表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第5章 票の街
39/51

第5章6話 背にする数字と再び旅へ

 塔の鐘がゆっくり数回鳴り終わった刻、記録局の一室には、紙の擦れる音だけが残っていた。


 窓のない細長い部屋だ。

 壁際には票箱と棚が詰め込まれ、真ん中に置かれた机だけが、かろうじて空いている。


 その机の片側で、リティが細い字を流し込んでいた。

 会議のあいだ取り続けていた生のメモを、一本の筋に整えていく作業だ。


 俺は、向かいの椅子に腰をかけたまま、それを眺めていた。

机の端には、さっきまで卓の上に出ていた三港分の票束が重ねてある。


「……ここ、“天井”って言葉、三回も出てましたね」


 リティが、メモの一行を指でなぞりながら小さく言った。


「ああ。つい、何度も言ったかもな」


「悪い意味じゃありません。むしろ、印象を残すには、ちょうど……」


 そこまで言いかけて、リティのペン先がぴたりと止まった。


 扉が、控えめに二度叩かれる。


「入りますよ」


 落ち着いた声とともに、上席官が姿を見せた。



「進み具合はどうですか」


 上席官は、部屋の中をざっと見渡したあと、リティの手元に視線を落とした。


「会議の流れは一通り、書き起こしました。

 これから、表現を整えるところです」


「少し、見せてもらっても?」


「どうぞ」


 リティが紙束を差し出す。

 上席官は椅子に座らず、その場で数枚を静かにめくっていった。


 目の動きは速くない。

 一行ごとに刻を置いて、紙を送る指先も無駄がない。


「……ふむ」


 数ページ目で、指が一度止まった。


「“樹と石にかけていい重さの天井”」


 そこにあった文言を、低くなぞる。


「それから――“便利のために、どこまで他人の樹と石を痛めていいか”」


 さらに隣の紙に目を移す。


「“商売の敵” という表現も、ここにそのまま入っていますね」


 リティの喉が、ほんのわずかに鳴った。


「……会議の場で実際に出た言葉は、ひとまず全部、写してあります」


「ええ。記録としては正しい」


 上席官は、そこでいったん紙束を伏せ、穏やかな調子で続けた。


「ただ、このままだと、連合の外の目に触れたときに、余計な波を立てます」


 落ち着いた声だが、「余計な」の一語には、わずかな重みがあった。


「“天井”という言い方や、“商売の敵”と受け取られかねない箇所は――

 表現を少し和らげてほしい」


 リティのペン先が、机の上でゆっくりと寝かされる。


「公式の議事録には、“負荷の観測” や “今後検討する枠組み” 程度に留めましょう。

 上限そのものを決めた、とは書かない」


 言い回しは丁寧だが、向かっている方向ははっきりしている。


「……分かりました」


 リティは短く答えた。

 記録局の人間としては、聞き慣れた頼みなのだろう。


 上席官は、そこで初めて俺の方を見る。


「ヴァルさん」


「はい」


「あなたの言葉を、なかったことにしようと言っているわけではありません」


 さっきの議場でも聞いた型の言い回しだ。


「ここに書き留めることと、どこに出すかを選ぶことは、別の段取りです。

 “どこまで外に出すか” は、今日のところはこの街の役目だと、そう思っておいてください」


 その言い方に、俺は小さくうなずいた。


「……承知しました」


 納得しきれたわけじゃない。

 それでも、今この部屋で噛みつく気にもなれなかった。


「では、清書ができたら、私のところに回してください」


 上席官は、元の穏やかな調子に戻って言った。


「この刻のうちに、外向けの写しに印を打ってしまいましょう」


 そう告げて、静かに部屋を出ていった。


 扉が閉まる音が、紙の擦れる気配に呑まれていく。



 しばらく、部屋には鉛筆を持ち直す音だけが続いた。


 やがて、リティが深く息を吐く。


「……こうして、“本当の言葉”はいつも薄められていくんです」


 机の上に伏せたメモを眺めながら、ぽつりとこぼす。


「ここにいた頃は、それが当たり前になっていました」


「今は、違うか?」


 俺が尋ねると、リティは少しだけ笑った。


「全部をそのまま出したら、どこかの港が先に潰れるかもしれません。

 だから、“薄めること”自体を、全部否定することはできないんです」


 ペン先が、紙の上を軽く叩く。


「でも、だからといって、痕跡ごと消してしまう必要はないはずです」


「痕跡ごと?」


「燃やしてしまう、って意味です」


 言い換えてから、リティは新しい紙束を二つ、机の上に引き寄せた。


「……紙を、一枚じゃなくて、二枚に分けます」


「二枚?」


「一つは、公式の議事録」


 彼女は、さっきまでの下書きから数枚を抜き取り、別の紙に書き写し始めた。


「“負荷の上限に関する観測案” とか、“今後検討する枠組み” とか。

 言い回しは、上司の言う通りに整えます」


 天井という言葉は、「上限に近づいたときの変化」に置き換えられ、

 “商売の敵”のひと言は、「経済への影響に関する懸念」に変わっていく。


 紙の上では、角が取れた文と数字だけが、静かに並んでいった。


「もう一つは――」


 リティは、机の隅から、小さな帳面を取り出した。

 表紙には、まだ何も書かれていない。


「私的な記録です」


 帳面の最初のページに、今日の日付と、会議の名が短く記される。


 その下に、俺の言葉、反発した代表たちの言葉、

 そして、精霊たちの短いやりとりが、元の形に近いまま写し取られていく。


 『全部通ったわけじゃない。けど、“天井”って発想だけは、この街の紙にも刻めた』

 さっき廊下で言った自分の台詞が、そのまま文字になった。


 リティは、そのページの端に、小さな印を押した。

 公の印ではなく、自分だけの目印だ。


「公式の議事録には印が付きます。

 こっちは、私の印だけ」


 帳面を撫でながら、彼女は静かに言う。


「全部を今すぐ出せなくても、いつか誰かが見つけられる場所に、残しておきます」


「……紙を二枚に分けるってことか」


 俺は、机の上の二つの束を見比べた。

 一方は、角を丸められた文。もう一方は、生の言葉のままの走り書き。


「どっちか一枚だけしか残さないよりは、まだマシかもな」


「そう信じたいです」


 リティの横顔は、少しだけ軽く見えた。



 清書がひと段落した刻、再び扉がノックされた。


「失礼します」


 上席官が、今度は椅子に腰をおろした。


「公式の写し、拝見しました」


 手元の紙を一瞥してから、視線を上げる。


「……今日の話は、ここで終わらせるには惜しい内容です」


 その言葉に、リティの背筋がわずかに伸びた。


「紙の上だけで整理していても、届く先には限りがあります。

 現場を見てきた人間が、もう少し“外側”を見ておくのも、悪くない」


 言いながら、上席官は机の隅に置かれた沿岸地図の札の一つを指先で叩いた。


「永夜側のアイズドウを、あなたたち自身の目で一度見てきてはどうですか」


「アイズドウ……」


 リティが、小さくその名を繰り返す。


「樹と石にほとんど頼らず、時計と人の手だけで刻を刻んでいる国です」


 上席官の声は、いつも通り静かだ。


「いまの連合にとって、あそこは“別のやり方”を思い出させてくれる場所かもしれません」


 命令ではない。

 勧める、というより、「選びなさい」と押し出されている感じだった。


「行くなら、連合としても正式に、“外回りの記録役” として扱いましょう」


 上席官は続ける。


「費用と航路は、こちらで用意します。

 その代わり、向こうで見たことを、また紙にして戻してきてください」


 リティは、一度だけ俺の方を見る。

 問いかけるような視線だった。


「……紙の上だけで整理していても、足りない気はしていました」


 彼女は、上席官に向き直り、はっきりと言った。


「行きます。あの国の記録も、自分の目で確かめたいです」


 俺も肩をすくめる。


「時計で世界を回してるっていうなら、

 あんたの“天井”の話をぶつけるには、ちょうどいい相手かもな」


 自分で言いながら、少しだけ笑ってしまう。


「俺も行きます。どうせなら、数字を引いてるやつらが、元々どんな刻のつけ方をしてるのか見てみたい」


 上席官は、満足そうでも不安そうでもない表情でうなずいた。


「では、外回りの記録役としての辞令を整えておきます。

 出港の刻は、明日の鐘三つ分あと――セマフォ塔の合図に合わせてお伝えしましょう」


 そう告げて、再び静かに部屋を後にした。



 出港の刻が近づくころ、俺たちは官庁帯の石段を降りながら、街を振り返った。


 石畳の高台には、書庫と事務棟がぎっしりと並んでいる。

 さっきまでいた記録局の窓には、まだ整理待ちの紙束の影が揺れていた。


 セマフォ塔の腕木が、ゆっくり別の角度へと動く。

 塔の中ほどには大時計の盤があり、針はすりガラス越しのような黄昏の光の中を、一定の速さで進み続けていた。


「この街は、数字と針で世界を平らに見ようとしています」


 リティが、石段の途中で足を止めて言った。


「平らに見えれば見えるほど、紙からこぼれ落ちるものも増えているのかもしれません」


「こぼれた分を拾うために、俺たちみたいな外回りがいる……ってことにしておくか」


 俺がそう返すと、リティは少しだけ笑った。


「そういう役割なら、続けてもいいかもしれません」



 埠頭に着くと、出港待ちの船が静かに揺れていた。

 ナラシドアの湾口は扇形に開き、その向こうは、薄い光の帯が続いている。


 乗り込み、甲板から振り返ると、港湾連合本部の塔が、街の上に細く突き出ていた。


 塔の鐘が、一定の間隔でゆっくり鳴る。

 大時計の針が、そのたびに小さく震えて見えた。


 リティは、膝の上に二つの帳面を重ねて置いている。


 一つは、公式議事録の控え。

 もう一つは、さっき彼女が印を押したばかりの私的な記録帳。


 指先で、その表紙をそっと撫でた。


『樹を止めた港、樹をちょっと楽させた高原、祈りを薄めた石の港、数字で線を引く本部』


 ノクトが、甲板の手すりにもたれながら言う。


『次は、何で世界を回してる港だっけ?』


『たしか、“時計の国”でしたねぇ』


 ルーメンが、いつもののんびりした調子で応じる。


「樹と石とは、だいぶ違う回し方をしていると聞きました」


 リティは、帳面から顔を上げた。


「向こうの記録を見れば、こことは違う“刻の付け方”が、少しは分かるかもしれません」


「樹も石もない場所で、“どこまで使っていいか”の話をしてる連中がいるなら――」


 俺は、自分の懐から時計を取り出し、針の位置を確かめた。

 塔の刻より、半目盛りほど進んでいる。


「そこから、もう一段上の天井を見られるかもな」


 船がゆっくりと岸を離れ、ナラシドアの内湾が遠ざかっていく。


 数字の街は、紙と針で、次の刻をまっすぐに区切り続ける。

 その外側で、俺たちは“どこまで使うか”の線を、もう一度引き直せる場所を探しに行く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ