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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第6章 永夜の刻
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第6章1話 寒夜の船と見えない灯

 甲板の手すりに指をかけた瞬間、指先から肘まで、きれいに感覚が持っていかれた。


 刃物みたいに冷えた風が、横殴りに頬を削っていく。船体の向こう側には、もう黄昏の薄明かりさえ残っていない。ただ、遠くのほうに、針で刺したような人工の光が、いくつか浮かんでいるだけだ。


 隣で、リティが小さく肩をすぼめた。


 分厚い布を二枚は重ねているはずなのに、その上からでも震えが伝わってくる。吐く息は短く白く切れて、歯の根がほんのわずかに合わない音がした。


「……骨まで刺さりますね、永夜側って」


 かすれた声でそう言って、リティは手すりを握り直す。細い指が、鉄に吸い付くみたいにこわばっていた。


 俺は「そうだな」と短く返しながら、握った手すりを視線でなぞった。


 金属の芯の、どこか深いところに、かろうじて残っているぬるさを探す。そこに指先を軽く触れさせて、わずかな温度差を手のひらの中に集めていく。


 冷えとぬるさの境目を、目に見えない細い線にして引き出す感覚は、港の導管で何度も試したものだ。今度はそれを、手すりの中に沿わせて流し直す。


 きん、と固くこわばっていた鉄の芯が、少しだけ、鉛筆の芯くらいの硬さに変わる。


「もうすぐ着く。こっち側のほうが、まだ風が鈍い」


 何でもないふうを装ってそう言いながら、俺はリティと自分のあいだに片手をかざした。風避けのふりをして、そのすぐこちら側の空気だけを、うすいぬるま湯みたいな温度に保つ。


 風の刃と肌とのあいだに、指二本ぶんだけ、柔らかい層を挟み込む。


 リティが、握っていた手すりの位置を少しずらした。


「……ここだけ、少し楽ですね」


 気のせいと言い切るには、あまりにも素直な声音だった。


 俺は肩をすくめてみせる。


「このへん、船腹が分厚いんだろ」


 そう言いながら、指先でそっと温度の線を撫でる。周りには、同じように外を見ようと集まってきた乗客が何人もいた。誰も、俺たちのほうを特別には見ていない。


『また、ばれない程度に使ってるねぇ』


 耳の奥で、くぐもったようなノクトの声が転がった。


『でも、こういう“少しの楽”は、あとで効いてきますよ』


 ルーメンの声は、相変わらず柔らかい。冷えた空気の中で、ひときわゆっくりと響く。


「樹も石も、ほとんど動いてない国に行くんだ」


 俺は心の中でだけ、ふたりに返す。


「着く前から凍えてたら、話にならないだろ」


 リティは、俺たちのやりとりには気づかないふりをしているのか、本当に聞こえていないのか、視線を前に向けたままだった。かじかんだ指先は、さっきより少しだけ、色を取り戻している。


 船首の向こうに、黒い塊が姿を現した。


 最初は、暗闇の中に立ち上がる影にしか見えない。けれど近づくにつれ、その面の一つが、ぼんやりとした光を帯びていることが分かってくる。


 巨大な盤面だ。


 塔の上部に、丸い文字盤。その外側を、太い針がゆっくりと進んでいる。中腹の窓からは、上下に揺れる振り子の頭が、一定の幅で行き来するのが見えた。そのさらに奥には、細かいテンプの列が、光を反射して小さな弧をくり返している。


 岸辺の高台にそびえるそれは、樹でも石殿でもない。歯車と軸と鉄枠で組み上げられた、まるで時間そのものの塔だった。


 塔の根元から、街に向かって、規則正しい通りが等間隔に伸びている。通りごとに吊り下げられたランプが、一定の間隔で空間を刻み込むように並んでいた。


 空は、黄昏というよりも、薄い闇の膜で覆われている。けれど、霧はない。時計塔とランプの列からこぼれる光が、そのまま暗さの中に浮かび上がって、「闇の地図」みたいな模様を描いていた。


 耳に届くのは、樹の唸りでも、石の鳴動でもない。


 一定の間隔で鳴る鐘の音と、金属が短く打ち鳴らされるような、セマフォの腕木が動く音だ。


 カン、カン、と間をきっちり揃えた鐘。その隙間を縫うように、カシャ、と鉄がかみ合う微かな衝撃。


 どこを見ても、導管や石札の光はない。


 代わりに、歯車と針だけが、この国の“息”みたいに動いている。


 船は、湾の内側へと入っていく。操舵手が、塔のセマフォと港側の信号を見比べるたびに、舵輪の動きがわずかに変わる。


 甲板から見上げると、塔の腕木が一定の順番で動いていた。遠くの埠頭側からは、旗と灯りが組み合わされた応答が返っている。その動きの間隔が、塔の大時計の針の進み方と、ぴたりと噛み合っているのが分かる。


 胸ポケットから、時計を取り出した。


 港の導管や樹の状態を測るために使ってきた、小振りの懐中時計だ。


 蓋を開けて、針の位置と、塔の大時計の針を見比べる。塔の鐘がひとつ鳴るたびに、自分の時計の針も、同じ角度に近づいていく。


 やがて、二つの針が、ほんの一瞬、きっちり重なった。


(この国の時間は、樹の拍じゃなくて、この塔で決めてるんだな)


 心の中でそうつぶやいたとき、横からリティが身を寄せてきた。


「ナラシドアでも、ここから送られてくる刻で票の締切を合わせていました」


 彼女は、塔を見上げたまま、小さな声で続ける。


「……紙の街で見ていたのは、ただの数字の列でしたけど。本物を見るのは、私も初めてです」


 ナラシドアのセマフォ塔も、それなりに大きかった。だが、あれは「紙の街の心臓」という規模だ。この塔は、心臓というより、世界に刺さった一本の針に見える。


 船がさらに速度を落とす。


 作業灯に照らされた埠頭には、見慣れた樹の果実入り容器も、石の雫のコンテナも、ほとんど見当たらなかった。


 木箱と、鉄の部品を詰め込んだ箱と、歯車の詰まった箱。蓋の隙間から見えるのは、金属の光ばかりだ。工具箱らしきものを抱えた作業員が、無駄のない動きで桟橋を行き来している。


『樹の拍も石の冷えも、ここではあまり感じませんねぇ』


 ルーメンの声が、どこか心細そうに揺れた。


『代わりに、時計の刻みが、やけに耳につく』


 ノクトが、少し鼻を鳴らすような調子で言う。


「樹も石もいないなら、誰の肩を軽くしたらいいのか、まだ分からない」


 俺は、手すり越しに埠頭を眺めながら、心の中でつぶやく。


「……でも、どこかに“負荷の線”はあるはずだろ。ここで決めた刻で、世界じゅうが動いてるんだから」


 リティが、小さくうなずいた。


「昔の記録が残っているとしたら、きっとここです」


 吐く息を細く伸ばしながら、言葉を続ける。


「“等しい負荷”の話も、どこかの棚には、まだ……」


 船腹が岸に触れる、低い衝撃が足元から伝わってきた。


 係の声が、短く配置を告げる。梯子が下ろされ、作業灯がひとつ増える。塔の鐘が、さっきと同じ間隔で数を打った。


 俺は時計の蓋を閉じ、掌の中で軽く転がす。


 樹の拍でも、石の冷えでもなく、時計の刻みだけが世界を揃えている場所。


 ここで昔の線の引き方を見つけられなければ、きっと、俺たちはどこまで使っていいかを決められないままだ。


 冷えた空気の中で、そんな予感だけが、指先よりも先に、じんわりと熱を帯び始めていた。

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