第5章2話 窓口の声と聞きたい人
記録局の窓口から少し離れたところで、リティが胸の前の帳面を閉じた。
提出を終えた包みは、さっき職員が抱えていった箱の中に消えている。
ミナトラア。カムイアオ。ワクミアオ。
三つの港の名を並べた札が貼られた箱だ。
「ひとまず、ここまでは終わりました」
リティがそう言ったとき、背後から足音が近づいてきた。
「リティさん」
振り返ると、さっき窓口にいた記録局の職員が、両手を前でそろえて立っていた。
「規約局の上席が、この場で少し話を聞きたいそうです。
前書きを拝見して、三港ぶんの流れを直接聞いておきたい、と」
リティの細い肩が、ほんの少しだけこわばる。
「……今、この刻に、ですか」
「はい。ちょうど票会議の合間だそうで。
もしご都合が悪くなければ、ヴァルさんもご一緒に、とのことです」
そこで初めて、職員の視線が俺のほうに向いた。
「ミナトラアの技師の方ですね。
三港を続けて見てこられた現場の話を、少しだけ聞いておきたいそうです」
「俺でよければ」
短くそう返すと、職員はほっとしたように頷いた。
「ありがとうございます。では、こちらへ」
職員が歩き出す。
リティが一瞬だけ息を吸い込んでから、その背中を追った。
その横顔には、懐かしさと警戒が、半々くらいで張り付いているように見えた。
◇
記録局と巨大書庫棟のあいだに、細い渡り廊下が通じていた。
窓の向こうには、港湾連合本部の壁と、その上に伸びるセマフォ塔の腕が見える。
さっき埠頭から見たときより、腕の角度が少し変わっていた。
渡り廊下を抜けた先に、規約局の扉がある。
職員が軽くノックをし、内側の取っ手を回した。
「お連れしました」
案内されたのは、広くも狭くもない会議室だった。
壁際に票棚。中央に長い卓。その片側に、淡い色の衣をまとった人物が一人、肘をついて座っている。
卓の上には、紙束がいくつか、きれいに揃えて置かれていた。
その脇には、小さな機械式の時計が一つ。針は、さっき記録局を出たときより、わずかに進んでいる。
その人は、卓に置いた紙から目を離し、こちらに視線を向けた。
「入ってきなさい。リティ、それから……ミナトラアの技師の方ですね」
声は低めで、よく通る。
怒鳴る必要のない種類の声だと、最初の一言で分かった。
「ご無沙汰しております」
リティが、慎重に一礼する。
「お久しぶりです」
上席官はそれに穏やかに頷き、視線を俺のほうへ滑らせた。
「こちらが、ミナトラアの樹運転に関わっていた技師の方ですね。
記録には『若手技師』とだけありましたが」
「ヴァルです。ミナトラアの樹の整備と、港の共鳴インフラの調整をしていました」
俺も簡単に名乗る。
上席官は、一度だけ頷き、指先で手元の紙束を整えた。
紙の山の上に座っているはずなのに、その目は紙ではなく、その向こうにある港の風景を覚えているような色をしていた。
「では、座りましょう。立ち話にするには、少し長い話ですから」
卓の反対側に、三つ椅子が並べられている。
俺とリティが向かいに腰を下ろすと、職員は静かに部屋を出て行った。
扉が閉まる音が、規約局の静けさに吸い込まれていく。
◇
「まず、三つの港の報告、確かに受け取りました」
上席官は、淡い色の束を指先で軽く叩いた。
「ミナトラア。カムイアオ。ワクミアオ。
順に目を通しましたが、ここではざっくりと、流れを確認させてください」
視線が、リティへ向く。
「ミナトラアの『樹停止事故』について。
正式記録では『過負荷警告の後、自動停止に移行した』とあります。
現場から見た印象を、短く聞かせてください」
リティは一度だけ瞬きをしてから、言葉を選び始めた。
「はい。記録上は、過負荷に至った樹が、自動の保護機構で停止した――という扱いになっています」
そこまでは、教科書を読むような口調だ。
「現場にいた人間としては……過負荷に達する前の運転と、停止のタイミングに、人の判断が挟まっていた可能性が高いと感じています」
「誰の」という主語を、あえて抜いた言い方だった。
「少なくとも、停止後の『再起動させない選択』は、現場での合意に近い形で維持されています。
樹を止めたままで、『暮らしの側を組み替える』ほうを先に進めている――というのが、今のミナトラアです」
「樹の止まった港で、暮らしのほうを組み替えた、と」
上席官は、その言葉を一度口の中で転がすように繰り返した。
そして、視線を俺のほうに向ける。
「現場の判断に詳しい技師の方、という理解でいいですか」
「……あの港では、『止まったあとの暮らし』を先に考えることにしただけです」
俺は、できるだけ短く答えた。
「樹を止めた、という言い方は、ここではしないほうがいいんでしょう」
それは、この部屋に入る前にリティから釘を刺されていたことでもある。
上席官は、小さく息を吐いた。
「公式の報告に、『技師個人による意図的な停止操作』は書かれていません。
書かれていない以上、こちらからそうだと言うこともしません」
紙束の端をそろえながら、静かに続ける。
「ただ、停止前後の運転記録を見ると、警告に至る前に負荷を抑える余地があったとは言えそうです。
その余地をどう扱ったのか、という話は、ここには載っていませんね」
リティが、膝の上で指を少しだけ握りしめたのが見えた。
「観測したことを、なかったことにしろと言っているわけではありません」
上席官は、リティのほうを見た。
「書き留めなさい。ただし、出す場所を選ぶこと。
ミナトラアについては、今のところ、その方針を取っている――という理解でいいですね」
「はい」
リティは、短く息を混ぜて答えた。
◇
「では、二つ目。カムイアオの高原と、夜間配分の調整が始まった件」
上席官は、別の紙束をひっくり返した。
「報告には、『高原側の攻め方を少し緩め、高原を押し広げる刻を削り始めている』とありますね」
「はい」
リティはすぐに応じる。
「カムイアオでは、高原延長の枠を広げ続けた結果、樹にかかる圧が限界に近づいていました。
そこで、高原の『押し広げ』を少しだけ減らし、その分を夜間の暮らしのほうに戻す調整が始まっています」
「樹の出力を減らし、そのぶん、人の暮らしの側で『足を緩める』選択をした、と」
「ええ。高原に立っている人たちと、町の中の人たちのあいだで、『どこまで広げるか』を見直し始めている段階です」
上席官は頷き、三つ目の紙へ目を落とした。
「ワクミアオの祈り枠の縮小試行について」
「ワクミアオでは、祈りの刻を一部だけ短くする試みが始まりました」
リティの声には、斜面の霧の冷たさが、少しだけ戻ってきたように聞こえた。
「祈りの列に立つ人たちの一部は、石の前に立つ刻をわずかに削られた代わりに、その分を祈り場の端での手伝いや、冷却路の整えに回しています。
『祈り続けていないと救われない』という張り詰め方を、ほんのわずか緩めようとしている段階です」
「祈りの密度を薄くし、祈り以外の支えの時間を作ろうとしている、と」
「はい」
◇
上席官は、三つの紙束を横に並べた。
「三つの港で、少しずつ違うやり方を取りながら、樹と石の負担を変えようとしているわけですね」
視線が、再びリティへ向く。
「ミナトラアでは、樹を止めたままで暮らしを組み替えた。
カムイアオでは、高原の攻め方を緩め、樹の出力を抑え始めている。
ワクミアオでは、祈りの刻をわずかに削り、祈り以外の支え方を試している」
そこで、一度言葉を切った。
「つまり、樹と石の両側で、『背負い方を分け合う』方向へ動き始めた、と見てもよさそうですね」
「構造」だとか「システム」だとかいう言葉は使わない。
代わりに、背負う、分け合う――そういう体感に近い言い回しを選んでいるのが、この人らしいと思った。
「はい」
リティは、まっすぐ上席官を見た。
「ミナトラアで樹を止めなければ、カムイアオの高原延長は今より速く進んでいたはずです。
カムイアオが攻め方を緩めてくれたから、ワクミアオからの雫の増え方も、今後は抑えられる見込みです」
そこで、少し息を継ぐ。
「その代わりに、ワクミアオでは祈り枠をわずかに縮め、祈り以外の支え方を試し始めています。
樹と石と人のあいだで、『どこを軽くして、どこを支えるか』の分け方を少しずつ変えている――というのが、三つの港を続けて見た印象です」
上席官は黙って聞いていた。
机の上では、小さな時計の針が、細かい刻みで時間を進めている。
◇
「記録だけでは、港ごとの『間合い』までは見えません」
やがて、上席官が口を開いた。
「こちらに届くのは、数字と、紙に並べられた言葉です。
どこまで広げたか。どれだけ止めたか。何人、列からこぼれたか」
淡々とした言い方だが、その向こうに、旧港カゲツドウの話を聞いていたときの気配が重なって見えた。
「ただ、その数字の裏にあった息の詰まり方や、足を止めるタイミングまでは、紙の上からは伝わってきません。
そこを少しでも補うために、あなたのような観測の報告を受けているわけです」
視線が、リティから俺へと移る。
「近いうちに、いくつかの港の代表を集めて、感応インフラの運転の見直しについて意見を交わす場を設ける予定です」
上席官は、机の隅の小さな時計を一瞥した。
「正式な連合会議に、直接技師を入れる前例は多くありません。
樹や石の運転については、各港の責任者と、こちらの担当官どうしで決めてきました」
そこで、ほんのわずか声の調子が変わる。
「ですが、今回の黄昏帯の変化については、現場で樹と石に触っている人の声も、少なくとも聞き取りの席には置いておくべきだと考えています」
リティが、小さく息を呑んだ気配が伝わってきた。
「彼は、ミナトラア・カムイアオ・ワクミアオの三港を続けて見ています」
その隣で、彼女はすぐに言葉を継ぐ。
「樹の運転と人の暮らしの『間』を、数値だけでなく体感で把握している技師です」
上席官は、俺を見たまま、静かに頷いた。
「では、まずは聞き取り用の、小さな席を用意しましょう。
正式な連合会議の前に、少人数で、現場の話を聞く場です」
そう言って、手元の紙に短く何かを書きつける。
「場所は、連合本部棟の上階、小会議室のひとつを押さえます。
刻は……」
小さな時計の針と、壁の向こうから微かに聞こえ始めた鐘の音を重ね合わせる。
低い響きが、一定の間隔で数回続いた。
「今から二枠分あとの刻にしましょう。
鐘が次にひと続きに鳴り終わった刻が、あなた方の席です」
上席官は、リティと俺を見た。
「そこで、あなたと、この技師の方に、見てきたことをそのまま話してもらいます」
「そのまま」のところに、わずかな重みが乗った。
「ここまで聞いた話を、そのまま上に出すのはやめましょう――と言ったことがありましたね」
旧港の部屋での会話を思い出しているのだろう。
「今回は、どこまで出すかを、その席で一緒に決めましょう。
紙に書く前に、まず口で整える刻が必要です」
それが、この人なりの「席をひとつ開ける」というやり方なのだと、俺にも分かった。
◇
会話がひと区切りついたところで、塔の鐘がもう一度、低く鳴った。
上席官は机の隅の小さな時計を見て、短く言った。
「次の刻には別の票会議がありますので、今日はここまでにしましょう」
紙束を揃え、椅子から静かに立ち上がる。
「三つの港の報告、ありがとうございました。
次の席で、続きの話を聞きましょう」
リティが深く頭を下げ、俺もそれにならう。
部屋を出ると、さっきと同じ渡り廊下の静けさが戻ってきた。
遠くで、セマフォ塔の腕がまた角度を変えている。
「……あんたの上の人、思ってたより話が通じそうだったな」
廊下を歩きながら、俺はぽつりと言った。
紙の山の上にいるにしては、言葉の端々に、現場の温度を覚えている人間の慎重さがあった。
「『紙の上だけで決めたくない』って、口では言う人です」
リティは、前を向いたまま答える。
「でも、ここは紙の港ですから。
どこまで聞いて、どこまで紙に載せるかは、あの人自身も、いつも天秤にかけています」
そこで、一拍置く。
「……あとは、本当にその席で、どこまで聞いてくれるか、ですね」
リティの声に、少しだけ疲れと期待が混ざっていた。
俺は自分の懐の時計に触れた。
二枠分あとの刻。
あの小さな会議室で、紙に載る前の話をする席が、一つ分だけ開けられた。
そこで、どこまで「止まったあとの暮らし」の話ができるか。
どこまで「背負い方を分け合う」話が通るか。
その行き先は、まだ、針の先のわずかな揺れの中に乗っているだけだった。




