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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第4章 列の隙間
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第4章2話 秩序と溢れる人影

 港から見上げると、ワクミアオの街は、石殿を底にしたすり鉢みたいに立ち上がっていた。


 海霧をかぶった斜面が、段々に積み上がる家並みと石段を包んでいる。石殿のあるあたりだけ、霧がわずかに薄く、縦長の影と、その前に伸びる人の帯がぼんやりと見えた。


 石殿の上端から垂れた幕が、霧の向こうでゆっくり揺れているのも分かる。


 石を模した柱が並ぶ港から、私たちは石段を一段ずつ上っていった。


 海から吹き上がる風は冷たい。カムイアオの高原でまとわりついてきた熱とは違って、ここでは肌の表面を薄く削いでいくような冷え方だ。


 その冷たさのいくらかは、風そのものよりも、斜面の下から上へと抜けていく細い流れのせいだと分かる。


 家々の基礎沿い、石段の脇。目立たないところに、細い水路が走っていた。石の蓋に小さな隙間が開いていて、そこから白い息みたいな冷気が静かに立ちのぼっている。


(やっぱり、こっちは石の冷えを先に組んでいる)


 足元から上がってくる冷気を感じながら、私は思う。


 樹の拍を押し広げて熱を配るより、石の冷却路で熱を抜くほうを先に決めた街だ。



 石殿へ向かう主の石段の一本には、人の列ができていた。


 斜面の中段あたりから、石殿前の広場まで。霧の中をくねりながら伸びる人影の帯。


 列の中には、足取りの重そうな影が目立つ。


 片足をかばい、手すり代わりの石垣に触れながら進む人。額や首元に薄い布を巻きつけ、その端を指で押さえている人。胸のあたりに手を当て、呼吸を一つ確かめてから一段上がる人。


 作業着らしい衣の布が古びて、肘や膝の辺りが擦り切れている人もいる。手ぶらで、肩を落としたまま並んでいる人もいる。


 ひとりで列に立ちながら、周囲と目を合わせづらそうにしている若い影も混じっていた。袖を自分で繕ったのか、糸目の粗いほつれが残っていて、身にまとっているものの少なさが目につく。


 それでも、列の中では、誰も「どけ」とは言わない。


 海霧にくぐもった声で、短い世間話がぽつりぽつりと交わされていた。


「この間の枠で、だいぶ楽になったって聞いたよ」

「石診のほうは混んでなかったか」

「今日は、幕の下りがゆっくりだな」


 とりとめのないそのやりとりが、それぞれにとって「まだこの港の中にいる」という証のように聞こえる。


「……列の中にいる顔だな」


 隣で、低い声がした。


 ヴァルが、斜面の下からゆっくり上ってくる人たちの表情を、一つ一つ拾うような目つきで見下ろしている。


「どういう意味?」


「並んでるあいだだけ、“ここにいていい”って顔してるやつが多いってことだ」


 そう言って、彼は口をつぐんだ。


 その視線の先で、斜面の下から、ひときわ急いだ足取りの影がひとつ、主の石段へ駆け上がっていくのが見えた。



 少し高い位置にある踊り場へ出ると、石殿前の広場がよく見えた。


 中央に、ワクミアオの石を載せた台座。その手前に、簡素な柱と紐で囲われた一角がある。紐の内側が、石の近くまで進める「枠」なのだろう。


 広場の上には、石殿の梁から幕が一枚垂れ下がっている。


 幕は、上端を軸に巻きつける仕組みになっていて、その軸が水重りか何かで、ごくゆっくりと回っているのが分かった。


 布地には、横に何本もの帯模様が描かれている。


 石目を引いたようなまっすぐな線。波のように揺れる線。等間隔の点を連ねた列。


 今、梁と重なっているのは、細い石の線の帯だった。


 その少し上には波模様の帯が、そのさらに上には点の列の帯が見える。


 広場の光が、さっきよりほんの少しだけ濃くなった。


 石殿の軒下に仕込まれた灯りのうち、この帯の刻だけ強く灯るように調整されているのだろう。霧の白さがわずかに淡く見えて、広場の石の縁がくっきりした。


 石段を上ってきた人たちが、自然と顔を上げる。


 幕の石の線が梁にぴたりと重なった刻合いで、広場の入口に立っていた係が、小さく声を上げた。


「ここからの刻が、一枠目です」


 係の手には、小さな板片が束ねられていた。石札に似た形だが、もっと薄く軽い。


 係は、蛇行する列の先頭から順に、その板片を一枚ずつ手渡していく。


 札を受け取った人たちは、胸元にそれを握りしめながら、柱と紐で囲われた一角へと進む。紐の内側には、何人かがすでに立っていたが、札を持つ者だけがさらに前へと詰めていく。


 札の束が尽きたところで、係は声の高さを変えずに告げた。


「この刻は、ここまでです。続きは、波の刻でお願いします」


 それだけで、列の動きが二つに割れた。


 札を受け取れた人たちは、紐の内側へ、石の台座のほうへと歩みを進める。


 札の手前で切られた側――最後尾近くにいた何人かは、その場で一瞬立ち止まった。


 前に出かけた足を引っ込める人。肩をすくめて小さく笑う人。幕のほうを見上げたまま、動きを忘れたように固まる人。


 そのうちの一人は、その場に腰を下ろした。石段の縁にちょこんと座り、まだ札を配っている係の手元から、目を離せない様子だった。


 別の影は、斜面の下のほうを一度だけ振り返ってから、静かに列を離れた。石段を下っていく背中に、「次の刻まではいられない」という事情が薄く貼り付いているのが伝わってくる。


『……あふれてますねぇ』


 胸のあたりで、ルーメンの声が柔らかく震えた。


『ここではお願いを順番に並べている分、枠の外にも、ちゃんとこぼれたお願いが積もっています』


『並べてるからね』


 ノクトが、少し投げやりに返す。


『きれいに並べれば並べるほど、外側に押し出されるほうも、形がくっきりしてくる』



 踊り場の端に腰掛けている年配の男が、顎で石段の端を示した。


「今日は、早いじゃないか」


 目で追うと、布を肩に掛けた若い影が、膝を抱えて座り込んでいる。さっき締め切りに間に合わなかったらしい。


 男が声をかけると、若い人は気まずそうに笑った。


「この前の刻で枠からこぼれちゃってね。幕の石の線が梁にかかる前から来たら、今度は間に合うかと思って」


「そうかい。あんた、このところ、いつも“あと少し”で切られてたものね」


 女のようにも聞こえるその声には、責める調子はなかった。ただ、「ここにはこういう決まりごとがある」という諦めが、石段にしみ込んだ水みたいに淡く広がっている。


 私たちに気づいたのか、その人は軽く会釈をした。


「旅の方ですか?」


「ええ。港の様子を、少し見せていただいています」


 私が答えると、その人は石殿のほうに顎をしゃくった。


「ここは、石さまが優しい港でね。ただ、近くまで行ける人数には限りがあるんですよ。あふれないように、枠の刻も決めてあって」


「決まっているんですね」


 私の代わりに、ヴァルが尋ねる。


「ええ。ここが崩れたら、港中が困りますから」


 人は、自分の膝の上で手を重ねた。


「ここが崩れると、他のどこにも居場所がなくなっちまう人たちがいるでしょう」


 その一言が、胸の奥にひっかかった。


(“ここに並ぶ”ことが、そのまま“ここにいられる資格”になっている)


 列の中で支えられている顔と、枠からこぼれたあとの背中。その差が、霧の向こうでくっきりしていく。



 石殿の脇へ回る細い通路に、私たちは案内された。


 石殿の中に入るのではない。祈り枠を見守る係や、記録をつける人たちが出入りする、横の小さな間だ。厚い石壁に挟まれたそこは、外の霧よりもさらに冷たかった。


 入口には、ワクミアオの石守からの簡素な印が掲げられている。


 案内役の若い補助係が、そっと声を落とした。


「石守さまが、少しならお時間が取れると。カムイアオからの紙も、こちらで預かっています」


「ありがとうございます」


 私は胸元の帳面に触れ、頷いた。


 石守の間は、想像していたよりも狭かった。壁際に低い棚と机がいくつか並び、その上に板と票が積まれている。中央には、腰掛けが三つ。奥にはもう一枚、厚い布が吊られていて、その向こうが石殿の本体なのだろう。


 布の向こうから、かすかな冷えがこちらへ伝わってくる。


「遠いところをようこそ」


 布の前に立っていた人物が、こちらへ向き直った。


 白髪まじりの髪を後ろで束ね、褪せた色の衣をまとった中年の男だった。派手な装飾はない。視線だけが、静かにこちらの胸元の紙束と印を測っている。


 この港の石守だと、案内役が小さく告げた。


「港湾連合の視察員の方と、ミナトラアの樹の技師の方ですね」


 石守はそう確認し、私たちの差し出した紹介状を受け取る。封緘紙を慎重に剥がし、中身を一読するあいだ、部屋の中には紙が擦れる音だけがあった。


 やがて、彼は短く息を吐いた。


「……あちらの高原のことは、数字では伝え聞いていましたが。実際の様子を見てきた方の言葉が、こうして届くのはありがたい」


「カムイアオでは、石殿の票を見せてもらいました」と私は言う。

「高原を押し広げた年と、こちらからの雫の出庫が、同じ傾きで増えている記録でした」


「ええ。あの港は、よく頼ってくれます」


 石守は穏やかに頷いた。その声には、責める調子はない。ただ、遠いものを見ているような静けさがあった。


「こちらでも、祈りの列を少し見せていただきました」とヴァルが続ける。

「幕と紐、それから札。枠の切り方も」


「どう映りましたか」


 石守の視線が、今度はヴァルのほうへ向く。


「……樹の側の人間からすると、よく考えられてると思いました」と彼は言った。

「ここまでにしておく、って線を一つ引くのは、誰がやっても嫌われる仕事ですから」


 その言葉に、石守はかすかに口元を緩めた。


「嫌われることもありますよ」と、静かに言う。

「けれど、枠を増やせば増やすほど、皆、体を削ってでも前の刻に来ようとします。列の中にいるあいだだけ、支えられているように感じるから。あふれた分をすべて拾おうとすれば、石も人も、先に割れてしまう」


 あふれた分。


 斜面で見た、石段の端に座り込んでいた影が、また脳裏に浮かんだ。


「だから、一度に石のそばまで行ける人の数は、あえて絞っています」と石守は続けた。

「その代わり、あの列の中にいるあいだだけでも、『ここにいる』と感じられるように――掃除や見回りの者たちに言ってあるつもりです」


 彼は壁際の棚に視線を向ける。その一角には、祈り枠の管理票が重ねられていた。刻ごとの枠。石の前まで進んだ人数。印で示された、重い体調の人と、家族連れ。


「この票も、その一部です」と石守が言う。

「誰がどのくらい石のそばまで行けたか。どの枠で、どれだけ支えられたか。私たちは忘れやすいので、紙に頼らないといけない」


「……忘れないため、ですよね」


 自然に口をついた言葉に、石守は「はい」と短く答えた。


「それと、順番を守るためです。順番を決めるためと言うと、嫌われますからね」


 そこで初めて、彼の声にわずかな自嘲が混じった。


 私の指先は、帳面の端をそっと押さえた。


 枠を絞ることで守られているもの。枠からこぼれることで失われているもの。その両方が、紙の上の印になって並んでいる。


 私は墨で薄く、今日見聞きしたことを写し取る。


 石殿の幕。石の線が梁と重なる刻。札と紐。枠。こぼれた分。


 そのどれもが、この港の「支え」であると同時に、「あふれ」を生んでいる。


 けれど、その言葉を、この場で口にする気にはなれなかった。



 石守の間を辞したあと、私たちは斜面の途中の踊り場で足を止めた。


 霧は先ほどよりも薄くなっている。すり鉢の底に広がる港と、その向こうの入り江が、白くかすんだ輪郭で見えた。石殿の幕は、濃い石の線を過ぎ、次の波模様が梁へ近づきつつある。


『静かですねぇ』


 耳の奥で、柔らかな声がした。ルーメンだ。


『ここは、お願いをきちんと順番に並べている港ですねぇ』


 霧の向こうから、ノクトの声が重なる。


『並べるってことは、どこかで“こぼれた分”も出るってことだけどね』


「こぼれた分を、誰が拾っているのか……」


 私は、自分の帳面を見下ろした。


 さきほどの年配の人の言葉を、余白に短く書き足す。


 ――ここが崩れると、他のどこにも居場所がなくなる。


「それを、私は書いておかなきゃいけない」


 自分でも驚くほど、小さな声だった。


「今のところ、見えているのは“列に入れている側”だけだな」


 ヴァルが言う。


 彼の目は、石殿ではなく、この港の斜面全体を眺めていた。すり鉢状の斜面に散らばる家々。細い路地。冷却路から立ちのぼる白い息。そのどれもが、祈りの列とは別の流れで、この港を支えている。


『石殿のあたり、少し冷えが張りつめていますね』


 ルーメンの言葉が、霧の中で揺れた。


 石が疲れている、というほどではない。ただ、冷えが必要以上に硬く固まっているような感じ。その感覚を、私は言葉にせず、心の中に置いておく。


『あたしは、ああいう張りつめ方、あんまり好きじゃないけど』


 ノクトが、ぼそっと付け足した。


『でも、今はまだ、ここはちゃんと支えの形をしてる』


「……だからこそ、あふれた先を見ておかないといけないんだと思います」


 私は自分に言い聞かせるように言った。


 祈りの列は、この港の救いだ。そのことは否定できない。だからこそ、その列からこぼれた人たちの行き先を書き留めておくのが、ここに来た私たちの役目だ。


 そこまで考えて、私は口をつぐんだ。


 まだ、言葉にするには早い。


 石の線が梁と重なる次の刻までに、この港の別の顔も見ておきたい。


 帳面を閉じ、私は斜面をもう少しだけ下りることにした。


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