第4章4話 枠の削減と緩める計画
幕の波模様が梁を越え、次の点の帯が下りてくるあいだに、広場の冷え方が、ほんの少しだけ変わった。
それは、外の風のせいじゃない。
石殿の前に立ったとき、皮膚の下を伝ってくる冷たさが、前よりも細く、固くなっているのが分かる。冷却路から上がる白い息と、石の台座のまわりにまとわりついた冷えが、同じところで押し合って、張りつめている感じだ。
「……一度、離れるか」
俺はリティに目で合図した。
祈りの枠と枠のあいだ。幕の模様が梁から少し外れて、石殿の灯りが控えめになる短い刻。斜面の途中にある細い横道に、俺たちは足を向けた。
列から外れたその道には、人影はない。石壁と家の壁に挟まれた、冷えの通り道みたいな場所だ。
そこで足を止めると、胸の内側で、静かな震えが立ち上がる。
『……ヴァルさん』
ルーメンの声が、黄昏の中で柔らかく響いた。
『冷たさをここまで詰めこみっぱなしにすると、外から埋めても追いつきませんよ』
彼女の言葉と一緒に、石殿のほうから伸びてくる冷えが、内側からきしむ感触を帯びる。
『“したい”も“してほしい”も、ここまで一か所に重ねたら、そりゃきしむさ』
ノクトが、少し投げやりな声で続けた。
『樹のときだってそうだったろ。全部を一本の根に流してたから、あんたが抜いたとき、あれだけ一気に揺れた』
「……樹のときと似てるな」
俺は石殿の影を見やりながら言った。
「全部をここで受け止めさせてるから、逃げ場がない」
カムイアオの高原で、樹の熱が詰まりかけていたときのことを思い出す。あのときも、導管を少し絞っただけで、町の空気が一気に変わった。
ここは石だ。熱を抜く側だ。なのに、その冷たさが、今は自分の内側に向かって固まっている。
リティは、腕に抱えた帳面を胸に寄せたまま、黙って冷えの方向を見ていた。
「……話すしかないですね」
短く息を吐いて、リティが言う。
「石守さまに。ここだけの話じゃ済まないことも含めて」
『橋は、あなたのほうがかけやすいでしょうね』
ルーメンが言う。
『こちらの港の票と連合の票、両方を見てきたのは、あなたですから』
「分かっています」
リティは小さく頷いた。
俺も、懐から黄昏時計を取り出す。金属の蓋を押し上げると、細い針が静かに時を刻んでいた。
幕が今の位置から次の帯へ動くまで、その針がどれだけ進むのか。ここへ来てから何度も見てきた動きだ。
「行こう」
蓋を閉じて、俺は石殿のほうへ歩き出した。
◇
石殿の脇にある小さな間に、俺たちは通された。
今日は、石守だけでなく、祈り場の世話役と、列の常連らしい面々が何人か座っていた。壁際の棚には、祈り枠の管理票がいつも通り重ねられている。
ただ、今日の板の端には、細かな刻み目がいくつか増えている。臨時の札に合わせて足した印だろう。
「お時間を取っていただいて、ありがとうございます」
リティが深く頭を下げる。
石守は、静かな目でこちらを見た。
「こちらこそ。あのあとも、列や枠を見て回ってくださったそうですね」
「ええ。幕の模様と、札と、人の顔を」
リティは帳面を開きながら答えた。
「まずは、港湾連合のほうの様子からお話しさせてください」
その声が、張りつめた冷えの上にそっと重なる。
「カムイアオの高原では、樹に無理をさせない運転に、少しずつ切り替わり始めています。高原を押し広げる刻を、少し減らす方向です」
石守の眉が、わずかに動く。
「その結果、港湾連合の中でも、“石の雫の出庫を前と同じ傾きで増やし続けるのはやめよう”という話が出ています」
「ここから出ていく雫を、減らすと?」
「“前と同じ増やし方”はしなくて済む、という意味です。樹が足を緩めれば、石に頼りきらなくてもいい場面も増えます」
リティは、いくつかの数字を指先でなぞりながら続けた。
「だからこそ、ここだけが冷たさを抱え込む形から、少し軽くする案を、一緒に探したいんです」
部屋の空気が、わずかに揺れた。
世話役の一人が、膝の上で手を組み直す。列の常連と思しき男が、口をつぐんだまま石殿のほうへ目を向ける。
「あなたが、人の居場所を守ろうとして枠を増やしてきたことは、票と列を見れば分かります」
リティの視線が、棚の管理票へ向かった。
「枠を増やしたことで、“ここしか居場所がない”人たちが、列に戻ってこられたことも」
石守は、短く目を閉じた。
「……それでも、と言うのですね」
「はい」
責める調子ではなく、同じ重さを見てしまった者同士の声だった。
「そのために、石も、ここに並ぶ人たちも、冷えた刻を削られています。祈りの枠が増えれば増えるほど、ここにいないといけない時間が増えていく」
「祈りの刻を減らせとは、とても言えません」
石守の声には、迷いがはっきり乗っていた。
「あそこに立っている時間しか拠り所がない方も多いのです。枠を少しでも削ったと聞いたら、“見放された”と思う人もいるでしょう」
列に並ぶ人たちの顔は、俺も見てきた。
枠の中にいるあいだだけ、支えられている表情をしていた影たち。そこから外れた瞬間、足元の石段だけに視線を落とすしかなくなる背中。
(この人は、それを全部見た上で、枠を増やしてきたんだ)
そう思うと、「減らしましょう」とは簡単に言えない。
けれど――
「……だから、全部を一度に変えろとは言いません」
俺は、時計の蓋を開きながら口を開いた。
「ただ、ほんの少しだけ、祈りの枠から刻を分けてもらえないかと、そういう話です」
視線が、こちらに向く。
石守も、世話役も、常連も。何人分もの目が、一斉に俺を測ってきた。
「祈りをなくせって言ってるんじゃない」
俺は先に、その言葉を置いた。
「全部を祈りが背負う形から、ほんの少しだけ降ろせないかって話だ」
時計の針は、細かく震えながら進んでいる。
「さっき、石の線が梁にかかってから、波の帯に変わるまでを測ってみました」
俺は、針が指した位置を思い出しながら続けた。
「一枠が、だいたい“十数呼吸”ぶん続いてる。ここから“ひと呼吸”だけ短くするところから、試せませんか」
「ひと呼吸……」
世話役の一人が、息を吸って吐くふりをした。
「そのぶんを、どうするのです」
石守が問う。
「祈らない時間にするのですか」
「祈り以外の支えに回す時間にするんです」
俺は、冷却路のほうを指さす。
「たとえば、石殿のまわりの冷却路を掃除する刻を、枠の合間に挟む。列に並ぶ人と一緒に、詰まりかけているところを掘り返す」
「あるいは、票の配り方を見直す話し合いの刻にする」とリティが継いだ。
「枠の中に立てない人のことを、列の外で一度だけ確認する刻にする」
俺は、言葉を少しだけ重くする。
「石が中から割れたら、この広場ごと消えます。列も、幕も、全部まとめて」
石殿の奥から伝わってくるきしみが、喉を通り抜けた。
「それを止めたいから、外から口を出してる。……嫌われるのは分かってます」
◇
最初に声を上げたのは、列の常連らしい男だった。
「外から来た技師に、この港の暮らしが分かるんですか」
その声には怒りよりも、怖さが混じっていた。
「祈りの刻を削れって、それは信じる気持ちを薄めろってことじゃないんですか」
別の女の人が続ける。
「石の光が弱くなったら、その責任を誰が取るんです」
言葉が重なりかけたところで、石守が手を軽く上げた。
「順番に」
それだけで、声が一度静まる。ここでも、彼は「枠」を守っている。
男が、改めて俺をにらんだ。
「……あなたは、この港のことをどれだけ見てきたんですか」
彼の質問は「よそ者である」という事実を確かめようとするものだった。
「ここに来てからの日数はまだわずかだ。全部を知っているわけじゃない」
俺は正直に言った。
「ただ、高原で熱と冷えがせめぎあっている場所を、別の港で見てきた。そのときに少しだけ拍を緩めることで、町の空気がどう変わるかを知った」
室内の空気が、少しざわついた。
「それでも、あそこで見たことを、ここで何も言わないでいるほうが、俺には性に合わない」
カムイアオの高原に張りついていた熱。導管に溜まりかけていた圧力。そこから少しだけ逃がしたとき、町の空気がどう変わったか。
「樹も石も、決して壊れないわけじゃない。限界を越えたら、どこかで割れる。その前に、持ち方を少し変えたほうがいいんじゃないか、ってだけの話です」
「信仰を薄めたいんじゃないのよ」
リティが静かに言葉を継いだ。
「“祈りに縛られている時間”をどう扱うか、あとで説明できるようにしたいだけです。ここにいる人たちのために」
「縛られている」という言い方に、数人の眉がぴくりと動いた。
それでも、誰もすぐには否定しなかった。自分の足元を一度見たからかもしれない。
◇
石守は、しばらく黙っていた。
石殿の奥から伝わってくる冷えと、ここにいる人たちの視線と、その両方を秤にかけているようだった。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「……全部は、変えられません」
その一言に、常連たちの肩が少しだけ下がる。安堵と落胆が混ざった動きだ。
「祈りの枠を大きく削ることは、今はできません。先ほども申し上げた通り、あそこに立っている時間しか拠り所がない方が、多すぎる」
そこで言葉を切り、続けた。
「でも、あの列の一部からなら、“試してみる”と言えるかもしれない」
「一部?」
リティが問い返す。
「臨時の札で増やした枠のうち、いくつかです」
石守の視線が、棚の管理票へ向かった。
「もともと幕に描かれていた枠ではなく、あとから足した刻。そこで祈っている方々に、“祈りの刻をほんの少し短くして、そのぶんを別の支えに回す”案を、一緒に考えてもらう」
世話役の一人が、ためらいがちに口を開いた。
「でも、その枠に頼っている家も……」
「だから、“試す”と最初から言います」
石守は、その言葉を強調した。
「祈りの刻を少し削ったぶんだけ、ここに来る人の別の支えを一緒に考える、という条件付きで」
彼は、俺とリティを見た。
「あなた方も、そこに立ち会ってくださいますか。樹の高原での例や、他の港の話を、私たちだけでは思いつかない形で持ち込んでほしい」
「もちろんです」
リティが即座に頷いた。
俺も頷く。
「冷却路の掃除くらいなら、うちの港でもやってますから。道具の扱いは分かります」
「では、ひとつだけ枠を選びましょう」
石守は言った。
「次の線の刻と波の刻のあいだ。あそこで配っている札を、ひと呼吸ぶん短くするところから」
時計の針が、また静かに進んでいく。
この小さな決断が、どこまで広がるかは分からない。
ただ、張りつめていた冷えの一部が、ごくわずかに緩んだ気がした。




