第5章3話 報告の席と溢れた数字
港湾連合本部棟の中ほどにある小会議室は、外の埠頭よりも、ずっと音が少なかった。
細長い卓が一本。
その上に、三つの札が横一列に並んでいる。
――ミナトラア。カムイアオ。ワクミアオ。
札の前には、それぞれ厚さの違う票束と報告書。
紙の端に押された封緘の跡が、港ごとに少しずつ違う色合いで混ざっていた。
壁には、黄昏沿岸の簡易な地図。
沿岸に打たれた印のいくつかには、港の名を書いた札が、押しピン代わりに差し込まれている。
高い位置に切られた窓の向こうには、セマフォ塔の腕と、その下に付いた大時計の盤の一部が、斜めにのぞいていた。
(……港が、樹でも石でもなく、紙の束になって並べられてる部屋だな)
俺は卓の上を一通り眺めてから、正面に座る顔ぶれに目を移した。
上座には、リティの上席官。
その隣に、記録局の担当官が一人。
反対側に、樹管局の技術担当と、石管局の担当がそれぞれ一人ずつ。
こちら側の下手寄りに、リティと俺の席が並んでいる。
「では、聞き取りを始めましょう」
上席官が、淡い色の票束から視線を上げた。声は低く、よく通る。
「今日は、三つの港の報告に基づいて、黄昏沿岸での感応インフラの運転について、当面の整理をしておきたいと考えています。
まずは、記録局から数字上の整理を」
「はい」
記録局の担当官が立ち上がり、ミナトラアの札の前に置かれた紙を一枚持ち上げた。
「ミナトラアについて」
紙の上の文字を、淡々と追っていく。
「樹出力:ゼロ。
代わりに、人力と簡易設備で最低限の暮らしを維持。
感応インフラへの依存度を、一段落とした港――と、こちらでは整理しています」
この部屋では、それで足りる一行なのだと分かっていても、やけに薄く聞こえた。
担当官は、次の札へ目を移す。
「カムイアオについて。
高原側への出力増加を抑え、暗がりの刻の配分を見直し中。
今後、ワクミアオからの雫の追加要請は、以前ほどは伸びない見込みです」
さらに、三枚目。
「ワクミアオについて。
祈り枠を一部縮小し、『祈り以外の支え』の試行を開始」
読み上げ終わると、紙を揃える音だけが小さく落ちた。
「おおまかな整理は、以上です」
担当官が席に戻る。
「補足を」
上席官の短い一言に、今度はリティが立ち上がった。
背筋を伸ばし、手元の票に視線を落とす。
「ミナトラアについて」
港の名を口にするときの声が、少しだけ柔らかくなる。
「樹が止まったあと、港の人たちは、『誰がどの時間を空けるか』を話し合って分け合いました。
樹に任せていた灯りや導管の見回り、運びの一部を、人の時間で埋め直しています」
数字の列に、具体の手触りを慎重に足していく言い方だった。
「カムイアオについては、高原を押し広げる速度を落としました。
高原の端に、まだ何もない空き地が残ることも、受け入れ始めています。
『いつかここに家が並ぶはずだった場所』を、しばらくそのままにしておく選び方です」
高原の風景が、頭の中に浮かぶ。
踏み固められた土と、まだ印も付いていない土の境目。
「ワクミアオについては、祈りに並ぶ時間を少し削る代わりに、その前後で仕事や相談の場を混ぜ始めました。
祈りの列の一部が、祈りだけではなく、灯りの交換や冷却路の手入れと一緒になっていく形です」
リティは最後に、報告書側の言い回しに一つだけ目をやってから、静かに腰を下ろした。
卓の上には、三つの札と、その前の紙の山。
その背後に、俺の知っている斜面や埠頭や祈り場が、薄く重なって見える。
「ありがとうございます」
上席官が頷き、樹管局の担当に視線を移した。
「樹の出力の面から、ひとこと」
「はい」
樹管局の担当は、ミナトラアとカムイアオの札のほうへ身を乗り出した。
「いずれ、樹の出力については、黄昏沿岸共通の『安全な運転幅』を示す必要があります。
現状は、各港ごとに、それぞれの歴史で決められた上限と増やし方を使っていますが……今回の樹停止や、高原圧の限界が見え始めた事例を踏まえると、当面の目安を揃えておくべきだと考えています」
紙の上に、いくつかの項目が置かれていく。
「樹の出力の変動幅。
高原延長の、一年あたりの距離。
樹が自動の保護に入る前に、どこまで増やしていいか、といった線です」
続いて、石管局側の担当が口を開く。
「石の雫の輸出についても、同じです。
ワクミアオのような港から、どの程度の増え方で雫を受け取るのか。
祈り枠を増やすことで無理をさせていないか。
こちらも、『増やし方の抑え方』の目安が必要になるでしょう」
「祈り枠の数と、祈りに費やす時間の変化も、票の上で追えるようにしておきたいですね」
記録局の担当官が、ワクミアオの票をめくりながら言う。
「『祈り枠の増減』と、『祈り以外の時間の削れ方』の対応を、もう少し揃えておきたいところです」
紙の上で、線が引かれていく音を聞きながら、俺は自分の膝の上で指を組んだ。
(この部屋では、樹も石も、人の一日も、だいたい『何%』とか『何枠』で並べられるらしい)
そんな感想が、自然と浮かぶ。
そこへ、上席官の視線がこちらへ移った。
「現場の技師として」
静かな声が、まっすぐ俺を指す。
「これらの数字を見て、どう思いますか」
卓の上の札と、壁の地図と、窓の外の大時計が、一瞬、同じ線の上に並んだように見えた。
◇
「ミナトラアについては」
俺は、ミナトラアの札に目を落とした。
「ここには、『樹出力:ゼロ』って、一行で書かれています」
記録局の担当官の手が、紙の端で止まる。
「でも、あの港では、その一行のために、港じゅうの時間を組み直しました」
樹が止まった日の冷えが、背中に薄く戻ってくる。
「樹が動いていたときには気にしなくて済んでいた作業が、いくつも残りました。
港の外れのレールも、灯りも、導管も、だいたい『樹がなんとかする』ほうに寄せてあったので」
俺は、一度息を整える。
「止まってからは、『どの線をどの順番で人が支えるか』を決め直すことになって。
票に乗るのは『止まった』って一行だけでも、あの港ではまだ、止まった分の帳尻を合わせ続けてる最中です」
部屋の空気が、少しだけ沈む。
「出力ゼロって一行で書かれてるけど」
札の文字を見ながら、言葉を重ねた。
「あそこじゃ、その一行のために、港じゅうの時間を組み直したんだ、ってことです」
上席官が、一度だけ小さく頷いた。
「カムイアオについては」
視線を右の札へ送る。
「高原を伸ばすのをゆるめた分、『いつかここに建つはずだった家』の話が、何件か霧の中に置かれました」
高原の端で、杭の位置を指でなぞっていた人たちの顔が浮かぶ。
「高原の端で、『ここまで来たら次は家を建てる番だ』って、何年も言い続けてきた人たちがいて。
高原を広げる速度を落とすってことは、その話を、地図の上では何も書かれていない空白として置いておくことでもあります」
俺は、自分の言葉を確認するように、札の端を指で軽く触れた。
「数字で見ると、『高原延長の距離が少し短くなった』で終わるところですけど、その手前には、『この線の外側に引っ越すはずだった生活』が、いくつか霧の中に置かれている」
そして、最後の札。
「ワクミアオについては」
石殿の幕と、霧の冷たさが、同時に思い出される。
「祈りを減らすってことは、『祈らない時間に何をするか』を決めなきゃいけないってことでもあります」
祈り場の端で、柄の短い道具を握りしめていた手。
冷却路の蓋を持ち上げていた肩の動き。
「祈りの列から少し早く外に出された人たちが、そのあと、どこに立って、誰と何を話すのか。
祈りを少し薄めた分、その時間に何を詰めるかを決める作業が、今も続いています」
俺は、三つの札を順に見渡した。
「どの港にも、『数字に書ききれない間』が残っている、っていうのが、現場から見た感触です。
ここに置かれている札の裏には、こぼれたぶんの数が、いくつか分、まだ霧の中に残ってる」
喉の奥まで出かかった難しい言葉を飲み込んで、代わりに「帳尻」と「間」と「こぼれた数」という言い方を選ぶ。
◇
短い沈黙が落ちた。
紙をめくる音が、ぽつぽつと続く。
記録局の担当官が、何かを書き足し、樹管局と石管局の担当が、それぞれの票の余白に印をつけていく。
「……なるほど」
上席官が、ひと息置いてから言った。
「記録には、『結果』と、『そこに至るまでに動かした数字』だけが残ります。
その裏で、どの港も、『何を霧の中に置いてきたか』までは、確かに書ききれていませんね」
窓の外で、塔の鐘が鳴り始めた。
低い音が一定の間隔で響き、ガラス越しに、セマフォ塔の腕木がゆっくり並びを変えていくのが見える。
俺は思わず、懐に指を入れた。
黄昏時計を取り出し、針の位置を一度だけ確かめる。
この席についてから、どれくらいの刻が重なったのか。
自分の手の中の刻と、この建物の刻のズレ。
「その時計は、現場でも?」
石管局の担当が、黄昏時計に目を留めた。
「ええ。樹の出力や港の動きを、『どこまで続けているか』見るのに使っていました」
俺は時計を親指でなぞりながら答える。
「どこまで無理させてるかを見るのに、『何刻続いてるか』を覚えておくのは、わりと大事で。
止めたほうがいいのに誰も止めたがらないときは、針のほうを先に見ます。『もうここまで来てる』って、言えるんで」
自分で言って、少しだけ苦笑した。
「この部屋でも、役に立つといいんですけどね」
樹管局の担当が、皮肉にならない程度の声でぽつりとこぼす。
◇
「今日のところは、このくらいにしておきましょう」
鐘の音が途切れたころ、上席官がまとめに入った。
「三港それぞれの『限界に近づいたときの変化』を、ここまでの票と、今の聞き取りの形で整理します。
共通の数値だけで線を引くのではなく、それぞれの港で『どこを軽くする余地があるか』を探る形にしましょう」
指先で、三つの札を順に辿る。
「記録局は、三港の票と、今日の聞き取りをまとめて、『暫定案』として短い覚書を作成してください。
樹管局と石管局は、他の黄昏港にも同様の聞き取りが必要かどうか、検討を」
「承知しました」
記録局の担当官が頷き、樹と石の担当も、それぞれ一言ずつ応じた。
上席官は机の隅の小さな時計を一瞥し、紙束を整える。
「次の刻には別の票会議がありますので、今日はここまでにしておきます。
続きは、覚書がまとまってから、あらためて」
席を立つ気配が、細長い部屋の中をざわりと走った。
◇
本部棟の扉を出ると、石畳のテラスの上に、少し強い風が当たった。
目の前には、さっき窓から見えていたセマフォ塔が、ほとんど真正面に立っている。
塔の中腹には、大きな機械式の時計盤。
その少し上で、腕木が何本も、直線と斜めの組み合わせで固定されていた。
テラスのあちこちで、事務官や使いの人たちが立ち止まり、自然な動作で懐中時計や携帯時計を取り出している。
ちょうど、「時刻合わせの刻」らしかった。
塔の鐘が決まった回数を打つと同時に、セマフォの腕木が、ゆっくり特定の並びに揃えられていく。
それを見届けてから、人々は手元の時計と大時計の針を見比べ、竜頭を回して針をわずかに進めたり、戻したりしていた。
「この刻のセマフォが、ナラシドアの腹時計みたいなものでして」
近くで時計を合わせていた若い記録局員が、こちらに気づいて笑う。
「各港への合図も、ここからの刻に合わせるんです。
樹や石の運転の報告も、この塔の線で揃えて流します」
俺は思わず、また黄昏時計を懐から出した。
塔の大時計の針と、自分の時計の針を見比べる。
ほんのわずかに、こちらのほうが進んでいた。
ミナトラアの現場で、樹の様子を見るたびに少しずつ合わせ直してきた針だ。
「……」
俺は、小さく息を吐いてから、竜頭をつまんだ。
ナラシドアの大時計に合わせて、針をひと目盛ぶん戻す。
(俺の時計の中の刻も、結局はどこかの塔が決めた線に寄せるしかないのか)
そんな考えが、ふと浮かぶ。
(ミナトラアやカムイアオ、ワクミアオで測ってきた『無理の長さ』も、ここではひと目盛分のズレにまとめられる)
隣で同じように空を見上げていたリティが、俺の手元に気づいた。
「……現場の刻も、ここで合わせ直される感じがしますね」
ぽつりとこぼす声には、懐かしさと、少しの警戒が半分ずつ混ざっていた。
「ああ」
俺は黄昏時計を握り直しながら答える。
「でも、ここで針を合わせたぶんだけ」
塔のほうを顎で示す。
「港のほうのずれも、ちゃんと書いて残しておいてくれよ」
リティは、わずかに目を細めて頷いた。
「そのために、私がここに戻ってきたんでしょうね」
テラスの下では、埠頭のレールの上を、荷車がゆっくりと動いているのが見えた。
上では腕木が揃い、下では貨物が運ばれ、どこかの港では、また誰かが時間を空ける話をしている。
この本部棟の中でまとめられる「暫定案」の束の中に、どれだけの「こぼれた数」が書き込まれるのか。
どれだけが、相変わらず霧の中に置かれたままになるのか。




