表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第3章 高原の鼓動
23/51

第3章2話 乾燥した街とかすかな潤い

 岸壁に降りた瞬間、肺の中の空気が差し替えられた気がした。


 ミナトラアの港で吸い慣れていた、重みのある湿った風とはまるで違う。

 ここカムイアオの風は、軽くて、乾いていて、皮膚の表面を細かい砂で撫でられているみたいに刺さる。


 海からすぐ先で、石段が一気に立ち上がっている。

 ほとんど垂直に突き上がった岸壁に、荷揚げ用の斜路と、人が歩く急な階段が、縫い合わせるみたいに張り付いていた。


「……噂、盛ってなかったな」


 船の上で聞いた「乾いた高原の港」という言い方を思い出す。

 あれでも控えめだったんじゃないか、と胸の内で付け足した。


 石段の途中には、板と布で作った屋根が渡してある。

 通路全体が影と光の帯に分かれていて、人は影の方に寄っていた。

 荷車を押して坂を上がる者だけが、どうしても光の下を通らざるを得ない。


 すれ違った男が、額の汗をぬぐいながら笑う。


「初めてか? ここは足と肺が一番先に文句言うぞ」


「……見ただけで、もう言い始めてる」


 俺がそう返すと、男は「すぐ慣れる」と肩を叩いて去っていった。

 慣れるかどうかはさておき、この段差で、一番上に水場があるのはきついな、と素直に思う。


『これはなかなかだねぇ』


 耳の奥で、ノクトが感心したような声を上げた。

『ここで樹が止まったら、そのまま倒れる人が出そうじゃない?』


『だからこそ、止めないように無茶をさせているのかもしれません』


 ルーメンの声は、乾いた空気の中で、少しだけ冷たく響く。


「ヴァルさん、大丈夫ですか」


 前を歩いていたリティが振り返った。

 襟元を指でつまみ、風を入れようとしているのが見える。


「ああ。……風が軽すぎて、変な感じがするだけだ」


 息を吸い直して、石段の上を見上げた。

 船から見えた通り、港の上はさらに高く続いている。



 坂をいくつか上がると、石を削って作った広場に出た。

 広場の中央に、腰の高さほどの水場が、列をなすように並んでいる。


 水場の前には長い列。

 容器を抱えた人たちが、できるだけ影に体を収めるように並んでいた。

 自分の順番が近づくと、列の端から水場の縁の方へ、すっと滑るように移動する。その手際だけは、港のどこよりも淀みがない。


 広場の奥には、二階建てほどの石造りの建物がある。

 窓は少なく、厚い壁で中身を隠している。そこから、一定の間隔で、低い振動が伝わってきた。


 どん。

 どん。


 足もとから突き上げるような拍だ。

 俺は無意識に、そばの手すりに指先を置いた。


 ……噛み合ってない。


 ミナトアラの樹根室で何度も聞いた拍と、今、石を通して伝わってくる振動のあいだに、わずかなズレがある。

 刻む間隔はほぼ一定なのに、ときどきほんの一瞬だけ、時間が伸びる。追いつこうとしているのに、どこかで息を詰めているような感触。


「ポンプ室、ですかね」


 リティが広場の奥を見ながら言った。

 手すりから指を離すと、ズレが体の中まで染み込んでくる感覚だけが残る。


「水を上げてるんだろ。あの建物からだな」


「はい。案内板には『主樹からの導管を経て、このポンプ室で引き上げ』と書いてありました」


 リティが視線で示した先、石壁の脇に簡単な図が刻んである。

 主樹、導管、ポンプ室、共同水場。線と記号だけだが、港の人にとっては当たり前の道筋なのだろう。


 俺の耳には、その線のどこかで「端に回している音」が混じっているように聞こえた。


『水、並ばないと出ないって、なかなかだね』


 ノクトが小さく笑う。

『ここで樹が弱ったら、列どころじゃ済まないよ』


『だからこそ、冷やす石が“手放せない贅沢品”になるのでしょうね』


 ルーメンの言葉に、リティの肩がかすかに動いた。


「……今は、ただ見ておこう」


 俺は自分に言い聞かせるように呟き、広場を離れた。

 石段をさらに上る道と、市街地へ横に抜ける道が分かれている。俺たちは市街地の方へ向かう。



 市街地側の通りには、布で作られた屋根が渡っていた。

 狭い路地の上に布を張り、その下に店先が並んでいる。通り全体が、くすんだ光と柔らかい影で満たされていた。


 樹の葉や花の束は、いくつかの店でようやく見つかる程度だった。

 それも小さな棚の一角に追いやられていて、「祝い用」「特別」といった札と一緒に、高い値が書かれている。


 数字を見て、思わず目を細める。

 ミナトアラの露店で見慣れた値段の倍どころではない。ここでは、樹の産物は「日常」から切り離されたものらしい。


 代わりに目につくのは、石の雫を使った品々だった。


 「浄水」と書かれた札の下に、透明な小瓶が並ぶ。

 小さいものから少し大きめのものまであって、その多くには「雫使用」と小さく記されていた。


 別の店では、布を何枚も束ねて積んでいる。

 布の端には小さな石片が縫い込まれていて、札には「冷却」とだけ書いてある。

 それを手に取った客が、値札を見て黙り込み、しばらくしてから一番小さなものだけを選んでいた。


 通りを行き交う人は多くない。

 影から影へ、短く移動しては足を止め、値札と手持ちの札を見比べている。

 どこかの親が、手を引いた子どもに向かって「この時間は外に出ない方がいい」と早足で歩いていくのが見えた。


「……ここは、樹も石も、両方に負担をかけていそうだな」


 思わずこぼすと、リティが横目でこちらを見た。


「“暮らしのため”と、“別の数字のため”と……。どちらの声が強いのか、まだ分かりません」


 言葉の途中で、彼女は少しだけ言い淀んだ。

 そこから先に続く言い方を、あえて選んでいないように見える。


『こっちの人たち、石の方にずいぶん頼ってる感じだね』


 ノクトの声が、通りのざわめきに重なった。

『樹は高いところで無理させて、こっちは雫でどうにか冷やして……って』


『どちらかだけに任せると、すぐに限界が来ますから』


 ルーメンは、小さなため息を混ぜる。

『分け合っているつもりでも、その分け方が偏ると、どこかで重さが溜まるんですよね』


 それに返事をする代わりに、俺は通りの奥にある帳場の看板を指さした。


「港の帳場はどこだ?」


「あそこです。配給票も扱っているはずですので、少し寄りましょうか」


「頼む」



 帳場の中は、外よりいくらか涼しかった。

 厚い石壁と、風の通し方のせいだろう。窓際には風向きを調整するための板が立てかけられ、壁際には紙束が積まれている。


 受付の台で、リティが身分を名乗った。

 石運用の調査派遣として来ていること、数日分の配給票と仕入れ票を閲覧したいことを、穏やかな口調で告げる。


 手続きを確認した局員が、棚から何束か紙を出してきた。


「ここからここまでは、見てもらって構いません。写しは……」


「取りません。数字の流れだけ把握できれば十分です」


 リティは小さく頭を下げて紙束を受け取った。

 俺は邪魔にならないよう、少し離れた位置から、その手元を覗き込む。


 紙には日付と品目、入ってきた量と配った量、そして仕入れ元の港名が並んでいた。


 目で追っていると、同じ名前が何度も出てくる。


「……ワクミアオ」


 思わず声に出ていた。

 仕入れ元の欄に、その名がずらりと並んでいる箇所がある。他にもいくつかの港名があるが、石の雫については、ワクミアオの行が明らかに多い。


「石の雫は、外からかなり入ってきているんですね」


 リティが、あくまで一般的な調子で言う。

 局員は渋い顔で頷いた。


「こっちは高温帯ですから。自前の石だけじゃ、とても足りません。昔からの取り決めで、あちらから多めに回してもらってるんです」


 それ以上は語らない、という線引きが、そのまま声の調子に乗っていた。


 リティはそれ以上踏み込まず、紙束の別の束へ視線を移す。

 配給票の山には、共同水場や各区画の名前と、配った浄水や冷却布の数が記されていた。


 彼女は黙ったまま、必要そうな部分だけをゆっくり読み進める。

 その指先が、ある頁の上でほんの少し止まった。


『この国の暑さは、自分たちの石だけじゃ抱えきれていないみたいですね』


 ルーメンの穏やかな声が、帳場の静けさの中に落ちる。

 リティのまつ毛が、わずかに震えた。


「……ありがとうございます。おおよその様子は分かりました」


 リティは紙束を丁寧に揃え、局員に返した。

 帳場を出て石段に戻ると、さっきよりも光が強く感じられる。


「全部、頭に入ったのか?」


 俺が尋ねると、リティは苦笑した。


「全部は無理です。でも、“どの港から、どれだけ冷たさが流れてきているか”くらいなら」


「気分のいい数字じゃなさそうだな」


「そうですね。ここだけの問題ではなさそうだ、というくらいには」


 リティの視線は、坂の下とその先、地図の上の別の港まで同時に追いかけているように見えた。



 再び共同水場の前を通る。

 列は先ほどより長くなっていた。石畳を通じて、ポンプ室の振動が足の裏に伝わってくる。


 どん。

 どん。


 さっきと同じリズムのはずなのに、何度聞いても、そのほんの小さなズレが気になる。

 樹から直接伝わる拍とは違う。どこかで増やしたり削ったりして、その無理を埋めるための打点だ。


「……人通りが落ち着く刻に、もう一度ここに来たい」


 思わず口にすると、隣のリティが頷いた。


「では、そのとき私は帳面を持ってきます。ヴァルさんは耳を」


「耳と、手と、少しの拍だけな」


 冗談めかして言うと、ノクトがすぐに乗ってくる。


『出た、“少しの拍だけ”。そう言いながら、気づいたら港ごと抱え込むんだよね、あんた』


『少しずつでも見に来てくれるなら、樹も石も、きっと助かると思います』


 ルーメンの声は静かだった。

 高原の乾いた風の中で、その言葉だけが、ほんのわずかに湿り気を帯びて耳に残る。


 段差だらけの高原港。

 容器を抱えて並ぶ人たち。

 石の雫の名前が並ぶ票。


 ここでは、俺の知らないやり方で、樹と石が毎日引っ張られている。

 それをどう見るか、どこまで手を出すか。まだ決められないことの方が多い。


 決められるのは、少なくとも一度は、自分の耳でこの港の拍を聞きに戻る、ということだけだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ