第3章3話 ポンプ室と噛み合わない歯車
人の気配が薄くなる刻の水場は、昼間とは別の場所みたいだった。
共同水場の列は半分くらいに短くなり、残っているのは仕事帰りらしい人たちと、遅い番に割り当てられた区画の顔ぶれだ。
石畳を伝って、奥の建物――ポンプ室――から、あいかわらず低い振動が届いている。
どん。
どん。
刻みそのものは一定なのに、時々ほんの一息分だけ、力の抜けたような間が混じる。
樹の拍と噛み合いきれない、あの感じだ。
「おい、あんた」
水場の係が、手招きした。
昼間も見かけた顔だ。列の様子を見ていたところらしい。
「さっき、ポンプの音を気にしてたろ。今なら中、見てもらってもいいって話が出た。どうする」
「今なら、か」
自然と建物の方を見る。
ポンプ室の厚い壁は、外から見ただけでは何も教えてくれない。それでも、石を通して伝わる拍は、さっきよりも少し荒れている気がした。
「ちょうど聞きたいと思ってたところだ。お願いします」
「分かった。こっちだ」
係は合図だけ残して、水場の方に戻っていく。
代わりに、建物の扉が内側から少し開いた。
「港湾連合から来た技師って、あんたか」
低い声だった。
厚手の作業服に袖を通した男が、隙間からこちらをうかがっている。白髪が混じり始めた頭と、計器を見慣れた目元。
「港から来たヴァルです。樹の導管とポンプの運転を見てきました。ここの拍が気になっていて」
「……まあいい。話は聞いてる。入ってくれ」
男は扉を開け、リティも含めて中へ通した。
◇
ポンプ室の中は、石の匂いと油の匂いが入り混じっていた。
中央には大きな筒状のポンプ本体が据え付けられ、その周囲を太い配管が取り巻いている。壁際には圧力計と、紙帯を巻き取る装置が並び、針とペン先がそれぞれの揺れを記録していた。
耳を澄ませるまでもなく、ポンプは忙しく動いている。
往復運動を繰り返すたびに、床がわずかに沈み、配管が固い息を吐く。
男は圧力計の前に立ち、針を指さした。
「港側がきついのは分かってる。こっちだ」
壁の一角に、枝分かれした配管の図が描かれている。
上手の方へ伸びる太い枝に「高原側」、手前側の枝に「港側」と刻まれていた。
圧力計も二つある。
一つは高原側、一つは港側。どちらも指針は高い位置で揺れているが、港側の方が、揺れ幅が大きい。
「ここを楽にする案も考えたさ。港側の目盛りをもう少し開けて、高原側をわずかに抑える。逆に高原の一部を別系統に回す……紙の上じゃ、いくらでもな」
男は、配管の途中に取り付けられたバルブを指先で叩いた。
バルブのそばに、小さく刻印された印がある。赤い線で「ここから先は固定」と示すように。
「でもな」
男は、その印に視線を落とした。
「ここに『この目盛り固定』って押されてから、誰も触らねえ。
一度動かして戻したときに、何枚も説明の紙を書かせる。そんな目にあった奴がいてな。そいつはそれっきり、ここに近づかなくなった」
苦笑ともため息ともつかない息が、口の端からこぼれる。
「だから、港側が苦しいのは分かってる。あんたが来なくたって、針を見りゃ分かる。
分かっちゃいるが、『日側の高原を削る気か』って言われたら、俺の首じゃ持たない。……それがここだ」
言葉のどこにも、開き直りはなかった。
ただ、長く同じ針を見てきた人間の疲れが張り付いている。
「考えてなかったわけじゃないんだな」
自然とそんな言葉が出た。
男がこちらを見て、薄く笑う。
「あんたの港には、こういう“触りたくない目盛り”はなかったか?」
「……あったよ。どこにでもあるんだな、こういうのは」
ポンプの筒のそばまで歩み寄る。
金属の外装に手のひらを当てると、細かい振動が骨伝いに上がってくる。
どん。
どん。
打ち込みのたびに、拍がわずかに滑っている。
樹から来る拍と、高原側へ押し上げる力。その間で削れている部分が、確かにある。
『ヴァル、どうするの』
耳の奥で、ノクトがひそひそ声を落とした。
『ここで大きくいじったら、この港ごと怒られるでしょ』
『試すなら、“どれだけなら許されるか”を決めてからですね』
ルーメンの声は、紙の擦れる音に紛れるように静かだ。
「港湾連合からの技術支援、って話になってるんですよね」
後ろから、リティの声が届いた。
手には小さな帳面と筆記具を持っている。
「ああ。そう聞いてるが」
男が振り向く。
「なら、“試験調整”って名目なら、紙の上でも通りませんか。
これから運転を任せる前に、一度だけ、港側の目盛りを半目盛りぶんだけ動かす。
高原側の数字はほとんど変えない。その条件付きで」
リティの提案に、男は眉を上げた。
「半目盛り、か。
……そんな誤差で、何か変わるのか?」
「配分だけなら、誤差かもしれません」
筒から手を離し、港側のバルブの刻印を見る。
赤い線の、ほんの少し手前に細い傷が付いていた。誰かがこっそり試した痕なのかもしれない。
「でも、配分と拍を同時に少しだけ合わせれば、無駄な揺れが減るはずです。
その分だけ、押し上げる力に素直に乗ってくれる」
「拍、ね」
男はあごに手を当てた。
ミナトラアで俺がやっていたことを、ここでそのまま説明しても通じるかは分からない。
ただ、「樹の拍に合わせて機械を楽にする」という現場の感覚なら、まだ話せる。
「樹と機械の機嫌を、同じ方向に少しだけ寄せる、くらいの話です。
港湾連合の技術支援として、“一度だけの試験”ってことで記録を残す。
もし悪くなったら、すぐ戻す」
「……帳面に、そう書いてもらえるか」
男がリティを見る。
リティは無言で頷き、小さく箇条書きを始めた。
「じゃあ、こうしよう」
男は決心したように息を吐いた。
「港側のバルブを、半目盛りぶんだけ開ける。
その間、あんたはその筒を押さえてろ。樹の拍だか何だか知らんが、少しでも楽な方に寄せてみてくれ」
「了解」
◇
港側のバルブには、小さなハンドルが付いている。
男が慎重に、印の手前までそっと回した。軋む音とともに、配管の中の流れが微妙に変わる。
俺はポンプの筒に両手を当てた。
側に用意してもらった携行樹パックを、配管の途中にある検査用の口に短く接続する。
樹の花から取ったエネルギーが、細い導管を通って筒の外装の一部に触れる。その上に、自分の拍を薄く重ねていく。
どん。
どん。
ポンプのリズムと、樹の拍のリズムが、少しずつ近づいていく。
完全に揃えることはできない。それでも、さっきまで目立っていた「抜ける一息」が、わずかに薄くなった。
『……今の、ちょっとだけ気持ちいいかも』
ノクトが、小さく笑いを漏らす。
『無駄に揺れてたところが、少し静かになった』
『圧の揺れも、わずかですが落ち着きましたね』
ルーメンのささやきに、圧力計へ目をやる。
港側の針が、じりじりと位置を変えていた。
高さそのものはほとんど変わっていない。
だが、その揺れ幅が、さっきよりも明らかに小さい。紙帯の上を走るペン先も、波を一段細くした。
「……なるほどな」
男が、針を見ながら呟く。
「数字はほとんど同じだが、暴れ方が違う。
これなら、港側の列が、ほんの少しだけでも縮んでくれそうだ」
「根本は変わってないですよ」
筒から手を離しながら言った。
「高原に流しっぱなしにする考え方を変えない限り、ここはまた苦しくなる。
今やったのは、その“苦しくなるまでの時間”を、ちょっとだけ先に延ばしただけです」
「そうだな」
男は頷いた。
「楽になった、というより……息継ぎの回数が一回増えた程度だ」
その言い方が、やけにしっくりきた。
◇
リティは、さっきから黙って筆を走らせている。
紙の端には「港側バルブ半目盛り調整」「港湾連合技術支援試験」といった言葉が並び、その下に、現場の技師が口にしたひと言が、そのままの形で写されていた。
分かっている。
分かっているのに、紙と印で身動きが取りづらくなっている――そんな行の並びだ。
リティは最後の行を書き終えると、ペン先を離した。
『この目盛りを動かしたことは、後でちゃんと“試した事実”として書きましょう』
ルーメンの声が、彼女の耳元だけをかすめるように落ちる。
リティは小さくうなずき、帳面を閉じた。
「港側の列が、どれくらい変わるかは分かりませんが」
リティが、俺たちに向き直る。
「“ないよりマシ”の一手を積み上げた記録が残れば、
いつかこの港の誰かが、『何もしていなかったわけじゃない』と証明できます」
『半歩どころか、つま先一つ分くらいじゃない? 今の楽さ』
ノクトが笑い混じりに言う。
『でもまあ、つま先一つ分でも、何度も続けたら前に出るかもしれないしね』
「それでも、ここで暮らす人には、ないよりマシだ」
ポンプ室の壁に背を預けた。
外では、誰かが桶を水場まで引きずる音がしている。
「“ないよりマシ”を積み重ねる役目を、誰かが見ておかないと、
全部“何もしていない”ことにされる、ってことですね」
リティの言葉は淡々としているが、その奥に小さな熱があった。
『では、その役目は、わたしたちとリティさんで引き受けましょう』
ルーメンの声が、静かに響く。
『樹の拍が少し楽になったことくらい、あたしたちなら覚えておけるしね』
ノクトも、珍しく真面目な調子で続けた。
ポンプの拍は、相変わらず重い。
でも、その重さの輪郭が、ほんのわずかに滑らかになった気がする。
この港でできることは、今日はここまでだ。
高原の端で樹を「どう使うか」を決めている場までは、まだ手が届かない。
届かないまま、それでも手の届く範囲で、つま先一つ分の楽さを残す。
そんな旅路になるのだろう、とぼんやり思う。




