第4章1話 石段と幕の模様
最初に見えたのは、すり鉢の縁だった。
港の水際から一段上がった高台に立つと、家々の屋根がぐるりと斜面に並んでいる。石を積み上げて削り出したような壁と、冷却路の蓋が、斜面のかたむきに沿って細かく刻まれていた。
冷却路から上がる白い息が、段のあいだをゆっくりと昇っていく。
その流れのいちばん上――すり鉢の縁に近い場所に、ひときわ大きな影があった。
石殿だ、とすぐに分かった。
斜面を見上げる位置からでも、その建物の前に垂れた縦長の幕が目につく。上端を梁の内側の軸に巻きつけられた布が、ごくゆっくりとほどけている。
布を横切る模様の帯が、斜面の霧の中に浮かんでいた。
「……あれがワクミアオの“時計”か」
思わず口に出すと、隣にいたリティが小さく頷いた。
「幕の模様で刻を読む港は、今のところここだけです。石殿の前に集まる祈りの刻が、そのまま冷却の拍になっている」
「拍って言うと、樹を思い出すな」
俺は、自分の胸を軽く叩いた。
ミナトラアの港では、樹の拍を導管と票で測っていた。ここでは、石の冷たさが拍を刻んでいるのだろう。
冷えた風が、すり鉢の内側からこちらへ抜けてくる。樹の熱に満ちた高原とは違う、乾いたひんやりとした空気だった。
◇
「上までご案内しますよ」
かけられた声に振り向くと、高台の端に、一人の女の人が立っていた。
歳は三十代くらい。肩に麻布を掛け、腰にはいくつかの札を束にして挟んでいる。
「ワクミアオ石殿の世話役をしています。港湾連合から話は聞いていますよ。樹と石の両方を見てまわっている方々だとか」
「樹側の技師のヴァルです。こちらは、港湾連合の記録局から来たリティ」
俺が名乗ると、リティも軽く頭を下げた。
「お世話になります。祈り場と冷却の流れを、外から見て書き残すのが役目です」
「外からの目は、ありがたいものです」
世話役はそう言って、すり鉢の斜面を指さした。
「まずは、列の流れを見ていただきたい。石殿の中に入るのは、そのあとでも遅くありません」
俺たちは頷き、斜面へ向かう石段を上り始めた。
◇
石段は、樹の港の坂よりも細かく刻まれていた。
足の長さを選ばない段差。ところどころに、小さな踊り場が張り出している。立ち止まって息を整えるための場所か、それとも列の形を保つためか。
冷却路の蓋が、石段と並行して続いている。蓋の隙間から上がる白い息が、足首のあたりをすり抜けた。
少し上がったところで、世話役が足を止めた。
「ここから見てもらうと、列と幕と港が一度に入ります」
案内された踊り場は、すり鉢の内側を見渡せる位置にあった。
石殿の前には、すでに人の列ができている。広場から石段へと伸びる影の帯が、霧の中でゆっくり揺れていた。
家々は斜面にへばりつくように建てられている。石の壁の間を、細い路地が縫うように走っていて、そのあいだからも、人の影が少しずつ石段へ流れてきていた。
「列の人数と、冷却の負荷は連動しているんですか」
リティが、世話役に尋ねる。
「きっちり数値になっているわけではありませんが、祈りの枠が増えれば、そのぶん石の体調も変わります」
世話役は、幕のほうを見上げた。
「幕の帯が梁と重なる刻が、祈り枠の始まり。石殿の中の冷えが一段階変わるのが分かるので、それで線を引いてきました」
幕には、石色の線や波模様、点の列が横切っている。
ちょうど今、細い波模様の帯が梁に触れかけていた。
「線、波、点。三つの帯が一巡りするあいだに、何度か枠を区切ります。どこまでを石のそばに入れるか、どこで外で待ってもらうか」
「全部、石殿側で決めてきた?」
俺が口を挟むと、世話役は少しだけ困ったように笑った。
「“皆で決めた”ということになっています。……石守さまが、理由を紙に残してくださるので」
その言い方に、「決まりの線を引く役目」の重さがにじんでいた。
◇
「今日は、外から列を追ってみたいんです」
リティが帳面を開きながら言った。
「石のそばに近づける人と、そうでない人。その境目をどう扱っているのか、先に見ておきたくて」
「分かりました」
世話役は頷いた。
「列を動かしているのは私たち世話役ですが、決まりを作ったのは石殿です。あとで石守さまにも、お話をする刻を作ります」
「助かります」
リティの返事を聞きながら、俺は斜面の下のほうへ視線を戻した。
入江から這い上がってくる霧が、石段の途中で一度溜まり、列の帯を包んでいる。その中で、人の影が少しずつ形を変えながら、石殿の前へと上っていく。
冷却路の白い息と、人の吐く息が、同じ高さで混じり合っていた。
(樹の高原とは、逆の流れだな)
カムイアオでは、樹の熱が町じゅうにばらまかれていた。ここでは、港の熱と人の願いが、すべて斜面の上へ集まってくる。
その行き先にあるのが、石殿と、その奥の石だ。
俺の胸の奥で、小さなざわめきが起きた。
樹の拍を止めたときと同じ種類のざわめきだった。
(ここでも、どこかで線を引いてる)
その線が、どんな顔をしているのか。
それをこの目で見ておきたい――そんな気持ちが、霧の冷たさと一緒に、胸の内側に残った。




