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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第3章 高原の鼓動
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第3章4話 熱の街と冷たい札

 石畳の段差が、熱をそのまま抱えている。


 高原の港の街に出て、最初にそう思った。

 布張りの通路の奥で吸い込む空気は乾いているのに、肌の上にまとわりつくぬるい層だけが、いつまでも離れない。

 家々の影には、人の気配がじっと貼りついていて、誰も長く表を歩こうとはしない。


 昨日、共同水場の奥で聞いたポンプの拍が、耳の奥でまだくぐもっている。

 樹の拍と、港の運転。そこはヴァルが見てくれた。


 ――なら、今日は。


「石の方から、見ていきましょうか」


 自分に言い聞かせるように、声に出した。

 隣を歩くルーメンが、小さく笑う気配を立てる。


『ここは“熱の港”ですねぇ』


 静かな声が、内側に響いた。


『人の体も、祈りも、まず冷やしてからじゃないと、どれも長く持たなさそうです』


「……だから、石診療所は混む」


 布張りの坂道を一つ折れると、「石診療」の札がかかった建物が見えてきた。



 診療所の前には、日よけ代わりの布が何重にも垂れ下がっている。

 その下に、椅子や箱を持ち込んだ人たちが、順番待ちの列を作っていた。


 額に布を当てて座り込んでいる人。

 腕をさすりながら、順番を数える人。

 誰も大声は出さないが、列全体が、ゆっくりとした焦りで満たされている。


「石診療の方の調査ですか?」


 入口のところで、診療所の人に声をかけられた。

 涼しげな色の布をまとった、共鳴の感覚に慣れていそうな目をした人だ。


「港湾連合の規約室から来ました。今日は、診療所の様子と票の流れを、少し見せていただければと思って」


「規約の方でしたか。どうぞ、中も見ていってください。

 列の方は、いまがいちばんきつい時間帯なので、ここから先はあまり動きませんが」


 軽い冗談のような言い方だったが、目元は本気だった。


 中に入ると、空気の質が変わった。

 石棚の並ぶ部屋からは、薄く冷たい気配が流れてくる。

 その前の処置室では、雫を薄めた冷却水で、腕や首筋をなでてもらっている人たちがいた。

 隣の小さな机では、祈り票に名前と願いを書き込む手が、途切れず動いている。


『……祈りの音、にぎやかですね』


 ルーメンが、棚の方を見ながら言った。


『“治してほしい”というより、“今日も倒れずに済みますように”が多いように聞こえます』


「ここ、最近はどのあたりの刻がいちばん込みますか」


 診療担当の人に尋ねた。


「高原側の作業終わりのころですね。上から降りてくる人たちが、一気に来ます。

 “冷やしてからでないと家まで帰れない”と言って」


 人を責める響きはない。ただ、日々見ている光景を淡々と述べている声だ。


「樹の出力を上げる話も、よく持ち上がるんですがね。

 そうすると今度は、港の方の水場が悲鳴を上げる。昨日、港側を見に行かれたと聞きましたが」


「ヴァルが、ポンプ室で少しだけ手当てを」


「助かります。あちらが少しでも楽になれば、こちらの列も、倒れて運ばれてくる人の数も、いくらか変わるかもしれませんから」


 診療担当はそう言って、次の人に向き直った。


 その背中を見送りながら、私は祈り票の束に目をやる。

 書き終わった札が、石棚の下の箱に重ねられていた。


「触ってみても?」


「ええ。票の扱いに慣れていらっしゃるんでしょう?」


 頷いて、膝を折り、票の束に指先を乗せた。



 紙のざらりとした感触と一緒に、冷たい水をなでるような感覚が、掌を通って腕に上がってくる。

 祈りが石に触れて、すっと熱を引いていく感触。

 その流れの中に、何かが引っかかっている。


『ここまでは、素直に冷えてくれます』


 ルーメンが、票の束を一緒に覗き込むように言った。


『でも、この先の棚の方には、同じ名前が何度も重なっていますね』


 ルーメンが示す方向に意識を向ける。

 紙の端に書かれた文字が、薄く重なって見えた。

 似た字、似た呼び方。

 一度冷やしてもらって、また戻ってくる人。家。区画。


「祈りは、均等じゃない」


 声に出したつもりはなかったが、唇がかすかに動いていた。


 涼しいところ。

 いつまでも熱が引かないところ。

 診療所の中だけでも、その差がはっきりしている。


『全部は抱えきれない港なんですね』


 ルーメンの言葉は、責めているようでいて、どこか自分にも向いているようだった。


「……票の束、何日分か、後で数字だけ写させてください」


 私は診療担当に頼んだ。


「構いませんよ。診療の合間になりますが、それでもよければ」


 返ってきた答えに礼を言い、票から手を離した。

 指先の冷たさが、すぐに空気の熱に飲み込まれていく。


「次は、帳場の方を見ます」


『石の入ってくる道ですね』


 ルーメンが、少しだけ声を低くした。



 石帳場は、診療所から坂を一本上った先にあった。

 分厚い壁の中、棚と引き出しが隙間なく並び、その間を事務担当の人が行き来している。


「港湾連合・規約室の者です。石の出入りの記録を、数日分で構いませんので拝見したくて」


 紹介状を見せると、帳場の人は一度目を細め、それから頷いた。


「高原延長の“始末書”ではなくて、石の方ですか」


「延長の数字も、いずれは見ます。今日はまず石から」


「なるほど。では、仕入れ票と配給のまとめ票をお持ちします」


 帳場の人が奥から持ってきた束は、思っていたよりも分厚かった。

 机に並べられた仕入れ票の端には、仕入れ先の港の名前が並んでいる。


 カムイアオの近隣の港。中環のいくつか。

 そして、同じ名前が、列をあけて何度も繰り返されていた。


 ワクミアオ。


 北側の連合に属する港の一つ。

 石の雫を多く産出する場所として、以前から資料の上では何度も見てきた名前。


「高原延長を始めてから、あそこ頼みが増えましてね」


 帳場の人が、気の毒そうに笑った。


「うちの樹だけじゃ、人が持たないんですよ。

 石診療も、冷却布も、ほとんどがワクミアオからの雫で賄っています」


「ほかの仕入れ先と比べると、随分多いですね」


「高原側の端まで、人を送り込むって決めたのが、その頃でして。

 黄昏帯の日側ぎりぎりまで導管を伸ばす代わりに、ここで暮らす人の体温は、石でなだめる。

 紙の上では、よくできた取り決めなんですが」


 その言い方には、皮肉と諦めが混ざっていた。


 私は、ワクミアオの行に印を付けながら、数字をざっと書き写していく。

 他の港からの行数と比べると、その差は一目で分かる。

 仕入れ票の束をめくるたび、「ワクミアオ」の文字が、月をまたいで続いていた。


『この港の暑さは、自分たちの石だけでは抱えきれていないみたいですね』


 ルーメンが、帳簿の上に視線を落としながら言った。


『ワクミアオの石も、相当疲れているはずです。

 向こうの診療所の棚にも、似たような祈り票が重なっているかもしれませんね』


「……そちら側の負担も、見に行かなきゃならない」


 小さく呟いてから、顔を上げた。


「高原延長に関する報告書も、拝見できますか。

 港湾連合に送られたものと、カムイアオの内部でまとめたもの」


「ありますとも。どちらも“よくやっている港”の証拠ですからね」


 帳場の人は、自嘲気味に口角を上げた。



 報告書の束は、仕入れ票よりも整然としていた。

 厚手の紙に、きれいな字で数字と文面が並び、誰が読んでも「努力の跡」が分かるように書かれている。


 高原延長率。

 日側端から何距離まで導管を伸ばしたか。

 延長に伴う出力調整の回数と成功率。


 紙に触れた指先に、粒の細かい砂を撫でているような感覚が広がる。

診療所の祈り票と違って、人の体温や息が、あまり乗っていない数字だ。


『この紙の上では、とても誇らしげな港に見えますね』


 ルーメンが静かに言う。


『さっきの診療所の列や、票に重なっていた名前とは、あまりつながっていませんが』


「この数字だけを見て、“よくやっている”と評価されるのだとしたら……」


 息が、少しだけ熱くなった。


「診療所の列は、どこに書けばいいんだろう」


 紙の余白は、きれいに整えられている。

 そこに乱暴な字で何かを書き足したくなる衝動を、私は指先で押さえ込んだ。


『書く場所を、別に作るしかなさそうですね』


 ルーメンの声は穏やかだが、その底にわずかな棘があった。


『全部は書かなくてもいいですが、

 “どこかで熱が詰まっている”ことだけは、どこかの紙に残しておきましょう』


「……そうね」


 報告書の束をそっと返した。


 公的な報告書とは別に、自分の中間報告を組まなければならない。

 数字を崩さずに、でも数字だけでは見えないものを、どこまで紙に乗せられるか。


「宿か、どこか机を借りられる場所はありますか?」


「帳場の隅でよければ。ここなら票もすぐに引っ張り出せますしね」


 帳場の人の提案に頷き、机の端を少し空けてもらった。



 粗い紙を一枚、机に広げる。

 一本の線を引いて、左側に「公的文面」、右側に「私的メモ」と小さく書いた。


 左側には、港湾連合に送るべき言葉を並べていく。


「高原延長に伴い、石診療所の利用者数が増加している」

「ワクミアオからの石の仕入れ比率が上昇している」

「樹・石双方への負荷が、当初の見込みより高い可能性がある」


 どれも、誰かが読んでも受け入れやすい形に丸めた言葉だ。


 右側には、今見てきた光景をそのまま書く。


「祈り票の束に、同じ名前が何度も重なっている」

「“倒れずに済んでよかった”という祈りが多い」

「石診療所の列は、高原側の作業終わりの刻にいちばん長くなる」

「報告書の数字には、その長さがどこにも出てこない」


 書いていくうちに、筆先が少し荒くなっているのが、自分でも分かった。


『リティさん』


 ルーメンが、机の端に腰かけるような気配を見せた。


『全部を一枚の紙に載せなくても、

 こうして二つに分けておけば、いつか誰かが両方を並べて読んでくれるかもしれません』


「誰か、ね」


 自分の指先をしばらく見つめる。


「樹の拍だけでも、石の涼しさだけでも、この国は持たない。

 そのことを、数字を崩さずに、どこまで書けるだろうか」


 声に出してみると、その一文は思っていたよりも静かに紙の上に乗った。


 左側の「公的文面」の欄に、その言葉を少し形を変えて書き写す。


「樹と石の利用は、いずれか一方だけでは現状を支えられないと判断される」


 丸くなった言い回しの下に、右側の欄で、元の一文に線を引く。


『熱に押されている街の記録、ですね』


 ルーメンの声が少し柔らかくなった。


『冷たい紙に載せるには、ちょうどいい温度だと思いますよ』


「冷たい記録、か」


 自分で口にして、苦笑が漏れる。

 それでも、この街の熱を、紙の上で少しでも冷静な形にできるのなら――。


 書きかけの下書きを折りたたみ、帳面の間に挟んだ。

 この港を離れるまでに、どこまで骨に肉をつけられるか。

 それを確かめるための一日が、ようやく形になり始めた気がした。


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