第3章5話 高原の縁と伸びる根
樹根ドームの外壁を回り込んだところで、風の質が変わった。
樹根室の上を覆うそのドームまでは、街の中を通ってきたときと同じ、布越しの熱だった。
ここから先は、風よけの板も布も少なくて、乾いた流れがそのまま肌を打ってくる。
「ここからが“端”に向かう道です」
案内役の現場技師が、前を歩きながら振り返った。
胸元には樹管局の札。港のポンプ室で会った係とは違う、人の動きを見慣れている目だ。
俺とリティは、その後ろについて歩く。
足元の石畳は次第に粗くなり、代わりに、地表にむき出しになった導管が目立ち始める。
太い一本が、樹根ドームの方から伸びてきている。
途中で、いくつもの細い枝管が分かれて、港の街や共同水場の方へと折れていく。
昨日、ポンプ室で触った拍を覚えている体には、どの枝がどこに向かっているのか、振動の違いでおおよそ分かった。
「こっちが港側の線ですね。共同水場と診療所に回る分。
で、このまま真っすぐ伸びているのが、高原端に押し出している線です」
現場技師が、足元の二本の導管を指さす。
一本は、途中で拍が細かく変調している。人の暮らしに合わせて、こまめに上げ下げされている拍だ。
もう一本は、一定のリズムを保ったまま、奥へ奥へと伸びている。
俺は、その一定の拍の方に意識を向けた。
地面を通して伝わってくる鼓動は、ミナトラアで慣れ親しんだ樹の拍と同じはずなのに、どこか、疲れた引きつり方をしている。
「この先は、ほとんど“高原用の拍”なんだな」
思ったことが、そのまま口から漏れた。
「ええ。港の暮らしに回している分は、ここでだいぶ削っています。
それでも数字の上では、“端の高原に流す出力”の方が大きいんですけどね」
現場技師は、自嘲ぎみに笑った。
後ろを振り返ると、樹根ドームと街が、もう小さくなっている。
布と板で覆われた通りの帯が、黄土色の斜面に細い筋として続いていて、その向こうに港の輪郭が霞んでいた。
『ふうん……』
肩のあたりで、ノクトの声が小さく漏れた。
『樹から離れるほど、拍が引っ張られてる感じがする。ちょっと、無理やりだね』
ノクトの言うとおりだ。
導管の中を走る拍が、距離に引き延ばされて、やせ細っていく。
それでも、止めるな、と紙は命じている。
「ここから先は、風よけも少なくなります。
光もきついので、布を持っているなら、顔に巻いておいた方がいいですよ」
現場技師の忠告どおり、リティは首元の布を少し引き上げた。
俺も、額にかかる汗を拭ってから、視線を高原の方へ移す。
◇
導管に沿って斜面を上りきったとき、風景が開けた。
そこには、何もなかった。
いや、正確には――人の暮らす気配が、何もなかった。
見渡す限り、乾いた土と石。
一定の間隔で打ち込まれた測量杭が、まっすぐ先まで並んでいる。
杭のそばには、簡易の標識板が立てられ、手書きの数字が記されていた。
樹から引かれた導管が、その杭の列に沿って地表を走っている。
管のすぐ脇だけ、土の色がわずかに変わっていた。
熱で乾き方が違うのか、そこだけ、焼きついたように白くなっている。
小さな見張り小屋が一つ。
器具を置いた棚と、風よけの板が数枚。
人の話し声も、暮らしの音もない。
風の音だけが、杭と板を叩いている。
『……ここ、誰の“今”も乗ってないよね』
ノクトがぽつりとこぼした。
耳の奥で響くその声に、俺も、視界の空っぽさを重ねる。
『祈りの匂いが、ほとんどしません』
続けて、ルーメンの声がした。
『この辺りには、まだ“冷やしてほしい”って声も、ほとんど届いていないみたいです』
ルーメンの言う「匂い」は、俺には直接は分からない。
けれど、この場所の空気を吸い込むと、胸の奥まで乾いていくような感覚があった。
港で感じた、人の気配の密度とまるで違う。
その空っぽの高原の真ん中を、導管だけが、樹と同じ拍で打ちながら走っている。
◇
「おう、来たか」
導管の上に腰を下ろして、簡易の圧力計を眺めていた人が、こちらに手を上げた。
現場技師が、「こちらが港湾連合からの技術支援の方です」と紹介する。
「港側のポンプを見てくれた人か」
そう言って、導管の上の人は俺を見た。
肌は高原の風に焼かれたように荒れているが、目はよく寝かせた紙のように落ち着いている。
「ここを“使える高原”にしておきたいんだとさ。
人も設備も、まだほとんど来てないのに」
導管を軽く叩きながら、その人は言った。
「端を広げ続ける限り、樹は休めない。
それはここにいる誰だって分かってるんだがな。
“いったん戻しましょう”って言い出すやつは、そうそういない」
「戻したあとに、“なんで止めた”って言われるのが目に見えているから、ですか」
リティが、少し離れたところから問いかけた。
「ええ。紙の上では、ここまで延ばしたって数字が、誇りになる。
その距離を短くしたやつは、あとで必ず責められる。
だから、ここで見張っている奴らは、“樹を楽させたい”と思いながら、目盛りをそのまま見てるわけだ」
現場の人の言葉には、自分もその一人だという自覚が滲んでいた。
『ねえ、ヴァル』
ノクトが、俺の耳元でささやく。
『こういうところで、“止めていいよ”って言ってくれる役の人、どこかにいないのかな』
「いたとしても、ここにはまだ届いてこない」
小さく答えてから、俺は導管に近づいた。
圧力計の針が、熱で少し歪んだ風防越しに震えている。
数値は、港で見たポンプ室の表示より高い。
この状態を長く続ければ続けるほど、樹の根元にはじわじわと負担が積み上がっていく。
「この先に、誰が住む予定なんですか」
俺は、導管の先に目をやりながら、現場技師に尋ねた。
「風を使う工房だとか、乾いた環境が合う保管庫だとか、書類にはいろいろ並んでますよ。
ただ、いつまでに、とか、どこまで、とかは、あいまいなままですが」
「“いつでも呼び込めるようにしておけ”って感じですね」
リティが、手元の書類を見ながら言った。
その紙は、港湾連合に送られていた高原延長――俗に“日側押し”と呼ばれている――の報告書だ。
「そうそう。“日側押し”ってやつです。
日側の端を広げておけば、光も風も取れる。
だから、今のうちに温めておけってな」
現場技師が、どこか投げやりに笑った、そのときだった。
◇
「悪く言うなよ。せっかくここまで延ばしたんだ」
高原の斜面を登ってくる足音がして、別の人影が現れた。
布をきっちり巻いた顔、肩には簡易の測量器具。
開拓側の監督だと、現場技師が小声で教えてくれる。
「今、手を止めたら、この国はただの中継港に戻る。
風と光が取れる高原は、うちの武器なんだ」
監督は、高原をぐるりと見渡しながら言った。
「土地を温めておけば、いつでも工房も倉庫も呼び込める。
“もう準備はできてます”って言える場所が、どれだけ強いか、港湾連合の人なら分かるでしょう」
言葉には自負があった。
この場所を、国の未来のために押し広げようとしているという意識だ。
俺は、その言い分が分からないわけではなかった。
港の外れに、新しい設備を呼び込む話は、ミナトラアでも何度も聞かされてきた。
「今の出力を、少しだけ落としても、この土地はすぐには冷えないですよね」
それでも、聞かずにはいられないことがあった。
「例えば、港側の拍を少し厚くして、高原側の拍を少しだけ間引く。
そういう調整で、“距離は保ったまま、負担だけ抑える”ことは」
「技術の上では、できるでしょうね」
監督は、あっさりと認めた。
現場技師も、目を伏せたまま、小さく頷いている。
「ただ、その調整をしたあと、“延長率”の数字がどう見えるか、ですよ。
距離は変わらなくても、“端にかけている出力”が減ったとなれば、
紙の上では、“後ろに下がった”って書かれるかもしれない」
監督の言葉には、恐れと計算が混ざっていた。
「今は、“ここまで押し広げました”って言える数字が欲しい時期なんです。
ここで拍を落とす判断をしたって話は、きっとどこかで、別の誰かにとっての材料になる」
俺は、返す言葉を探しながら、足元の導管に視線を落とした。
◇
導管に手を当てる。
樹根に触れたときよりも細く、長く引き延ばされた拍が、皮膚の内側を叩いてくる。
港のポンプ室では、出力を上げ下げするたびに、拍の波形が変わっていた。
ここでは、それが延々と同じリズムで続いている。
まだだれも住んでいない、空の樽に、水を流しっぱなしにしているようなものだ。
樹から引き出した熱を、誰も使わないまま高原の端に置いておく。
途中でこぼれて、乾いた土を焼くだけの拍が、どれだけあるのか。
『熱ってね』
ノクトが、俺の指先と導管の境目をじっと見ている。
『“届いた先で使われる”ときがいちばん楽なんだよ。
誰もいないところまで運ばされるのは、さすがにしんどい』
「……樹側は、そうだよな」
俺は、導管から手を離した。
指先に残る振動が、しばらく消えない。
『こっち側には、まだ祈りもあまり届いていませんしね』
ルーメンが、周囲の空気を味わうように言った。
『石に“冷やしてほしい”と頼む声がない場所に、先に熱だけが来ている。
それを整える役は、どこにも置かれていない』
高原の風が、服の隙間から入り込んでくる。
体の表面は冷やされているのに、胸の奥だけがじっとざらついていた。
「この報告書では、“ここまで延ばしました”って書いてある」
リティが、手元の紙を広げた。
報告書に記された距離と、高原に並ぶ測量杭の番号が、きれいに揃っている。
「でも、誰がここに住むのか、いつまで樹に拍を払わせるのかは、どこにも書かれていない」
紙の上の文字と、足元の空っぽの土地。
その落差を前にして、リティの声は、わずかにかすれていた。
『この延長の分だけ、石の方では“冷やしてほしい”が増えているのに』
ルーメンが、報告書の角に指を置く。
『その記録は、別の紙に分けて置かれているんですよねぇ』
現場技師が、気まずそうに目をそらした。
監督も、わずかに眉を寄せている。
ここにいる誰もが、何かが歪んでいると分かっている。
けれど、それを誰の責任にするのか、どこから手をつけるのか――その答えは、この場にはまだない。
◇
高原を後にするころには、港の街の影が、少しだけ色を濃くして見え始めていた。
風は相変わらず強く、導管の拍も、さっきと変わらない。
戻り道で、俺たちはしばらく無言だった。
先に口を開いたのは、現場技師だ。
「今日見てもらったのは、“端の高原”の一部だけです。
実際には、まだ測量だけして拍を通していない区画もあるし、
逆に、もっと先まで仮設導管を伸ばしている線もあります」
「全部を止めろ、とは言えません」
俺は、その言葉にうなずきながら答えた。
「俺は、この土地で暮らしてきたわけじゃない。
“今すぐやめろ”と一言で片付けて、ここで生活している人たちのことを軽く扱うのは、違うと思う」
それは、ミナトラアで樹を止めたとき、散々自分に刺さった言葉でもある。
「でも、このまま“未来のため”って言葉で、樹にだけ払わせ続けるのも、違うと思う」
現場技師が、小さく息を吐いた。
「……そうですね。
どこかで、“どうするか”をちゃんと言葉にしてもらわないと、俺たちはずっとこの拍を見張り続けることになる」
「その“どうするか”を決めるのは、この国の人たちです」
リティが、手にしていた報告書を折りたたんで言った。
「私は今日は、“どういう拍をここに流しているか”だけを書きます。
誰が、どの決裁で、どこまで延ばしたのか。
次は、“どう変えられるか”を書けるように、材料を集めます」
監督は、その言葉に何も返さなかった。
ただ、風よけの布が見え始めた街の方を見据えている。
『半歩も動かせなかったね』
ノクトが、少しだけ唇を尖らせるような声で言った。
『今日のところは、端まで歩いて、拍をなぞって、ただ戻ってきただけ』
「それでも、“ただ”ではないわ」
ルーメンが、ノクトをたしなめるように続ける。
『誰がどこで拍を受け持っていて、どこに誰もいない余白があるのか。
それを見た人と、書ける人が増えたのは、空振りではありません』
「……今すぐ端を削ることは、口には出さなかった」
街の鐘の音が、遠くで小さく鳴った。
港に戻る人の列が、坂の下でゆっくりと動いているのが見える。
「でも、“時間帯”とか、“配分”とかでできることは、まだあるはずだ。
端に流す拍の山を、少しなだらかにするだけでも、樹の息継ぎは変わる」
自分に言い聞かせるように口にすると、リティが横目でこちらを見た。
「その案を、紙の上でどう載せるか。
それは、私の仕事ですね」
彼女の声は静かだったが、その奥にある熱は、高原の風とは違う種類のものだった。
俺は、導管越しに伝わる拍をもう一度確かめてから、街へ続く坂道を踏み出した。
この港で、樹を少しだけ楽にする余地が、どこかに残っているかどうか。
それを探るのが、次の刻でやるべきことだと、自分に言い聞かせながら。




