第5章6話 背にする数字と再び旅へ
塔の鐘がゆっくり数回鳴り終わった刻、記録局の一室には、紙の擦れる音だけが残っていた。
窓のない細長い部屋だ。
壁際には票箱と棚が詰め込まれ、真ん中に置かれた机だけが、かろうじて空いている。
その机の片側で、リティが細い字を流し込んでいた。
会議のあいだ取り続けていた生のメモを、一本の筋に整えていく作業だ。
俺は、向かいの椅子に腰をかけたまま、それを眺めていた。
机の端には、さっきまで卓の上に出ていた三港分の票束が重ねてある。
「……ここ、“天井”って言葉、三回も出てましたね」
リティが、メモの一行を指でなぞりながら小さく言った。
「ああ。つい、何度も言ったかもな」
「悪い意味じゃありません。むしろ、印象を残すには、ちょうど……」
そこまで言いかけて、リティのペン先がぴたりと止まった。
扉が、控えめに二度叩かれる。
「入りますよ」
落ち着いた声とともに、上席官が姿を見せた。
◇
「進み具合はどうですか」
上席官は、部屋の中をざっと見渡したあと、リティの手元に視線を落とした。
「会議の流れは一通り、書き起こしました。
これから、表現を整えるところです」
「少し、見せてもらっても?」
「どうぞ」
リティが紙束を差し出す。
上席官は椅子に座らず、その場で数枚を静かにめくっていった。
目の動きは速くない。
一行ごとに刻を置いて、紙を送る指先も無駄がない。
「……ふむ」
数ページ目で、指が一度止まった。
「“樹と石にかけていい重さの天井”」
そこにあった文言を、低くなぞる。
「それから――“便利のために、どこまで他人の樹と石を痛めていいか”」
さらに隣の紙に目を移す。
「“商売の敵” という表現も、ここにそのまま入っていますね」
リティの喉が、ほんのわずかに鳴った。
「……会議の場で実際に出た言葉は、ひとまず全部、写してあります」
「ええ。記録としては正しい」
上席官は、そこでいったん紙束を伏せ、穏やかな調子で続けた。
「ただ、このままだと、連合の外の目に触れたときに、余計な波を立てます」
落ち着いた声だが、「余計な」の一語には、わずかな重みがあった。
「“天井”という言い方や、“商売の敵”と受け取られかねない箇所は――
表現を少し和らげてほしい」
リティのペン先が、机の上でゆっくりと寝かされる。
「公式の議事録には、“負荷の観測” や “今後検討する枠組み” 程度に留めましょう。
上限そのものを決めた、とは書かない」
言い回しは丁寧だが、向かっている方向ははっきりしている。
「……分かりました」
リティは短く答えた。
記録局の人間としては、聞き慣れた頼みなのだろう。
上席官は、そこで初めて俺の方を見る。
「ヴァルさん」
「はい」
「あなたの言葉を、なかったことにしようと言っているわけではありません」
さっきの議場でも聞いた型の言い回しだ。
「ここに書き留めることと、どこに出すかを選ぶことは、別の段取りです。
“どこまで外に出すか” は、今日のところはこの街の役目だと、そう思っておいてください」
その言い方に、俺は小さくうなずいた。
「……承知しました」
納得しきれたわけじゃない。
それでも、今この部屋で噛みつく気にもなれなかった。
「では、清書ができたら、私のところに回してください」
上席官は、元の穏やかな調子に戻って言った。
「この刻のうちに、外向けの写しに印を打ってしまいましょう」
そう告げて、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、紙の擦れる気配に呑まれていく。
◇
しばらく、部屋には鉛筆を持ち直す音だけが続いた。
やがて、リティが深く息を吐く。
「……こうして、“本当の言葉”はいつも薄められていくんです」
机の上に伏せたメモを眺めながら、ぽつりとこぼす。
「ここにいた頃は、それが当たり前になっていました」
「今は、違うか?」
俺が尋ねると、リティは少しだけ笑った。
「全部をそのまま出したら、どこかの港が先に潰れるかもしれません。
だから、“薄めること”自体を、全部否定することはできないんです」
ペン先が、紙の上を軽く叩く。
「でも、だからといって、痕跡ごと消してしまう必要はないはずです」
「痕跡ごと?」
「燃やしてしまう、って意味です」
言い換えてから、リティは新しい紙束を二つ、机の上に引き寄せた。
「……紙を、一枚じゃなくて、二枚に分けます」
「二枚?」
「一つは、公式の議事録」
彼女は、さっきまでの下書きから数枚を抜き取り、別の紙に書き写し始めた。
「“負荷の上限に関する観測案” とか、“今後検討する枠組み” とか。
言い回しは、上司の言う通りに整えます」
天井という言葉は、「上限に近づいたときの変化」に置き換えられ、
“商売の敵”のひと言は、「経済への影響に関する懸念」に変わっていく。
紙の上では、角が取れた文と数字だけが、静かに並んでいった。
「もう一つは――」
リティは、机の隅から、小さな帳面を取り出した。
表紙には、まだ何も書かれていない。
「私的な記録です」
帳面の最初のページに、今日の日付と、会議の名が短く記される。
その下に、俺の言葉、反発した代表たちの言葉、
そして、精霊たちの短いやりとりが、元の形に近いまま写し取られていく。
『全部通ったわけじゃない。けど、“天井”って発想だけは、この街の紙にも刻めた』
さっき廊下で言った自分の台詞が、そのまま文字になった。
リティは、そのページの端に、小さな印を押した。
公の印ではなく、自分だけの目印だ。
「公式の議事録には印が付きます。
こっちは、私の印だけ」
帳面を撫でながら、彼女は静かに言う。
「全部を今すぐ出せなくても、いつか誰かが見つけられる場所に、残しておきます」
「……紙を二枚に分けるってことか」
俺は、机の上の二つの束を見比べた。
一方は、角を丸められた文。もう一方は、生の言葉のままの走り書き。
「どっちか一枚だけしか残さないよりは、まだマシかもな」
「そう信じたいです」
リティの横顔は、少しだけ軽く見えた。
◇
清書がひと段落した刻、再び扉がノックされた。
「失礼します」
上席官が、今度は椅子に腰をおろした。
「公式の写し、拝見しました」
手元の紙を一瞥してから、視線を上げる。
「……今日の話は、ここで終わらせるには惜しい内容です」
その言葉に、リティの背筋がわずかに伸びた。
「紙の上だけで整理していても、届く先には限りがあります。
現場を見てきた人間が、もう少し“外側”を見ておくのも、悪くない」
言いながら、上席官は机の隅に置かれた沿岸地図の札の一つを指先で叩いた。
「永夜側のアイズドウを、あなたたち自身の目で一度見てきてはどうですか」
「アイズドウ……」
リティが、小さくその名を繰り返す。
「樹と石にほとんど頼らず、時計と人の手だけで刻を刻んでいる国です」
上席官の声は、いつも通り静かだ。
「いまの連合にとって、あそこは“別のやり方”を思い出させてくれる場所かもしれません」
命令ではない。
勧める、というより、「選びなさい」と押し出されている感じだった。
「行くなら、連合としても正式に、“外回りの記録役” として扱いましょう」
上席官は続ける。
「費用と航路は、こちらで用意します。
その代わり、向こうで見たことを、また紙にして戻してきてください」
リティは、一度だけ俺の方を見る。
問いかけるような視線だった。
「……紙の上だけで整理していても、足りない気はしていました」
彼女は、上席官に向き直り、はっきりと言った。
「行きます。あの国の記録も、自分の目で確かめたいです」
俺も肩をすくめる。
「時計で世界を回してるっていうなら、
あんたの“天井”の話をぶつけるには、ちょうどいい相手かもな」
自分で言いながら、少しだけ笑ってしまう。
「俺も行きます。どうせなら、数字を引いてるやつらが、元々どんな刻のつけ方をしてるのか見てみたい」
上席官は、満足そうでも不安そうでもない表情でうなずいた。
「では、外回りの記録役としての辞令を整えておきます。
出港の刻は、明日の鐘三つ分あと――セマフォ塔の合図に合わせてお伝えしましょう」
そう告げて、再び静かに部屋を後にした。
◇
出港の刻が近づくころ、俺たちは官庁帯の石段を降りながら、街を振り返った。
石畳の高台には、書庫と事務棟がぎっしりと並んでいる。
さっきまでいた記録局の窓には、まだ整理待ちの紙束の影が揺れていた。
セマフォ塔の腕木が、ゆっくり別の角度へと動く。
塔の中ほどには大時計の盤があり、針はすりガラス越しのような黄昏の光の中を、一定の速さで進み続けていた。
「この街は、数字と針で世界を平らに見ようとしています」
リティが、石段の途中で足を止めて言った。
「平らに見えれば見えるほど、紙からこぼれ落ちるものも増えているのかもしれません」
「こぼれた分を拾うために、俺たちみたいな外回りがいる……ってことにしておくか」
俺がそう返すと、リティは少しだけ笑った。
「そういう役割なら、続けてもいいかもしれません」
◇
埠頭に着くと、出港待ちの船が静かに揺れていた。
ナラシドアの湾口は扇形に開き、その向こうは、薄い光の帯が続いている。
乗り込み、甲板から振り返ると、港湾連合本部の塔が、街の上に細く突き出ていた。
塔の鐘が、一定の間隔でゆっくり鳴る。
大時計の針が、そのたびに小さく震えて見えた。
リティは、膝の上に二つの帳面を重ねて置いている。
一つは、公式議事録の控え。
もう一つは、さっき彼女が印を押したばかりの私的な記録帳。
指先で、その表紙をそっと撫でた。
『樹を止めた港、樹をちょっと楽させた高原、祈りを薄めた石の港、数字で線を引く本部』
ノクトが、甲板の手すりにもたれながら言う。
『次は、何で世界を回してる港だっけ?』
『たしか、“時計の国”でしたねぇ』
ルーメンが、いつもののんびりした調子で応じる。
「樹と石とは、だいぶ違う回し方をしていると聞きました」
リティは、帳面から顔を上げた。
「向こうの記録を見れば、こことは違う“刻の付け方”が、少しは分かるかもしれません」
「樹も石もない場所で、“どこまで使っていいか”の話をしてる連中がいるなら――」
俺は、自分の懐から時計を取り出し、針の位置を確かめた。
塔の刻より、半目盛りほど進んでいる。
「そこから、もう一段上の天井を見られるかもな」
船がゆっくりと岸を離れ、ナラシドアの内湾が遠ざかっていく。
数字の街は、紙と針で、次の刻をまっすぐに区切り続ける。
その外側で、俺たちは“どこまで使うか”の線を、もう一度引き直せる場所を探しに行く。




