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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第3章 高原の鼓動
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第3章3話 ポンプ室と噛み合わない歯車

 人の気配が薄くなる刻の水場は、昼間とは別の場所みたいだった。


 共同水場の列は半分くらいに短くなり、残っているのは仕事帰りらしい人たちと、遅い番に割り当てられた区画の顔ぶれだ。

 石畳を伝って、奥の建物――ポンプ室――から、あいかわらず低い振動が届いている。


 どん。

 どん。


 刻みそのものは一定なのに、時々ほんの一息分だけ、力の抜けたような間が混じる。

 樹の拍と噛み合いきれない、あの感じだ。


「おい、あんた」


 水場の係が、手招きした。

 昼間も見かけた顔だ。列の様子を見ていたところらしい。


「さっき、ポンプの音を気にしてたろ。今なら中、見てもらってもいいって話が出た。どうする」


「今なら、か」


 自然と建物の方を見る。

 ポンプ室の厚い壁は、外から見ただけでは何も教えてくれない。それでも、石を通して伝わる拍は、さっきよりも少し荒れている気がした。


「ちょうど聞きたいと思ってたところだ。お願いします」


「分かった。こっちだ」


 係は合図だけ残して、水場の方に戻っていく。

 代わりに、建物の扉が内側から少し開いた。


「港湾連合から来た技師って、あんたか」


 低い声だった。

 厚手の作業服に袖を通した男が、隙間からこちらをうかがっている。白髪が混じり始めた頭と、計器を見慣れた目元。


「港から来たヴァルです。樹の導管とポンプの運転を見てきました。ここの拍が気になっていて」


「……まあいい。話は聞いてる。入ってくれ」


 男は扉を開け、リティも含めて中へ通した。



 ポンプ室の中は、石の匂いと油の匂いが入り混じっていた。


 中央には大きな筒状のポンプ本体が据え付けられ、その周囲を太い配管が取り巻いている。壁際には圧力計と、紙帯を巻き取る装置が並び、針とペン先がそれぞれの揺れを記録していた。


 耳を澄ませるまでもなく、ポンプは忙しく動いている。

 往復運動を繰り返すたびに、床がわずかに沈み、配管が固い息を吐く。


 男は圧力計の前に立ち、針を指さした。


「港側がきついのは分かってる。こっちだ」


 壁の一角に、枝分かれした配管の図が描かれている。

 上手の方へ伸びる太い枝に「高原側」、手前側の枝に「港側」と刻まれていた。


 圧力計も二つある。

 一つは高原側、一つは港側。どちらも指針は高い位置で揺れているが、港側の方が、揺れ幅が大きい。


「ここを楽にする案も考えたさ。港側の目盛りをもう少し開けて、高原側をわずかに抑える。逆に高原の一部を別系統に回す……紙の上じゃ、いくらでもな」


 男は、配管の途中に取り付けられたバルブを指先で叩いた。

 バルブのそばに、小さく刻印された印がある。赤い線で「ここから先は固定」と示すように。


「でもな」


 男は、その印に視線を落とした。


「ここに『この目盛り固定』って押されてから、誰も触らねえ。

 一度動かして戻したときに、何枚も説明の紙を書かせる。そんな目にあった奴がいてな。そいつはそれっきり、ここに近づかなくなった」


 苦笑ともため息ともつかない息が、口の端からこぼれる。


「だから、港側が苦しいのは分かってる。あんたが来なくたって、針を見りゃ分かる。

 分かっちゃいるが、『日側の高原を削る気か』って言われたら、俺の首じゃ持たない。……それがここだ」


 言葉のどこにも、開き直りはなかった。

 ただ、長く同じ針を見てきた人間の疲れが張り付いている。


「考えてなかったわけじゃないんだな」


 自然とそんな言葉が出た。

 男がこちらを見て、薄く笑う。


「あんたの港には、こういう“触りたくない目盛り”はなかったか?」


「……あったよ。どこにでもあるんだな、こういうのは」


 ポンプの筒のそばまで歩み寄る。

 金属の外装に手のひらを当てると、細かい振動が骨伝いに上がってくる。


 どん。

 どん。


 打ち込みのたびに、拍がわずかに滑っている。

 樹から来る拍と、高原側へ押し上げる力。その間で削れている部分が、確かにある。


『ヴァル、どうするの』


 耳の奥で、ノクトがひそひそ声を落とした。


『ここで大きくいじったら、この港ごと怒られるでしょ』


『試すなら、“どれだけなら許されるか”を決めてからですね』


 ルーメンの声は、紙の擦れる音に紛れるように静かだ。


「港湾連合からの技術支援、って話になってるんですよね」


 後ろから、リティの声が届いた。

 手には小さな帳面と筆記具を持っている。


「ああ。そう聞いてるが」


 男が振り向く。


「なら、“試験調整”って名目なら、紙の上でも通りませんか。

 これから運転を任せる前に、一度だけ、港側の目盛りを半目盛りぶんだけ動かす。

 高原側の数字はほとんど変えない。その条件付きで」


 リティの提案に、男は眉を上げた。


「半目盛り、か。

 ……そんな誤差で、何か変わるのか?」


「配分だけなら、誤差かもしれません」


 筒から手を離し、港側のバルブの刻印を見る。

 赤い線の、ほんの少し手前に細い傷が付いていた。誰かがこっそり試した痕なのかもしれない。


「でも、配分と拍を同時に少しだけ合わせれば、無駄な揺れが減るはずです。

 その分だけ、押し上げる力に素直に乗ってくれる」


「拍、ね」


 男はあごに手を当てた。

 ミナトラアで俺がやっていたことを、ここでそのまま説明しても通じるかは分からない。

 ただ、「樹の拍に合わせて機械を楽にする」という現場の感覚なら、まだ話せる。


「樹と機械の機嫌を、同じ方向に少しだけ寄せる、くらいの話です。

 港湾連合の技術支援として、“一度だけの試験”ってことで記録を残す。

 もし悪くなったら、すぐ戻す」


「……帳面に、そう書いてもらえるか」


 男がリティを見る。

 リティは無言で頷き、小さく箇条書きを始めた。


「じゃあ、こうしよう」


 男は決心したように息を吐いた。


「港側のバルブを、半目盛りぶんだけ開ける。

 その間、あんたはその筒を押さえてろ。樹の拍だか何だか知らんが、少しでも楽な方に寄せてみてくれ」


「了解」



 港側のバルブには、小さなハンドルが付いている。

 男が慎重に、印の手前までそっと回した。軋む音とともに、配管の中の流れが微妙に変わる。


 俺はポンプの筒に両手を当てた。

 側に用意してもらった携行樹パックを、配管の途中にある検査用の口に短く接続する。

 樹の花から取ったエネルギーが、細い導管を通って筒の外装の一部に触れる。その上に、自分の拍を薄く重ねていく。


 どん。

 どん。


 ポンプのリズムと、樹の拍のリズムが、少しずつ近づいていく。

 完全に揃えることはできない。それでも、さっきまで目立っていた「抜ける一息」が、わずかに薄くなった。


『……今の、ちょっとだけ気持ちいいかも』


 ノクトが、小さく笑いを漏らす。


『無駄に揺れてたところが、少し静かになった』


『圧の揺れも、わずかですが落ち着きましたね』


 ルーメンのささやきに、圧力計へ目をやる。


 港側の針が、じりじりと位置を変えていた。

 高さそのものはほとんど変わっていない。

 だが、その揺れ幅が、さっきよりも明らかに小さい。紙帯の上を走るペン先も、波を一段細くした。


「……なるほどな」


 男が、針を見ながら呟く。


「数字はほとんど同じだが、暴れ方が違う。

 これなら、港側の列が、ほんの少しだけでも縮んでくれそうだ」


「根本は変わってないですよ」


 筒から手を離しながら言った。


「高原に流しっぱなしにする考え方を変えない限り、ここはまた苦しくなる。

 今やったのは、その“苦しくなるまでの時間”を、ちょっとだけ先に延ばしただけです」


「そうだな」


 男は頷いた。


「楽になった、というより……息継ぎの回数が一回増えた程度だ」


 その言い方が、やけにしっくりきた。



 リティは、さっきから黙って筆を走らせている。

 紙の端には「港側バルブ半目盛り調整」「港湾連合技術支援試験」といった言葉が並び、その下に、現場の技師が口にしたひと言が、そのままの形で写されていた。


 分かっている。

 分かっているのに、紙と印で身動きが取りづらくなっている――そんな行の並びだ。


 リティは最後の行を書き終えると、ペン先を離した。


『この目盛りを動かしたことは、後でちゃんと“試した事実”として書きましょう』


 ルーメンの声が、彼女の耳元だけをかすめるように落ちる。

 リティは小さくうなずき、帳面を閉じた。


「港側の列が、どれくらい変わるかは分かりませんが」


 リティが、俺たちに向き直る。


「“ないよりマシ”の一手を積み上げた記録が残れば、

 いつかこの港の誰かが、『何もしていなかったわけじゃない』と証明できます」


『半歩どころか、つま先一つ分くらいじゃない? 今の楽さ』


 ノクトが笑い混じりに言う。


『でもまあ、つま先一つ分でも、何度も続けたら前に出るかもしれないしね』


「それでも、ここで暮らす人には、ないよりマシだ」


 ポンプ室の壁に背を預けた。

 外では、誰かが桶を水場まで引きずる音がしている。


「“ないよりマシ”を積み重ねる役目を、誰かが見ておかないと、

 全部“何もしていない”ことにされる、ってことですね」


 リティの言葉は淡々としているが、その奥に小さな熱があった。


『では、その役目は、わたしたちとリティさんで引き受けましょう』


 ルーメンの声が、静かに響く。


『樹の拍が少し楽になったことくらい、あたしたちなら覚えておけるしね』


 ノクトも、珍しく真面目な調子で続けた。


 ポンプの拍は、相変わらず重い。

 でも、その重さの輪郭が、ほんのわずかに滑らかになった気がする。


 この港でできることは、今日はここまでだ。

 高原の端で樹を「どう使うか」を決めている場までは、まだ手が届かない。


 届かないまま、それでも手の届く範囲で、つま先一つ分の楽さを残す。

 そんな旅路になるのだろう、とぼんやり思う。

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