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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第1章 港の樹
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第1章2話 赤札と溢れる怒り

 樹根室の階段を上がるとき、俺はつい、足で段を数えてしまう。


 一段上がるごとに、足裏の振動が変わる。導管の唸りが遠ざかり、かわりに床を伝ってくるのは、別のリズムだった。


 笑い声。叫び。椅子を引きずる軋み。

 ――こっちの方が、よほどうるさい。


 扉を押すと、熱気がまとわりついてきた。


 賭場の空気は、外よりすこし暖かい。天井から吊り下がった照明と、壁際にずらりと並んだ卓のせいだろう。

 照明の台座には、小さな樹の葉束が埋め込まれている。薄く光る導管が天井を走り、奥の壁の向こう――賭場専用の枝へと続いていた。


 港の導管図を頭の中に広げてみる。


 中央の樹から伸びた太い根が街を支え、その途中で細い枝が分かれていく。

 本来なら、別々の家や施設へ向かうはずの枝の一本が、そのまま賭場の天井に刺さっている。


 ここだけ、太すぎる。


 そう思った瞬間、照明のひとつがぱちんと音を立てて、ぱっと明るさを増した。

 同時に、部屋の奥から歓声が上がる。


「おおっ、出た出た!」


「ほら見ろ、今日はツイてるって言っただろ!」


 卓の周りに人だかりができている。中央の盤の上には、木札の束と紙片が重ねられ、手前には小さな計器が一つ。針がぴくぴくと震えるたび、卓の縁に埋め込まれた光が一瞬、強く瞬いた。


 感応を取るための簡易計だ。

 笑い声や怒号が重なれば重なるほど、針は大きく振れ、導管の中を走る熱が増える。


 俺は壁際に立って、それを眺めた。


 ここに来ているのは、賭場の常連ばかりじゃない。

 港で見かける荷運びや、工房の新人たちも混じっている。

 さっきまで一緒に導管室で働いていた顔も何人か見えた。


「……ヴァル、来てたのか」


 声をかけられて振り向くと、作業着のままの男が肩をすくめて笑った。

 港の荷役でよく一緒になる、俺より少し年上の男だ。


「点検? こんな時間に?」


「導管の様子だけ、見てこいってさ。……どうだ、調子は」


「樹のご機嫌? 上々だろ」


 男は冗談めかして言うと、手にしていた紙片をひらひらさせて見せた。

 そこには、いくつかの数字と印が並んでいる。


「今月分の樹使用料さ。どうせ払うなら、ここでまとめて片づけた方が楽だろ? 倍になったら、そのぶん余裕もできるし」


 冗談にしては、笑い方が固い。

 俺は思わず眉をひそめた。


「それ、丸ごと賭けるつもりか?」


「今日は“流れを作る日”なんだとさ」


 男は、ちらりと卓の向こうを見やった。


「さっき、係の兄ちゃんが言ってたよ。『今日は締め気味に行きますから、序盤で掴んだ人は運がいいですよ』ってな」


「締め気味……?」


「勝ったり負けたりを、うまく“山”にしてくれるってことだろ。ほら、共鳴期だし。上の連中も数字が欲しがってるって話じゃないか」


 軽く言ったつもりなのかもしれない。

 けれど、その目の奥には、かすかな不安がにじんでいた。


「それで、その紙……全部?」


「今までだってなんとかなってきたしさ。樹が止まるわけでもなし」


 男は肩を竦めてみせる。

 その視線は、もう卓の方へ向かっていた。


 止まるわけでもなし――。


 俺は喉の奥に引っかかったその言葉を、飲み込んだ。


 樹は、止まる。

 俺はこの目で、何度も「限界」に近づいた計器を見てきた。


 けれど、それを口に出したところで、何が変わるわけでもない。

 港の取り決めでは、賭場は「感応の集中点」として認められている。

 ここでの出力は、港全体の数字に加算される。

 俺たち技師は、ただその数字を安定させるだけだ。


「壊れたら、そのときはそのときさ」


 男は笑いながら、人ごみの中へ消えていった。


 卓の上で紙片や木札が動き、叫び声が飛ぶ。

 針の振れ幅が、さっきよりも大きくなった。

 天井の導管がじりじりと明るさを増し、室内の温度がさらに上がる。


 俺は扉の近くに立ち、空気の流れだけを感じていた。


 数分もしないうちに、さっきの男の声が聞こえた。


「……は? ちょっと待てよ、全部かよ」


 人垣がざわつく。

 誰かが盤の向こうを覗き込むように身を乗り出し、別の誰かが肩を掴んで引き戻す。


「規約は説明したはずですが」


 落ち着いた声がした。

 賭場の係の一人だろう。淡々とした口ぶりで、紙片を束ねながら続ける。


「ここに記されている分は、すべてお客様の意思による提供です。戻し入れはできませんよ」


「ちが……俺、そんなつもりじゃ――」


「ここに署名があります。『樹使用枠の前払い分を含む』、と。ご希望の方にだけご案内している特別枠ですから」


 ざらついた沈黙が、卓の周りに広がった。


 俺は思わず、一歩だけ近づいてしまう。


 さっきの男が、紙片の束を見下ろしていた。

 顔色が、外の薄暮よりも青白い。


「それじゃ……家の灯りも、水場の出も……」


「来月以降の分と相殺されます。今月分は、これで使い切りですね。共鳴期ですから、港全体にはきっといい数字になりますよ」


 係の男は、慣れた手つきで紙片に印を押した。

 ぱちん、と乾いた音が響く。


 その印は、俺にも見覚えがある。

 樹管局の窓口で、毎月の利用枠を確認するときに押されるものと同じだ。


 違うのは、ここが窓口ではなく、賭場だというだけ。


 男の肩が落ちる。


 それでも、賭場の照明は眩しいままだ。

 計器の針は高い位置で揺れ、導管の中にはさっきよりも多くの熱が流れている。


 誰かの灯りが削られて、そのぶん、この部屋が明るい。


 喉の奥が、苦くなった。


「お客様、ここで立ち止まられると、次の方の――」


 係が促す声が聞こえる。

 さっきの男は、何も言わずにその場を離れた。

 俺と目が合いかけたが、そのまま視線を逸らし、扉の方へ向かう。


 俺は声をかけようとして、やめた。


 何を言えばいい?


 「やめとけ」と止めるべきだったのか。

「もう少し考えろ」と言うべきだったのか。


 でも、あの紙片に印を押させたのは、ここに導管を通した俺たちの側でもある。

 配分図を引き直せば、賭場への枝を細くすることだって、本当は――。


 頭の中で、港の図がにじむ。


 中央の樹から、薄く長く伸びる導管の線。

 その一本だけが、ほかよりも太く塗りつぶされて、赤い印が重ねられていく。


 この線を細くすれば、どこかの灯りがひとつ救われる。

 けれど同時に、「数字」の方は落ちるだろう。

 樹管局の帳簿に並ぶ列のうち、賭場の行だけが、今よりも小さくなる。


 そうなったとき、文句を言われるのは――

 導管図に印をつける、俺たちだ。


 卓の向こうで、新しいゲームが始まる。

 歓声と罵声が重なり、そのたびに計器の針が跳ねる。


 俺は、背を向けた。


 扉を出ると、外の空気は驚くほど冷たかった。

 薄暮の空は低く、港の向こうまで曖昧な光が広がっている。


 石畳の隙間からは、樹の根がかすかに息をしている。

 足裏に伝わる導管拍は、賭場の中よりもずっと静かだ。


 さっきの男の家の灯りは、どうなっただろう。

 今夜、あの家の壁に埋め込まれた圧力計は、下の方で針を震わせるのかもしれない。


 樹は文句を言わない。

 誰の声が重く乗ったかなんて、きっと区別もしていない。


 笑い声も、怒鳴り声も。

 負けたときの、潰れたような沈黙も。


 全部まとめて「数字」にして、港へ返してくれる。


 それが、今のこの街のやり方だ。


 俺はポケットに手を突っ込み、樹根室への階段を見下ろした。


 ――どこかで、間違っている。


 そう思うのに、その「どこか」に触れる手段は、今の俺にはない。


 階段の下から、かすかな導管の唸りが聞こえてくる。

 さっきよりも、ほんのわずかに速い拍だ。


 港のどこかで、誰かが笑い、誰かが負けている。

 そのすべてが、樹の中で一つの熱に溶けていく。


 俺は、まだ何も止めていない。


 そのことだけが、胸の奥でじくじくと熱を持っていた。

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