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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第1章 港の樹
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第1章1話 始業と揺れる根

 港の鐘が三つ鳴った。


 薄く明るいだけの空は、昨日とも一昨日とも区別がつかない。けれど鐘楼から響く金属音が石壁を伝って部屋に入り込むと、身体の方が先に切り替わる。寝台の板の硬さを押し返すように身を起こし、俺は足を床におろした。


 部屋の隅には、樹管局から持ち帰った巡回記録帳が立てかけてある。厚手の紙が詰まったそれを手に取り、前日の頁をぱらぱらとめくる。鉛筆の線は素っ気ない数字と短い感想だけだが、開いた瞬間に、導管の唸りや、樹根室の温度が指先に蘇る。


 鐘三つから四つまでは、共鳴期の立ち上がりだ。この街ではそう決まっている。決めたのは昔の誰かで、理由を全部知っている者はもうほとんど残っていない。それでも、鐘の回数に合わせて樹の出力が変わることだけは、俺の手が知っていた。


 掛けてあった作業着に腕を通し、腰のベルトに小さな工具袋を固定する。ねじ回し、簡易圧力計、温度棒。どれも人の手で押さえ、耳と指で確かめるための道具だ。数字を勝手に読んでくれる“目”なんて、この街にはない。


 廊下に出ると、同じ建物に住む者たちが、それぞれの支度の音を立てている。水を汲むポンプのレバーが重く上下する音、歯車時計を巻き上げる音、戸板を外す音。窓の外では、樹から伸びる導管が家々の壁を這い、石畳の下へ潜っている。


 玄関の扉を開けると、潮の匂いを含んだ空気がまとわりついた。薄暮の光が石畳を鈍く照らし、その上を、始業に向かう人影が滑っていく。顔は眠そうでも、足取りは鐘三つに合わせている。


 港の中央にそびえる樹は、今日も静かに立っていた。


 太い幹の上の方は、いつも薄い光の中に紛れてはっきりとは見えない。それでも、根元から伸びた導管の列が、街全体へと広がっているのは誰の目にもわかる。樹の根は地中深くで網のように広がり、そこから吸い上げられた何かが、水や灯りや搬送レールの力になる。


 俺の仕事場である樹管局は、その幹のすぐ脇に建っている。無骨な石造りの建物の扉を押すと、いつもの湿った空気がまともに顔にかかった。中に一歩踏み込んだだけで、足裏にかすかな震えが伝わってくる。


「おは……」


 思わず口をついて出かけた言葉を飲み込み、「おう」とだけ言って、受付の古株に軽く手を上げる。ここでは誰もが鐘で時間を測るから、「おはよう」も「こんばんは」も曖昧だ。代わりに、導管の拍と樹の唸りが、その刻の挨拶になる。


「今日は静圧期、少し長めらしいぞ」


 古株が帳面から目を離さずに言った。


「じゃあ、共鳴期の立ち上がり、見ておかないとな」


 俺は巡回記録帳に今日の日付と鐘三つの印を記し、樹根室へ向かった。


 樹根室は、樹の根がむき出しになった大きな部屋だ。石床に穿たれた溝の中を、太い導管が這っている。その合間から、樹の根が不規則に顔を出し、ところどころに金属の継ぎ目が打ち込まれている。


 扉を閉めると、外の物音が遠くなり、代わりに低い唸りが耳を満たした。樹の拍だ。共鳴期の少し手前の、まだ落ち着いたリズム。


 俺はいつものように、根網の一角にしゃがみ込む。手袋を外し、掌を導管の表面に当てた。ひやりとした金属の冷たさの奥で、かすかな鼓動が続いている。


「……悪くない」


 温度棒を軽く押し当てると、先端の色がじんわりと変わる。記録帳に温度と圧の数字を書き込み、「共鳴期前、平常」の欄に小さな印をつける。数値は大事だが、俺にとって本当の基準は、自分の骨が覚えている揺れ方だった。共鳴期に入った樹は、床ごと心臓になったみたいに震える。その違いを、身体で掴んでおく。


 根室から出て、今度は街側の導管を巡る。


 樹から伸びた導管は、港の坂道をなめるように下っていき、倉庫や水場、灯りの柱へと枝分かれしている。俺は石畳の継ぎ目ごとに設けられた点検口に膝をつき、小さな蓋を開けては手を差し込み、拍を確かめていった。


 鐘四つが鳴るころ、港の表通りはすっかり仕事の顔になっていた。荷を載せた搬送レールが低い音を立てて動き出し、汲み上げられた水が水路の溝を流れていく。灯りの柱の上部には、まだ淡い光がぼんやりと集まりつつあるだけだが、それでも薄暮の街には十分な明るさだ。


 導管は、港の奥の方にも続いている。


 倉庫群を過ぎた先、石壁に囲まれた一角に、表向きの看板だけが取り付けられている建物がある。表の名目は、休憩所だとか、組合の部屋だとか、人によって言い方が違う。俺はそこまで、記録帳に決められた通りの順番で足を運ぶ。


 そのあたり一帯の点検口を開けると、他の場所より拍が少しだけ速いのがわかった。数値にすれば僅かな差だが、掌にはっきりと乗ってくる差だ。


「……鐘四つにしては、元気だな」


 独り言のように呟いて、圧力計を当てる。針は、わずかに高めの位置で落ち着いている。危険域というほどではない。だが、この時間帯でこの振れ方は、ここだけだ。


 建物の中から、押し殺したような笑い声と、誰かの押し殺せていない怒鳴り声が漏れてきた。扉は厚く閉ざされているから、言葉までは聞き取れない。ただ、空気の張りだけが導管を通じて指先に伝わってくる。


 俺はしばらく耳を澄ませていたが、すぐに蓋を閉じた。記録帳の欄には、「拍やや高め 様子見」とだけ書き込む。


 この街は樹で回っている。樹は、人の生活の全部を支えている。そう教えられて育ってきたし、実際その通りだ。灯りも、水も、搬送も、樹の拍が乱れればたちまち滞る。


 それでもときどき、こうして拍の違う場所が現れる。そのたびに俺は、理由を考えてみる。荷の出入りが多いのか、工事でも始まるのか。ここ最近、この建物の足元の拍が妙に元気なのは確かだった。


 鐘五つが鳴るまでに、港の主要導管をひと通り回り終える。


 共鳴期に入りかけた樹の拍は、石畳の下からじわじわと街全体を持ち上げているようだった。導管の唸りは幾層にも重なり、人の話し声や金属の軋みと混じり合っている。


 樹管局に戻り、再び樹根室の温度と圧を記録する。さきほどよりも、少しだけ熱と圧が増していた。俺は数値の横に、小さく「共鳴期入り」と記す。


 今日も、だいたい予定通りだ。


 そう書きながらも、裏の建物の拍だけが頭に残っていた。別に、樹が悲鳴を上げているわけではない。むしろ、喜んでいると言った方が近いかもしれない。よくはわからないが、あそこに近づくと、導管が弾むように打っているのだ。


 それが、この港にとって良いことなのか悪いことなのか、俺にはまだ判断がつかない。ただ、鐘が進むほど、その差は少しずつ大きくなっているように思えた。


 樹管局で簡単な報告を済ませると、鐘六つの半ばになっていた。静圧期に入る前の、中途半端な刻だ。仕事は一段落で、次のシフトに引き継ぐまで少し余白がある。


 家に戻ると、狭い部屋の空気がわずかに冷えていた。石壁の内側にまで導管は通っているが、ここは港の外れなので、樹の熱は穏やかなものだ。


 棚の上に巡回記録帳を置き、工具袋を外す。ふと、棚の下の箱に目がいった。


 木でできた、蓋つきの小さな箱だ。ずっと昔からある物で、俺が物心ついたときには、すでにそこにあった。樹管局に勤める家系の証のようなものだと、父は昔言っていた気がする。


 何となく手を伸ばし、蓋を開ける。


 薄い布の上に、丸い玉がひとつ転がっていた。手のひらにちょうど収まる大きさで、それは金属とも石ともつかない光沢を放っている。触れると、ひやりと冷たく、けれどすぐに指の熱を吸って、肌に馴染んでいく。


 子どものころから何度も取り出して眺めてきた。祖父や父は「うちの鍵核だ。樹を止めたり動かしたりするための、大事な道具だぞ。遊び道具じゃない」とよく言っていたが、半分は昔話の類いだと思っている。


「見た目は、ただの玉だろ」


 そう呟きながらも、俺はしばらくその重さを掌で確かめていた。樹根室の導管とは違う、別種の静けさが、その内側に沈んでいるような気がする。


 外から、遠く鐘七つの音が聞こえてきた。


 樹はそろそろ静圧期に向かい始める。共鳴期の高ぶりを静かに落としていく、その中継ぎの刻だ。港の導管も、少しずつ拍をゆるめていくだろう。さっきの裏の建物の足元も、今ごろは落ち着き始めているかもしれない。


 俺は玉――鍵核を布に包み直し、箱を閉じた。蓋を閉めてしまえば、それはただの箱に戻る。部屋の空気も、いつもの薄い明るさと薄い冷たさに戻る。


 便利な街だ、とあらためて思う。


 灯りはほとんど落ちないし、水も止まらない。搬送レールが動いている限り、重い荷を人が持ち上げる必要もない。鐘の回数に合わせて樹が働き、導管が拍を刻み、俺たちはその上で生活している。


 それなのに、今日の始業はどこかが薄く噛み合っていない。


 港の一角だけ、やけに元気な拍。樹根室の数値には、目立った異常はない。それでも、掌が覚えている揺れ方が、何かを言い淀んでいるように思えた。


 記録帳を開き、今日の頁をもう一度見直す。数字の列は整っていて、第三者が見れば「平常」と判断するだろう。裏の建物の欄に書いた小さなメモだけが、紙の端で浮いて見える。


 鐘八つが鳴るころ、港はまた別の顔を見せ始める。共鳴期の熱が冷め、静圧期の静けさがやって来る。その変わり目の気配を、樹の根も、導管も、街の石も、きっと知っている。


 その中で、俺だけがまだ言葉にできずにいる。


 この街は、ただ便利なだけなのか。それとも、鐘が進むたびにどこかで何かをすり減らしているのか。


 どちらを見ないふりをしているのかさえ決められないまま、決着のつかない問いを胸の隅に押し込んで、俺は寝台に身を投げ出した。薄い光は、相変わらず窓の外にこびりついている。樹の唸りは遠く、しかし確かに続いていた。


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