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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第4章 列の隙間
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第4章5話 去る祈りと新しい手

 祈りの枠を少し変える試みが始まってから、幕の模様がいくつか進んだ。


 霧にかすんだ石殿の前で、いつものように列が蛇行している。


 違うのは、そのうちの一つの枠――臨時の札が吊るされた刻だけだ。



 幕の石の線が梁に近づき、広場の光が一段濃くなっていく。


 石殿の軒下の灯りが、石の縁をくっきり浮かび上がらせたころ、石守が入口の係にそっと合図を送った。


 石の線が梁に重なる少し手前で、係の声が上がる。


「この刻は、ここまでとします。札をお持ちの方は、一度こちらへ」


 区切りの言葉が、いつもより一呼吸分だけ早い。


 札を握っていた人たちが、戸惑いながらも足を止める。石の前に進みかけていた身体を、半歩ぶん引き戻すような動き。


 その代わりに、広場の端――冷却路の蓋が集まっているあたりに、世話役たちが手招きしていた。


「ここを少し開けるのを、手伝っていただけませんか。石さまの冷えがよく通るように」


 渡されたのは、短い柄のついた金属の道具と、硬い刷毛だ。


 札を持つ人たちは、一瞬互いの顔を見合わせてから、ぎこちなく膝を折り、石の蓋の縁に取り付いた。


 蓋の隙間にこびりついた塵を掻き出す音が、霧の中にこつこつと響く。


「……思ったより、冷えるんだな、ここ」


「ずっと立ってるより、こっちのほうが、体は楽かもしれないよ」


 石殿のほうを見る代わりに、足元の仕事を見つめる視線が増える。


 別の枠では、枠を終えた人たちが、石殿の掃除や票の整理を手伝っていた。


 広場の端に小さな板を並べ、印が薄くなったところをなぞり直す。札の束を数え、次の枠で配り間違いがないように、順番を整える。


 列の中で交わされる声にも、少しだけ違う響きが混じり始めていた。


「さっきの刻で、冷却路を開けてきたんだって?」


「うん。ここから港のほうへ冷えが流れていくって、初めて知ったよ」


「うちの坂のほうにも、ああいう蓋があったかな……」


 祈りの言葉ではない話題が、ささやきの隙間に紛れ込む。


 それでも、「石さま」「枠」「札」という言葉が消えたわけではない。


 ただ、「祈れなかったら全てを失う」という張りつめ方だけが、ほんのわずか、角を丸めたように感じられた。



 石の前に立つ許しを、私はもう一度だけもらった。


 石殿の内側。台座に載せられたワクミアオの石は、相変わらず深い冷たさを保っている。


 ただ、その冷え方が、どこか違っていた。


「……触れても、構いませんか」


 私がそう尋ねると、石守は静かに頷いた。


「短く、お願いします」


 私は手袋を外し、石の表面に、そっと指先を添えた。


 最初に触れた瞬間の冷たさは、前と同じだ。皮膚の上をすべるような鋭さではなく、じわりと内側へ沈んでいく種類の冷え。


 けれど、そのあとが違う。


 前は、表面近くの冷たさが何層にも重なって、指の腹にまとわりついてきた。冷えが剥がれず、いつまでもそこに居続ける感じだった。


 今は、その一番上の層が、一枚ぶん剥がれたように、すっと引いていく。


 代わりに、石の奥から戻ってくる冷えが、まっすぐこちらへ届いてきた。


(……素直になってる)


 そう感じたとき、胸の奥でルーメンの声がした。


『前は、冷たさが層になってこびりついてましたけど……今は一枚ぶん剥がれた感じですねぇ』


 穏やかな、けれどはっきりした言い方だ。


 冷えのきしみが、前よりも遠くに感じる。全体が同じ重さになったわけではないのに、「これなら支えられる範囲に戻りつつある」と石の側も判断している――そんな手応えが、指先越しに伝わってきた。


 石守には、その内側の変化までは届かない。


 けれど、彼も何かを感じ取ったのか、私の手の少し横に、自分の掌をそっと添えた。


「最近、冷えの残り方が少し和らいだ気がします」


 小さく呟く。


「以前は、祈りの刻が続いたあと、ここから先がずっときしんでいたのですが」


 彼は、石を撫でながら続けた。


「今は、ひと枠分の冷えが引くのが、前より早い」


 その言葉に、私の胸の内側の緊張も、わずかにほどけた。


(気づいているなら、まだ当分はやれる)


 口には出さず、心の中でそうまとめてしまう自分に、少しだけ苦笑した。


 私は、そっと手を離した。



 祈り場を出るころには、幕の波模様が梁を越え、点の列の帯が少しずつ下りてきていた。


 広場の端で、冷却路の蓋を戻していた若い人が、世話役に何かを話しかけている。


「……あの短くなった刻のおかげで、体が少し楽でした」


 その一言は、石殿の外にいる私の位置まで、かすかに届いた。


「そうかい。石さまの冷えにも、あんたの体にも、いいならそれが一番だ」


 世話役の笑い声が、霧の中に溶ける。


 石殿を離れる私たちのほうへ、軽く会釈をしていく影が、何人かいた。


 石殿の掃除をしていた中年の女の人。列の踊り場で話した年配の人。それから、冷却路を一緒に開けていた若い影。


 彼らの視線は、まっすぐこちらへ向けられてはいない。あくまで、「港の仕事を手伝った旅人」に対する礼のような距離感だ。


 一方で、こちらを一度だけ見て、すぐに視線を外してしまう人たちもいる。


 私たちに近づかないまま、祈りの列へ戻っていく足取り。


(“うちの信仰に口を出していった外の人”)


 そういう言葉が、どこかで囁かれていても不思議ではない。


 隣を歩くユウキは、その視線を正面から受け止めながら、肩をすくめて見せた。


「まあ、好かれに来たわけじゃないしな」


 その言い方は、いつも通りのぶっきらぼうな調子だった。


 けれど、石殿のほうへ一度だけ向けられた彼の横顔には、ほんの少しだけ、安堵の色が混じっているように見えた。



 石守の間で、私は報告書の最終確認をしていた。


 机の上には、ワクミアオの港の記録と、カムイアオの高原の票の写しが並んでいる。


 紙の上に並んだ記号を見比べると、樹と石が互いに重り合っている様子が、静かな線となって浮かび上がってくる。


 ――樹を止めた港。

 ――樹を少し楽にした港。

 ――祈りを少し薄めた港。


 辿ってきた場所を、私は心の中で並べた。


 それぞれの港で、樹や石が受け止めていた重さ。その重さをどれだけ減らしても、暮らしがすぐには崩れなかった範囲。


(この記録が、“どこでどれだけ減らしてもいい重さ”を探すための地図になるかもしれない)


 そんな考えが、紙の上を見つめているうちに、自然と浮かんでくる。


 少なくとも――


(“全部を祈りに任せなくてもいい港”が、一つ増えた)


 その事実だけは、報告書の中に残しておきたかった。


 扉を叩く音がした。


「入っても?」


 石守の声だ。


「どうぞ」


 私が返すと、彼は一通の封を持って部屋に入ってきた。


 しっかりと封緘紙が貼られた、それなりの厚みのある封筒。


「港湾連合本部、ナラシドアの石担当と記録局宛ての手紙です」


 石守は、それを私に差し出した。


「こちらで始めた小さな試みについて、連合側の目でも見ておいてほしい、と書きました」


 封緘紙には、ワクミアオの印が押されている。


「この港のやり方を、正しいと主張したいわけではありません。ただ、こういう“少しだけ減らす”やり方もあると、どこかで知っていてもらいたくて」


 石守の言葉は、静かだった。


「この刻を削ることが、誰かの生き方を軽くする場合もある、ということを」


「お預かりします」


 私は、両手でその封筒を受け取った。


 報告書の一番上に、ナラシドア行きの書状として、その存在を書き添える。


 ――ワクミアオ石殿より、港湾連合本部ナラシドア宛て。

 ――祈りの刻を一部短くする試みについて、観測と助言を求む。


「あなたの記録も、一緒に届くのでしょう?」


 石守が尋ねる。


「はい。枠の変化と、石の冷えの戻り方。それから、人々の反応の揺れを、できるだけそのまま書いたつもりです」


「歓迎も、警戒も?」


「ええ。どちらも残しておかないと、あとで重さを測れなくなりますから」


 石守は、小さく笑った。


「あなた方が去ったあと、この港がどう変わるかは、私たちの仕事です」


 彼は、石殿の方角に目を向けた。


「……ただ、その途中経過を、どこかで見ていてくれる目があると思うと、少しだけ心強い」


 それは、祈りではなく、確認の言葉に聞こえた。



 連絡船は、すり鉢の底の港から、静かに離れていった。


甲板から見下ろすと、ワクミアオの斜面が、石殿を中心にゆっくり遠ざかっていく。


 石殿の幕は、ここから見ると細い縦の線にしか見えない。それでも、石の線や波模様が梁をかすめる動きが、かろうじて分かる。


 港の灯りが、霧の向こうで点々と揺れている。


 その中に、石殿の灯りがひときわ安定した光として、ぽつんと残っていた。


『樹を止めて、樹をちょっと楽させて、今度は石の祈りを薄めた』


 ノクトの声が、耳の奥でからかうように言った。


『次はどこの重さをいじるつもり?』


「いじりに行くんじゃない」


 船縁にもたれながら、ユウキが答える。


「話ができる場所を、もう少し増やしに行くだけだ」


 その視線は、すでに次の行き先――ナラシドアのほうへ向いているようだった。


『ナラシドアは、きっとまた別の抱え方をしてますからねぇ』


 ルーメンが、柔らかく続ける。


『あちらは連合の真ん中ですから。“ここが基準だ”と思われている重さも、きっとあるはずです』


「その違いを書き残すのが、今の私の仕事です」


 私は、自分の帳面に指を添えた。


「“減らしてもいい負荷”を、いつか誰かが選べるように」


 樹の根にかかる重さ。石の冷えに集まる重さ。祈りにかかる重さ。


 それぞれの港で見てきたものが、私の中で一つの線になっていく。


 この星全体の、目には見えない拍のようなもの。


 それを一気に変えることはできない。けれど、ほんの少しだけ、刻の打ち方をずらすことはできるかもしれない。


 港の灯りが、霧の向こうに沈んでいく。


 私は帳面を開き、ワクミアオの章を閉じるための最後の一行を書き足した。


 ――祈りは残る。ただ、その量を少し調整することで、石と人の冷え方が変わり始めている。


 その文字が乾くころ、連絡船はすでに、ナラシドアへ向かう海の線の上を、静かに進んでいた。

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