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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第5章 票の街
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第5章4話 紙の山と巡る足

 セマフォ塔の腕木が並びを固定し、鐘が決まった回数を打ち終えたころ、テラスの風が少しだけ向きを変えた。


 時計を懐に戻した俺に、リティが横目で問いかけてくる。


「……少し、歩きますか。

 この街の中身を、見ておいた方がいいと思います」


「中身?」


「さっきの会議室に並んでいた票が、そのあとどう流れていくか。

 それと、その先で動いている人たちの刻を、です」


 自分の故郷の腹の中を見せるつもりなんだろう。

 リティの声には、案内役としての落ち着きと、どこか身構えた気配が半分ずつ混ざっていた。


 俺たちは本部棟から伸びる石段を降り、隣のブロックへ向かった。



 記録局の建物は、窓の少ない、背の低い箱みたいな形をしていた。

 大きな出入り口には、票箱を載せた台車が出入りしやすいように、緩い傾きの石のスロープが付けられている。


「ここが、さっきの会議で話に出た紙の海です」


 リティが苦笑まじりに言う。


 中に入ると、ひんやりした空気と、紙の乾いた匂いが鼻を打った。


 細い廊下の両側には、腰の高さまで票箱が積み上がっている。

 箱の側面には、「ミナトラア」「カムイアオ」「ワクミアオ」――それ以外の港の名も、黒いインクで書かれた札がびっしりと貼られていた。


 上のほうには梯子付きの棚が続き、さらに古い箱やまとめ済みの束が、港ごとに押し込まれている。

 床にも、階段の踊り場にも、一時置きの箱が置かれていて、少しでも目を離すと道が分からなくなりそうだった。


(紙の迷路、ってやつか)


「ここから各港の票が入ってきて」


 リティが、慣れた足取りで廊下を曲がりながら説明する。


「仕分けされて、数字になっていきます」


 奥の方では、係の職員たちが無駄のない動きで箱を開け、票を引き出し、港ごと・種別ごとの箱に積み替えていた。

 誰も大声は出さない。

 紙の擦れる音と、木箱が床に置かれる鈍い音だけが、淡々と続いている。


「……あれ」


 リティが立ち止まった先、廊下の角のあたりに、「ワクミアオ」と札の付いた箱がいくつか積まれていた。


 箱の上には、まだ封緘紙を破られていない束が、数口分、重ねて置かれている。


「ワクミアオ、届いたばかりですね。

 祈り枠を縮めたばかりの報告も、この中に混ざっています」


 封の端に押された印影を見て、リティがそう呟いた。


 俺は、その箱の前で足を止める。


(あの霧と幕の港の話も、ここに来ると“同じ大きさの束”になるんだな)


 石殿のひやりとした空気と、人の吐く白息と、祈りの列のざわめき。

 それら全部が、今はただの四角い紙の塊になって積み上がっている。


 箱の列の奥には、もっと古い日付の札が付いた箱が、上からいくつも重ねられていた。

 その上に、新しい刻の票が、さらに積まれていく。


(こうやって、港ごとの刻が、一段ずつ埋まっていくのか)



 さらに奥の部屋へ進むと、票が「数字」に変わっていく場面に行き当たった。


 長机の上に、港ごとの票が広げられている。

 職員たちが、その内容を一覧表のような紙に書き写していた。


「ここが登録室です」


 リティが小さく言う。


 机の端では、一人の職員がミナトラアの票束を手にしていた。


『ミナトラア……感応出力ゼロのまま。

 生活維持はローカル手段で仮運転、と』


 紙にさらさらとペンの音が走る。


 別の机では、カムイアオの票が開かれ、別の職員が口の中で確認しながら書き写していた。


『カムイアオ、高原延長ペース減速。出力配分調整中』


 そして、ワクミアオの票の前では――


『ワクミアオ、祈り枠の一部縮小。

 代替支援の試行……ここは備考欄に回しましょう』


 職員はそう呟きながら、一覧表の端に小さく印をつけた。


 どの声も事務的で、そこに悪意はない。

 ただ、紙を次々に別の紙へ移し替えていく作業として、港の動きを見ている。


 その横で、リティが自分の報告書を開き、控えめに口を挟んだ。


「ここには、港の人たちが何を諦めたかも、本当は書きたかったんですけど……」


 報告書の中段あたりを指でさしながら、苦笑いを添える。


「長くなりすぎるので、まとめました」


 『まとめました』という一言の中に、どれだけの削られた刻が詰め込まれているのか。


(まとめましたの中に、港で顔を合わせたあいつらの悩みごとが、いくつ紛れ込んでるんだろうな)


 ミナトラアの斜面で見た肩の落ち方。

 カムイアオの高原端で、杭の位置を指さしていた手。

 ワクミアオの祈り場で、列から外れて冷却路の蓋を持ち上げていた背中。


 それらが今、一覧表の一行ぶんの「備考」か、「仮運転」として括られていく。


 職員の手は止まらない。

 それが仕事であり、この街の刻の進め方でもあるのだろう。


(こうやって、こぼれた分もまとめて、票の山の中に押し込んでいく)



「こっちです」


 記録局の内部を一通り見たあと、リティは建物の外へ出る扉を指し示した。


 連合本部と記録局が並ぶ官庁帯から、少しずつ下のほうへ降りていく。

 石段をひとつ下りるごとに、港の音がわずかに増していくのが分かる。


 倉庫帯の通りは、ほとんど同じ幅の直線が、いくつも平行に続いていた。

 交差点ごとに、石壁に埋め込まれた小さな掲示板があり、その上には簡潔な表が貼られている。


 「作業の割り振り」「入出港予定」「各港への配分量」。


 紙に並んだ数字と、港の名。

 それをちらりと見上げてから、人々は黙って自分の行き先を決めていく。


「次の刻はあの埠頭に行くか」


 掲示板を見た作業員が、そんなふうに独り言を呟き、肩に担いだ荷を持ち直して歩き出す。

 誰も、行き先について言い争ったりはしない。

 決まった通りに、自分の持ち場へ移動していく。


(ここは、“誰がどうしたいか”より先に、“どこに何人必要か”が紙に書いてあるんだな)


 そんな言葉が、思わず口から漏れた。


 リティは一歩だけ足を止め、掲示板と人の流れを見比べてから答える。


「……その分、港同士のけんかは減りました」


 少し考えながら、言葉を選ぶ声だった。


「誰がどれだけ持っていくかで争う代わりに、数字の割り振りに文句を言えば済む、って思えるぶんだけ」


「数字に文句を言うほうが、まだましってことか」


「それでも、痛みは出ますけどね」


 リティはわずかに苦い顔をして、メモ帳の端に何か短く書きつけた。



 倉庫帯からさらに下がると、埠頭側の通りに出た。


 ここでも、通りの幅はほとんど同じで、レールや簡易クレーンが規則正しく並んでいる。

 掲示板に貼られた「入出港予定」の紙を見て、船の側へ歩き出す人影が、一定の間隔で続いていた。


 俺は、掲示板と、その前を通り過ぎていく人たちを見ながら言う。


「ここで決めた数字のせいで、どこかの港が、また誰かの時間を削ることになるかもしれないんだよな」


 自分でも、愚痴とも実感ともつかない言い方になったと思う。


 リティは、少しだけ視線を落とした。


「……分かっています」


 それは、誰かに責められる前から、自分で何度も噛み締めてきた答えのようだった。


「だから、せめて、“どこから削られたか”だけは、書き残しておきたいんです」


「書き残したところで、ここで埋もれないのか?」


 記録局の紙の迷路が、頭の中に浮かぶ。

 港の名前が書かれた箱が、いくつも、いくつも、積み上がっている光景。


「簡単には埋もれます」


 リティは、あっさりと言った。


「ここで働いていた頃は、よく分かっていました。

 どれだけ丁寧に書いても、そのうち新しい報告に押し流されるって」


 それでも、と言葉を継ぐ。


「それでも、全部“数字だけ”にしてしまうよりは……」


 メモ帳の端を指先でなぞびながら、少しだけ笑う。


「どこかの行に、誰かの顔が混ざっている方が、ましだと感じる刻もあるんです。

 それを見つけてくれる人が、少しでもいれば、って」


 自分がこの街の人間であり、連合の一員であり、それでも各港の側に立ちたい――

 そんな矛盾を抱え込んだままの声だった。



 ふと顔を上げると、セマフォ塔が少し離れた位置から見えた。

 塔の腕木が忙しく動き、別の港へ向けた信号を送っているところらしかった。


 塔の大時計の針は、さっき聞き取りの席で見た位置から、いくつか目盛りを進めている。

 低く短い鐘の音が、港じゅうに均等に響いていた。


「ナラシドアでは、光があまり変わらない分、鐘と針に頼るしかなくて」


 リティが、塔を見上げながら説明する。


「どの港に、いつ、どんな返事を出すかも、この塔に合わせて決められていきます。

 さっきの会議の覚書も、そのうち“この刻までに各局で検討”って、塔の刻に合わせた締切が付くはずです」


(ここでは、樹や石の様子じゃなくて、塔の針が世界の動く速さを決めてるんだ)


 ミナトラアでは、樹の根のうなりと導管の鳴り方が、港の一日の長さを決めていた。

 カムイアオでは、高原の風の強まり方で、押し広げる刻の限界を測っていた。

 ワクミアオでは、幕の模様と石の冷えの張りつきが、人の祈りの長さを決めていた。


 ここ、ナラシドアでは――塔の針と鐘が、それをやっている。



「そろそろ戻りましょう」


 官庁帯へ引き返そうとしたところで、記録局棟の窓の向こうに、人の出入りが増えているのが見えた。


 大きめの会議室らしい部屋に、椅子が次々と運び込まれていく。

 卓の上に資料の束が並べられ、壁際には港の名札が新しく立てられていた。


 ちょうど、その前の廊下で、リティの上席官とすれ違う。


「お二人とも」


 上席官は歩みを緩め、手にしていた票束を軽く持ち直した。


「次の刻には、少し大きめの連絡会があります。

 さきほどの聞き取りを踏まえた、黄昏沿岸の運転についての意見交換です」


 淡々とした口調の中に、事務連絡以上の重さが含まれている。


「あなた方にも、席を用意しました。

 先ほど話していただいたことと、そこから先に見えたことがあれば、その場で聞かせてください」


 そう告げて、上席官は短く会釈し、会議室の方へ去っていった。


 俺は、準備中の部屋を横目で見ながら、胸の内で小さく息を吐く。


(紙の港の、もう少し中心に足を踏み入れることになるらしい)


 壁の地図の前に並べられるであろう椅子の列。

 その中の一つに、自分が座る姿を想像してみる。


(俺が見てきた“こぼれた分”を、どこまで言葉にできるか……)


 黄昏の光は、ここでも相変わらず、すりガラス越しみたいに一定だった。

 その中で、塔の針と票の山だけが、次の刻へ向けて淡々と動き続けている。


 俺たちは、その流れにもう一度、自分の話を差し込みに行くことになる。

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