ずつ揺れ方を見て、誤差が広がらないように。ここでのずれが、そのまま外の締切のずれになりますから」
俺は、その言葉を聞きながら、自分の腰に下げた黄昏時計に指を伸ばした。いつもの癖で、耳ではなく手首で刻みを確かめようとする。けれど、ここでは皮膚の内側の拍じゃなくて、この揺れのほうが先に目に入ってくる。
樹の拍に合わせていた自分の感覚が、少しずつ別の揺れ方を覚えさせられていくみたいで、妙な居心地の悪さと、整った仕組みへの羨ましさが、いっぺんに胸に溜まった。
テンプ室を後にして、階段をいくつか上がると、外光がぐっと近くなる。最後の踊り場で案内役が足を止めた。
「こちらが配信室です。港を見下ろせますよ」
扉の向こうは、縦長の窓が並ぶ細長い部屋だった。窓の外には、港と街と、その向こうに立つ別のセマフォ塔が見える。
室内の壁一面には、黒い板が掛けられていて、そこに港の名と、その横に今日の配信刻が白い字で書き込まれている。どこどこ港――何刻何分。並んだ数字の列は、ナラシドアで見た票の表に似ているのに、そこに刻まれているのは時間だけだ。
「決められた刻ごとに、この塔から符号を送ります」
案内役が、窓辺の机に置かれた操作盤に手を載せる。
「黄昏沿岸の各港は、それを受け取って、自分たちの鐘と時計を合わせる仕組みです。票の締切、樹や石の手入れ、港の運転表も、基本的にはこの刻に揃えています」
ちょうどそのとき、部屋の隅に掛けられた大時計の針が、目に見えるほどゆっくりと、印の上を踏んだ。
すぐあとで、塔の上から、澄んだ鐘の音がひとつ、間を置いてふたつ、みっつと落ちてくる。同時に、窓の外のセマフォの腕木が、決められた順番で揺れた。一度、二度、三度。その動きに遅れて、遠くの丘の上に小さく見える別の塔が、応えるように腕木を動かす。
俺は思わず、腰の黄昏時計を取り出した。自分の時計の針と、この部屋の大時計の針が、同じ位置を指しているのを確かめる。
樹の拍に合わせていた俺の癖が、今はこの塔の針に、少しずつ書き換えられていく――そんな感覚が、背筋を撫でていった。
「ナラシドアでも、ここから送られてくる刻に合わせて票の締切を決めていました」
隣でリティが、小さく息を吐く。
「本物を見るのは、私も初めてです。……ずっと紙の上の字だけでしたから」
案内役は、少しだけ誇らしげに頷いた。
「紙の上だけだと、ただの数字に見えるでしょう? ここで見ると、少しは“道具”らしく見えます」
配信室を出たあと、案内役は階段を下りる方向を指さした。
「時刻校正所も見ていかれますか。各港が、刻を受け取りに来る場所です」
地上階と繋がった廊下を行くと、窓口がいくつも並ぶ広間に出た。
窓口の向こうでは、技師らしい人たちが、持ち込まれた小さな時計や装置を、一つずつ手に取って針を合わせている。窓口ごとに、同じ形の大時計が掛けられていて、その針の位置にあわせて、持ち込まれた道具の針がわずかに進んだり戻されたりしていた。
待合の列には、荷物を足元に置いた港の係の人や、簿冊を抱えた書き手風の人が並んでいる。顔を見合わせて言葉を交わすこともほとんどなく、ただ、自分の番が来るのを静かに待っていた。
「刻を受け取る側にも、誤差を広げない義務がありますからね」
窓口のひとつで、時計を持ち込んだ係員に、職員が淡々と言うのが耳に入る。
「ここで合わせた時計で、また別の港の刻が決まっていくんです」
そのやり取りを見ながら、俺はワクミアオの祈りの列を思い出していた。あの霧の中で、石の前に並んでいた人たちの背中と、この列の背中が、どこかで重なる。
配っているものが雫じゃなくて時刻に変わっただけで、列の空気は、似たような重さを持っている。
『樹の拍も、石の冷えも、ここではあまり感じないねぇ』
耳の奥で、ノクトの声がした。
『代わりに、時計の刻みが、ずいぶんはっきり聞こえますね』
ルーメンの柔らかい声が重なる。
俺は答えずに、列の端を通り過ぎた。ここでしゃべると、静かな刻を乱してしまいそうだったからだ。
時間局の奥へ進むと、今度は、紙と木の匂いが強くなる一角に出た。
そこには、物資搬入用の書類と帳簿が、机の上に重ねて置かれている。開きっぱなしの表には、港の名と、品目と量、それから「協力分」と書かれた欄が並んでいた。
「刻の配信そのものに、直接の料金はありません」
案内役が、何でもないことのように言う。
「ただ、時間局の維持や観測所の補修には費用がかかりますので、各港からは、決められた物資や感応素材を“協力分”としていただいています」
リティが、帳簿の端をそっと見る。視線が一瞬だけ、協力分の列の数字を追って止まった。
思ったよりも、その欄の幅が広いことに、俺も気づく。
『樹や石の代わりに、“刻”を預かっているってわけか』
ノクトのささやきが、内側に落ちてきた。
『誰かが刻を揃え続けるには、その分の支えも必要ですからねぇ』
ルーメンは、少しだけ擁護するように言う。
俺は、どちらの言い分にも首を縦にも横にも振らず、帳簿の数字だけを目で追った。
ここでふと、窓口とは別の小部屋から出入りする人々が目についた。腕に赤い印のついた箱を抱えた若い技師が、時刻校正所の裏手へと消えていく。
「こちらは、刻の協力分を受け取る倉庫です。よろしければ、見ていかれますか?」
案内役が説明を添えながら、裏手の扉を開く。中は狭いながらも整頓されていて、棚のあちこちに、封緘紙で封をした石の携行パックや、樹の花果実を収めた小瓶が並んでいる。中にはまだラベルの貼られていない荷もあった。
「各港から届く協力分のほとんどは、樹や石の詰められた携行パックです」と案内役が続ける。
「ときどきは導管の継ぎ手や感応素材も含まれます。ここでいったん受け取り、施設の維持や、時計塔の動力の補助に使わせてもらいます。もちろん余った分は、港湾連合の配分にしたがって、必要な港へ返すんです」
彼の言葉のとおり、棚の下段には「転送予定」と札を貼られた箱が積まれていた。行き先を見ると、先ほど見学したワクミアオやカムイアオの名も混じっている。
『時刻を配るかわりに、こんなふうに冷えや拍をもらってるんだね』
ノクトが、少し感心したように言う。
『樹や石がないまま揺れを保つ仕組みがあるのは、こういう支えがあるからこそなんですね』
ルーメンの声も、穏やかに続いた。
俺は、金属の匂いと、封緘紙の乾いた匂いの混じった空気を吸い込む。
樹も石もなくて、壊れかけの拍も冷たさも、ここにはない。
代わりに、振り子の揺れと針の進み方だけで、全部の港の「締切」と「歩き方」を決めている。
ここで昔の刻の分け方を見つけられれば、天井の線を、樹でも石でもないところから引けるかもしれない。
塔の針が次の目盛りに触れるのを見ながら、俺はそんなことを考えていた。




