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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第5章 票の街
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第5章1話 設計の街と報告の束

 船が内湾に差しかかったころ、甲板に立っていた俺は、手すり越しに港のかたちをなぞった。


 岸の線が、扇を広げたみたいに滑らかにえぐれている。

 その口のところに、二本の防波堤が突き出していた。片方には見張り台、もう片方には、腕を水平に伸ばした鉄の塔――セマフォが立っている。


 塔の腕が、一定の刻でゆっくり角度を変えていくのが見えた。


 風は、熱くも冷たくもない。


 カムイアオの高原で肺の奥まで押し込まれてきた熱でもなく、ワクミアオの斜面で頬を削っていった冷えでもない。

 胸いっぱいに吸い込んでも、体のどこにも負担がかからない、よく覚えている黄昏の空気だった。


(……戻ってきた感じがする)


 すりガラス越しのような光が、水面と埠頭を一様に照らしている。

 ミナトラアを出たときに「当たり前」だと思っていた空気に、少し遅れて体が追いついていく。


 ワクミアオを発つとき、行き先を決めたのはリティだった。


 樹を止めた港。樹を少し楽にした港。祈りの刻を少し削り始めた港。

 その三つを自分の手でまとめて、ナラシドアに持っていきたい――そう言って、彼女は自分で票と報告の束を作り始めた。


 そのいちばん上には、ワクミアオの石殿施設長から預かった書簡が重ねてある。


 俺はその横で、ただ頷いた。

 樹や石の負担を軽くする話を動かしたいなら、どこかで紙にして、ここを通すしかないことは分かっていたからだ。


「……こういう空気だったな。肩に余計な重さがかからない、黄昏の真ん中の感じ」


 つぶやくと、横で欄干に肘をついていたリティが、ちらりとこちらを見る。


「ナラシドアは、その“感じ”を崩さないように設計された港ですから」


「設計、ね」


「風向きと水路と、埠頭の並べ方。ここでは、それを紙の上で何度も引き直してから土地に写してあります。

 暮らしやすさのぶんだけ、“余白”が少ない港でもありますけど」


 彼女の声には、懐かしさと、少しだけ慎重さが混じっていた。


 船首が波を割って進む向こう、埠頭の列が近づいてくる。


 ミナトラアの港では、樽や箱があちこちに積まれていて、人と荷とレールが互いに遠慮もなく交錯していた。

 ここでは、荷役用の簡易クレーンとレールが、定規を当てて引いた線みたいに並んでいる。


 埠頭の縁から一定の幅ごとに、同じ形の柱。同じ寸法のレール。同じ間隔の足場。

 そこを行き交う影の流れだけが、「生きている港」の証のように動いていた。


(良くも悪くも、整ってる)


 そんな言葉が、自然に浮かんだ。



 船を降りると、埠頭の石畳が足裏に固く返ってきた。


 さっきまで揺れていた感覚が、体の中にまだ残っているのに、足元だけがぴたりと止まる。そのズレが、余計にこの港の“固定された”空気を際立たせている。


 前方には、作業帯が広がっていた。


 荷を積んだ台車が、レールの上を一定の間隔で滑っていく。

 荷を降ろす声も、掛け声も、ミナトラアほど大きくはない。必要なだけの音が、必要なところにだけ散っている印象だった。


「ここが外の帯です。埠頭と作業の刻が集まるところ」


 リティが、仕事に戻ったみたいな調子で説明する。


 視線を上げると、その奥に、同じ高さの建物が格子状に並んでいた。

 倉庫と事務棟らしい灰色の箱が、通りの幅まで揃えて並んでいる。


 その列のさらに奥、一段高くなった石畳のテラスが見えた。


 段差の上には、長方形の建物が肩を並べている。屋根のラインも窓の高さも、ほとんど揃っていた。

 そのうちのひとつ、中央の壁面には、大きな機械式の時計が取り付けられている。


 短い針と長い針が、薄い光の中で静かに進んでいるのが分かった。


「三つに分かれてるんだな」


 俺は、埠頭から官庁帯へ続く坂道を見上げながら言った。


「外側が、さっきの作業帯。その上が倉庫と事務の帯。いちばん奥が、官庁と書庫と記録局です」


 リティの説明に合わせて、俺は足を動かす。


 作業帯を抜けると、車輪の軋みよりも、紙と板の擦れる音が増えてきた。


 倉庫と事務棟が並ぶ通りは、幅も角もきれいに揃っている。


 右を見ても左を見ても、ほとんど同じ形の建物が続くので、自分がどちらを向いているのか、一瞬分からなくなるくらいだ。


「計算して組んだ街って感じだな」


「ええ。ここでは、“どこに何を置いておくか”も、票で決められますから」


 リティは軽く笑った。


 段差の手前まで来たところで、セマフォ塔の腕がまた角度を変えた。


 続いて、官庁帯の奥から、鐘の音がゆっくり流れてくる。

 一定の間隔を挟んで、低い響きが何度か繰り返された。


 俺は反射的に、懐中の時計を取り出す。


 小さな蓋を指で弾いて開くと、針が示している刻と、鐘の間隔がぴたりと合っているのが分かった。


「……ここの刻は、セマフォと鐘と時計で、きっちり揃えられてるな」


 思わず漏らすと、リティが少しだけ肩をすくめる。


「そうしておかないと、紙の上の約束がずれてしまいますから」


 段差を上がると、足元の石畳がわずかに滑らかになった。

 同時に、背後から聞こえていた車輪と声の音が、まるで布を一枚かぶせたみたいに遠くなる。


(上に行くほど、現場の音が削れていく)


 官庁帯は、静かだった。


 人がいないわけではない。

 石畳の上を行き交う影は、それなりの数いる。けれど、足音は抑えられ、声は低く、紙を手にした人たちの視線は皆、どこか遠くの一点を見ている。


 港は動いているのに、港を決めている場所は、こんなに静かなんだな――そんな感想が、喉の奥で転がった。



「記録局は、あちらです」


 リティが指さした先に、淡い色の看板が掛かった建物があった。


 港湾連合本部の横腹にくっつくようにして建っている、少し低めの棟だ。

 外から見ると、窓も扉も素っ気ない。ただ、表札の下に、小さく「記録局」と刻まれている。


 扉をくぐった瞬間、紙の匂いが鼻をかすめた。


 乾いた板と、長い時間をかけて積もったインクの気配。


 廊下の両側には、棚がびっしりと並んでいた。

 その棚には、箱が隙間なく押し込まれている。箱の側面には、港の名前と数字を書いた札が張り付けられていた。


 ミナトラア。カムイアオ。ワクミアオ。

 見慣れない港の名も、そのあいだにいくつも混じっている。


 曲がり角をひとつ折れるたびに、箱の列が視界を埋めた。


 肩の高さまで積まれている列もあれば、頭の上近くまで積み上がっている列もある。

 箱と箱の隙間に、封緘紙で閉じられた報告書の束が差し込まれている場所もあった。


「……紙の海だな」


 思わずつぶやくと、リティが横目で俺を見る。


「現場から上がってきた票や報告書は、いったんここを通ります。

 港ひとつぶんの暮らしを、この箱ひとつぶんに詰めてるわけです」


 言われて、俺は近くの箱のラベルに目を落とした。


 ミナトラア、と記された箱の側面には、古い封緘紙の切れ端と、新しい印影が幾つも重なっている。

 カムイアオの箱は、その上に新しい束が乗っていて、封緘紙がまだ傷一つなく光っていた。


 ワクミアオ、と書かれた箱の上には、つい最近置かれたらしい厚い束が一つ。

 封緘紙に押された印は、あの港の石殿で見た印と似ていた。ワクミアオからの「通常の報告」が、ほぼ同じ時期にここへ届いたのだろう。


「……あっちはあっちで、ちゃんと届いてるんだな」


「はい。私たちが見た枠の揺れも、あの港のやり方で票に載せられているはずです」


 リティの声が、少しだけ柔らかくなる。


 彼女の腕の中には、別の包みが抱えられていた。


 ミナトラア、カムイアオ、ワクミアオ――三つの港の報告が、一組の束になっている。

 それぞれの港からもらった票と、自分で書き足した観測のメモが、規約局式の順番に並べ直されている。


 表紙代わりの紙には、「三港間の比較報告」と、リティの署名が、一枚重ねて封緘紙でとめてあった。


「窓口は、こちらです」


 廊下の突き当たりに、小さな窓口があった。


 木枠の向こうには、票の束を積み上げた机と、その向こうに座る人物の影。


 リティが包みを差し出すと、窓口の人物が顔を上げた。

 淡い色の衣をまとった、まだ若い職員らしい。


「リティ……さん?」


 名前を読み上げる声に、わずかな驚きが混じる。


「はい。ミナトラア・カムイアオ・ワクミアオ三港からの報告をお持ちしました。

 現地で見た変化も、付記してあります」


 リティは、規約局式の言い回しで淡々と告げた。


 職員は包みを受け取ると、封緘紙の印を確認し、端を慎重に切る。


「久しぶりですね。あなたのまとめを、ここで受け取るのは」


 その言葉に、リティのまつげがほんの少しだけ震えた。


「……こちらにいた頃とは、席が変わりましたから」


「ええ。今は現場側から、ですね」


 職員は軽く頷く。


「三港ぶん、続きものとして読めそうです。

 港ごとの票はそれぞれの箱にも分けますが、この束はひとまとめで、規約局の上席官にも通しておきましょう」


「……上席官に、ですか」


「はい。あの方なら、紙の上だけじゃなくて、現場から続いてきた流れとして扱ってくれますから」


 そう言ってから、職員は少し声を落とした。


「ミナトラアの件のときも、あなたの報告を最後まで聞いてくれていたのは、あの上席官でしたよ」


 リティの視線が、無意識に奥の階段のほうへ向いた。


 俺はその横顔を盗み見る。


 懐かしさと、警戒と、少しの緊張。

 その三つが、彼女の表情の中で微妙な割合で混ざり合っているのが見て取れた。


「祈りの刻を一部短くする試みについても、ここで初めて紙になりましたね」


 職員は、前書きの紙をぱらりとめくりながら言う。


「ナラシドアの上席官なら、きっと目を通したがるでしょう。

 三つの港の“減らし方”を並べて見ることになりますから」


「お願いします」


 リティは深く頭を下げた。


 職員は、包みを机の横の箱にそっと置いた。


 箱の側面には、新しく「ミナトラア・カムイアオ・ワクミアオ」と書かれた札が貼られている。

 その文字が、どこか冷たくもあり、心強くもあり――そんな矛盾した感覚が、胸の中に同時に立ち上がる。


(この箱ひとつ分が、一つの港で暮らしてる何千人分だ)


 港ひとつぶんの暮らしが、ここでは紙束と箱で置き換えられている。


 紙の海の上で、みんなの時間が並べ替えられていく。


「前書きも、この束のまま上席官に回します」


 職員が、リティの書いた紙を軽く持ち上げて見せる。


「現場の言葉として、誰が書いたか分かる形で」


「……ありがとうございます」


 リティは小さく息をついた。


 その姿は、ミナトラアやカムイアオで見た彼女とも、ワクミアオの石殿で石守に向き合っていたときの彼女とも、少し違って見えた。


 ここでは、彼女は「戻ってきた誰か」であり、「外から紙を運んできた誰か」でもあるのだろう。



 記録局を出ると、官庁帯の空気がまた静かに包み込んできた。


 遠くで、セマフォ塔の腕が別の角度に変わるのが見える。

同じ刻を示すように、どこかで鐘が短く鳴った。


『こちらは、願いも不安も、いったん紙に並べてから扱う港なんですねぇ』


 胸の奥で、ルーメンの声が柔らかく転がった。


『紙の上に並べておけば、どこに何を置いたか、すぐ見えるからね』


 ノクトが、少しだけ冷めた調子で続ける。


『紙の上なら、どんな線も引き直せる。

 その分、“切られてる感覚”は、港の端っこまで届きにくいけど』


 俺は官庁帯の建物群を見回した。


 ここを通さないと、樹や石の負担を軽くする話も動かない。

 それは分かっている。


 けれど、足元の石畳に残っている作業帯の音の名残りを思い出すと、この静けさの上だけで全部を決められるのは、どこか落ち着かなかった。


「ここを通さないと、支え方を変える話も動かない。……でも、この石畳の上だけで刻を決められるのは、ちょっと息苦しいな」


 口に出すと、隣を歩いていたリティが、小さく息を吐いた。


「だからこそ、現場で見たままを運ぶのが、今の私の仕事なんでしょうね」


 彼女は、胸元の帳面にそっと触れる。


 ミナトラアで見た、樹の止まった港。

 カムイアオで感じた、高原の圧の揺れ。

 ワクミアオで書き留めた、祈りの枠と、その外にこぼれた人たち。


 その全部が、今は紙になって、この港の箱の一つに納まっている。


『紙に載せた分だけ、話せる場所も増えるといいんですけどねぇ』


 ルーメンの声が、少しだけ明るくなる。


『紙がない場所でも、話はできるさ』


 ノクトが笑う。


『ただ、ここで線を引くやつらに届くかどうかは、あんたたち次第だけど』


「……線を引き直すんじゃなくて、線をどう見るか、ですかね」


 リティがぽつりと言った。


 俺はその横顔を見ながら、自分の時計をもう一度、掌の中で転がした。


 針の進み方は、この港の塔の鐘と、確かに揃っている。


 けれど、その刻の中で、何をどこに置くかまでは、まだ紙の上に書かれていない。


 それを書き足すために、俺たちはここまで来たのだと思うことにした。


 ナラシドアの静かな石畳の上で、紙の港の空気を胸に吸い込みながら。



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