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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第3章 高原の鼓動
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第3章1話 出航の船と隠した拍

 港が、小さくなっていく。


 甲板の手すりに肘を預けて、俺はただ一本だけを目で追っていた。

 港の樹。

 黒い塔みたいに突き出した幹と、その足もとから街じゅうへ伸びていた導管の束。


 もう、あそこから拍は来ない。

 枝先も、花も、果実も、ぜんぶ空っぽのまま固定されている。

 それでも、薄い光の中で見上げれば、港の真ん中に立つ樹の影は、まだ「この街の心臓です」と言い張っているみたいだった。


 ――悪いな。

 胸の奥でだけ、そうつぶやく。声には出さない。


 鐘の音も、もう届かない距離だ。

甲板の上には、船員の短いやり取りと、支援物資を見送りに来た局員たちの姿が、わずかに残像のように残っている。

 けれど、俺の目は最後まで、港でも人でもなく、樹の方だけをなぞっていた。


 やがて薄いかたまりが水平線の向こうに溶けると、風と波だけが残る。

 潮汐ロックのこの海は、基本的におとなしい。

 黄昏の帯に沿って、いつもの卓越風が、いつもの向きから、いつもの強さで吹き続ける。

 それでも今日の揺れには、出発のざわつきが少し乗っている気がした。


 期待。

 不安。

 置いてきたものへの名残惜しさ。


 そういうものが、船底からわずかな乱れになって伝わってくる。


「降りなくてよかったんですか」


 背後からリティの声がした。

 振り向くと、彼女も手すりに片肘を置いて、遠ざかっていく薄い帯を見ている。

 その肩には、封印核を入れた袋。胸元にはルーメンの気配が、いつもより少しだけ強めにまとわりついていた。


「挨拶、って意味なら、もう全部やったよ」

 俺は肩をすくめる。

「港の段取りも、支援隊との分担も、紙の上では決まった。あとは……俺がいない状態を、あいつらが自分でやってみる番だろ」


「そうですね」


 リティは小さく頷いて、それ以上は追及しない。


『置いてきた方は置いてきた方。こっちはこっちで忙しくなるよ?』


 耳の奥で、ノクトの声が笑った。

 あたし、と名乗るその精霊は、相変わらず温度だけは子どもみたいに落ち着きがない。


『ほら、見て。港から離れたら、拍の揺れ方が変わってきてる』


「うるさい」


 小さく口の中で返してから、俺は手すりから身を離した。


「下、見てくる。樹パックの方」


「分かりました。わたしは……」


 リティが言いかけて、ふっと笑う。


「後で、どう使ったかを聞きます」


「まだ何もしてねえよ」


 そう言い捨てて舷側の階段へ向かう俺の背中に、彼女の視線が一瞬だけ刺さる。

 どこまで本気で言ったのか、自分でもよく分からない。


  ◇


 船の腹に近づくほど、足裏に伝わる拍は濃くなる。

 船員たちが積み込みを終えたばかりの貨物室は、木箱と樽と、縄で括られた荷がぎっしり詰まっていた。


 その一角だけ、見慣れた封緘紙が並んでいる。


 動力用の携行樹パック。

 金属の枠に収まったガラス容器の側面に、剥がせる薄い紙が一枚、ぴったりと貼られている。

 紙には、港名と簡単な注意書きが小さく印刷されている。

 紙を剥がして接続口を露出させれば、導管につないでそのまま動力に回せるタイプだ。


 その棚の下には、同じ大きさの箱がいくつも重ねられていた。

 こちらは厚い紙でぐるぐる巻きにされ、上から縄で固く縛られている。

 封緘紙には、送り先の港名と「開封厳禁」の文字。

 これは物資として渡す分。現地でしか封を切るな、という扱いだ。


 同じ樹の花と果実から取ったものでも、こうして役割が違う。

 動力としてここで燃やしてしまうのか、それとも先で誰かの手に渡るまで眠らせておくのか。


「……贅沢だよな」


 思わず独り言が漏れる。

 ミナトラアの樹を止めたあとで見る携行パックは、どれも少し、目に刺さった。


 貨物室の奥、動力用パックが導管につながっている区画まで歩いていく。

 船の心臓みたいな場所だ。

 金属のフレームに固定された数本のパックから、太い管が伸びている。

 揺れるたび、管の中で圧がわずかに揺れて、その拍が床板越しに伝わってきた。


 俺は一番手前の管にそっと手を当てる。

 音と熱と、皮膚の裏でひっそり震えるようなリズム。


 ――知らない樹の拍だ。


 港の樹根室で慣れ親しんだあの拍とは違う。

 少し荒くて、呼吸が浅い。

 この船のためだけに切り出されて、ここだけを押している。


『どう? ミナトラアのと比べて』


 ノクトの声が、掌の裏から湧いてくるみたいに聞こえた。


「軽い。というか、落ち着きがない」


 声に出すと、胸の奥でルーメンが小さくため息をつく。


『輸送用に組まれた拍ですね。

 行き先だけ決めて、あとは“早く終わりたい”みたいな流れ方をしています』


「そう聞こえるか?」


『わたしには、そう見えます』


 ルーメンの声はいつも通り柔らかいが、その奥にうっすら疲れが混じっていた。

 リティの胸元のあたりで、彼はこの拍の流れと乗客の願いを同時に覗いているのだろう。


 船は悪くない。

 支援物資を運ぶために、このパックも用意された。

 頭では分かっているのに、動力として燃やされていく樹の雫を見ると、喉の奥が少しだけ重くなる。


 ポケットの中で、金属が小さく当たる音がした。


「……ああ」


 懐から出した懐中時計は、使い込まれた機械式だった。

 黄昏の帯を刻むような、鈍い色のケース。

 裏蓋には、港の簡単な刻印が打ってある。


 仕事中、この時計を出したことはほとんどなかった。

 樹根室には計器があるし、港には鐘がある。

 拍の具合は、導管と人の流れを見ていれば十分分かった。


 時計が必要になるのは、そういうものが全部手の届かない場所にある時だけだ。

 たとえば今みたいに。


 俺は蓋を開き、耳を近づける。

 チッ、チッ、と正直すぎる音が、静かな貨物室に紛れていく。


 掌の下の拍と、時計の刻みを重ねてみる。

 船の拍は速すぎるわけでも、遅すぎるわけでもない。

 ただ、わずかに揺れている。


 乗っている人間の心が、まだ落ち着いていないせいか。

 それとも、積み込みの疲れが残っているのか。


「……ちょっとだけ、なら」


 誰に言うでもなくつぶやいて、俺は深く息を吸い込んだ。

 掌に意識を集める。

 ミナトラアの樹と同期するときみたいに根網ぜんぶを掴むんじゃない。

 ここには鍵核も、あの樹の根もない。


 ただ、今つながっているこのパックと、船の揺れと、自分の呼吸だけを合わせる。


 時計の刻みを基準にして、拍をわずかに伸ばし、詰める。

 前後の揺れに合わせて、押し出す力の山を、半拍ぶんだけそっとずらしてやる。

 出力そのものを無理に増やしたりはしない。ただ、波の山と脚の裏の揺れが噛み合うように撫でるだけだ。


 船の軋みが、いったん強く鳴ってから、ふっと静かになった。

 床板を伝う横揺れが、半歩ぶん、やわらかくなる。


『……やった』


 ノクトが笑う。


『ねえ、今の、完全に“手伝った”よね?』


「ほんの少しだけだ」


『そうやって“ほんの少し”を重ねるのが、あんたの悪い癖』


 くすくす笑う声に、肩がむず痒くなった。


『ヴァルさん』


 別の柔らかい声が、リティの方から届く。

 ルーメンだ。


『今、船の拍が少し整いました。

 ここから先、進み方が楽になると思います』


「バレてるか」


 俺が額に手を当てると、貨物室の入り口から小さな足音がした。


「やっぱり、下に来てましたね」


 振り返ると、リティが梯子のところに立っていた。

 薄暗い光の中で、彼女の顔にうっすら汗が浮かんでいる。


「ルーメンが教えてくれました。

 “今ヴァルさんが、船の拍に手を載せた”って」


「大げさだな」


 俺は手を離して、時計の蓋を閉じる。


「ちょっと触っただけだ。揺れがひどいと、荷も人も疲れるだろ」


「そうですね」


 リティは導管を一瞥し、それから積み上げられたパックの列に目を移す。


「ここで使う分と、向こうに届ける分……ちゃんと分けてあるんですね」


「一応な。

 動力用は、剥がせる紙だけ。

 物資は、現地で誰が封を切ったか分かるように、ぐるぐる巻き」


 説明しながら、自分の声が少し硬いことに気付く。

 港の樹を止めたばかりの技師が、別の港に向かう船の心臓を勝手に撫でている――そう考えたら、笑えない。


「他所の船の進み方にまで、手を出すつもりなんですか?」


 リティの言葉は、責めているようにも、ただ事実を確かめているだけにも聞こえた。


『そうそう、その質問』


 ノクトが面白がる。


『どう答えるの、ヴァル』


「……今のは、俺のわがまま」


 少し考えてから、そう言った。


「ミナトラアの樹の根網から、こんなに離れる船に乗るのは初めてだろ。

 船酔いで倒れられても困るし」


「それは、誰のための言い訳ですか」


 リティの瞳が、薄暗がりの中で細くなる。

 刺すような問いではない。

 ただ、記録官としての目で見ている。


『いいじゃん、少しくらい』


 ノクトが割り込んでくる。


『港ごと止めるよりは、よっぽど優しい介入でしょ?

 あたしとしては、このくらいの“ズル”なら大歓迎』


『ただ、そういう“少し”は、あとからまとめて数え直す必要がありますよ』


 ルーメンが静かに続ける。


『どこの港に、どれだけの拍を貸したか。

 それを覚えておかないと、どこかで辻褄が合わなくなります』


 リティは、胸の前で指を組んだ。


「……今の一回は、わたしの手帳に書いておきます」


「書くのか」


「はい。

 “ミナトラア出港後、船上にて拍をわずかに補正。

 乗客と物資のためと思われる”……そんなところでしょうか」


「勝手に“思われる”を付けるな」


 自分でも苦笑しながら、俺は時計をポケットに戻した。


 船体が、さっきより静かに鳴っている。

 きしみは残っているが、どこか、呼吸が整った感じがした。


   ◇


 夕方に近づくにつれ、船上の空気は落ち着いてきた。

 甲板に出ると、風は相変わらず一定の向きから吹きつけてくる。

 けれど、その冷たさの中に、わずかな変化が混じっている。


「そろそろ高原風だな」


 舵の近くで話していた船員が、そうつぶやくのが聞こえた。


「カムイアオって、高原なんだよな」


 俺が近づきながら聞き返すと、彼は顎で前方を指す。


「乾いた高台の港ですよ。

 昼は、ここよりずっと暑い。

 向こうの樹は、だいぶ無理をさせられてるって話です」


「無理?」


「あくまで噂ですけどね。

 高いところまで水を上げるし、日側寄りで温度もきつい。

 石からの雫を足して、ごまかしながら回してるとか」


 言いながら、船員は肩をすくめた。


「俺らは運ぶだけです。

 樽をこぼさず、予定の港まで着ければいい」


「……そうだな」


 俺は礼を言って、その場を離れた。


 甲板の端まで歩いていくと、リティが欄干にもたれて前方を見ていた。

 その横には、誰にも見えない二人分の気配が立っている。


『乾いた匂いがしてきた』


 ノクトが鼻を鳴らすように言う。


『ここから先の樹は、大変そうだね。

 根っこまで、ずっと喉が渇いてる感じがする』


『高い場所は、水が遠いですから』


 ルーメンの声は、いつも通り穏やかだが、その奥にわずかな緊張があった。


「先の港のこと、何か知ってるのか」


 俺がリティに声をかけると、彼女は振り向かずに答える。


「名前と、位置と、簡単な運転状況だけ。

 乾いた高原の国、カムイアオ。

 樹の負担が大きいのに、石の雫で無理やり押している……そんな報告でした」


「報告、ね」


「わたしの仕事は、“どう使われているか”を見ることですから」


 リティは、風に揺れる髪を抑えながら言った。


「でも、どこまで見て、どこまで口を出していいのかは、まだ決めていません」


『いいじゃん。決めるのは、その場に着いてからで』


 ノクトが軽く笑う。


「……ああ」


 俺は懐の時計に手をやる。

 港の鐘も樹の計器もない船の上で、今、拍を測る基準は俺の中と、この小さな機械しかない。


 前方の空の色が、少しずつ変わっていく。

 黄昏の帯の向こうに、ぼんやりと高原の影が浮かび始めていた。


 樹を空にした港から、樹が息苦しくなっている港へ。

 そのあいだを、俺たちの船は静かに滑っていく。

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