第4章5話 去る祈りと新しい手
祈りの枠を少し変える試みが始まってから、幕の模様がいくつか進んだ。
霧にかすんだ石殿の前で、いつものように列が蛇行している。
違うのは、そのうちの一つの枠――臨時の札が吊るされた刻だけだ。
◇
幕の石の線が梁に近づき、広場の光が一段濃くなっていく。
石殿の軒下の灯りが、石の縁をくっきり浮かび上がらせたころ、石守が入口の係にそっと合図を送った。
石の線が梁に重なる少し手前で、係の声が上がる。
「この刻は、ここまでとします。札をお持ちの方は、一度こちらへ」
区切りの言葉が、いつもより一呼吸分だけ早い。
札を握っていた人たちが、戸惑いながらも足を止める。石の前に進みかけていた身体を、半歩ぶん引き戻すような動き。
その代わりに、広場の端――冷却路の蓋が集まっているあたりに、世話役たちが手招きしていた。
「ここを少し開けるのを、手伝っていただけませんか。石さまの冷えがよく通るように」
渡されたのは、短い柄のついた金属の道具と、硬い刷毛だ。
札を持つ人たちは、一瞬互いの顔を見合わせてから、ぎこちなく膝を折り、石の蓋の縁に取り付いた。
蓋の隙間にこびりついた塵を掻き出す音が、霧の中にこつこつと響く。
「……思ったより、冷えるんだな、ここ」
「ずっと立ってるより、こっちのほうが、体は楽かもしれないよ」
石殿のほうを見る代わりに、足元の仕事を見つめる視線が増える。
別の枠では、枠を終えた人たちが、石殿の掃除や票の整理を手伝っていた。
広場の端に小さな板を並べ、印が薄くなったところをなぞり直す。札の束を数え、次の枠で配り間違いがないように、順番を整える。
列の中で交わされる声にも、少しだけ違う響きが混じり始めていた。
「さっきの刻で、冷却路を開けてきたんだって?」
「うん。ここから港のほうへ冷えが流れていくって、初めて知ったよ」
「うちの坂のほうにも、ああいう蓋があったかな……」
祈りの言葉ではない話題が、ささやきの隙間に紛れ込む。
それでも、「石さま」「枠」「札」という言葉が消えたわけではない。
ただ、「祈れなかったら全てを失う」という張りつめ方だけが、ほんのわずか、角を丸めたように感じられた。
◇
石の前に立つ許しを、私はもう一度だけもらった。
石殿の内側。台座に載せられたワクミアオの石は、相変わらず深い冷たさを保っている。
ただ、その冷え方が、どこか違っていた。
「……触れても、構いませんか」
私がそう尋ねると、石守は静かに頷いた。
「短く、お願いします」
私は手袋を外し、石の表面に、そっと指先を添えた。
最初に触れた瞬間の冷たさは、前と同じだ。皮膚の上をすべるような鋭さではなく、じわりと内側へ沈んでいく種類の冷え。
けれど、そのあとが違う。
前は、表面近くの冷たさが何層にも重なって、指の腹にまとわりついてきた。冷えが剥がれず、いつまでもそこに居続ける感じだった。
今は、その一番上の層が、一枚ぶん剥がれたように、すっと引いていく。
代わりに、石の奥から戻ってくる冷えが、まっすぐこちらへ届いてきた。
(……素直になってる)
そう感じたとき、胸の奥でルーメンの声がした。
『前は、冷たさが層になってこびりついてましたけど……今は一枚ぶん剥がれた感じですねぇ』
穏やかな、けれどはっきりした言い方だ。
冷えのきしみが、前よりも遠くに感じる。全体が同じ重さになったわけではないのに、「これなら支えられる範囲に戻りつつある」と石の側も判断している――そんな手応えが、指先越しに伝わってきた。
石守には、その内側の変化までは届かない。
けれど、彼も何かを感じ取ったのか、私の手の少し横に、自分の掌をそっと添えた。
「最近、冷えの残り方が少し和らいだ気がします」
小さく呟く。
「以前は、祈りの刻が続いたあと、ここから先がずっときしんでいたのですが」
彼は、石を撫でながら続けた。
「今は、ひと枠分の冷えが引くのが、前より早い」
その言葉に、私の胸の内側の緊張も、わずかにほどけた。
(気づいているなら、まだ当分はやれる)
口には出さず、心の中でそうまとめてしまう自分に、少しだけ苦笑した。
私は、そっと手を離した。
◇
祈り場を出るころには、幕の波模様が梁を越え、点の列の帯が少しずつ下りてきていた。
広場の端で、冷却路の蓋を戻していた若い人が、世話役に何かを話しかけている。
「……あの短くなった刻のおかげで、体が少し楽でした」
その一言は、石殿の外にいる私の位置まで、かすかに届いた。
「そうかい。石さまの冷えにも、あんたの体にも、いいならそれが一番だ」
世話役の笑い声が、霧の中に溶ける。
石殿を離れる私たちのほうへ、軽く会釈をしていく影が、何人かいた。
石殿の掃除をしていた中年の女の人。列の踊り場で話した年配の人。それから、冷却路を一緒に開けていた若い影。
彼らの視線は、まっすぐこちらへ向けられてはいない。あくまで、「港の仕事を手伝った旅人」に対する礼のような距離感だ。
一方で、こちらを一度だけ見て、すぐに視線を外してしまう人たちもいる。
私たちに近づかないまま、祈りの列へ戻っていく足取り。
(“うちの信仰に口を出していった外の人”)
そういう言葉が、どこかで囁かれていても不思議ではない。
隣を歩くユウキは、その視線を正面から受け止めながら、肩をすくめて見せた。
「まあ、好かれに来たわけじゃないしな」
その言い方は、いつも通りのぶっきらぼうな調子だった。
けれど、石殿のほうへ一度だけ向けられた彼の横顔には、ほんの少しだけ、安堵の色が混じっているように見えた。
◇
石守の間で、私は報告書の最終確認をしていた。
机の上には、ワクミアオの港の記録と、カムイアオの高原の票の写しが並んでいる。
紙の上に並んだ記号を見比べると、樹と石が互いに重り合っている様子が、静かな線となって浮かび上がってくる。
――樹を止めた港。
――樹を少し楽にした港。
――祈りを少し薄めた港。
辿ってきた場所を、私は心の中で並べた。
それぞれの港で、樹や石が受け止めていた重さ。その重さをどれだけ減らしても、暮らしがすぐには崩れなかった範囲。
(この記録が、“どこでどれだけ減らしてもいい重さ”を探すための地図になるかもしれない)
そんな考えが、紙の上を見つめているうちに、自然と浮かんでくる。
少なくとも――
(“全部を祈りに任せなくてもいい港”が、一つ増えた)
その事実だけは、報告書の中に残しておきたかった。
扉を叩く音がした。
「入っても?」
石守の声だ。
「どうぞ」
私が返すと、彼は一通の封を持って部屋に入ってきた。
しっかりと封緘紙が貼られた、それなりの厚みのある封筒。
「港湾連合本部、ナラシドアの石担当と記録局宛ての手紙です」
石守は、それを私に差し出した。
「こちらで始めた小さな試みについて、連合側の目でも見ておいてほしい、と書きました」
封緘紙には、ワクミアオの印が押されている。
「この港のやり方を、正しいと主張したいわけではありません。ただ、こういう“少しだけ減らす”やり方もあると、どこかで知っていてもらいたくて」
石守の言葉は、静かだった。
「この刻を削ることが、誰かの生き方を軽くする場合もある、ということを」
「お預かりします」
私は、両手でその封筒を受け取った。
報告書の一番上に、ナラシドア行きの書状として、その存在を書き添える。
――ワクミアオ石殿より、港湾連合本部ナラシドア宛て。
――祈りの刻を一部短くする試みについて、観測と助言を求む。
「あなたの記録も、一緒に届くのでしょう?」
石守が尋ねる。
「はい。枠の変化と、石の冷えの戻り方。それから、人々の反応の揺れを、できるだけそのまま書いたつもりです」
「歓迎も、警戒も?」
「ええ。どちらも残しておかないと、あとで重さを測れなくなりますから」
石守は、小さく笑った。
「あなた方が去ったあと、この港がどう変わるかは、私たちの仕事です」
彼は、石殿の方角に目を向けた。
「……ただ、その途中経過を、どこかで見ていてくれる目があると思うと、少しだけ心強い」
それは、祈りではなく、確認の言葉に聞こえた。
◇
連絡船は、すり鉢の底の港から、静かに離れていった。
甲板から見下ろすと、ワクミアオの斜面が、石殿を中心にゆっくり遠ざかっていく。
石殿の幕は、ここから見ると細い縦の線にしか見えない。それでも、石の線や波模様が梁をかすめる動きが、かろうじて分かる。
港の灯りが、霧の向こうで点々と揺れている。
その中に、石殿の灯りがひときわ安定した光として、ぽつんと残っていた。
『樹を止めて、樹をちょっと楽させて、今度は石の祈りを薄めた』
ノクトの声が、耳の奥でからかうように言った。
『次はどこの重さをいじるつもり?』
「いじりに行くんじゃない」
船縁にもたれながら、ユウキが答える。
「話ができる場所を、もう少し増やしに行くだけだ」
その視線は、すでに次の行き先――ナラシドアのほうへ向いているようだった。
『ナラシドアは、きっとまた別の抱え方をしてますからねぇ』
ルーメンが、柔らかく続ける。
『あちらは連合の真ん中ですから。“ここが基準だ”と思われている重さも、きっとあるはずです』
「その違いを書き残すのが、今の私の仕事です」
私は、自分の帳面に指を添えた。
「“減らしてもいい負荷”を、いつか誰かが選べるように」
樹の根にかかる重さ。石の冷えに集まる重さ。祈りにかかる重さ。
それぞれの港で見てきたものが、私の中で一つの線になっていく。
この星全体の、目には見えない拍のようなもの。
それを一気に変えることはできない。けれど、ほんの少しだけ、刻の打ち方をずらすことはできるかもしれない。
港の灯りが、霧の向こうに沈んでいく。
私は帳面を開き、ワクミアオの章を閉じるための最後の一行を書き足した。
――祈りは残る。ただ、その量を少し調整することで、石と人の冷え方が変わり始めている。
その文字が乾くころ、連絡船はすでに、ナラシドアへ向かう海の線の上を、静かに進んでいた。




