第2章7話 打ち明け話と沈黙の重さ
詰所の上の小さな部屋は、いつもより静かだった。
樹根室から伸びてくる導管の唸りも、この高さまでくると薄くなって、壁の向こうで紙をこすっているみたいな気配だけが残る。支援隊が持ち込んだ仮設の導管や器具は点検を終えて壁際にまとめられ、机の上には使い終わった記録票の束が重なっていた。
港のほうから届く音も、今日は少ない。荷揚げの掛け声や、仮設の配給所で交わされる声が、薄い板壁を通して、ところどころ途切れながら耳に入ってくる。
その音のすき間に、リティの声が差し込んだ。
「……少し、話しておきたいことがあります」
机をはさんで向かい合っていたリティが、手元の通達票から視線を外し、こちらを見る。紙のインクと、彼女の呼気が、部屋の空気をわずかに重くした。
「今じゃないと、言いづらくなるかもしれないので」
「今でも、十分言いづらそうだけどな」
苦笑いで返してみせると、リティは小さく息を吐いた。いつもの淡々とした目つきより、ほんの少しだけ柔らかい。
「……旧港のことです。わたしと、旧港の石のこと」
その一言で、胸の内側の拍がひとつ、速くなった。
旧港――この港の前に使われていた港。黄昏嵐と高潮で致命傷を負って、住民ごと今の港へ移った、壊れかけの岸壁と空になった建物だけが並ぶ場所。
そこに「石」が残されていることは、通達票で前から何度か読んでいた。けれど、どこまでが「ただの石施設」で、どこからが「先住体の居場所」なのか、俺にはまだ実感がなかった。
「聞くよ」
そう答えると、リティは机の上の記録票の束を、きちんと揃えるみたいに一度両手で包んだ。それから、言葉を選びながら話し始める。
◇
「最初に任されていたのは、今よりずっと東側の大きな港でした」
リティの声は、最初のうちは淡々としていた。規約や記録を読み上げるときの、あの抑えた調子に近い。
「その港では……黄昏嵐と高潮で大きく傷ついて、住民ごと新港へ移ったあと、地図の上だけに残された港です」
堤が崩れ、導管が折れ、人が住める状態ではなくなった港の図を、俺も報告書で見たことがある。
「人はもう住んでいません。壊れた波止場、傾いた倉庫、空の家々。ただ、石の施設だけが残されていました。灯台と一緒に、“記録用”として」
「記録用、ね」
思わず口に出る。
「避難が終わっても、しばらく祈り票だけは旧港あてに届き続けていました。暮らしは新港に移っても、“してほしい”はすぐには移らないので」
リティの指先が、机の木目をなぞる。
「『ここに戻りたかった』『ここで続けたかった』『ここの灯りを守ってほしかった』……そういう“してほしい”が、紙の上に残っていました。書いた人たちはもう、新港で別の生活をしているはずなのに」
旧港の石施設は、数字の上では「インフラとしては停止」と整理された。それでも祈り票だけは増え続ける。
「そこに、“どこに向かっていいか分からないまま残っているもの”があるように見えて……旧港の安全確認と祈り票の整理を兼ねて、現地に行きたいと願い出ました」
「“戻らない港”として扱われている場所が、本当にそうなのか確かめたかったから」
戻らない港。通達票の中の言葉が、リティの口から実感を伴って出てくる。
「実際に行ってみたら、建物は壊れかけで、人の気配もありませんでした。祈り票の棚も、途中で手入れが止まっていて。石の施設だけが、そのまま残されていた」
その情景は、リティの声だけでも目に浮かぶ気がした。崩れかけた岸壁、空になった家々。その真ん中に、ぽつんと置き去りにされた石の姿だけが残っている。
「石は、インフラの回路につながったまま、ほとんど放置されていました。行き先を変える決定だけ先に出て、“してほしい”の行き先の整理は追いついていない状態です」
港の樹と同じだ。流す先が決まっているあいだはまだいい。でも、行き場を失った流れは、どこかで澱む。
「だから、回路から切り離しました」
リティの瞳が、そこでこちらを見る。
「“戻らない港の石”として。港を支える設備としてではなく、そこに残っていた“してほしい”を抱えた先住体として」
「切り離して……どうなった」
声が少しだけ硬くなるのを、自分でも分かっていた。
「自律的に、応えてくれました。わたしの声に」
リティの口元が、わずかに緩む。
「『……わたしの声、聞こえていますか?』って。わたしが『聞こえています』と答えると、“旧港の石”は、自分が抱えている“してほしい”のことを話してくれました」
『いろいろ話しましたねぇ。戻りたい願いとか、そのままにしておいてほしい願いとか』
椅子の脚もとあたりの空気が、少しだけ澄んだ拍を帯びる。ルーメンだ。
リティは、その方向にちらりと視線を向けてから続けた。
「そのとき、はっきり分かったんです。わたしが共鳴者だって」
自分の胸のあたりを軽く押さえる。
「石の拍が、身体の奥に入り込んでくる感覚。言葉になる前の“してほしい”が、触れられそうなところに浮かんでくる感じ。……港湾連合の中でも、ごく一部の人間にしか、そういう反応は出ないとされています」
「それを、連合に報告した」
「ええ。報告しないわけにはいきませんから」
そこから先は、リティが以前淡々とまとめて見せてくれた報告書と同じだった。旧港がもう無人であること。石を港の回路から切り離したこと。危険な反応は見られなかったこと。共鳴の細かい手応えはぼかしつつ、結果としてリティと“旧港の石”が、連合の派遣員として他所の港を回ることになったこと。
「……派遣っていうのは、どういう仕事なんだ」
分かっている話を、あえてもう一度たずねる。
「表向きは、他の港の石インフラと規約の運用を見て回る役目です。現場の診療所や石施設を訪ねて、記録をまとめて、本部に届ける」
リティの声は、そこだけ少し教科書のように平らになる。
「石の側から見た“してほしい”も、少しだけ拾っていく。……そういう意味では、ヴァルさんとあまり変わらないかもしれません。樹の拍を見て回るのか、石の拍を見て回るのかの違いで」
「そうかもしれないけどさ」
俺は、机の端を指でとんとんと叩いた。
旧港。無人。戻らない港の石。回路から切り離して、自律的な応答を確認した。共鳴の手応え。派遣員。
並べれば筋は通っている。通ってはいるのに、喉のどこかに引っかかりが残る。
「……それって、“戻らない”って誰が決めたんだ?」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
リティが、まばたきを一つした。
「書類にそう書いてあったから、ってだけじゃないだろう。誰かが、どこかで『ここはもう港としては戻らない』って判子を押した。その人の顔は、リティは見てるのか」
「……見てはいません」
リティは正直に答えた。
「決裁票の名前は見ました。でも、その人が何を考えて押したかまでは、分からない」
「じゃあ、“戻らない港の石”だからって、全部きれいに流していいのか?」
声が少し上ずるのを、自分でも抑えきれない。
「人がまだ暮らしている港の樹を止めた俺とは違う、って、さっきから思おうとしてるけどさ。旧港のほうだって、“戻りたい”ってやつが本当に誰もいなかったのかどうか、誰が保証できるんだ」
樹根室の方角に、俺の声が浅く跳ね返る。
リティは視線を落として、しばらく黙った。机の上の記録票の端が、彼女の指の下できゅっと折れる。
「……わたしも、それが気になって、旧港に行ったんです」
やがて、静かな声が戻ってきた。
「“誰かがそう決めたから”で済ませていいのかどうか。戻りたい人がいるのに、“戻らない港”として計算から外されたりしていないか。それを確かめたくて」
「それで?」
「見た限りでは、もう“今ここで暮らしている人”はいませんでした。祈り票も、“ここに戻りたい”より、“ここをどうか忘れないでほしい”“あのときのことをきちんと片付けてほしい”が多かった」
リティは、言葉を選びながら続ける。
「だから、わたしは“港としては戻らない”と判断した人たちの決定を前提に、その後始末を頼まれた立場でした。……正しいかどうかは、今でも分かりません」
そこでふっと、彼女は顔を上げた。
「ヴァルさんが樹を止めたことと、同じだなんて、簡単には言えないです。でも、同じ問いのまわりをぐるぐる回っている気はする。どこまでが許されるのか、誰が決めるのか」
胸の奥の拍が、リティの言葉と微妙にずれる。
俺は、机から手を離した。指先に残った木の感触を、こっそりズボンの布で拭う。
『ねえねえ』
そこで、別の声が割り込んできた。空気の温度が、少しだけ上がる。ノクトだ。懐の核から、熱っぽい拍が跳ねる。
『ヴァルはさ、“まだ動いてるものまで動かしてる側”でしょ?』
壁も天井も見え方は変わらないのに、声だけが鮮やかだ。
『リティは、“もう動かないって決められたものをほどいてる側”。やってることは違うけどさ』
「お前は、いつもその言い方だよな」
思わず、つぶやきで返す。
『どっちもさ、“決めた誰か”の顔がちゃんと見えてないってところは、似てると思うんだよね』
ノクトは楽しそうだ。火花を見つけた子どもみたいに、話題の縁をつついてくる。
『決裁票の名前とか、規約の文言とか。そこにあった“してほしい”の本体は、もう目の前からは消えてるでしょ? その代わりに紙と数字だけが残ってる』
そう言ってから、わざと少し間を置く。
『で、その紙の“後始末”をしてるのが、今ここにいる二人ってわけ』
『“してほしい”が残ったままの場所を、全部そのままにはしておけないですしねぇ』
今度は、澄んだ拍が混じる。ルーメンだ。リティのそば、椅子の脚もとあたりの空気が、わずかに密度を変える。
『でも、“どのしてほしいを拾うか”は、わたしたちが決めないといけませんよ』
穏やかな声に、部屋の空気が少し落ち着く。
リティが、ノクトとルーメンのほうへ視線を流した。俺以外には見えない何かを、確認するみたいな目つき。
「……わたしは、旧港の石が抱えていた“してほしい”は、放っておけないと思ったんです。あれは、“戻りたい”というより、“ここをちゃんと見てほしい”“しまいまで見届けてほしい”に近かったから」
リティの指先が、無意識に記録票をなぞる。
「規約の言葉じゃなくて、実際に会って話した人たちの“してほしい”を記録したい。それは、今も変わりません」
「……俺は」
言葉が、喉の途中でつっかえる。
俺は、人が暮らしている港の樹を、一度止めた。止める前に、どこまで準備すれば“いきなり誰も死なない”かを計算して、古株と一緒に非常バイパスを仕込んで、それでも止めると決めた。
賭場で燃やされている怒りや絶望が、そのまま街の灯りになっているのを見てしまったから。あの仕組みの上に、自分の仕事が乗っているのが、もう耐えられなかったから。
「少なくとも、数字が欲しい連中の“してほしい”じゃなくて、顔が見える範囲の“してほしい”からにしたい」
ようやく出てきた言葉は、思っていたより小さかった。
「“出力”とか、“票”とか、“実績”とかじゃなくてさ。港の配給所で列に並んでる人間が言う『ここが寒い』『ここが怖い』みたいなやつから」
『あたしは、“今すぐ動きたい”ってやつの味方するよ』
ノクトが、すかさず乗る。
『止まってるの、性に合わないし。燃やしたいものがあるなら、早く持ってきてほしいな』
「それだから話がややこしくなるんだろうが」
苦笑いが、少しだけ自然に出た。
「でも……分かるよ。今すぐ動きたい“してほしい”は、聞こえやすい」
『わたしは、“ここにいてもいいですか”って言っている人たちのそばにいたいですねぇ』
ルーメンの声は、少しだけ遠くを見るようだった。
『動きたい人も、動けない人も、どちらもいますから。“ここにいることを許してほしい”っていう“してほしい”は、樹の拍とは別のかたちで、石に残りやすいんです』
リティが、ゆっくりとうなずく。
「……わたしは、そういう声も含めて、見えてしまったものは、どこかに書き残してしまうと思います」
それは、自分の癖を認める言い方だった。
『それがリティさんの仕事なんだと思います』
ルーメンが、ふわりとまとめる。
『ヴァルさんの仕事は、“どこにどれだけ流すか”を決めることでしょう? 止めると決めることも、その一部です』
「仕事、ね」
俺は天井を見上げた。配管の影が、薄く走っている。
「全部は引き受けられないよな」
『うん』
ノクトとルーメンの声が、珍しくぴたりと重なった。
「でも、何も引き受けないわけにもいかない」
そこだけは、はっきりしている。
「だから……そうだな。当分は、俺とリティと、お前らで決めよう。目の前に転がってくる“してほしい”のうち、どれを拾って、どれを一度置いておくか」
「勝手に決めて、勝手に諦めるってことですか?」
リティが、少しだけ意地悪そうな目をした。
「そういうふうにも聞こえるな」
自分で言って、肩をすくめる。
「でもさ。誰かがどこかで勝手に決めて、勝手に諦めてるなら……せめて、決めた本人がその自覚ぐらい持ってた方がマシだろ」
「……いいと思います」
リティは、すぐに表情を和らげる。
「規約は、“全部拾うふりをするための紙”になることもありますから。わたしたちは、紙の外でどれを拾うか、決め直していけばいい」
『じゃあ決まりだね』
ノクトが、嬉しそうに言った。
『全部は無理。けど、全部を見ないふりもしない。その真ん中あたりで、やれるだけやろうよ』
『“やれるだけ”って線を、自分たちで引いておくのは大事ですねぇ』
ルーメンが、苦笑いを混ぜる。
『どれかを選んだって自覚があれば、少なくとも“誰のせいでもない顔”はしなくて済みます』
部屋の外で、港のほうのざわめきが、また少し変わった。支援隊の仮設導管を外す音かもしれないし、配給所の列がひとまとまり片づいた合図かもしれない。
俺たちのところにも、これからまた、いろんな「してほしい」が運ばれてくる。
全部は抱えられない。それでも、何も選ばないでいるわけにはいかない。
その当たり前のことを、ようやく口にできた気がして、俺は机の上の記録票を一枚、自分のほうへ引き寄せた。




