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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第3章 高原の鼓動
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第3章7話 供給表と頼りにする影

 石帳場の中は、外の熱が嘘みたいに落ち着いていた。


 分厚い壁と、棚いっぱいの樽や箱が、港の熱気をここで一度受け止めているのだろう。

 戸口のあたりに立ったとき、頬をなでた空気が、さっきまで歩いていた坂道よりわずかにひんやりして感じられた。

 樹根ドームの張りつめた冷え方とは違う、紙と木と埃が静かに温度を吸っているような冷たさだ。


「どうぞ、中へ。紙の埃くらいしかありませんが」


 帳場の人が、愛想半分、疲れ半分の声で手招きする。

 卓の上には、仕入れ票と配給票の束、その向こうには、壁を埋めるように貼られた表や帳面が並んでいた。


 私は卓の端に立ち、並べられた紙の列に目を落とした。


「これが、冷却用と診療用の仕入れ元の一覧でしてね」


 帳場の人が一枚の表を引き出し、こちらに向ける。

 港の名が、縦にいくつも並んでいた。


 ナラシドア。カワルダア。カゲツドウ。

 見覚えのある名前がいくつか続き、その下で、ひときわ太い縁取りがしてある行に目が止まる。


 ワクミアオ。


 その右側に並んだ数字だけが、他の行とは桁の並びが違っていた。

 量を示す列も、回数を示す列も、どれも一段分、上へせり出している。


「……ずいぶん」


 思わず、声が漏れた。


「多いでしょう」


 帳場の人が、少し苦笑いを混ぜて言う。


「高原延長を本格的に始めてから、あそこ頼みが増えましてね。

 こっちの樹だけで全部抱え込もうとしたら、人の方が先に参ってしまう」


 私は表の端を指先で押さえ、横の欄に目を走らせた。

 年ごとの仕入れ量の列が、斜めに右上へと伸びている。


 頭の中で、別の紙の列が重なった。

 樹根ドームの壁に貼られていた「高原延長率」の報告――あの数字も、同じような傾きをしていた。


『ここの冷たさの、かなりの部分が』


 耳の奥で、ルーメンの声がささやく。


『ワクミアオの石の表面から、少しずつ削れてきたものですね』


 私は表から視線を外し、卓の上に積まれた配給票の束に指を置いた。

 封緘紙で束ねられた紙の縁に、そっと触れる。


 手のひらに、いくつもの冷たさが重なって伝わってくる。

 ただの紙のはずなのに、その向こうにある樽や雫の重さが、薄くにじんでくるような感覚。


 その中に、ところどころ、ひやりとした筋があった。

 何度も同じ名前が書かれている束。

 診療所で見た祈り票と同じように、“通い慣れた手”の跡が滲んでいる列。


 ここで冷やされた体温の分だけ、

 あの港の石は、どこかで少しずつ、角をすり減らしている。



「見慣れた紙ですね?」


 隣で、ヴァルが壁を指さした。


 仕入れ表の少し離れたところに、別の紙が貼られている。

 港湾連合向けの「高原延長」の報告の抜き書きだった。


「はい。樹根ドームの壁にも、似たものが貼ってありました」


 私は近づいて、視線を走らせた。


「日側端まで導管を延長」「高原延長率」「導管新設距離」――

 整った字で書かれた数字の列が、こちらも右上がりの線を描いている。


「高原を押し広げれば押し広げるほど、こっちの“出庫”の列も、ちゃんと太っていくんですよ」


 帳場の人が、隣からぼやくように言った。


「見てください、ここ。延長を始めた年から、ワクミアオの欄だけ、きれいに一段ずつ増えていく」


 仕入れ表と高原延長の報告、その両方を指でなぞりながら、帳場の人は肩をすくめる。


「うちの高原なんて、ワクミアオの石がなきゃ、とっくに干上がってます。

 向こうの石が冷やしてくれている間だけ、この数字は“よくやっている”顔をしていられる」


「樹の拍を先まで伸ばしたぶんを」


 ヴァルが、小さく息を吐いて言った。


「ワクミアオの石が、冷やしてるってことか」


 樹根ドームで見た紙帯の線。

 高原側だけ太く荒れていたあの線と、

 今目の前にある数字の列の傾きが、頭の中で重なった。


『樹がここまで伸ばした熱を』


 ルーメンの声が、もう一度耳元に流れ込んでくる。


『石は別の港で受け止めて、冷やして、また流し直している。

 この港の熱の影が、海の向こうまで伸びているんです』


 私は、自分の指先を見下ろした。


 この表と票の列を、そのまま報告書に写すだけなら簡単だ。

でも、それだけで本当に足りるだろうか。


 数字の向こう側にある港を、一度も見ないままで。



「この表と、ここに積んでいる樽の動き」


 私は仕入れ表から顔を上げ、帳場の人に向き直った。


「港湾連合向けの中間報告に、“現場の様子”として添えてもいいですか?」


「どうぞどうぞ」


 帳場の人は、意外とあっさり頷いた。


「こっちとしても、“高原を伸ばすなら石も要る”ってことは、

 どこかに書いておいてほしいくらいでしてね。

 樹の数字ばかり並んだ紙じゃ、そのあたりが伝わらない」


 口調は軽いが、その奥にある疲れは隠しきれていない。


「……紙に残すだけでは、たぶん足りません」


 気づいたら、言葉が口からこぼれていた。


 帳場の人が、訝しげに、けれど責めるでもなくこちらを見た。


「この数字の向こう側で冷やされている港を、一度は自分の目で見ておきたいんです。

 ワクミアオで、どんな樽が運ばれて、どんな顔をした人たちが石に触れているのか」


『そう思うなら、行くべきですね』


 ルーメンが、静かにささやく。


『ここで冷やされた分の続きを、見ないまま紙にだけ閉じ込めるのは、

 少しもったいない気がします』


 私は小さくうなずいた。


「ワクミアオに、行きたいんですね?」


 帳場の人が、少しだけ笑みを浮かべた。

 冗談半分、観念半分のような顔だった。


「ちょうどよかった。

 そろそろ、ワクミアオ行きの石輸送船が荷を積み終えるころです」


 そう言うと、彼は抽斗から封緘紙の束を取り出した。


「紹介状を書きましょう。

 カムイアオの石帳場から、ワクミアオの石の人間宛てに」



 帳場の人のペン先が、滑らかに紙の上を走る。


 私はその手元を見ながら、自分の立場を頭の中で言い直していた。


 港湾連合の規約見直しのための視察員。

 そう名乗った途端、どこへ行っても「外から口を出す側」になる。


 それは、ミナトラアを出るときから分かっていたことだ。

 分かっていたはずなのに、こうして目の前で紹介状の文言になっていくのを見ると、

 胸の奥が少しだけざわつく。


「お二人の立場も、軽く書いておいたほうが通りがいい」


 帳場の人が顔を上げた。


「港湾連合からの視察、と。

 それから……そちらは?」


「ミナトラアの樹インフラ担当の技師です」


 ヴァルが短く答える。


「樹の拍と導管の運転を見てきました。

 ここでは樹根ドームで少し、お世話になりました」


「なるほど」


 帳場の人は、二人の顔を見比べてから、紹介状の下部にさらさらと書き加えた。


「では、こうしておきましょう。

 “高原運用と冷却用雫の流れを記録している視察者を送る”。

 “数字と実際の様子を照らし合わせたい”――と」


 最後の一行を書き終えると、彼は封緘紙を一枚、紙の端に乗せた。

 印を押し、指でしっかりと押さえる。


 封緘紙が、わずかな光沢を帯びて紙と一体になる。


「これで、ワクミアオの帳場の扉が、ちょっとだけ開きやすくなります」


 冗談めかした言い方だったが、その手つきには慣れと重みがあった。


「ちょうど、港ではワクミアオ行きの石輸送船が荷を積んでいるところでしてね」


 帳場の人は紹介状を私に手渡しながら言った。


「樽の様子を一緒に見てくれるなら、

 船長には“二人分、甲板に乗せてくれ”と伝えておきましょう」


「ありがとうございます」


 私は紹介状を両手で受け取り、封緘紙の感触を確かめた。

 薄い紙一枚なのに、その重さは、高原の風よりずっとはっきりと伝わってきた。



 石輸送船の桟橋は、樽の列で埋まっていた。


 雫入りの樽が縄で束ねられ、印の押された木の札が括りつけられている。

 箱に詰められた小型の容器もあって、それらが船腹近くにきちんと積み上げられていた。


「ワクミアオ行きだ」


 ヴァルが、樽の側面に押された記号を見て言う。


 港名を示す印の下に、用途を示す小さな符号。

 診療用、高原作業者向け、港内の冷却用――

 どれも、さっき帳場で見た紙の列と、ぴったり対応している。


「船長」


 帳場の人に連れられて、私たちは船のそばまで行った。

 船腹の影から、日に焼けた顔の男が姿を現す。


「これが、例の視察の二人です」


「ほう」


 船長は、私とヴァルの顔を順番に眺めた。


「樽の中身を、港から港へ無事に運ぶのが、うちの仕事でしてね。

 揺れはきついが、荷を一緒に見ていてくれるなら歓迎ですよ。

 ワクミアオまでは、石をこぼさないように進むだけですから」


「樽の冷たさも、見させてください」


 ヴァルが答え、私は紹介状を差し出した。


「高原の拍と、ここまでの石の流れを見てきました。

 ワクミアオで、その続きがどうなっているのかを確かめたいんです」


 船長は封緘紙の印を確認し、うなずいた。


「好きなだけ見ていくといい。

 こっちは、いつも通り運ぶだけだ」



 積み込みの邪魔にならないよう、桟橋の脇の小高い場所に移動する。


 ここからは、港の石樽の列と、その向こうに広がる高原の段々が、両方まとめて見渡せた。


 風よけ布が重ねられた街の影。

 その先、日側へ向かう導管の筋。

 高原の端に並ぶ測量杭は、もう肉眼では数えきれないけれど、そこにあることは分かる。


『一つ目の港では樹を止めた』


 ノクトの声が、肩のそばで聞こえた。


『二つ目の港では、止めずに“肩を少し軽くする”だけで出ていく。

 次は、その石がどれくらい抱え込んでるかを見に行く番か』


『ここで冷やされた体温の分が』


 ルーメンが、静かに言葉を重ねる。


『向こうの港の石のひび割れになっていないといいんですけどねぇ。

 それでも、どこかで誰かが、指先を冷やしているはずです』


「……あっちでも、全部決めるつもりはない」


 私は、二人の声に重ねるように、口を開いた。


「私は規約の紙を書く人間で、ヴァルさんは樹の運転を見る人間。

 どちらも、“この先どうするか”を決めるのは、その港の人たちです」


 隣で、ヴァルが小さく笑った。


「ただ、“どう冷やしているか”くらいは、一回ちゃんと見てからじゃないと口を出せないな」


「私は、その会話を“誰のために残すか”を、船の上で考えます」


 そう告げると、紹介状の封緘紙の縁が、指先の熱を吸い取るようにひやりと感じられた。



 出航の合図の鐘が、港の空気を震わせた。


 石輸送船の甲板近くでは、最後の縄締めが終わり、樽が揺れないように固定されていく。

 甲板員が掛け声を交わしながら、舫いを外していくのが見えた。


「……もう、こんな刻か」


 ヴァルが懐から黄昏時計を取り出した。


 金属の蓋を開くと、細かな刻みの針が、静かに一つの印を指している。

 ミナトラアを発ったときから、この黄昏帯の拍に合わせて少しずつ回されてきた針だ。


「港が一つ変わるだけで」


 ヴァルが、ぼんやりと文字盤を見ながら言う。


「樹の息の仕方も、石の削れ方も、こんなに違うんだな。

 どこまで踏み込むか、そのたびに決め直しだ」


 私は、彼の手元から目を離し、紹介状の封緘紙をもう一度なぞった。


「この紙一枚で、ワクミアオの帳場の扉が少しだけ開くなら」


 自分の声が、思ったより落ち着いて聞こえた。


「書き方を、間違えたくないですね。

 “見たこと”と“願ったこと”を、ちゃんと分けて書いておかないと」


『大丈夫ですよ』


 ルーメンが、そっと言う。


『あなたは、どこに誰の願いが重なっているかを、ちゃんと見る人ですから。

 紙の上でも、それはきっと同じです』


『面倒ごとを避けるために、ここまで来たわけじゃないでしょ』


 ノクトが、からかうような調子で続ける。


『樹の拍を止めたときも、少しだけ細くしたときも、

 全部“楽な方”じゃない方を選んできたんだから』


「面倒な旅を選んだのは、確かだな」


 ヴァルが、時計をしまいながらつぶやいた。


「樹のことだけ見てると、どこかで石に重みが寄る。

 石だけ見てると、今度は樹がひび割れる。

 ……どっちも見に行くって決めた時点で、簡単には戻れない」


「戻るための紙を書くつもりは、最初からありませんでしたから」


 私も、小さく笑って答えた。



 船が桟橋を離れると、足元がゆっくりと傾く感覚が伝わってきた。


 岸壁とのあいだに、少しずつ水面の筋が広がっていく。

 港の石樽の列が、少しずつ後ろへ流れていった。


 振り返れば、布と板の影が折り重なったカムイアオの街がある。

 その向こうには、高原の段々と、日側へ伸びる導管の細い線。


 その全部の上に、今日も、樹の拍と石の冷たさが乗っている。


『次は、石の冷え方のほうを、ちゃんと聞かないとね』


 ノクトが、海の方角を見ながら言った。


『樹ばっかり削ってると、どこかの石が先にひび割れるから』


『ワクミアオのみんなが、どんな願いを抱えて石に触れているか』


 ルーメンの声は、少しだけ遠くを見ているようだった。


『少しずつ見ていきましょう。

 冷やしているのは体だけなのか、心のどこかなのか』


「樹の息と、石のひび割れと」


 ヴァルが手すりに片手をかけたまま、ぽつりと言う。


「その両方を見に行く旅か。

 ……本当に面倒な方を選んだな、俺たち」


「でも、それを選ばなかったら」


 私は、カムイアオの影から目を離した。


「きっと、どこか別の港で、同じような熱と冷たさを見て、

 同じように後悔したと思います」


 船は、黄昏帯の水面をゆっくりと滑り出していく。


 カムイアオの熱は、背中の方でまだじんじんと残っている。

 その影が、どこまで伸びているのかを確かめる旅が、いま始まったばかりだった。


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