第5章4話 紙の山と巡る足
セマフォ塔の腕木が並びを固定し、鐘が決まった回数を打ち終えたころ、テラスの風が少しだけ向きを変えた。
時計を懐に戻した俺に、リティが横目で問いかけてくる。
「……少し、歩きますか。
この街の中身を、見ておいた方がいいと思います」
「中身?」
「さっきの会議室に並んでいた票が、そのあとどう流れていくか。
それと、その先で動いている人たちの刻を、です」
自分の故郷の腹の中を見せるつもりなんだろう。
リティの声には、案内役としての落ち着きと、どこか身構えた気配が半分ずつ混ざっていた。
俺たちは本部棟から伸びる石段を降り、隣のブロックへ向かった。
◇
記録局の建物は、窓の少ない、背の低い箱みたいな形をしていた。
大きな出入り口には、票箱を載せた台車が出入りしやすいように、緩い傾きの石のスロープが付けられている。
「ここが、さっきの会議で話に出た紙の海です」
リティが苦笑まじりに言う。
中に入ると、ひんやりした空気と、紙の乾いた匂いが鼻を打った。
細い廊下の両側には、腰の高さまで票箱が積み上がっている。
箱の側面には、「ミナトラア」「カムイアオ」「ワクミアオ」――それ以外の港の名も、黒いインクで書かれた札がびっしりと貼られていた。
上のほうには梯子付きの棚が続き、さらに古い箱やまとめ済みの束が、港ごとに押し込まれている。
床にも、階段の踊り場にも、一時置きの箱が置かれていて、少しでも目を離すと道が分からなくなりそうだった。
(紙の迷路、ってやつか)
「ここから各港の票が入ってきて」
リティが、慣れた足取りで廊下を曲がりながら説明する。
「仕分けされて、数字になっていきます」
奥の方では、係の職員たちが無駄のない動きで箱を開け、票を引き出し、港ごと・種別ごとの箱に積み替えていた。
誰も大声は出さない。
紙の擦れる音と、木箱が床に置かれる鈍い音だけが、淡々と続いている。
「……あれ」
リティが立ち止まった先、廊下の角のあたりに、「ワクミアオ」と札の付いた箱がいくつか積まれていた。
箱の上には、まだ封緘紙を破られていない束が、数口分、重ねて置かれている。
「ワクミアオ、届いたばかりですね。
祈り枠を縮めたばかりの報告も、この中に混ざっています」
封の端に押された印影を見て、リティがそう呟いた。
俺は、その箱の前で足を止める。
(あの霧と幕の港の話も、ここに来ると“同じ大きさの束”になるんだな)
石殿のひやりとした空気と、人の吐く白息と、祈りの列のざわめき。
それら全部が、今はただの四角い紙の塊になって積み上がっている。
箱の列の奥には、もっと古い日付の札が付いた箱が、上からいくつも重ねられていた。
その上に、新しい刻の票が、さらに積まれていく。
(こうやって、港ごとの刻が、一段ずつ埋まっていくのか)
◇
さらに奥の部屋へ進むと、票が「数字」に変わっていく場面に行き当たった。
長机の上に、港ごとの票が広げられている。
職員たちが、その内容を一覧表のような紙に書き写していた。
「ここが登録室です」
リティが小さく言う。
机の端では、一人の職員がミナトラアの票束を手にしていた。
『ミナトラア……感応出力ゼロのまま。
生活維持はローカル手段で仮運転、と』
紙にさらさらとペンの音が走る。
別の机では、カムイアオの票が開かれ、別の職員が口の中で確認しながら書き写していた。
『カムイアオ、高原延長ペース減速。出力配分調整中』
そして、ワクミアオの票の前では――
『ワクミアオ、祈り枠の一部縮小。
代替支援の試行……ここは備考欄に回しましょう』
職員はそう呟きながら、一覧表の端に小さく印をつけた。
どの声も事務的で、そこに悪意はない。
ただ、紙を次々に別の紙へ移し替えていく作業として、港の動きを見ている。
その横で、リティが自分の報告書を開き、控えめに口を挟んだ。
「ここには、港の人たちが何を諦めたかも、本当は書きたかったんですけど……」
報告書の中段あたりを指でさしながら、苦笑いを添える。
「長くなりすぎるので、まとめました」
『まとめました』という一言の中に、どれだけの削られた刻が詰め込まれているのか。
(まとめましたの中に、港で顔を合わせたあいつらの悩みごとが、いくつ紛れ込んでるんだろうな)
ミナトラアの斜面で見た肩の落ち方。
カムイアオの高原端で、杭の位置を指さしていた手。
ワクミアオの祈り場で、列から外れて冷却路の蓋を持ち上げていた背中。
それらが今、一覧表の一行ぶんの「備考」か、「仮運転」として括られていく。
職員の手は止まらない。
それが仕事であり、この街の刻の進め方でもあるのだろう。
(こうやって、こぼれた分もまとめて、票の山の中に押し込んでいく)
◇
「こっちです」
記録局の内部を一通り見たあと、リティは建物の外へ出る扉を指し示した。
連合本部と記録局が並ぶ官庁帯から、少しずつ下のほうへ降りていく。
石段をひとつ下りるごとに、港の音がわずかに増していくのが分かる。
倉庫帯の通りは、ほとんど同じ幅の直線が、いくつも平行に続いていた。
交差点ごとに、石壁に埋め込まれた小さな掲示板があり、その上には簡潔な表が貼られている。
「作業の割り振り」「入出港予定」「各港への配分量」。
紙に並んだ数字と、港の名。
それをちらりと見上げてから、人々は黙って自分の行き先を決めていく。
「次の刻はあの埠頭に行くか」
掲示板を見た作業員が、そんなふうに独り言を呟き、肩に担いだ荷を持ち直して歩き出す。
誰も、行き先について言い争ったりはしない。
決まった通りに、自分の持ち場へ移動していく。
(ここは、“誰がどうしたいか”より先に、“どこに何人必要か”が紙に書いてあるんだな)
そんな言葉が、思わず口から漏れた。
リティは一歩だけ足を止め、掲示板と人の流れを見比べてから答える。
「……その分、港同士のけんかは減りました」
少し考えながら、言葉を選ぶ声だった。
「誰がどれだけ持っていくかで争う代わりに、数字の割り振りに文句を言えば済む、って思えるぶんだけ」
「数字に文句を言うほうが、まだましってことか」
「それでも、痛みは出ますけどね」
リティはわずかに苦い顔をして、メモ帳の端に何か短く書きつけた。
◇
倉庫帯からさらに下がると、埠頭側の通りに出た。
ここでも、通りの幅はほとんど同じで、レールや簡易クレーンが規則正しく並んでいる。
掲示板に貼られた「入出港予定」の紙を見て、船の側へ歩き出す人影が、一定の間隔で続いていた。
俺は、掲示板と、その前を通り過ぎていく人たちを見ながら言う。
「ここで決めた数字のせいで、どこかの港が、また誰かの時間を削ることになるかもしれないんだよな」
自分でも、愚痴とも実感ともつかない言い方になったと思う。
リティは、少しだけ視線を落とした。
「……分かっています」
それは、誰かに責められる前から、自分で何度も噛み締めてきた答えのようだった。
「だから、せめて、“どこから削られたか”だけは、書き残しておきたいんです」
「書き残したところで、ここで埋もれないのか?」
記録局の紙の迷路が、頭の中に浮かぶ。
港の名前が書かれた箱が、いくつも、いくつも、積み上がっている光景。
「簡単には埋もれます」
リティは、あっさりと言った。
「ここで働いていた頃は、よく分かっていました。
どれだけ丁寧に書いても、そのうち新しい報告に押し流されるって」
それでも、と言葉を継ぐ。
「それでも、全部“数字だけ”にしてしまうよりは……」
メモ帳の端を指先でなぞびながら、少しだけ笑う。
「どこかの行に、誰かの顔が混ざっている方が、ましだと感じる刻もあるんです。
それを見つけてくれる人が、少しでもいれば、って」
自分がこの街の人間であり、連合の一員であり、それでも各港の側に立ちたい――
そんな矛盾を抱え込んだままの声だった。
◇
ふと顔を上げると、セマフォ塔が少し離れた位置から見えた。
塔の腕木が忙しく動き、別の港へ向けた信号を送っているところらしかった。
塔の大時計の針は、さっき聞き取りの席で見た位置から、いくつか目盛りを進めている。
低く短い鐘の音が、港じゅうに均等に響いていた。
「ナラシドアでは、光があまり変わらない分、鐘と針に頼るしかなくて」
リティが、塔を見上げながら説明する。
「どの港に、いつ、どんな返事を出すかも、この塔に合わせて決められていきます。
さっきの会議の覚書も、そのうち“この刻までに各局で検討”って、塔の刻に合わせた締切が付くはずです」
(ここでは、樹や石の様子じゃなくて、塔の針が世界の動く速さを決めてるんだ)
ミナトラアでは、樹の根のうなりと導管の鳴り方が、港の一日の長さを決めていた。
カムイアオでは、高原の風の強まり方で、押し広げる刻の限界を測っていた。
ワクミアオでは、幕の模様と石の冷えの張りつきが、人の祈りの長さを決めていた。
ここ、ナラシドアでは――塔の針と鐘が、それをやっている。
◇
「そろそろ戻りましょう」
官庁帯へ引き返そうとしたところで、記録局棟の窓の向こうに、人の出入りが増えているのが見えた。
大きめの会議室らしい部屋に、椅子が次々と運び込まれていく。
卓の上に資料の束が並べられ、壁際には港の名札が新しく立てられていた。
ちょうど、その前の廊下で、リティの上席官とすれ違う。
「お二人とも」
上席官は歩みを緩め、手にしていた票束を軽く持ち直した。
「次の刻には、少し大きめの連絡会があります。
さきほどの聞き取りを踏まえた、黄昏沿岸の運転についての意見交換です」
淡々とした口調の中に、事務連絡以上の重さが含まれている。
「あなた方にも、席を用意しました。
先ほど話していただいたことと、そこから先に見えたことがあれば、その場で聞かせてください」
そう告げて、上席官は短く会釈し、会議室の方へ去っていった。
俺は、準備中の部屋を横目で見ながら、胸の内で小さく息を吐く。
(紙の港の、もう少し中心に足を踏み入れることになるらしい)
壁の地図の前に並べられるであろう椅子の列。
その中の一つに、自分が座る姿を想像してみる。
(俺が見てきた“こぼれた分”を、どこまで言葉にできるか……)
黄昏の光は、ここでも相変わらず、すりガラス越しみたいに一定だった。
その中で、塔の針と票の山だけが、次の刻へ向けて淡々と動き続けている。
俺たちは、その流れにもう一度、自分の話を差し込みに行くことになる。




