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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第1章 港の樹
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第1章3話 抜き書き帳と公式史

 港の鐘が八つ鳴り終わるころには、樹の唸りも、さっきよりいくらか丸くなっていた。


 薄い光は相変わらずで、窓の外の石畳も、樹管局から戻ってきたときとほとんど同じ色をしている。変わったのは、自分の身体の奥の方だけだ。賭場裏の導管で感じた、あの落ち着きの悪い熱が、まだ指先の内側にこびりついている。


 戸を閉めると、外よりわずかに暖かい空気がまとわりついてきた。壁を這う細い導管の中を、まだ樹の圧がゆっくり巡っている。


 棚の上の灯りに、樹の花を封じた小さな容器を差し込む。薄い膜の向こうで、乾いた花弁がかすかに揺れ、導管拍と同じリズムで光が強まる。部屋がひとまわりだけ明るくなった。


 床に腰を下ろし、低い机の上に置かれた厚い帳面に手を伸ばす。


 古い革で綴じられたその帳面は、うちでいちばん重いものだ。紙そのものより、そこに書き込まれた時間の方が重いように思える。先代、そのまた先代が、黙々と写してきた抜き書きの束。


 表紙を開くと、見慣れた字が目に入った。綴じ紐の根元には、一枚ぶんだけ紙の段差が残っているが、俺が物心ついたときから、そこはもう空白だ。

 最初に現れる数枚は、祖父の筆跡だ。薄くかすれた黒が、几帳面に並んでいる。


 ──「黄昏の帯に最初の街が築かれたとき、そこにはすでに、目に見えない思考の層があった。」


 声には出さず、目でなぞる。


 「人はそれを、公の記録では先住思考体と記す。日常の言葉でいえば、精霊に近いもの。」


 欄外には、父の字で小さく書き足しがあった。


 「※今の教本では『先住体』とだけ教える。精霊という言い方は“子ども向け”に回された。」


 精霊、ね。


 紙をめくると、もっと細かい説明が続いていた。


 ──「先住思考体は、この惑星の基層構造として、黄昏帯じゅうに遍在していた。人々は、感情をエネルギーに変換する核を用意し、それを先住体と不可逆に結びつけて二種の装置を得た。」


 「能動感応体(樹)と、受動感応体(石)。」


 樹と石、という言葉に、手が止まる。


 樹管局の初歩研修でも習った内容だ。感情を拾って熱や圧に変える樹、祈りを受けて雫を生む石。どちらも、核と、そこに宿った精霊――先住体――がいないと動かない。


 頭では分かっているつもりなのに、賭場で見た圧力計の針を思い出すと、胸のあたりがざわつく。


 ページの途中には、丸い核の図が挟まれていた。中心に小さな円、その周りを細い線が取り巻き、外側に「先住体(精霊)」と添えてある。そこから伸びる線は、樹状の図と石のような多面体の図に分かれていた。


 欄外には、また父の書き込み。


 「※樹=能動、石=受動、とだけ教えるのが現行。先住体の扱いはだいぶ薄くされている。」


 削られている、か。


 ページの端を指でしごきながら、さっきの賭場のことを思い出す。笑い声、怒鳴り声、圧力計の針が跳ね上がる音。誰かの負け惜しみが無理やり笑いに変わるたび、導管の拍が一瞬だけ強くなっていた。


 別のページには、もう少し丸い文体の一文が写されている。これはどこかの教会用の冊子からでも抜いたのだろう。


 「樹は、人の希望や祈りを受けて街を守る。石は、受け取った願いを沈殿させ、静かな形として返す。どちらにも、古い精霊が宿っている。」


 希望や祈り、ね。


 賭場の裏導管を撫でた指先に、じわりと熱が戻ってくる。あそこに詰まっていたのは、希望というより、負けた客の悔しさと、どうにもならない諦めだった。叫び声と、行き場のない沈黙の混ざり合ったものが、樹をよく回していた。


 何度も読んできたはずの文なのに、今日は妙に引っかかる。


 俺はこの港の樹を維持する技師で、導管の圧も温度も、だいたい身体で分かる。どこを閉じればどこが苦しくなるか、どの枝管を絞れば港の灯りが一段落ち着くか。それくらいは、手の感覚で覚えているつもりだ。


 けれど、その樹や石の中にいるはずの「精霊」のこととなると、こうして帳面に書かれた「公式の物語」に頼るしかない。


 ページの下の方には、小さな注釈があった。


 「※“精霊”という語は、今は教本からほぼ消えている。現場ではまだ生きている。」


 現場、ね。


 机の横に置いてある木箱に、視線が滑る。


 木でできた、蓋つきの小さな箱だ。祖父の代よりも前から家にあるもので、俺が物心ついたときには、すでにそこにあった。樹管局に勤める家系の証のようなものだと、父は昔言っていた気がする。


 何度も蓋を開けては叱られてきた箱だ。留め金を外し、静かに持ち上げる。


 薄い布の上に、丸い玉がひとつ転がっている。手のひらにちょうど収まる大きさで、金属とも石ともつかない光沢を放っている。触れると、ひやりと冷たく、けれどすぐに指の熱を吸って、肌に馴染んでいく。


 子どものころから何度も取り出して眺めてきた。祖父や父は「うちの鍵核だ。樹を止めたり動かしたりするための、大事な道具だぞ。遊び道具じゃない」とよく言っていたが、半分は昔話の類いだと思っている。


 樹管局の古株にちらっと訊ねたときも、「そういう“守り玉”はどこの家にも一つや二つある。たいていは、もう何にも繋がってないさ」と笑って流された。


 布越しに持ち上げて、抜き書き帳の挿絵と見比べる。


 図の方は抽象的な線と丸で描かれているだけだ。それでも、中心の丸の大きさと、周りをなぞる細い線の雰囲気が、どうしてもこの玉を連想させる。


 「……考えすぎだろ。」


 独り言みたいに、口の中で言う。


 これは家に昔からある鍵核で、祭の日に箱ごと出されて、祖父や父が同じ話をする。樹管局の正式な設備リストにも載っていない。どこかの精霊と本当に繋がっているのかどうかも、誰も確かめたことがない。


 布の上から玉を撫でると、ひんやりとした感触が掌に広がる。港の樹の共鳴期ほどではないが、どこか奥の方で、微かな拍のようなものが揺れている気もする。気のせいだと分かっていながら、指を離しがたい。


 抜き書き帳の次のページには、石についての記述が続いていた。


 ──「石は、受け取った祈りを沈殿させ、安定した形として返す。傷ついた身体や、乱れた心を整えるために用いられる。石にもまた、静かな精霊が宿る。」


 「石には、過剰な願いを制御する役割もある。」


 きれいごとだな、と一瞬思う。


 港にも、石の施設はある。転ぶ程度の怪我なら樹の熱でどうにかするが、骨を折ったり、もっと深く傷ついたときは、石の雫をもらいに行く。実際、よく効く。身体が軽くなるのも確かだ。


 けれど、その石を維持するための祈りが、どこから集められているのか。どの感情が拾われて、どの感情が捨てられているのか。俺は何ひとつ知らない。


 樹の導管は、俺の仕事だ。管の太さも、圧の配分も、ある程度は任されている。けれど、その根元にいるはずの精霊のことは、別の誰かが決めた物語のまま動いている。


 抜き書き帳の文字が、一瞬ぼやけた。


 俺は、何を信じて、この街を回しているんだろう。


 賭場の裏で見た圧力計の針と、この帳面の「希望」「祈り」という言葉が、どうしても同じものに思えない。頭の中で、同じ導管に流れているはずのものが、二つに割れてしまう。


 ページの端には、父の書き込みがもうひとつあった。


 「※公式史は、争いと搾取を小さく書く癖がある。現場の感覚と合わせて読むこと。」


 「現場の感覚」と書かれているところに、思わず苦笑が漏れる。現場の感覚を、一番安く使われているのは、俺たちみたいな若い技師だ。


 俺は今日、まさにその感覚で、賭場と港の導管のつながりを触ってしまった。


 抜き書き帳を閉じると、部屋の静けさが戻ってきた。壁の向こうで、樹の唸りが低いひとつの音にまとまっている。共鳴期の高鳴りから少し外れた、静圧に近い落ち着き。


 この街は、樹さえ動いていれば、とりあえず回る。灯りも水も、搬送のレールも、導管さえ生きていれば止まらない。


 じゃあ、その樹と、その中の精霊を動かすために、何を燃やしているのか。


 今日まで、深く考えずにやり過ごしてきた問いが、急に具体的な重さを持ち始める。


 机の上の玉に目をやる。布越しの丸い膨らみは、さっきから何ひとつ変わっていない。ただそこにあるだけだ。


 「俺は、この街を回してるつもりでいて、仕組みの半分も分かってないんじゃないか。」


 口に出してみると、思っていたより軽い声になった。抜き書き帳の厚みと、賭場の熱と、その間にぶらさがっている自分の立場が、妙に滑稽に思えてくる。


 笑っているうちに、少しだけ楽になった。


 帳面を棚に戻し、玉を箱に収める。蓋を閉じる瞬間、指先に残った冷たさが、導管の拍と同じ速さで脈打った気がした。


 港の方角から、遠く鐘の音がひとつだけ届く。次のシフトの合図だろう。街は何事もなかったように回っている。


 樹の唸りに耳を澄ませながら、俺は床に背を預けた。


 薄い光の下で、公式の歴史と、今日触れた現実のあいだにできた隙間が、じわじわと広がっていくのを感じていた。


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