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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第4章 列の隙間
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第4章3話 札の増加と戻れない人

 幕の模様が梁を何度か越えていくあいだに、俺たちはいくつかの枠を続けて見送った。


 石殿を見下ろせる斜面の踊り場。すり鉢の縁みたいなその場所から、広場と列、そして港までが一度に視界に入る。


 冷えた風が、石段と家々の隙間を抜けていく。足元の細い冷却路から、白い息の筋がいくつも立ち上がり、斜面の傾きに沿って石殿のほうへ薄く流れていた。


 幕の石の線が梁をかすめ、波模様がその下へ下りてきて、また点の列がじわじわと近づいてくる。そのたびに、広場の光の濃さがほんの少しだけ変わる。


 線の刻。波の刻。点の刻。


 ワクミアオでは、その一つ一つが「祈れる刻」で、その枠ごとに、港じゅうから人が集まってくる。



 石殿へ続く主の石段には、今日も列ができていた。


 斜面の下側から見上げると、霧の中に蛇行する人影の帯が伸びている。ゆっくりと揺れるその帯の途中のあちこちに、膝へ手をついて息を整える影が混じっていた。


 額に巻いた布の端を指で押さえている人。片腕で細い影の肩を支えながら、一段ずつ確かめるように上っていく人。作業着の袖や膝が擦り切れて、何度も繕った跡が見える人。


 列の中では、誰も邪魔だとは言わない。斜面に吸い込まれていく足音と、霧にくぐもった小さな世間話だけが、途切れ途切れに続いている。


「……今日も、増えてるな」


 石段の脇を並んで歩きながら、俺はぽつりと漏らした。


「枠、ですか?」


 隣で、リティが聞き返す。


「ああ。札を配ってる刻が、さっきより多い。幕に吊るしてある札も」


 石殿の脇の柱には、幕の帯とは別に、薄い札が数枚ぶら下がっていた。石に刻んだ印ではなく、後から足された印だ。


 前に聞いた説明では、本来の刻は幕に描かれた帯まで。その下に揺れている札は、あとから増やした「臨時の刻」だ。


「前は、この模様までだったんだけどな」


 斜面の途中で、石段の縁に腰を下ろしていた男が呟いた。


 肩に薄い布を掛け、膝の上で両手を組んでいる。視線の先にあるのは、幕の波模様の帯だった。


「前は、その波の刻で終わってたんですよ」


 男は、俺たちに気づいたらしく、苦笑いを浮かべて続けた。


「でも、頼まれてね。どうしてもっていう家が増えてさ。ほら、あの辺りの札、見えますか」


 石殿脇の柱の、幕より少し低い位置。薄い札に、小さな印がいくつか刻まれている。


「あれが、臨時の祈り刻です。元の模様に、あとから足された刻」


「……幕には描かれていない刻ですね」


 リティが言う。


「ええ。幕を描き直すのは大ごとですから。札なら、外してしまえば元通り、ってことになってます」


 「元通り」というところで、男の声が少しだけ濁った。


 簡単な動きのはずなのに、それがこの港ではいちばん難しい、ということくらいは、ここで過ごした短い時間でも分かる。



 石段をさらに上ると、列の中ほどに、小柄な影を連れた人の姿があった。


 大人の裾を握りしめるようにして、一人の子どもが立っている。言葉を交わしているわけではない。ただ、石殿のほうをじっと見つめたまま、冷えた空気を胸に入れたり出したりしている。


 連れている側の手には、何枚かの札が重なっていた。さっき配られたばかりの板片かもしれない。


「あの方、さっきから、ずっと上ったり下りたりしてますね」


 リティが小声で言った。


 たしかに、幕の帯が一つ動くたびに、その親子の位置が少しずつ変わっていた。枠の外に押し出されるたび、一度石段の脇に退いて、次の刻に合わせてまた列へ戻る。その繰り返しだ。


 近くにいた女の人が、小さく肩を寄せてきた。


「坂を下りる刻を減らしてまで、ここに来てるんですよ」


 彼女は、親子の背中を見ながら言う。


「斜面のずっと下のほうに住んでてね。本当なら、もっと早く下りて仕事に行く刻ですけど……」


 そこで言葉を切り、唇を結んだ。


「せめて、石の光だけでも触れさせてやりたいんでしょう」


 責める響きではなかった。自分もどこかで似た選択をしてきた人の距離感だ。


 子どもは何も言わない。石殿のほうから吹き下ろしてくる冷えに、顔を向けているだけだ。



 幕の石の線が梁を過ぎ、波模様がぴたりと重なった。


 広場の光が、また一段階変わる。祈りの枠が一つ終わる合図だ。


 石殿前の紐の内側にいた人たちが、ゆっくりと後ろへ下がりはじめる。列は少しずつ形を変えながら、次の枠の準備を整えていく。


 そのとき、広場の端で、一人の影がふらりと傾いだ。


 石段の壁にもたれていた若い男が、そのまま座り込んでしまう。すぐそばにいた人たちが支えたおかげで、大きく倒れることはなかったが、膝から力が抜けたのが遠目にも分かった。


「このところ、あの人、ずっと枠を増やしてもらってたからな」


「冷えた場に長く居すぎたのかもしれない」


 周りのささやきが、霧ににじんで聞こえてくる。


 誰も、「祈りすぎた」とは言わない。ただ、「枠を増やしてもらえた」ことを前提に、その結果の疲れを見ている。


『“ここにいたい”冷えより、“ここにいないといけない気がする”冷えのほうが増えてますねぇ』


 胸の奥で、ルーメンの声がひそやかに響いた。


『そういう冷たさは、石の返し方も、少し硬くなります』


 俺は眉をひそめる。


(硬い冷え、か)


 石そのものの温度が違うわけじゃない。けれど、列の中の空気が、少しずつ張りつめていくのが分かる。


 祈る刻を増やせば増やすほど、その場に留まるために削られていくものも増えていく。


 列の中に立っている顔と、枠から外れた瞬間の背中。


 両方を見てしまった以上、このまま何も言わないで戻るわけにはいかなかった。


 この港のやり方を否定するためではなく、「少しだけ別のやり方もある」と言うために。


 その役目は、たぶん俺のほうが向いている。


(……次の刻までに、話す場所を作らないとな)


 幕の波模様が梁を越え、点の帯が下りてくる気配を見上げながら、俺はそう決めた。




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