第3章6話 送る流れと戻す流れ
樹根ドームの中は、外より静かだった。
厚い壁に遮られて、黄土色の高原を叩いていた風の音が、ここでは遠くのざわめきみたいにしか聞こえない。
その代わりに耳に入ってくるのは、計器の微かな震えと、紙帯の送り機構が刻むかすかな擦過音だ。
壁一面に並んだ圧力計の針が、じりじりと揺れている。
高原側に繋がる線の針だけが、他より半目盛り分ほど高い位置で、ずっと張り詰めたままだ。
その下で、紙帯が三本、並んで送られていた。
高原側、港側(共同水場まわり)、診療所側――樹根から出た拍が、どこへどれだけ走っているかを、それぞれの線が細いペン先でなぞっていく。
高原側の紙帯には、太く荒い山が続いている。
港と診療所の線は、その下で細く上下しているだけだ。
許容の下端ぎりぎりを、小さく震えながらなぞっているように見えた。
「……ここがこうなってる間はな」
横で紙帯を見ていた現場の人が、ぼそりと言った。
「港の水場も診療所も、どうしても“後回し気味”になるんだ。
端の数字を減らそうって話は、上からはまず降りてこない」
俺は返事をせずに、手すり越しに紙帯を見下ろした。
ミナトラアだったら、きっと一度ここで止めていた。
そう思う一方で、あのとき自分がどれだけ嫌われ役になったかも、体で覚えている。
『ずっと息を止めて走ってるみたいな線だね』
ノクトが、高原側の紙帯をのぞき込んでつぶやいた。
『拍を詰め込んだまま、どこにも吐き出せてない』
樹根から出た拍が、端の高原まで持っていかされて、そこで行き場を失っている。
そんなふうに見えた。
◇
「全部やめろ、とまでは言えない」
壁の配管図の前に立って、俺は指先で線をなぞった。
樹根ドームから出た拍が、どこで枝分かれして、どこに流れているか。
昨日まで歩き回った港の水場と診療所、それからさっき見てきた高原の端――全部、ここに描かれている。
「端の高原に送りっぱなしの分を、今すぐ全部切れって言うと、話がそこで終わる」
高原側に伸びる太い線の途中を指で押さえながら、振り返る。
そばにはリティが立っていて、その横で現場の人が腕を組んでいた。
少し離れたところには、高原側寄りの担当者――日側を押したい側の人間――もいる。
「だから、こういうのはどうだ」
俺は配管図の一点を示した。
樹根から少し離れたところで、高原側の線と、港・診療所側の線が分かれている地点だ。
「ここに、時間帯で切り替えられる調整点を一つ、意識して置く。
全部止めるんじゃなくて、“拍の荒れが少ない帯だけ、端を細くする”」
「拍の荒れが、少ない帯?」
現場の人が聞き返す。
「紙帯で見ると分かるだろ」
俺はさっきの計測機の方を顎で示した。
「樹の拍が深く沈んで、針の揺れも小さくなる刻がある。
港の鐘と拍のリズムが、一番きれいに重なるあたりだ」
ここでは、鐘の回数と拍の揺れで時間を刻む。
そこに合わせて、端の流れを少しだけ絞る。
「その帯だけ、端の高原に送る圧をわずかに細くする。
減らした分を、港と診療所に回す。
拍が荒れている刻には、これまでどおり端に送り続ける。距離を縮めるわけじゃない」
現場の人は、無言で配管図を見つめた。
高原側の担当者も、唇の端を引き結んでいる。
『一気に蛇口を閉めるんじゃなくて、通り道の途中に“少し狭いところ”を作る感じかしら』
リティの肩のあたりで、ルーメンが小さく言った。
『その狭くした分だけ、港の方に冷たい流れを回せる。
ただ、端の高原の“温め計画”が、少しゆっくりになるでしょうね』
『ゆっくりくらいでちょうどいいんじゃない?』
ノクトが鼻で笑う。
『誰もいない場所を、あんな勢いで温める必要ないでしょ』
俺はわざと、二人の声に直接は返事をしなかった。
代わりに、高原側の担当者の反応を待つ。
「……端の数字を減らせって話じゃなくて、“一部の帯だけ細くする”か」
現場の人が、ゆっくりと言った。
「紙の上でだけなら、前から誰かが考えてたんだろうな。
ただ、実際にやるとなると、“誰が言い出すか”で止まってた」
「また端を細くしようって話か?」
高原側の担当者が、少しだけ声を荒げる。
「こっちは、“ここまで押しました”って距離で、ようやく評議会から評価をもらってるんだぞ。
ここで余計なことをしたって噂が広がったら――」
「距離そのものを縮めろとは言ってない」
俺は言葉を遮った。
「端までの長さを変えずに、
“拍が一番落ち着いているあいだだけ、端への拍を少し削る”って話だ」
「だが、その刻に限って端を細くしたと知られたら、
“その刻は押してなかった”って言われかねん」
高原側の担当者は、視線を紙帯の方へと投げた。
針は相変わらず、許容の上寄りで張り付いている。
「本当は効きが悪いのなんて、とっくに分かってる。
距離を延ばせば延ばすほど、途中でこぼれる拍が増えてるのも、頭では分かってる。
でも、最初に声を上げたやつが、“押し広げる気が足りない”って言われる」
言葉に、疲れと自嘲が混じっていた。
◇
「“最初の一声”を、紙の方に回しませんか」
黙って聞いていたリティが、そこで口を開いた。
樹根ドームの薄灯りが、彼女の手元の帳面の縁を照らしている。
「“端を止めろ”じゃなくて、
“端を試しに細くしてみた時間帯の記録”として、一度だけやってみる。
そのときの樹の拍と、港と診療所の票の動きを、一緒に残すんです」
現場の人と、高原側の担当者が同時にリティを見る。
「私は、港湾連合から来た見習いの記録係です。
ここで見たことを書いて、外に渡すのが仕事だと教えられてきました」
リティは淡々と言葉を継いだ。
「“誰が最初に止めたか”ではなく、
“どんな拍を、どの刻にどう動かしてみたか”を紙に載せる。
そうすれば、ここで決めたことは、“サボった”ではなく、“試した”として残せます」
現場の人が、わずかに目を細めた。
「……一度だけ“試しに”か」
「はい」
リティは頷く。
「試す刻も、端を細くする幅も、ここで決めてください。
私は、そのあいだの紙帯と票の揺れを、港の外に向けた報告と、
カムイアオの中だけで回す覚書の二つに分けて書き残します」
現場の人は、ゆっくりと息を吐いた。
「それなら、“誰が最初に止めた”じゃなくて、
“誰が最初に記録した”って話に、ずらせるかもしれんな」
高原側の担当者も、その言い回しに少しだけ表情を和らげた。
「評議会に出すときも、
“感情票と圧の揺れの比較試験”って言い方なら、
ただの手抜き扱いにはならんかもしれん」
『言い方って、大事ね』
ルーメンが、くすりと笑う。
『拍の通り道を変えるのも、紙の通り道を変えるのも、
出発点は、“誰が最初に口を開くか”なんですね』
『口より先に、紙を出しちゃうってのは、リティらしいやり方』
ノクトが、どこか面白がっている声で言った。
『熱の通り道に、薄い板を一枚挟むみたいなもんだね。
いきなり壁を立てるより、ずっと現実的』
俺は二人のやり取りを聞きながら、配管図にもう一度目を落とした。
「じゃあ、刻を決めよう」
俺は言った。
「樹の拍が、一番深く沈む帯。
港の鐘と、紙帯の揺れが一番静かに揃うあたり。
その刻に限って、端に行く拍を半目盛り分だけ細くする」
「半目盛り、か」
現場の人が、圧力計の針を見やった。
「ポンプ室でも港側を半目盛りだけ楽にしたんだろう?」
「ああ。あっちは“港用の機械の試験”だった。
こっちは、“樹と高原の運転の試験”だ」
自分でも、同じ言葉を別の段に重ねている自覚はあった。
それでも、いきなり大きく動かすよりは、このくらいの揺れから始めるしかない。
「港と診療所の方に、その分を回す。
その間の紙帯と票は、全部取っておく。
“やっていない”んじゃなくて、“どう揺れたかを調べた”って言えるくらいには」
高原側の担当者は、少し黙ってから、ようやく小さく頷いた。
「……試験なら、一度くらいは付き合おう。
ただし、“端を削った”って言葉は、どこにも書かないでほしい」
「分かりました」
リティが即座に答えた。
「言葉の選び方は、私の領分です」
◇
その後のやり取りは、現場の人と高原側の担当者の間で続いた。
具体的にどの刻を試すか、どの針を誰が見張るか。
紙帯の交換は誰がやるか。票の束の扱い方――
俺はそれを脇で聞きながら、樹根ドームの側壁に背を預けた。
『一気に端を切り落とすんじゃなくてさ』
ノクトが、通路の梁から吊られた配管を指さす。
『熱の通り道に、ちょっとだけ細いところを作る。
そこを通るとき、拍が少し楽できる。
それでも、遠くまで運ばされることには変わりないけど』
『楽になるのは、樹だけじゃありませんよ』
ルーメンが、外から差し込む光を見上げた。
『港の水場で並ぶ人たちも、診療所で身を冷やす人たちも、
今日より少しだけ、並ぶ時間が短くなるかもしれない。
ただ、別の刻に、また高原の方で拍を持たされる人も出てくるでしょうけど』
「その揺れも、一緒に紙に残すしかないな」
小さくつぶやくと、リティがこちらを振り向いた。
「紙、借りましたよ」
彼女の前の机には、既に二枚の紙が並んでいた。
一枚は、カムイアオの中で回す覚書。
もう一枚は、港湾連合向けの中間報告。
「こっちが現場用」
リティは、片方の紙の上端を軽く叩いた。
「言葉は、少しくだけさせます。
“拍が落ち着く帯で、端の高原に送る圧をわずかに細くする”。
“その分、港の水場と診療所の圧を安定させる”。
“試した刻の紙帯と票を見比べる”。
――大体、こんな書き方で」
文字はまだ全部は埋まっていないが、骨格になる文がいくつか並んでいる。
「で、こっちが連合向け」
もう一枚の紙には、さっきより硬い言葉が並んでいた。
「“日側高原への出力延長により、樹への負荷と生活インフラの揺れが確認された”。
“現地判断により、一部時間帯で高原端への出力を調整し、港および診療の安定を図る試行が始まった”。
ここまで。評価の言葉は、入れません」
「ずいぶん、温度が違うな」
「外に出す紙と、中に残す紙ですから」
リティは、ペン先を紙から離さないまま、淡々と答えた。
「どっちも嘘は書きません。
ただ、“どう呼ぶか”は変えます。
ここで拍を動かす人たちが、明日読み直したときに首をかしげない方を、現場用に」
『いいですね』
ルーメンが、満足そうな声を出す。
『どの紙に、どの熱を乗せるか。
それを選ぶのが、記録屋の仕事ですから』
リティは、ほんの一瞬だけ微笑んだように見えたが、すぐに表情を引き締めた。
「ヴァルさん」
「なんだ」
「端の高原への拍を細くする刻、
港の水場と診療所の拍も、一緒に見てくれますか。
私は票を追いかけますから」
「ああ。紙帯と針は、俺が見る」
そう答えると、ノクトが、肩の上でぐっと伸びをした。
『じゃああたしは、樹の息の深さを見ておく。
どの刻が一番、胸の中まで静かになるか』
『わたしは、その刻にどんな祈りが集まるか、確かめておきますね』
ルーメンの声は、相変わらず涼しい。
『少し楽になる人たちの気配も、
“別の刻に頑張らされる人たち”の気配も、両方』
◇
樹根ドームの外縁の通路に出ると、乾いた風がまた顔に触れた。
手すりにもたれて、港の方角と、日側の高原の方角を見比べる。
港の街並みは、遠目にも布と板の影が重なり合っているのが分かる。
その下で、人が行列を作り、票を書き、診療所へ向かう姿があるはずだ。
反対側、日側の高原は、白くかすんで見えていた。
さっき歩いた測量杭の列と、地表を走る導管の筋だけが、この距離からでも細い線として見える。
「これで樹が楽になるのは、ほんの少しだ」
風に声を持っていかれないよう、気持ち強めに言う。
「高原を押し広げる拍そのものを、いつかは見直さないといけない。
樹にだけ払わせる今のやり方は、どこかで限界が来る」
隣に立ったリティが、同じ方向を見た。
「でも、それを決めるのは、この港の人たちです」
彼女は静かに言う。
「私は、“今日ここで、どんな拍をどう動かしたか”だけは、外に出しておきます。
それを読んだ誰かが、いつか“端をどうするか”を決めるときの材料になるように」
「石の方の紙も、そのうち同じことをしないといけないな」
俺が言うと、リティは小さく頷いた。
「石の方には、もう一つ、別の港がぶら下がっていますから」
『ワクミアオの帳場には、この港の暑さが、別の形で積もっているはずですよ』
ルーメンが、港の外の方角を見やった。
『ここで削った熱の分だけ、
どこか別の港で冷やす石が動かされている。
その先をたどる仕事が、そろそろ待っているはずです』
『樹ばっかり削ってると、どこかの石が先にひび割れるからね』
ノクトが、わざと軽い調子で言う。
『そっちの拍も、そのうち見に行かないと』
「……そのための道も、紙も、少しずつ用意しておかないとな」
自分に言い聞かせるように口にすると、リティが横目でこちらを見た。
「樹の案内は、ヴァルさんに任せます。
石の帳場を回る段になったら、今度は私が先に立ちます」
「そのときは、港湾連合の報告書の読み方を、もう一歩教えてくれ」
「ええ。紙の端っこに何が書かれていないか、見るコツも一緒に」
リティの言葉に、俺は小さく笑った。
樹を少しだけ楽にする案も、
石の影をたどる旅も、どれも決定打にはならないかもしれない。
それでも――
今いる場所で、すぐにできる分だけ拍を揺らし、
その揺れ方を紙に残していくことなら、俺たちにもできる。
樹根ドームの内側から聞こえてくる拍の音が、
さっきより、ほんのわずかに落ち着いて聞こえた気がした。




