第3章2話 乾燥した街とかすかな潤い
岸壁に降りた瞬間、肺の中の空気が差し替えられた気がした。
ミナトラアの港で吸い慣れていた、重みのある湿った風とはまるで違う。
ここカムイアオの風は、軽くて、乾いていて、皮膚の表面を細かい砂で撫でられているみたいに刺さる。
海からすぐ先で、石段が一気に立ち上がっている。
ほとんど垂直に突き上がった岸壁に、荷揚げ用の斜路と、人が歩く急な階段が、縫い合わせるみたいに張り付いていた。
「……噂、盛ってなかったな」
船の上で聞いた「乾いた高原の港」という言い方を思い出す。
あれでも控えめだったんじゃないか、と胸の内で付け足した。
石段の途中には、板と布で作った屋根が渡してある。
通路全体が影と光の帯に分かれていて、人は影の方に寄っていた。
荷車を押して坂を上がる者だけが、どうしても光の下を通らざるを得ない。
すれ違った男が、額の汗をぬぐいながら笑う。
「初めてか? ここは足と肺が一番先に文句言うぞ」
「……見ただけで、もう言い始めてる」
俺がそう返すと、男は「すぐ慣れる」と肩を叩いて去っていった。
慣れるかどうかはさておき、この段差で、一番上に水場があるのはきついな、と素直に思う。
『これはなかなかだねぇ』
耳の奥で、ノクトが感心したような声を上げた。
『ここで樹が止まったら、そのまま倒れる人が出そうじゃない?』
『だからこそ、止めないように無茶をさせているのかもしれません』
ルーメンの声は、乾いた空気の中で、少しだけ冷たく響く。
「ヴァルさん、大丈夫ですか」
前を歩いていたリティが振り返った。
襟元を指でつまみ、風を入れようとしているのが見える。
「ああ。……風が軽すぎて、変な感じがするだけだ」
息を吸い直して、石段の上を見上げた。
船から見えた通り、港の上はさらに高く続いている。
◇
坂をいくつか上がると、石を削って作った広場に出た。
広場の中央に、腰の高さほどの水場が、列をなすように並んでいる。
水場の前には長い列。
容器を抱えた人たちが、できるだけ影に体を収めるように並んでいた。
自分の順番が近づくと、列の端から水場の縁の方へ、すっと滑るように移動する。その手際だけは、港のどこよりも淀みがない。
広場の奥には、二階建てほどの石造りの建物がある。
窓は少なく、厚い壁で中身を隠している。そこから、一定の間隔で、低い振動が伝わってきた。
どん。
どん。
足もとから突き上げるような拍だ。
俺は無意識に、そばの手すりに指先を置いた。
……噛み合ってない。
ミナトアラの樹根室で何度も聞いた拍と、今、石を通して伝わってくる振動のあいだに、わずかなズレがある。
刻む間隔はほぼ一定なのに、ときどきほんの一瞬だけ、時間が伸びる。追いつこうとしているのに、どこかで息を詰めているような感触。
「ポンプ室、ですかね」
リティが広場の奥を見ながら言った。
手すりから指を離すと、ズレが体の中まで染み込んでくる感覚だけが残る。
「水を上げてるんだろ。あの建物からだな」
「はい。案内板には『主樹からの導管を経て、このポンプ室で引き上げ』と書いてありました」
リティが視線で示した先、石壁の脇に簡単な図が刻んである。
主樹、導管、ポンプ室、共同水場。線と記号だけだが、港の人にとっては当たり前の道筋なのだろう。
俺の耳には、その線のどこかで「端に回している音」が混じっているように聞こえた。
『水、並ばないと出ないって、なかなかだね』
ノクトが小さく笑う。
『ここで樹が弱ったら、列どころじゃ済まないよ』
『だからこそ、冷やす石が“手放せない贅沢品”になるのでしょうね』
ルーメンの言葉に、リティの肩がかすかに動いた。
「……今は、ただ見ておこう」
俺は自分に言い聞かせるように呟き、広場を離れた。
石段をさらに上る道と、市街地へ横に抜ける道が分かれている。俺たちは市街地の方へ向かう。
◇
市街地側の通りには、布で作られた屋根が渡っていた。
狭い路地の上に布を張り、その下に店先が並んでいる。通り全体が、くすんだ光と柔らかい影で満たされていた。
樹の葉や花の束は、いくつかの店でようやく見つかる程度だった。
それも小さな棚の一角に追いやられていて、「祝い用」「特別」といった札と一緒に、高い値が書かれている。
数字を見て、思わず目を細める。
ミナトアラの露店で見慣れた値段の倍どころではない。ここでは、樹の産物は「日常」から切り離されたものらしい。
代わりに目につくのは、石の雫を使った品々だった。
「浄水」と書かれた札の下に、透明な小瓶が並ぶ。
小さいものから少し大きめのものまであって、その多くには「雫使用」と小さく記されていた。
別の店では、布を何枚も束ねて積んでいる。
布の端には小さな石片が縫い込まれていて、札には「冷却」とだけ書いてある。
それを手に取った客が、値札を見て黙り込み、しばらくしてから一番小さなものだけを選んでいた。
通りを行き交う人は多くない。
影から影へ、短く移動しては足を止め、値札と手持ちの札を見比べている。
どこかの親が、手を引いた子どもに向かって「この時間は外に出ない方がいい」と早足で歩いていくのが見えた。
「……ここは、樹も石も、両方に負担をかけていそうだな」
思わずこぼすと、リティが横目でこちらを見た。
「“暮らしのため”と、“別の数字のため”と……。どちらの声が強いのか、まだ分かりません」
言葉の途中で、彼女は少しだけ言い淀んだ。
そこから先に続く言い方を、あえて選んでいないように見える。
『こっちの人たち、石の方にずいぶん頼ってる感じだね』
ノクトの声が、通りのざわめきに重なった。
『樹は高いところで無理させて、こっちは雫でどうにか冷やして……って』
『どちらかだけに任せると、すぐに限界が来ますから』
ルーメンは、小さなため息を混ぜる。
『分け合っているつもりでも、その分け方が偏ると、どこかで重さが溜まるんですよね』
それに返事をする代わりに、俺は通りの奥にある帳場の看板を指さした。
「港の帳場はどこだ?」
「あそこです。配給票も扱っているはずですので、少し寄りましょうか」
「頼む」
◇
帳場の中は、外よりいくらか涼しかった。
厚い石壁と、風の通し方のせいだろう。窓際には風向きを調整するための板が立てかけられ、壁際には紙束が積まれている。
受付の台で、リティが身分を名乗った。
石運用の調査派遣として来ていること、数日分の配給票と仕入れ票を閲覧したいことを、穏やかな口調で告げる。
手続きを確認した局員が、棚から何束か紙を出してきた。
「ここからここまでは、見てもらって構いません。写しは……」
「取りません。数字の流れだけ把握できれば十分です」
リティは小さく頭を下げて紙束を受け取った。
俺は邪魔にならないよう、少し離れた位置から、その手元を覗き込む。
紙には日付と品目、入ってきた量と配った量、そして仕入れ元の港名が並んでいた。
目で追っていると、同じ名前が何度も出てくる。
「……ワクミアオ」
思わず声に出ていた。
仕入れ元の欄に、その名がずらりと並んでいる箇所がある。他にもいくつかの港名があるが、石の雫については、ワクミアオの行が明らかに多い。
「石の雫は、外からかなり入ってきているんですね」
リティが、あくまで一般的な調子で言う。
局員は渋い顔で頷いた。
「こっちは高温帯ですから。自前の石だけじゃ、とても足りません。昔からの取り決めで、あちらから多めに回してもらってるんです」
それ以上は語らない、という線引きが、そのまま声の調子に乗っていた。
リティはそれ以上踏み込まず、紙束の別の束へ視線を移す。
配給票の山には、共同水場や各区画の名前と、配った浄水や冷却布の数が記されていた。
彼女は黙ったまま、必要そうな部分だけをゆっくり読み進める。
その指先が、ある頁の上でほんの少し止まった。
『この国の暑さは、自分たちの石だけじゃ抱えきれていないみたいですね』
ルーメンの穏やかな声が、帳場の静けさの中に落ちる。
リティのまつ毛が、わずかに震えた。
「……ありがとうございます。おおよその様子は分かりました」
リティは紙束を丁寧に揃え、局員に返した。
帳場を出て石段に戻ると、さっきよりも光が強く感じられる。
「全部、頭に入ったのか?」
俺が尋ねると、リティは苦笑した。
「全部は無理です。でも、“どの港から、どれだけ冷たさが流れてきているか”くらいなら」
「気分のいい数字じゃなさそうだな」
「そうですね。ここだけの問題ではなさそうだ、というくらいには」
リティの視線は、坂の下とその先、地図の上の別の港まで同時に追いかけているように見えた。
◇
再び共同水場の前を通る。
列は先ほどより長くなっていた。石畳を通じて、ポンプ室の振動が足の裏に伝わってくる。
どん。
どん。
さっきと同じリズムのはずなのに、何度聞いても、そのほんの小さなズレが気になる。
樹から直接伝わる拍とは違う。どこかで増やしたり削ったりして、その無理を埋めるための打点だ。
「……人通りが落ち着く刻に、もう一度ここに来たい」
思わず口にすると、隣のリティが頷いた。
「では、そのとき私は帳面を持ってきます。ヴァルさんは耳を」
「耳と、手と、少しの拍だけな」
冗談めかして言うと、ノクトがすぐに乗ってくる。
『出た、“少しの拍だけ”。そう言いながら、気づいたら港ごと抱え込むんだよね、あんた』
『少しずつでも見に来てくれるなら、樹も石も、きっと助かると思います』
ルーメンの声は静かだった。
高原の乾いた風の中で、その言葉だけが、ほんのわずかに湿り気を帯びて耳に残る。
段差だらけの高原港。
容器を抱えて並ぶ人たち。
石の雫の名前が並ぶ票。
ここでは、俺の知らないやり方で、樹と石が毎日引っ張られている。
それをどう見るか、どこまで手を出すか。まだ決められないことの方が多い。
決められるのは、少なくとも一度は、自分の耳でこの港の拍を聞きに戻る、ということだけだ。




