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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第3章 高原の鼓動
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第3章6話 送る流れと戻す流れ

 樹根ドームの中は、外より静かだった。


 厚い壁に遮られて、黄土色の高原を叩いていた風の音が、ここでは遠くのざわめきみたいにしか聞こえない。

 その代わりに耳に入ってくるのは、計器の微かな震えと、紙帯の送り機構が刻むかすかな擦過音だ。


 壁一面に並んだ圧力計の針が、じりじりと揺れている。

 高原側に繋がる線の針だけが、他より半目盛り分ほど高い位置で、ずっと張り詰めたままだ。


 その下で、紙帯が三本、並んで送られていた。

 高原側、港側(共同水場まわり)、診療所側――樹根から出た拍が、どこへどれだけ走っているかを、それぞれの線が細いペン先でなぞっていく。


 高原側の紙帯には、太く荒い山が続いている。

 港と診療所の線は、その下で細く上下しているだけだ。

 許容の下端ぎりぎりを、小さく震えながらなぞっているように見えた。


「……ここがこうなってる間はな」


 横で紙帯を見ていた現場の人が、ぼそりと言った。


「港の水場も診療所も、どうしても“後回し気味”になるんだ。

 端の数字を減らそうって話は、上からはまず降りてこない」


 俺は返事をせずに、手すり越しに紙帯を見下ろした。


 ミナトラアだったら、きっと一度ここで止めていた。

 そう思う一方で、あのとき自分がどれだけ嫌われ役になったかも、体で覚えている。


『ずっと息を止めて走ってるみたいな線だね』


 ノクトが、高原側の紙帯をのぞき込んでつぶやいた。


『拍を詰め込んだまま、どこにも吐き出せてない』


 樹根から出た拍が、端の高原まで持っていかされて、そこで行き場を失っている。

 そんなふうに見えた。



「全部やめろ、とまでは言えない」


 壁の配管図の前に立って、俺は指先で線をなぞった。


 樹根ドームから出た拍が、どこで枝分かれして、どこに流れているか。

 昨日まで歩き回った港の水場と診療所、それからさっき見てきた高原の端――全部、ここに描かれている。


「端の高原に送りっぱなしの分を、今すぐ全部切れって言うと、話がそこで終わる」


 高原側に伸びる太い線の途中を指で押さえながら、振り返る。


 そばにはリティが立っていて、その横で現場の人が腕を組んでいた。

 少し離れたところには、高原側寄りの担当者――日側を押したい側の人間――もいる。


「だから、こういうのはどうだ」


 俺は配管図の一点を示した。

 樹根から少し離れたところで、高原側の線と、港・診療所側の線が分かれている地点だ。


「ここに、時間帯で切り替えられる調整点を一つ、意識して置く。

 全部止めるんじゃなくて、“拍の荒れが少ない帯だけ、端を細くする”」


「拍の荒れが、少ない帯?」


 現場の人が聞き返す。


「紙帯で見ると分かるだろ」


 俺はさっきの計測機の方を顎で示した。


「樹の拍が深く沈んで、針の揺れも小さくなる刻がある。

 港の鐘と拍のリズムが、一番きれいに重なるあたりだ」


 ここでは、鐘の回数と拍の揺れで時間を刻む。

 そこに合わせて、端の流れを少しだけ絞る。


「その帯だけ、端の高原に送る圧をわずかに細くする。

 減らした分を、港と診療所に回す。

 拍が荒れている刻には、これまでどおり端に送り続ける。距離を縮めるわけじゃない」


 現場の人は、無言で配管図を見つめた。

 高原側の担当者も、唇の端を引き結んでいる。


『一気に蛇口を閉めるんじゃなくて、通り道の途中に“少し狭いところ”を作る感じかしら』


 リティの肩のあたりで、ルーメンが小さく言った。


『その狭くした分だけ、港の方に冷たい流れを回せる。

 ただ、端の高原の“温め計画”が、少しゆっくりになるでしょうね』


『ゆっくりくらいでちょうどいいんじゃない?』


 ノクトが鼻で笑う。


『誰もいない場所を、あんな勢いで温める必要ないでしょ』


 俺はわざと、二人の声に直接は返事をしなかった。

 代わりに、高原側の担当者の反応を待つ。


「……端の数字を減らせって話じゃなくて、“一部の帯だけ細くする”か」


 現場の人が、ゆっくりと言った。


「紙の上でだけなら、前から誰かが考えてたんだろうな。

 ただ、実際にやるとなると、“誰が言い出すか”で止まってた」


「また端を細くしようって話か?」


 高原側の担当者が、少しだけ声を荒げる。


「こっちは、“ここまで押しました”って距離で、ようやく評議会から評価をもらってるんだぞ。

 ここで余計なことをしたって噂が広がったら――」


「距離そのものを縮めろとは言ってない」


 俺は言葉を遮った。


「端までの長さを変えずに、

 “拍が一番落ち着いているあいだだけ、端への拍を少し削る”って話だ」


「だが、その刻に限って端を細くしたと知られたら、

 “その刻は押してなかった”って言われかねん」


 高原側の担当者は、視線を紙帯の方へと投げた。

 針は相変わらず、許容の上寄りで張り付いている。


「本当は効きが悪いのなんて、とっくに分かってる。

 距離を延ばせば延ばすほど、途中でこぼれる拍が増えてるのも、頭では分かってる。

 でも、最初に声を上げたやつが、“押し広げる気が足りない”って言われる」


 言葉に、疲れと自嘲が混じっていた。



「“最初の一声”を、紙の方に回しませんか」


 黙って聞いていたリティが、そこで口を開いた。


 樹根ドームの薄灯りが、彼女の手元の帳面の縁を照らしている。


「“端を止めろ”じゃなくて、

 “端を試しに細くしてみた時間帯の記録”として、一度だけやってみる。

 そのときの樹の拍と、港と診療所の票の動きを、一緒に残すんです」


 現場の人と、高原側の担当者が同時にリティを見る。


「私は、港湾連合から来た見習いの記録係です。

 ここで見たことを書いて、外に渡すのが仕事だと教えられてきました」


 リティは淡々と言葉を継いだ。


「“誰が最初に止めたか”ではなく、

 “どんな拍を、どの刻にどう動かしてみたか”を紙に載せる。

 そうすれば、ここで決めたことは、“サボった”ではなく、“試した”として残せます」


 現場の人が、わずかに目を細めた。


「……一度だけ“試しに”か」


「はい」


 リティは頷く。


「試す刻も、端を細くする幅も、ここで決めてください。

 私は、そのあいだの紙帯と票の揺れを、港の外に向けた報告と、

 カムイアオの中だけで回す覚書の二つに分けて書き残します」


 現場の人は、ゆっくりと息を吐いた。


「それなら、“誰が最初に止めた”じゃなくて、

 “誰が最初に記録した”って話に、ずらせるかもしれんな」


 高原側の担当者も、その言い回しに少しだけ表情を和らげた。


「評議会に出すときも、

 “感情票と圧の揺れの比較試験”って言い方なら、

 ただの手抜き扱いにはならんかもしれん」


『言い方って、大事ね』


 ルーメンが、くすりと笑う。


『拍の通り道を変えるのも、紙の通り道を変えるのも、

 出発点は、“誰が最初に口を開くか”なんですね』


『口より先に、紙を出しちゃうってのは、リティらしいやり方』


 ノクトが、どこか面白がっている声で言った。


『熱の通り道に、薄い板を一枚挟むみたいなもんだね。

 いきなり壁を立てるより、ずっと現実的』


 俺は二人のやり取りを聞きながら、配管図にもう一度目を落とした。


「じゃあ、刻を決めよう」


 俺は言った。


「樹の拍が、一番深く沈む帯。

 港の鐘と、紙帯の揺れが一番静かに揃うあたり。

 その刻に限って、端に行く拍を半目盛り分だけ細くする」


「半目盛り、か」


 現場の人が、圧力計の針を見やった。


「ポンプ室でも港側を半目盛りだけ楽にしたんだろう?」


「ああ。あっちは“港用の機械の試験”だった。

 こっちは、“樹と高原の運転の試験”だ」


 自分でも、同じ言葉を別の段に重ねている自覚はあった。

 それでも、いきなり大きく動かすよりは、このくらいの揺れから始めるしかない。


「港と診療所の方に、その分を回す。

 その間の紙帯と票は、全部取っておく。

 “やっていない”んじゃなくて、“どう揺れたかを調べた”って言えるくらいには」


 高原側の担当者は、少し黙ってから、ようやく小さく頷いた。


「……試験なら、一度くらいは付き合おう。

 ただし、“端を削った”って言葉は、どこにも書かないでほしい」


「分かりました」


 リティが即座に答えた。


「言葉の選び方は、私の領分です」



 その後のやり取りは、現場の人と高原側の担当者の間で続いた。

 具体的にどの刻を試すか、どの針を誰が見張るか。

 紙帯の交換は誰がやるか。票の束の扱い方――


 俺はそれを脇で聞きながら、樹根ドームの側壁に背を預けた。


『一気に端を切り落とすんじゃなくてさ』


 ノクトが、通路の梁から吊られた配管を指さす。


『熱の通り道に、ちょっとだけ細いところを作る。

 そこを通るとき、拍が少し楽できる。

 それでも、遠くまで運ばされることには変わりないけど』


『楽になるのは、樹だけじゃありませんよ』


 ルーメンが、外から差し込む光を見上げた。


『港の水場で並ぶ人たちも、診療所で身を冷やす人たちも、

 今日より少しだけ、並ぶ時間が短くなるかもしれない。

 ただ、別の刻に、また高原の方で拍を持たされる人も出てくるでしょうけど』


「その揺れも、一緒に紙に残すしかないな」


 小さくつぶやくと、リティがこちらを振り向いた。


「紙、借りましたよ」


 彼女の前の机には、既に二枚の紙が並んでいた。


 一枚は、カムイアオの中で回す覚書。

もう一枚は、港湾連合向けの中間報告。


「こっちが現場用」


 リティは、片方の紙の上端を軽く叩いた。


「言葉は、少しくだけさせます。

 “拍が落ち着く帯で、端の高原に送る圧をわずかに細くする”。

 “その分、港の水場と診療所の圧を安定させる”。

 “試した刻の紙帯と票を見比べる”。

 ――大体、こんな書き方で」


 文字はまだ全部は埋まっていないが、骨格になる文がいくつか並んでいる。


「で、こっちが連合向け」


 もう一枚の紙には、さっきより硬い言葉が並んでいた。


「“日側高原への出力延長により、樹への負荷と生活インフラの揺れが確認された”。

 “現地判断により、一部時間帯で高原端への出力を調整し、港および診療の安定を図る試行が始まった”。

 ここまで。評価の言葉は、入れません」


「ずいぶん、温度が違うな」


「外に出す紙と、中に残す紙ですから」


 リティは、ペン先を紙から離さないまま、淡々と答えた。


「どっちも嘘は書きません。

 ただ、“どう呼ぶか”は変えます。

 ここで拍を動かす人たちが、明日読み直したときに首をかしげない方を、現場用に」


『いいですね』


 ルーメンが、満足そうな声を出す。


『どの紙に、どの熱を乗せるか。

 それを選ぶのが、記録屋の仕事ですから』


 リティは、ほんの一瞬だけ微笑んだように見えたが、すぐに表情を引き締めた。


「ヴァルさん」


「なんだ」


「端の高原への拍を細くする刻、

 港の水場と診療所の拍も、一緒に見てくれますか。

 私は票を追いかけますから」


「ああ。紙帯と針は、俺が見る」


 そう答えると、ノクトが、肩の上でぐっと伸びをした。


『じゃああたしは、樹の息の深さを見ておく。

 どの刻が一番、胸の中まで静かになるか』


『わたしは、その刻にどんな祈りが集まるか、確かめておきますね』


 ルーメンの声は、相変わらず涼しい。


『少し楽になる人たちの気配も、

 “別の刻に頑張らされる人たち”の気配も、両方』



 樹根ドームの外縁の通路に出ると、乾いた風がまた顔に触れた。


 手すりにもたれて、港の方角と、日側の高原の方角を見比べる。


 港の街並みは、遠目にも布と板の影が重なり合っているのが分かる。

 その下で、人が行列を作り、票を書き、診療所へ向かう姿があるはずだ。


 反対側、日側の高原は、白くかすんで見えていた。

 さっき歩いた測量杭の列と、地表を走る導管の筋だけが、この距離からでも細い線として見える。


「これで樹が楽になるのは、ほんの少しだ」


 風に声を持っていかれないよう、気持ち強めに言う。


「高原を押し広げる拍そのものを、いつかは見直さないといけない。

 樹にだけ払わせる今のやり方は、どこかで限界が来る」


 隣に立ったリティが、同じ方向を見た。


「でも、それを決めるのは、この港の人たちです」


 彼女は静かに言う。


「私は、“今日ここで、どんな拍をどう動かしたか”だけは、外に出しておきます。

 それを読んだ誰かが、いつか“端をどうするか”を決めるときの材料になるように」


「石の方の紙も、そのうち同じことをしないといけないな」


 俺が言うと、リティは小さく頷いた。


「石の方には、もう一つ、別の港がぶら下がっていますから」


『ワクミアオの帳場には、この港の暑さが、別の形で積もっているはずですよ』


 ルーメンが、港の外の方角を見やった。


『ここで削った熱の分だけ、

 どこか別の港で冷やす石が動かされている。

 その先をたどる仕事が、そろそろ待っているはずです』


『樹ばっかり削ってると、どこかの石が先にひび割れるからね』


 ノクトが、わざと軽い調子で言う。


『そっちの拍も、そのうち見に行かないと』


「……そのための道も、紙も、少しずつ用意しておかないとな」


 自分に言い聞かせるように口にすると、リティが横目でこちらを見た。


「樹の案内は、ヴァルさんに任せます。

 石の帳場を回る段になったら、今度は私が先に立ちます」


「そのときは、港湾連合の報告書の読み方を、もう一歩教えてくれ」


「ええ。紙の端っこに何が書かれていないか、見るコツも一緒に」


 リティの言葉に、俺は小さく笑った。


 樹を少しだけ楽にする案も、

 石の影をたどる旅も、どれも決定打にはならないかもしれない。


 それでも――


 今いる場所で、すぐにできる分だけ拍を揺らし、

 その揺れ方を紙に残していくことなら、俺たちにもできる。


 樹根ドームの内側から聞こえてくる拍の音が、

 さっきより、ほんのわずかに落ち着いて聞こえた気がした。


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